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第七夜 峠の宿

 去年の秋、こんな夢を見た……


 友人の運転する車の助手席から、私は山並へと沈む夕日を眺めていた。深い森の間を蛇行する峠道を降りてゆく。スキー旅行の帰り道とあって、ゲレンデで酷使した体は重くシートに沈み込む。ついうっかりすると居眠りをしてしまいそうになるので、私は極力外を眺めながら、運転している友人とゲレンデでのことをあれこれと話していた。

 あの斜面は急だったが、慣れると面白い…… 無謀なちびっこスキーヤーがわきをすり抜けて行ったので、避けたら派手に転んでしまった…… 山頂の眺めはとても素晴らしい……などなど。

 日が沈み、夕焼け空がどんどん暗くなってゆく。ジグザグの急勾配な下り道を、友人はエンジンブレーキを使って上手にカーブをこなしながら降りてゆく。

「もう三十分もすれば着くよ」

友人が言った。くたくたになるまでスキーで遊び倒した後、長距離を運転して帰るのは危ないので、私達はゲレンデに近い温泉町で一泊して帰る予定を立てていた。空の夕焼けがどんどん夕闇に移ってなか、車は小さな温泉町へとさしかかる。

 舗装されたばかり真新しい道路の両脇に小さな旅館や商店が並んでいる。それらの建物もみな小奇麗で真新しい感じがする。まだ出来て間もない温泉街のようで、私達の他には道路に車も無く、歩道にも人の往来は無い。十数台も止めれば一杯になってしまいそうな共同駐車場に車を止め、私達は旅行鞄を担いで宿まで歩き出した。もう空は真っ暗で、道の両側にある旅館や食堂の看板には灯りがつき、厨房や風呂場の換気扇からはもうもうと湯気が立ち上っていた。街路はおそろしく静かで誰も歩いていない。整備されているが全く活気が感じられない温泉町だ。

 私達は道路沿いの歩道を五分ばかり歩き、予約してある目当ての宿へとやってきた。間口は決して広くないが、背後の下り斜面に沿って奥行きがかなり広そうな旅館で、奥のほうからは露天風呂だろうか、ひんやりした大気へ白い湯気があがっている。数段のひな壇を上がりガラス張りの引き戸を空けて玄関へと入ると、板張りの広いロビーとなっている。新しい旅館のはずなのだが、なんとも昭和臭のきつい内装だ。どこの田舎の旅館にもありそうな大木の切り株の調度品や、何やら読めない達筆を記した屏風の衝立、山水画の掛け軸などが飾ってある。私達はスリッパへと履き替え、板張りのロビーへと上がり、真ん中に据えられたソファーの上へ荷物を乗せた。

「誰もいないのか?」

友人は、申し訳程度に置かれたフロントの机上にある呼び鈴を押した。

 私はお決まりの調度品をなんとなしに眺めならロビーを歩き回った。広いロビーの隅で私はぎょっとして脚を止めた。一・五メートルくらいの長い台座に置かれたそれは大きな口をあけて私を見張っていた。ピンと上へ立った大きな耳、長く前へ伸びた吻が分かれ、広く裂けた口から真っ赤な舌とやや黄ばんだ大きな牙を見せつけている。茶色い毛並みは艶やかに蛍光灯の光を反射し、それぞれが今にも逆立ちそうな勢いだ。大きな頭を横に向け、鋭い眼が二つ、光を反射させてじっと私を見ていた。そこには、まるで鹿と同じくらいありそうな赤犬の剥製が飾られていた。

「……恐いなぁ」

友人が側へやってきた。

「何これ? オオカミ?」

私は首を振った。確かに普通の犬の大きさではないが、以前に博物館の陳列棚で見たニホンオオカミの剥製とは全く違う生き物だ。

「いや違う。吻が長いし、耳も尖がってる。それに毛の色がオオカミよりずっと赤い…… オオカミじゃないだろ」

私は剥製の横に置かれた、煤けた木の立札に気がついた。

「昭和三年 九月二十五日 山犬峠だって」

「へぇ…… 大昔じゃん」

 奥のほうから足音がして、ワイシャツ、ネクタイに半被という、お決まりのスタイルの旅館の番頭がロビーへと姿をあらわした。

「お待たせしてしまって、申し訳ありません。ようこそいらっしゃいました」

その中年の男は頭を下げながらフロントで宿泊台帳を開く。友人が記入をはじめたので、私はその立派な赤犬の剥製へと視線を戻した。

――それにしてもでかいな。外でこんなのに出くわしたら、ひとたまりもないな

私はそう思いながらその犬の目を見つめた。

 かなり古いものだが、それはよくできた剥製に見えた。動物を剥製にした場合、その眼球だけは生前の姿を留める事は出来ない。替わりに良く似た色のガラスのビーズをはめ込んで眼とする。ただ、この犬の、黒真珠に金箔で虹彩をかたどったような鋭いビーズの目は非常にリアルで臨場感に富むものだった。その眼には未だ潤いを湛え、今にも瞬きしそうだ。

