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高1・12月上旬:懐疑論者の心臓と、仕掛けられた問い

第1部:嵐の前の冬時間


十二月。師走という名の通り、街も人々もどこかせわしない空気をまとい始める季節。分厚いコートの襟を立て白い息を吐きながら歩く通学路は、数ヶ月前とはまるで違う景色に見えた。長く、そしてある意味では濃密すぎた二学期も、期末テストの終わりと共にその終着点が見え始めていた。


「おっしゃー! 解放ー!」


テスト最終日の最後のチャイムが鳴り響いた瞬間、教室は抑圧からの解放を祝う歓声の坩堝と化した。佐々木翼などは机の上に立ち上がり、勝利の雄叫びを上げている。その姿を見てクラスメイトたちがどっと笑う。この馬鹿げていて平和な光景も、あと数週間で見納めかと思うとほんの少しだけ感傷的な気分になった。


「さて、と。じゃあ恒例の反省会でもしますか」

いつの間にか俺の席の前に、雨宮玲奈が腕を組んで立っていた。その表情はどこか楽しげだ。

「反省することは何もない。俺は常に最善を尽くしている」

「はいはい、その減らず口が聞けるってことはテストも余裕だったわけね。……千明はどうだったのよ。赤点回避できた?」

玲奈の視線の先で、見附千明は机に突伏して燃え尽きたように白い灰になっていた。

「……もう私の脳みその中の人は、一人も残ってません……」

「ダメそうね、こりゃ」


俺たちは三人連れ立って校門を出た。街はすでにクリスマスに向けてその装いを整え始めている。ショーウィンドウには煌びやかなイルミネーションが灯り、カフェのスピーカーからは定番のクリスマスソングが流れていた。


「わー、綺麗! ねぇねぇ、三人でどこかイルミネーション見に行かない?」

千明がすっかり元気を取り戻して提案する。

「なんで私が、あんたたちのデートの付き添いをしなきゃいけないのよ」

玲奈が呆れたようにため息をつく。

「で、デートじゃないよ! 友情だよ、友情!」

慌てて否定する千明の横顔が街の光を反射してキラキラと輝いていた。俺はその光景から目を逸らすようにポケットに手を突っ込んだ。


俺たちの奇妙な三角関係。それはこの数ヶ月で絶妙なバランスの上に成り立っていた。玲奈は俺と千明のこのもどかしい関係をからかいながらも温かく見守ってくれている。千明はそんな玲奈の庇護の下で、俺との微妙な距離感を楽しんでいる。そして俺は。

