第四夜 オン・ザ・ラテソル
四年程前、こんな夢を見た……
夜になると虫達が鳴きだす。季節によってはそれが昼間よりうるさい事もあるが、今の時期は季節の変わり目で、気候も最も過ごしやすく、虫達の声もそれなりに穏やかな季節だった。
トタンでできた納屋から、粗末な背もたれ付きの木のイスを引っ張ってきた。納屋のそばにある、地面に長い鉄パイプを刺し、その上へコードを伸ばして電灯を据えただけの粗末な野外灯の真下へイスを置いた。
イスの横に黒いショットガンを立てかけ、私はそのイスに腰を下ろした。灯りに照らされたラテライト質の真っ赤な地面に、大きな黒い影がいくつか不規則な影をつくって踊っている。私は頭上の野外灯を見上げた。真上ある野外灯の白熱電球に大きな蛾や羽虫が群がっていた。
家屋の方から家族が何やら文句を言っている。
――うんうん、判ってる。今夜はもう少し起きてないと。はいはい、もう寝てていいよ。大丈夫、虫除けは塗ったから。
家族は戸口へ引っ込み、家の電気が消えた。私は自分の腕に鼻を押し付けてみた。ディードを含んだ薬剤の臭いが鼻を突く。あと二時間ほどしたら、もう一度塗り直したほうがいいかもしれない。特に夜間、ここではマラリア対策が欠かせない。
風が吹き、私の眼前一面に植わったトオモロコシの葉がカサカサカサと音を立てる。私の背丈よりも大きく育ち、トウモロコシは収穫目前だ。今週中には収穫をはじめようと思った。
まだまだ夜は長い。私は足を組み、淡い緑の布で装丁された平凡社出版の本を開いた。書斎から持ってきたトマス・エドワード・ロレンス著「知恵の七柱」だ。
――今日はどこまで読めるだろう?
私はしおりを挟んだページを開く。それは著者のロレンス達一行がちょうどオスマン・トルコ占領下のアカバ港攻略に差し掛かったところだった。想像は時間も場所も、はるか遠くへと飛んでゆく。
どれくらい時間が経っただろうか。畑のずっと奥のほうで葉がカサカサカサと鳴った。私は顔を上げた。奥の方で、稲穂のようなトウモロコシの雄花がかすかに揺れたような気がした。しおりを挟んで本を閉じる。私は本を置き、ショットガンを掴んでゆっくりと立ち上がった。
――やっぱり来たか…… 今夜はヒヒかな? それとも人間だろうか?
幸い、私も家族も今すぐに飢える心配はなかったが、残念ながら他人に作物をただで持っていかれて困らぬほど収穫があるわけではない。私はショットガンのフォアグリップを引いて弾を装填すると、トウモロコシに当たらぬよう、わずかに上を狙って発砲した。空に破裂音が響く。フォアグリップを引いて更にもう一発撃つ。
銃声の余韻が消え、再び虫の歌声だけが響き始めた。広いトオモロコシ畑にもう気配は無い。どうやら逃げていったようだ。昨日の夜もそうだった。
私は鼻から息を一吐きした。赤土の上に落ちたまだ温かいショットシェルの撃ガラを拾って、そばにあるクズカゴに放り込み、私は再びイスに腰掛けた。おそらく、もう今夜はやって来ないだろう。そんな気がした。
私は再び本を開き、第一次大戦下のはるか中東の砂漠へと思いを馳せる。夜は静かに更けてゆく。
という、オチらしいオチのない夢でした。目覚めは非常に良かった記憶があります。この夢、個人的には非常に印象深い夢で、私の中ではいい夢として認識されています。
この夢には、夢の大前提となる『空気』というか『舞台設定』というか、その夢の中では明示こそされていないが、認識しているお約束みたいなものがあって、その上でこの夢を見るとなかなか面白い。
かいつまんでご説明すると、土壌や風土の関係から、舞台は恐らく日本でないことはすぐ判りました。遠い国のどこかです。私自身は、この風景は多分あの辺りの国だなと、大体わかっているのですが……
私は何らかの理由で、日本から家族を連れてかの土地で食う為に農業の真似事をはじめたようで、数年かかってなんとか飢えない程度になったようです。日本を出た理由は、あまり良い理由ではなかったような気がします。
夢の空気から伝わってくる限り、世界情勢は今以上に混迷しているようです。たまにワールドニュースで日本のことが伝えられると、憂鬱になってテレビやラジオの電源切ってしまうという感じです。あまり良いニュースが入ってこないのでしょう。
ただ、今いるこの赤い土地も、日本の現実の感性で考えると、決して住みよい土地ではないようです。自分の糧を自ら散弾銃で守らなければならないという、かなり剣呑な環境です。経済的にも社会的にもとても豊かとは言えない土地です。
何故わざわざ、そんなところへ家族総出で移住しなければならなかったのか、理由は私自身にも判りません。ただ、夢の中での私の精神は、なぜかとても安らかでした。あらゆる俗事から解放され、誰に依存する事もなく、逆に依存される事もなく、自身の判断と能力だけが自身の生存を担保するという、苛酷だけれども非常に自由な心持でした。
虫の声、白熱球の色、トオモロコシの葉の揺れる音…… いまでも鮮やかに脳裏に浮ぶ、そんな夢でした。
P.S. 家族にこの夢のことを話して聞かせたところ「あなたの、ケチなところと臆病なところがよくあらわれている」とのこと、アイタタタ……
エラそうに書いても、結局これが真実かもしれません。




