高1・11月:探究者の道と守護者の誓い
第1部:新しい日常と未来の輪郭
十月が足早に過ぎ去り、十一月の風が校庭の銀杏並木を鮮やかな黄色に染め上げていた。あれほど学校中を熱狂させた文化祭は、今や遠い記憶の中の出来事だ。後夜祭のキャンプファイヤーの炎が消え、後片付けの喧騒が過ぎ去ると、俺たちの日常は再び教科書とチャイムの音に支配される穏やかで単調な軌道へと戻っていった。
だが、その「日常」は夏休み前のそれとは似て非なるものだった。
俺、落田心一と、見附千明。そして雨宮玲奈。俺たち三人の間には、文化祭という一つの大きな祭りを共に乗り越えたことで、以前とは比べ物にならないほど強くしなやかな絆が生まれていた。
「はい、心一。この前の現国のノート。あんた休みだったでしょ」
昼休み、玲奈が俺の机に自分のノートをこともなげに置いた。
「……ああ、助かる」
「別に。あんたに赤点を取られて、千明が余計な心配をするのが面倒なだけよ」
彼女はそう言ってぷいとそっぽを向く。その素直じゃない優しさが、今の彼女のデフォルトモードだった。九月のあの一件以来、彼女は俺に対する過剰な警戒心を解き、千明の「保護者」という立場から、俺たち二人の良き「理解者」へとその立ち位置を見事にシフトさせていた。
「あ、玲奈、ありがとう! 私も落田くんにノート貸そうと思ってたんだ」
そこに千明が弁当箱を片手にやってくる。
「あんたのノートは字が踊りすぎてて解読不能でしょ」
「えー、そんなことないよー!」
そんな三人での他愛ないやり取り。それが俺たちの新しい日常になっていた。
もちろん、俺と見附の、あの夏祭りの夜から続く甘酸っぱくもどかしい空気も変わらずに存在している。クラスメイトたちはそんな俺たちの微妙な距離感を面白がり、時々「夫婦漫才」などとからかってきたりもするが、玲奈が風紀委員の鋭い眼光を一閃させれば誰もが口をつぐんだ。
俺たちの「落とし物探し」も続いていた。
だが、その活動の質は以前とは明らかに変化していた。
神楽坂悠人との邂逅。彼の「未練は断ち切るべき」という過激な思想。そして人の心を強制的に上書きする、その圧倒的な能力。あの一件は千明の心に深い傷跡を残すと同時に、彼女を大きく成長させていた。
「……待って、落田くん」
ある日の放課後、駅前の雑踏の中で千明が俺の服の袖を引いた。
「光が見える。あそこの公衆電話ボックスの中」
彼女の声には以前のような無邪気な発見の喜びはない。代わりにそこには、医者が患者を診察するかのような真剣さと慎重さがあった。
電話ボックスの中に落ちていたのは一冊の古い文庫本だった。
「この光……色は水色だけど、すごく静かな感じ。焦ってるわけでも悲しんでるわけでもない。ただ、持ち主が『あれ、どこに置いたかな』って首を傾げてるような、そんな穏やかな光だね」
彼女は光の色や形だけでなく、その質感をより深く読み取ろうとしていた。神楽坂のあの独善的な「未練」という断罪に対する彼女なりの抵抗。それは目の前の光をより丁寧に、そして正確に解釈しようとする誠実な姿勢だった。
「どうする? すぐに交番に届けるか?」
「ううん、待って。この本、最後のページに付箋が貼ってある。『必ず、返す』って」
彼女は冷静に状況を分析する。
「誰かに借りた本なのかもしれない。だとしたら持ち主は、失くしたことよりも借りた相手に返せなくなることを気に病んでるはず。……大丈夫。この光ならまだすぐに消えたりはしない。少しだけここで、持ち主が戻ってくるのを待ってみよう」
その落ち着いた判断。俺は隣で彼女の成長を頼もしく感じていた。
俺の役目はもはや暴走しがちな彼女をいさめることではない。彼女がより深く、そして正確に光の意味を読み解くための補助と思考のサポートをすることだ。俺たちのバディとしての関係性もまた、新たなフェーズへと移行していた。
そんな穏やかな変化の兆しに満ちた十一月のある日、その波紋は一枚の無機質なプリント用紙によってもたらされた。
ホームルームの時間、担任教師が配ったのは「進路希望調査」のアンケート用紙だった。
「……はぁ」