俺は、この二人の大切な友人と共に過ごす穏やかな時間に、かけがえのない価値を見出し始めていた。


その日の帰り道、俺たちの「落とし物探し」のアンテナが反応した。

「……あ、落田くん」

千明がふと足を止めた。

「あそこのバス停のベンチ。マフラーが落ちてる。……うん、光ってるね。色は緑色。そんなに強い光じゃないけど、すごく温かい感じがする」


ベンチに無造作に置かれていたのは、手編みらしい少し不格好な緑色のマフラーだった。

「どうする。持ち主を探すか?」

「ううん、大丈夫」

千明は自信ありげに微笑んだ。

「この光の感じだと、持ち主はまだそんなに遠くには行ってないはず。『あ、やば、忘れた!』って今頃慌てて引き返してくるところだと思うな」


俺は彼女のその光の解釈に感心した。

彼女はもはやただ光の有無を感知するだけではない。その光の質から持ち主の感情や状況まで、正確に読み解く領域に足を踏み入れていた。


「……面白いな」

俺は思わず呟いた。

「え、何が?」

「いや……。お前のその能力の分析は、本当に興味が尽きない」

俺が観測ノートを取り出しペンを走らせているその時、千明は俺の胸のあたりをじっと見つめていた。

彼女には見えているのだ。俺の心臓から放たれる、あの青みがかった金色の光が。

俺のこの世界の謎に対する純粋な探究心、そして彼女の能力に対する尽きない好奇心。それが俺のアイデンティティの一部として常にそこに灯っていることを。


やがて千明の予測通り、息を切らした男子生徒がバス停へと駆け込んできた。

「はぁ、はぁ……あった! よかった……!」

彼はマフラーを見つけると心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。

「これ彼女からの初めてのプレゼントだったんスよ。失くしたらマジで殺されるところでした……。あざっす!」

彼は俺たちに深々と頭を下げると、マフラーを首に巻き足早に去っていった。


その幸せそうな後ろ姿。

千明は満足そうに微笑んでいた。

外は木枯らしが吹き寒かったが、俺たちの心は小さな灯火のように温かかった。

この穏やかな日常がこのまま続くと、俺は信じて疑わなかった。

だが嵐はいつも、最も油断した瞬間に訪れるものなのだ。

そしてその嵐の名は、神楽坂悠人という。


第2部:仕掛けられた論理の罠


その日、俺は一人で予備校の自習室に残っていた。

テストは終わったが、受験という本番はまだ二年近くも先にある。俺の見つけた道は決して平坦なものではない。今のうちからやれることはやっておくべきだ。

静寂の中、ペンを走らせる音だけが響く。

心地よい集中。

俺が最後の問題を解き終え、大きく伸びをしたその時だった。


「……少し、いいかな」


不意に背後から静かな声がした。

俺は振り返り、そして息を呑んだ。

そこに立っていたのは神楽坂悠人だった。

彼はいつかの文化祭の時と同じ他校の制服を身にまとい、感情の読めない無表情な顔で俺を見下ろしていた。


「……何の用だ」

俺は警戒心を最大レベルに引き上げ、低い声で尋ねた。

周りの生徒たちは彼のその異様な存在感に気づきもせず、自分の勉強に没頭している。


「少し君と話がしたくてね。落田心一くん」

彼は俺の名前を知っていた。

彼は俺の前の席に音もなく腰を下ろした。まるで最初からそこにいたかのように自然に。


「単刀直入に言おう」

彼は真っ直ぐに俺の目を見据えて言った。

「君は、彼女の隣にいるべき人間じゃない」


そのあまりにも唐突で、そして傲慢な断定。

俺は怒りを通り越して呆れた。

「……ほう。それはまた大きく出たな。根拠を聞かせてもらおうか」


「根拠ならあるさ」

神楽坂は少しも動じない。

「君は論理と理性の人間だ。この世界のあらゆる事象を観測し、分析し、理解しようとする。その姿勢は素晴らしいと思うよ。僕も同類だからね」

彼はそこで一度言葉を切った。

「だが、彼女……見附千明の力はその対極にある。非合理の極致だ。君はそれを解明したいと思っている。その探究心も本物だろう。……だが、果たしてそれは純粋な知的好奇心だけなのかな?」


その問い。俺の心の最も深い部分を探るような、その問い。

俺は黙り込んだ。


神楽坂は続けた。その声はまるでカウンセラーのように優しく、そして残酷だった。

「君が過去に何を経験したか僕は知らない。だが、君がかつて信じていた非科学的なものを誰かに否定され、心を閉ざしたことは分かる。そして君は今、見附千明という最大の非科学的な存在を目の前にして、再びあの頃の気持ちを取り戻そうとしているんじゃないのかな?」


彼はすべて見抜いていた。

俺の過去も心の傷も、そして今の俺を突き動かしている感情の正体も。


「君が彼女のそばにいる理由。それは君が過去に捨て去った、非科学的なものへの『未練』。それだけだよ」


未練。その言葉が俺の胸に重く突き刺さる。

千明が俺の胸に見ているあの光。神楽坂はそれを「未練」だと断じたのだ。


「その『未練』は、君の純粋な論理的思考を曇らせるただのノイズだ。君は彼女を客観的な『観測対象』として見ることができていない。そこに個人的な感傷や同情や、あるいはもっと別の厄介な感情を持ち込んでしまっている。それでは真実にはたどり着けないよ」


彼のロジックは完璧だった。

ぐうの音も出ないほど正しく、そして的確に俺の本質を突いていた。


「……僕なら」

彼は悪魔の囁きのように言った。

「そのノイズを取り除いてあげられる」


俺ははっとしたように顔を上げた。

「……何?」

「君を本当の意味で純粋な『探究者』にしてあげられる、と言っているんだ。君のその心の枷になっている過去への執着、その『未練』の光を僕が消してあげよう。そうすれば君はもっと楽になれる。もっと客観的に、そして冷静に彼女の能力を『現象』として分析できるはずだ。個人的な感情に惑わされることなくね」


