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京都にての歴史物語

人斬りの誇り

作者: 不動 啓人

 田中新兵衛たなかしんべえは、公家屋敷の並ぶ路地の暗闇に息を殺して潜んでいた。半月の薄暗い光源にも夜目に慣れた新兵衛の視界は広く、遠く朔平門さくへいもんの陰影をはっきりと捉えていた。

 やがて提灯を翳した男を先頭にして、数人が朔平門から姿を現した。新兵衛の後ろから「あれだ」と囁く声が伝わる。新兵衛は頷きもせずに右半身に身構えると、草鞋履きの指先に力を篭め足場を確かめた。

 朔平門から出てきた一行は粛々と進み、猿ヶ辻に差し掛かった瞬間、それは新兵衛が隠れる路地より一行が最短に迫った瞬間、新兵衛は滑るように路地を抜け出して一行に迫った。

 新兵衛の出現に、まず提灯を持っていた男が何者か確認したい心理が働き提灯を差し出す。その提灯を新兵衛は抜刀の上斬り上げ、間を置かずに身を反転し刀を頭より高く振り上げ、提灯持ちを置いたまま、なお滑るように一行の主人に近付き裂帛の息を吐くと共に刀を振り下ろした。主人は束帯の袖を翻して新兵衛の刃を凌ごうと中啓ちゅうけいを振り上げるが――新兵衛の凄まじい斬撃は中啓に妨げられることなく主人を袈裟に斬り伏した。

 主人は苦悶よりも、一瞬の出来事に呆けたように冠をずらして崩れ落ちた。


「こら、聞いておるのか!」

 その怒声に、新兵衛は夢想の内より我に帰った。新兵衛は狭い部屋の土間に座らされていた。周りを下役人に取り囲まれ、前方の一段高く床が張られた先には苛立った様子で座る上役人の姿があった。新兵衛は引き戻された現実に、自分の置かれている立場を思い知る。

 新兵衛は公家である姉小路公知あやのこうじきんとも殺害の容疑をかけられ京都町奉行所に引き立てられたのだった。新兵衛には身に覚えのない容疑だった。

 役人の言うことによれば、事件の状況は次の通りだ。時は文久三年(一八六三)五月二十日の深夜、朔平門を出た公知一行を三人の男が襲撃した。まず一人が正面から公知を襲う。勇敢にも公知はこの男の刃を中啓で受け流し「太刀!」と叫んだが、太刀持ちは恐れて逃げてしまい、代わりに雑掌ざっしょうの吉村左京が抜刀の上応戦し襲撃者と遁走させるが、その隙に残りの二人が公知に襲い掛かり、深手を負った公知は屋敷に帰り着くものの、昏倒しそのまま息を引き取った。この際、現場に襲撃者の刀と下駄が残されたのだが、その刀が新兵衛の差料である奥和泉守忠重であり、下駄は薩摩下駄であったという。

 取り調べの中で役人は、新兵衛の自白を促すため証拠の刀と下駄を目の前に突き付けた。下駄に見覚えはなかったが、刀は間違いなく新兵衛の差料であった。だが実は、その刀は数日前に遊行中に盗まれていており、それからというもの新兵衛は憂鬱な日々を送っていたのだが、皮肉にもこのような形で再び愛刀を眼にするとは思っていなかった。

 新兵衛は瞬時に嵌められたことに気付いた。なぜ自分がとも思ったが、すぐに考えるのが面倒になった。とにかく証拠は充分、逃れられぬ身と覚悟した。だが、その中でも新兵衛は強い憤りを覚えた。それは役人の報告のような手際の悪い仕事を、自分の仕事だと思われていることだった。自分ならもっと上手くやる。そう、夢想の中で公知を袈裟に斬り伏したように。

 薩摩の船頭だった新兵衛が、仮にも藩士の列に加われたのはその剣の腕前のお陰だった。そしてその一介の下級藩士が京で名を上げられたのは、得意の剣技を活かした暗殺の実績だった。新兵衛は上洛以来、島田左近しまださこん本間精一郎ほんませいいちろうなどを次々と葬り去った。葬る度に新兵衛の名は上がり、やがて暗殺は新兵衛の誇りとなった。この職人気質のような意識は、新兵衛が根っからの武士ではないことに起因するか。故に、手際の悪い仕事を自分の仕事と思われるのは、誇りを傷付けられるのと同じだった。

 憤りは――だが、やがて虚しさへと姿を変えた。それはぶつけ所のない憤りの性質でもあり、嵌められた己を恥じたからでもあり。

 こうなれば、後はどう死ぬかだと新兵衛は考えた。幸い、役人の前には証拠の奥和泉守忠重が置いてある。忠重は新兵衛の暗殺を賞賛した薩摩藩士から贈られた、新兵衛にとっては形ある誇りであった。その誇りを抱いて死ねるのであれば、新兵衛は本望であった。


 どんなに糾問しても黙したままで答えぬ新兵衛に痺れを切らし、役人が気を抜いて顔を背けた瞬間、新兵衛は高床に躍り上がると驚く役人に体当たりを食らわせ忠重を手に取った。

 驚きと正気の間の妙に静寂に包まれた空間の中で、新兵衛は素早く抜刀し――その刃の輝きこそは、まさに新兵衛の誇りそのものだった。

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