教室のあちこちから深いため息が漏れる。
文系か理系か。国公立か私立か。そしてその先にある将来の夢。
まだ高校一年生の俺たちにとって、それはあまりにも漠然として、そして重い問いだった。
「うわー、どうしよう……。私、将来何になりたいかなんて考えたこともなかったよ……」
千明はペンを唇に当ててうんうんと唸っている。
「あんたはとりあえず赤点を取らないことから考えなさいよ」
隣で玲奈が容赦ないツッコミを入れる。彼女のアンケート用紙はすでに几帳面な文字でびっしりと埋め尽くされていた。法学部に進み公務員を目指すという、彼女らしい堅実な未来設計だ。
俺は自分の真っ白な用紙をただ眺めていた。
将来の夢。そんなものは小学生の頃にオカルト雑誌と共に机の引き出しの奥に封印してしまった。
今の俺にあるのは論理と理性、そして目の前の問題を効率的に解決するための思考能力だけだ。
理系だろうな、と漠然と思う。物理学か、あるいは情報工学か。だが、その先に何をしたいのかという明確なビジョンはなかった。
「落田くんは決まってるの?」
千明が俺の手元を覗き込んできた。
「……別に」
「えー、絶対何かありそうなのに。科学者とか向いてそうだよね! 白衣着てフラスコ振ってるの、めっちゃ似合いそう!」
「安直なイメージだな」
俺は彼女のからかいを鼻であしらいながら、思考の海に沈んでいた。
科学者。悪くないかもしれない。
だが、俺が本当に探究したいものは、果たして物理法則や数式で解き明かせるものなのだろうか。
俺の脳裏をよぎるのは、千明のあの不思議な能力。
人の「執着心」が「光」として見えるという、この世界のあらゆる物理法則を無視した超常現象。そして神楽坂悠人というもう一人の能力者の存在。
あれは一体何なんだ? なぜ同じ光が千明には「執着」に、神楽坂には「未練」に見えるのか。その認識の差異はどこから生まれる? 彼らの脳は一体どうなっている?
それは心理学か? 認知科学か? あるいは量子力学の領域か?
考えれば考えるほど、その謎は深く、そして魅力的だった。
それはどんな難解な数式よりも、俺の知的好奇心を強く刺激した。
もしこの謎を解き明かすことができるなら、俺は人生を賭ける価値があるかもしれない。そんな青くさい情熱が、俺の心の奥底で静かに燃え始めているのを自覚していた。
「……ねえ」
不意に千明が真剣な声で言った。
「私、決めたかも」
「ほう。何になるんだ」
「私ね、『落とし物』のプロになる!」
彼女はそう言ってにぱっと笑った。
そのあまりにも突拍子のない宣言に、俺と玲奈は一瞬固まった。
「……は?」
「だから、落とし物のプロ! 警察の遺失物係とか、あるいは自分で探偵事務所を開くのもいいかも! 私のこの目で、たくさんの人の『大切』を見つけて笑顔にしてあげたいんだ!」
彼女はキラキラした目でそう語った。その瞳には一点の迷いもない。
文化祭での一件を経て、彼女の中で一つの確かな決意が固まったのだ。
神楽坂のやり方とは違う。自分だけのやり方でこの力と向き合っていく。「光が消える悲劇」を一つでも無くすために、自分の人生を使いたい。
そのあまりにも真っ直ぐで、そして力強い誓い。
俺は何も言えなかった。ただ、その眩しさに圧倒されていた。
そして同時に思った。こいつの隣に立つためには、俺もまた自分の進むべき道を見つけなければならない、と。
漠然とした憧れではない。明確な目標としての、俺自身の「道」を。
その答えのヒントは、意外なほど早く俺たちの前に姿を現すことになった。
それは一本の電話から始まった。
俺の母親からの短い連絡。
「心一、今度の週末、おばあちゃんの三回忌だから田舎に帰るわよ」
祖母。俺にあのペンをくれた、唯一の理解者。
その死と向き合うことが俺に何をもたらすのか、この時の俺はまだ知る由もなかった。
第2部:失われた旋律と、色褪せた光
週末、俺は母と共に新幹線に乗り、父方の実家がある海辺の町へと向かった。
三回忌。それは死者を弔うための儀式であると同時に、残された者たちが故人との思い出を再確認するための装置でもある。