それは甘美な誘惑だった。

感情という不確定要素を排除し、純粋な論理の世界に生きる。それはかつての俺が理想としていた生き方そのものだった。


「……断る」

俺はきっぱりと拒絶した。

「お前のやり方はただの暴力だ。俺は、俺のこの感情ごとこの謎と向き合う」


「……そうかい。残念だよ」

神楽坂は心底がっかりしたように肩をすくめた。

「君の同意は必要ない、と言ったら?」


その言葉と同時に、俺は胸の奥に奇妙な冷たい感覚が広がるのを感じた。

まるで麻酔注射を打たれたかのように、心臓のあたりからじんわりと感覚が麻痺していく。

熱が奪われていく。色が失われていく。


「……なにをした……!」

「少しだけ、静かにしてあげただけだよ」

神楽坂は立ち上がった。

「君のそのうるさい心の光をね。……よく考えてみるといい。その感情は本当に君にとって必要なものなのかどうか」


彼はそれだけを言い残すと、音もなく自習室を出ていった。

一人残された俺は、呆然と自分の胸に手を当てていた。

そこにあるはずの熱い何かが、好奇心、探究心、そして千明への想いが、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。

心にぽっかりと穴が空いてしまったような、絶対的な空虚感。

それは俺が今まで経験したことのない、静かで、そして恐ろしい感覚だった。


第3部:消えた心の光


神楽坂の精神的な攻撃。その後遺症は俺が想像していた以上に深刻だった。

俺は自習室からの帰り道、何度も自分に言い聞かせた。あれはただの心理的な揺さぶりに過ぎない。俺の心は何も変わっていない、と。

だが、俺の体が、心が、それを否定していた。


家に帰り観測ノートを開いてみる。そこにびっしりと書き込まれた、千明の能力に関する考察。それは数時間前まで俺の人生のすべてだったはずのものだ。

だが今、その文字の羅列を眺めていても何の感情も湧いてこない。

かつてあれほど俺を熱狂させた謎が、今はただの無味乾燥なデータにしか見えなかった。

エンジンを失った機械のように、俺の探究心は完全に沈黙してしまっていた。


翌日。学校に行ってもその感覚は変わらなかった。

世界が、一枚の薄い膜で覆われてしまったかのようだった。

クラスメイトたちの笑い声も教師の授業も、すべてがどこか現実感のないBGMのように聞こえる。

俺はただ淡々と一日のタスクをこなしていくだけの、自動人形になってしまっていた。


「……落田くん、おはよ」

千明がいつものように声をかけてくる。

俺は顔を上げずに答えた。

「……ああ」

「……? どうかしたの? 顔色、悪いよ」

「別に。少し寝不足なだけだ」


俺は彼女の顔をまともに見ることができなかった。

彼女の顔を見ても何も感じない自分自身に気づくのが、怖かったからだ。


放課後。

千明が「ねえ、今日もパトロール行こうよ」と誘ってきた。

俺は一瞬断ろうかと思った。面倒だ、と。

だが、ここで断れば彼女に余計な心配をかけることになる。

俺は「……分かった」と短く答えた。


俺たちはいつものように駅前の繁華街を歩いていた。だが、俺たちの間の空気は明らかに違っていた。

俺は何も話さない。千明はそんな俺の様子を心配そうに、何度も窺っている。


やがて彼女のアンテナが反応した。

「……あそこ。路地の奥。光ってる」

彼女が指差す薄暗い路地の奥に、俺たちは入っていった。

ゴミ箱の横に落ちていたのは、片方だけのイヤリングだった。


「この光……すごく悲しんでる。きっとプレゼントされた大切なものなんだよ。早く持ち主に返してあげなきゃ」

千明がいつものように光の解釈を語る。

だが、俺の心は何も動かなかった。


「……そうか」

俺はただそれだけを答えた。

「……持ち主の特徴は? 何か分かるか」

「ううん、そこまでは……。でも光はこっちの大通りへと向かってる。きっと持ち主はそっちに……」


「……非効率だな」

俺は彼女の言葉を遮って言った。

「え……?」


「その光の方向性という曖昧な情報だけを頼りに探すのは、あまりにも効率が悪い。イヤリングのブランドを特定し近隣の店舗に問い合わせる方が確実だ。あるいはSNSで情報を拡散するか。感傷に頼った捜査は時間の無駄だ」