「えっ……」

 剥製と睨めっこしながらそう感心していた私は次の瞬間、思わず息を飲んで手にした鞄を落としてしまった。それまで真円に近かった犬の瞳孔が、まるで獲物を見据えるかのように小さな楕円形に形を変えて私を睨みつけたからだ。完全に眼が合ってしまった私は、心臓が凍るような動悸を感じた。ガラス細工でできているはずの犬の目が形を変えるわけが無い。私は思わず半歩飛び退いた。

「おい、行くぞ。どうした?」

受付けの記入を終えた友人が鞄を手にこっちへやってきた。私は再度犬の眼球を見た。不思議な事に、犬の瞳孔は何事もなかったかのように丸いまま、虚空を見つめている。

――え、今のは何だ?

「今、眼が動いたような気がした……」

「はぁ? 何?」

友人が聞き返すので、私は首を振った。話してもおかしな奴だと思われるだけだろう。

「いいや、何でもない……」

そう言って私は狼狽を隠しながら、鞄を拾った。

「こちら、ご案内いたします~」

私達は番頭に案内されて旅館の奥のほうへと歩いていった。


 私達は和室へと案内された。畳敷きに卓が置かれたありきたりの客室だ。とりあえず畳に腰をおろし、荷物を解き始めた。急に強い疲労感に襲われ、体が重くなったような気がした。腕時計を見る。外は真っ暗だが、まだ夕食まで時間があった。

「先に風呂に入ろうか?」

友人もうなずき、私達は支度をはじめる。

「やべぇ、洗面道具を車に置いてきちゃった。取って来るから先行ってていいよ」

友人が慌ててオーバーを羽織ながらそう言うので、私は了解した。

「じゃあ先に入ってるよ」

 私達はひんやりとした廊下へ出ると、そこで別れた。先の番頭によれば、風呂はさらに建物の奥の方にあるらしい。私は着替えや浴衣を抱えて、スリッパをペタペタ鳴らしながらリノリウムの床を奥へと進んだ。私達以外、他の泊まり客が全くいないのか、廊下は異様に静かで誰ともすれ違わなかった。特に具体的な不満があるわけではないが、ロビーの悪趣味な置物といい、この陰気くさい雰囲気といい、私はこの宿にあまり居心地の良さを感じていなかった。

――あの犬は気持ち悪かったなぁ…… うっかり眼を合わせてしまったよ

 長い廊下を突き当たりまで進み、下り傾斜の渡り廊下の先に別の棟が建っていた。浴場はそこにあるらしい。その方角から三味線だか琴だかの音楽と大勢が会食している賑やかな声が聞こえてきた。どうやらそこには宴会場もあるようだ。泊り客が自分達だけでなかったことに安心し、私はやや足取り軽く、大浴場へとやってきた。

 安心はしたものの、新しいくせに陰鬱なこの旅館の雰囲気は風呂場でも変わらず、脱衣所の蛍光灯はチカチカと明滅するお化け電球状態で、風呂場のほうも薄暗い。

「蛍光灯のチェックくらいしてよ……」

私は脱いだ服を籠に押し込むとガラス戸を開けて風呂場へ行った。思ったとおり浴室には誰もいないが、のんびり湯につかれそうだ。そこは半露天風呂となっていた。体が冷えてきてしまうので、私はいそいそと体を洗うと、湯に体を沈めた。すぐ近くでは、先の宴会場から音楽や食器の音が聞こえてくる。空を見上げてみた。薄雲がかかっているのか、星も月も全く見えなかった。何故だろう、お湯に包まれているのに、冷え切った体の芯が熱でほぐされてゆくような感覚が全く無い。何故だか寒さすら感じる。確かに、お湯は温かい筈なのに……

 そのとき、脱衣所のくもりガラス越しに何か影が映ったような気がした。友人が来たのかと思って顔を向ける。脱衣所は先の蛍光灯のせいで不規則に明るくなったり暗くなったりを繰り返している。

「遅かったな」

私はガラス越しにそう声をかけたが、返答は無い。脱衣所の蛍光灯がまた明滅したとき、一瞬だけ、大きな四つんばいの黒い影がガラスに映った。

――何あれ?