そのあまりにも冷たく、そして合理的な言葉。

それは紛れもなく俺自身の声だった。だが、その響きは俺が知っている俺の声ではなかった。


千明は息を呑んだ。

彼女は信じられないという顔で俺を見つめていた。

そして、その視線が俺の胸のあたりに注がれた瞬間、彼女の顔が絶望に染まっていくのを、俺はただぼんやりと見ていた。


彼女には見えていたのだ。

俺の心臓のあたりが完全に沈黙しているのを。

いつもそこにあったはずの、あの青みがかった金色の探究心の光が、完全に消え失せているのを。

そこにはただ空虚な闇が広がっているだけだった。


「……落田くん……?」

彼女の声が震えている。

「……どうしちゃったの……? 何かあったの……?」

「何もない」

俺は感情を排した声で答えた。

「ただ、この活動の非効率性について客観的に分析していただけだ。俺たちの行動は感傷に頼りすぎている。もっと体系化し、感情を排したアプローチが必要だと、言っている」


それは神楽坂が俺に囁いた言葉そのものだった。

俺は彼のロジックに、完全に支配されてしまっていたのだ。


「……違う」

千明はかぶりを振った。その大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

「そんなの落田くんじゃない……。私の知ってる落田くんは、もっと……もっと面倒くさくて理屈っぽくて、でも誰よりも優しくて、そして楽しそうに謎を解いてた……!」


彼女の悲痛な叫び。その言葉さえも今の俺の心には届かなかった。

俺は彼女の涙を見ても何も感じなかった。

ただ「なぜこの女は泣いているんだ?」と不可解に思うだけだった。


俺は彼女に背を向けた。

「……今日はもう帰る。そのイヤリングは、お前が交番にでも届けておけ」

「待って、落田くん!」


彼女の制止の声を振り切り、俺は一人雑踏の中へと歩き出した。

俺の羅針盤は壊れてしまった。いや、違う。俺自身が羅針盤であることをやめてしまったのだ。

冷たい師走の風が、俺の空っぽの心の中をただ吹き抜けていった。


第4部:心の論理、再生の光


その夜、俺は自室で一人、思考の迷宮に囚われていた。

神楽坂の介入。俺の心の変容。そして千明の涙。

それらの出来事を、俺は感情を排した純粋な論理だけで再構築しようと試みていた。


神楽坂の提案は合理的だった。

俺の非科学的なものへの『未練』。それは客観的な分析を行う上で明確なノイズだ。

それを排除した今の俺は、以前よりも効率的に思考できる。事実、今日のイヤリングの件でも、俺は最も合理的な解決策を提示したはずだ。千明のように感傷に流されることなく。


ならば、なぜ彼女は泣いた?

俺の行動は正しかったはずだ。何が間違っていた?


俺は机の上の観測ノートに目をやった。

そこに記録されているのは、これまでの俺たちの活動のすべてだ。

俺はそのページを一枚一枚めくっていった。感情を殺し、ただのデータとしてその文字を追っていく。


佐々木翼の落書き。俺自身の祖母のペン。玲奈の過去の罪悪感。長谷部先輩の挫折した夢。祖母のカセットテープ。


それらはすべて非合理的で非効率的な、人間の感情の産物だ。

神楽坂の論理に従うなら、それらはすべて消し去るべき『未練』だったのかもしれない。翼の執着を消したように。


だが、本当にそうか?

俺の思考に一つの疑問が浮かぶ。

もしあの時、神楽坂が俺の祖母のペンへの執着を消し去っていたとしたら。俺は千明の能力を信じることもなく、今ここにはいなかっただろう。

もし神楽坂が玲奈の罪悪感を消し去っていたとしたら。彼女は楽にはなれただろうが、本当の意味で過去を乗り越えることはできなかっただろう。

もし神楽坂が俺の祖母のテープへの想いを消し去っていたとしたら。俺は祖母の最後のメッセージを聞くこともなく、自分の進むべき道を見つけることもなかっただろう。


神楽坂のやり方は一つの結果しかもたらさない。『消去』というゼロへの回帰だ。

だが、千明のやり方は違う。彼女は持ち主に『選択肢』を与える。

その選択の結果、持ち主は成長し変化し、そして前に進んでいく。そこには無数の未来への可能性が存在する。

どちらがより豊かで、そして優れた結果をもたらしているか。その答えは、このノートに記されたデータが雄弁に物語っていた。


……論理的に考えて、千明のアプローチの方が正しい。


俺はそこまでたどり着いた。

では、なぜ俺は今日、彼女のそのアプローチを否定した?

感情を排した純粋な思考。それが俺をより優れた探究者にするはずだった。


だが、本当にそうか?

俺のこの探究心の源は何だった?

それは知的好奇心。謎を解き明かしたいという純粋な欲望。

それは、感情ではないのか?

神楽坂がノイズだと断じた、あの非科学的なものへの『未練』。それこそが俺の思考を駆動させる、唯一のエンジンだったのではないのか?


エンジンを失った探究者。それはただのデータを処理するだけの計算機だ。目的を見失った機械だ。

今の俺はまさにその状態だ。これでは真実になどたどり着けるはずがない。


……間違っていたのは俺の方だ。

俺のこの感情こそが、俺のこの非合理的な執着こそが、俺が俺であるための、そしてこの謎を追い続けるための、唯一の根拠だったのだ。


俺は神楽坂の仕掛けた論理の罠を、俺自身の論理によって打ち破った。

彼が否定した感情の重要性を、俺は感情を排した思考の果てに再発見したのだ。

それは俺だけの勝利だった。


その結論にたどり着いた瞬間、俺の胸の奥に凍りついていた何かがカチリと音を立てて溶け始めた。

失われていた熱が、ゆっくりと心臓に戻ってくる。

忘れていた色が、再び世界に灯り始める。

俺は深く息を吸い込んだ。そして、自分の名前を取り戻した。


翌日。

俺は千明を探した。

彼女は屋上で一人、柵に寄りかかり冬の空を眺めていた。

その後ろ姿はひどく小さく、そして寂しそうだった。


俺が近づいていく足音に、彼女の肩がびくりと震えた。

彼女はゆっくりと振り返る。その瞳には怯えと悲しみの色が浮かんでいた。


俺は彼女の前に立った。

どんな言葉から切り出すべきか。謝罪か、弁解か。

だが、俺の口から出たのは、もっとずっと不器用で、そして正直な言葉だった。


「……見附」

俺は彼女の目を真っ直ぐに見て言った。

「昨日は少し混乱していた。だが、もう迷わない」


俺はそこで一度息を吸った。

そして、俺が見つけ出した唯一の答えを彼女に告げた。

「俺のこの感情は非合理かもしれない。お前へのこの気持ちも、探究心も、すべてが科学では説明できないノイズなのかもしれない。だがな」


俺は断言した。

「それこそが、俺が、お前の隣にいる唯一の、そして最も論理的な理由だ」


俺のその言葉が彼女の心にどう響いたのか、俺には分からない。

だが、彼女の大きな瞳から一筋、涙がこぼれ落ちた。

そして次の瞬間、彼女の表情がくしゃりと崩れ、そして花が咲くように笑った。


その笑顔を見た瞬間、俺ははっきりと感じた。

俺の胸の奥で再びあの懐かしい光が灯るのを。

神楽坂に消されたはずの、青みがかった金色の光が、以前よりもずっと強く、そして揺るぎない輝きを放って再生するのを。


千明にはそれが見えていた。

彼女は涙を流しながら嬉しそうに笑っていた。

俺の心が帰ってきたことを、彼女は誰よりも先に知っていたのだ。


師走の空はどこまでも青く澄み渡っていた。

俺たちの戦いはまだ終わらない。だが、俺たちはまた一つ強くなった。

俺は、俺の心の羅針盤を取り戻した。

その針が指し示す未来はただ一つ。

隣で笑っている、この不器用でお人好しな光の観測者と、共に歩んでいく未来だ。

その決意を胸に、俺は冬の空を見上げた。

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