私はメガネを脱衣籠に置いてきていたので、目を細めて脱衣所のガラス戸を見た。ふたたび脱衣所が明るくなると、はっきりした影がガラス戸の右端から左端へと歩き、ターンして再び右端の壁の陰へと消えた。長い吻、突き立った両耳、小さな熊かと思われるくらいの大きさの生き物の姿だった。ロビーの剥製を思い出したのはいうまでもない。


ハッハッハッ…… ハッハッハッハッ……


荒い動物の息遣いがガラス越しに聞こえてくる。私は歯をガチガチと鳴らして身震いを始めた。湯の中にいるというのに全身が鳥肌たってきた。私は助けを呼ぼうと露天風呂の外へと体を乗り出した。すぐ近くには宴会場もあり、ここから叫べば誰かが来てくれるだろう。私は声を出そうとして異変に気付いた。さっきまで聞こえていた宴会場のにぎやかな喧騒がいつのまにか全く聞こえない。私は思わず自分の耳に手を当てた。旅館の屋外灯も宴会場の窓から障子越しこぼれる明かりも全く変わりないのに、人々の存在を示す物音が全く聞こえなくなっている。聞こえてくるのは、背後の脱衣所から漏れる猛獣の息だけだった。

 浴槽にいた私は背後を振り返った。その猛獣は足を止め、大きな頭をこちらへ向け黄色く光る両目で私を凝視していた。大きさといい、姿形といい、赤茶色の毛並みといい、それは間違いなくロビーで見た山犬の影そのものだった。

 山犬が喉を音を鳴らした。それは苛立ちをあらわす猛獣特有の唸り声だった。私とその猛獣を隔てているのはガラス戸一枚だけだ。私は恐怖と猛烈な寒気を感じガタガタと震える。曇りガラス越しに私は犬の黄色い両目を凝視し、犬も私を睨み続けていた。

 何秒ぐらいそうやっていただろうか、再び脱衣所の照明が点滅をはじめ、山犬の影が見えなくなると、遠くからまるで聴力が蘇ってくるように宴会場のへたくそなカラオケの歌声やざわつく音が聞こえてくるようになった。脱衣所の電気が再び点灯すると、山犬の影は消えていた。私は湯船の真ん中で息を殺したまま身動きできなかった。明るくなった脱衣所に人影が見え、タオルを腰に巻いた友人がガラス戸を開けて浴場へと入ってきた。

「さーて、ゆっくり温まろうかねー、湯加減どう?」

私は目を丸くしたまま、言葉を発することができなかった。

「なんかあったの? 今にも凍死しそうな顔してるよ。お湯ぬるいのか?」

きっと死人のように青ざめた顔をしていたのだろう、少しほっとした私はやっとのことでうなずいた。

「なんか、体が温まらなくてね……」

今あったことを話しても、とても信じてもらえそうもないので、私は冷たい湯につかったままじっとしていた。なぜか友人が来て以来、脱衣所の蛍光灯はさっきのように明滅せずに明るく光り続けている。私は寒さと嫌な違和感から身震いしながら友人が湯から上がるのを待った。もう、ここで一人になるのが怖かったのだ。

 友人がもう上がろうというので、私たちは冷たい外気から逃げるように脱衣所へと引っ込んだ。私は黙って大犬がいた形跡を探そうと周りを見たが、異変はない。とにかく急いで服を着こんで私はそこから立ち去りたかった。友人は部屋から持ってきた浴衣に袖をとおしたが、私は何かあってもすぐ動けるよう、着てきた洋服をまた着ることにした。

 眼鏡をかけ、寒いので靴下を履こうとした時だった。濡れていた足の裏に何か繊維の束のような埃が張り付いていた。髪の毛のような気持ち悪いが赤毛が数本、足の裏にくっついていた。私は恐る恐るそれをつまんで蛍光灯にかざした。柔軟だが芯のある動物の毛だった。あの大きな赤犬を連想した事はいうまでもない。

「なんか、きったねーな、ここ。俺の足にもくっついてる」

友人が左足を持ち上げて自分の足の裏についた毛を払った。私は安堵感と恐怖感に同時に襲われ、やや混乱気味についさっきここで起こった事を説明した。

 夢の中という補正があるとはいえ、ひどく取り乱して話す私を友人は呆れるか笑うかするだろうと思ったのだが、意外にも友人は落ち着いてわたしの言葉を聞いてくれた。

「とにかくここは嫌だ! 今すぐここを出よう!」

こんな無茶な要求を友人はなぜか快諾した。

「わかった、わかった。とりあえず荷物取ってこよう」

 私達は薄暗い廊下を足早に部屋まで戻り、急いで荷物をまとめ始めた。実際のところ、やたら慌てて荷造りする私に比べて、何も見ていない友人はずいぶんとのんびりした様子だったが、なんとか二十分後には私達はオーバーを羽織って部屋をあとにした。途中、宿の従業員に急遽発つことにする旨伝えようとしたが、例によって誰もいない。いないなら仕方ない。とにかく薄暗い廊下を荷物をかついで小走りに私達は建物横の通用口から外へと飛び出した。どうしても剥製のあるロビーは通りたくなかったのだ。一瞬にして体が冷えてゆくのが判る。

 すぐに舗装された正面の道路へと出て私は少し安堵した。相変わらず人と車の往来は全くない気持ちの悪い温泉町である。とにかくここから一刻も早く立ち去りたかったので、私は急ぎ足で駐車場へと急いだ。荒い息が吐くたびに白く湯気を作る。自分の息づかいとさっきの犬の息の音が似ているような気がして、思い出すと心臓が凍りそうになる。汗をかいたシャツが急激に冷えて背中に張り付いた。そんな私の背中を呆れた様子で見ながら友人がのっそりと歩いてくる。

「そんな慌てるなよー」

ようやく車へとたどり着き、友人がキーを取り出すためポケットへと手を突っ込んだ。ごそごそとジャンパーやズボンのポケットを探る友人を見て、私は嫌な予感がしてきた。

「あれ? 無い……」

――お前、ふざけんなよ!

思わず怒鳴りそうになるのをすんでのところでこらえる。客観的に考えて、ふざけたことをやっているのは間違いなく私の方だ。

「ちょっと見てくる」

「い、急いで頼むよ」

私は恐怖のためにかなり苛々しながらもなんとか平静を保ってそう答えた。

「判ってるって」

友人は旅行鞄を地面に下ろすと、のんびりした様子で旅館の方へと歩いて行く。

――走れよ!

私は言葉を腹に飲み込む。

 一人になり私はさらに寒けを感じてきた。その場で足踏みしなが友人を待つ。冷たい強い風が道を吹き抜けた。刺すような冷たさだ。山々の木々がザワザワと不吉な音を立てる。私は一人になったことを後悔し始めた。一秒一秒が異様に長く感じられる。

 風の音に混じって長く澄んだ遠吠えの音が聞こえてきたのはそんな時だった。町の背後の大きな影となっている山腹から何度も。それは間違いなく犬の遠吠えだった。自分の顔から血の気が引いてゆくのが判る。

そして、友人はいつまでたっても戻ってこない……


 そうしているうちに目が覚めた。ベッドから布団が落ちてひどく寒そうにしている自分がいた……

 どうも、おかげさまで夢十夜も七夜目です。この夢、本人はとても怖がって見た夢なんですが、文章にするとなぜかぜんぜん怖くない。ホラーとか怪談系はやはり難しいですね。とりあえず、怖い夢系はこれで最後です。もともとは怪談系短編のネタに使おうかと思っていましたが、一捻りあるいいオチが思いつかなかったので、そのままで使うことにしました。

 それにしても「ツキノワグマ」の時と同じく剥製が動く夢が多いな…… 似たような夢はほかにもいくつか見ています。ワニとかホオジロザメとか…… 

今回ほど緻密な夢じゃないですが、小学校のプールになぜかクロコダイルの剥製が沈んでて、そのプールで普通に水泳の授業が始まるというカオスな設定、その後はやっぱり動きだすんですよ、ワニが。あとはお決まりの展開でプールの水がどんどん赤くなってくという……

 ただ博物館で剥製を見るたび、思うんですよ。こいつは生前どんな風に生きていたんだろうかと。美しい毛並みや羽なんかは生前の様子をある程度保存できますが、目だけはどうしても作り物感が出てしまいます。昔、小学生のころお粗末な昆虫標本を作ってみた事がありますが、あれもそうでした。目だけはどうしても変色してしまい生前の透明感が失われましたね。

 逆に博物館なんかで目の再現がよくできた動物標本があったら、ちょっと恐怖を感じるかもしれません。

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