祖母が亡くなってから二年。正直なところ、俺の中で彼女の記憶は少しずつ風化し始めていた。優しかった笑顔、温かかった手のひら。それらはもはや輪郭のぼやけたセピア色の写真のようになっていた。
法事は滞りなく終わった。
集まった親戚たちとの当たり障りのない会話をやり過ごし、俺は一人、祖母が使っていた離れの部屋で時間を潰していた。
古い木の匂いと微かな白檀の香り。そこだけが時間が止まっているかのようだった。
俺は何気なく、祖母の遺品が収められた桐の箪笥を開けてみた。
着物、帯、そして古いアルバム。その一番下の段にそれはあった。
黒い革張りのケース。開けてみると、中には一台の古いカセットテープ・レコーダーと、数本のカセットテープが入っていた。
「……懐かしいな」
俺はそのレコーダーを手に取った。小学生の頃、祖母の家に遊びに来るたびにこれで遊んだ記憶が蘇る。
当時流行っていたアニメの歌を録音したり、自分の馬鹿げた声を吹き込んだり。祖母はそんな俺の遊びに嫌な顔一つせず、いつも付き合ってくれた。
俺は試しに一本のテープをレコーダーにセットし、再生ボタンを押してみた。
『ガチャ』という硬い音と共にテープが回り始める。だが、スピーカーから聞こえてきたのはノイズだけだった。
何度か試してみたが結果は同じ。おそらくもう壊れてしまっているのだろう。
俺は少しだけがっかりして、レコーダーをケースに戻そうとした。
その時だった。ケースの底に一枚の小さなメモ用紙が挟まっているのに気づいた。
そこには祖母の丸みを帯びた優しい文字で、こう書かれていた。
『心一へ。いつか大きくなったら、このテープを聞いてみてね。おばあちゃんの宝物です』
そのメッセージ。俺の心臓がドクンと大きく鳴った。
宝物? この何も録音されていない、ただの古いテープが?
いや、もしかしたら。何か大切なものが録音されていたのに、経年劣化で消えてしまったのか? あるいは、このレコーダーが壊れているだけで、テープ自体にはまだ音が残っているのか?
俺はそのカセットテープをポケットにしまい、箪笥をそっと閉じた。
それは祖母が俺に残してくれた、最後の謎かけのように思えた。
週が明けて月曜日。
俺の心はあのカセットテープのことでいっぱいだった。
なんとかしてこの音を再生する方法はないだろうか。
昼休み、俺はそのことを千明と玲奈に打ち明けてみた。
「へえ、おばあちゃんの宝物かぁ。素敵だね!」
千明は目を輝かせた。
「でもレコーダーが壊れてるんじゃ、どうしようもないんじゃないの?」
玲奈が現実的な意見を言う。
「……いや、手はあるかもしれない」
俺は一つの可能性に思い至っていた。
「学校の視聴覚室。あそこになら、まだ古いカセットデッキが残っているかもしれない」
俺たちの淡い期待は、しかしすぐに打ち砕かれた。
視聴覚室を管理している教師に尋ねてみたところ、カセットデッキは数年前にすべて廃棄処分になってしまったというのだ。
「……そうか。まあ、仕方ないな」
俺は諦めて踵を返そうとした。
だが、その時。千明が俺の腕を掴んだ。
そして彼女は俺のポケットをじっと見つめて言った。
「……ねえ、落田くん。そのテープ……」
「……ああ」
「……すごく、光ってるよ」
その言葉。俺ははっとしたように自分のポケットに手を入れた。
そこにはあのカセットテープが入っている。
「どんな光だ」
「……うん。今まで見たことないくらい複雑な光。色は金色なんだけど、その中に虹色の粒々がたくさん混じってるの。キラキラしててすごく綺麗。でも同時にすごく儚くて、今にも消えちゃいそうな……そんな悲しい光だ」
祖母の執着。俺へのメッセージ。それがこのテープに宿っている。
俺は確信した。このテープの音を、何としてでも聞かなければならない。
その日から俺たちの新たな捜査が始まった。
『祖母が残したカセットテープの音声を再生せよ』
それは今までで最も個人的で、そして切実なミッションだった。
俺たちは放課後、街中のリサイクルショップや古道具屋を片っ端から巡った。
だが今時カセットテープ・レコーダーなど、そう簡単には見つからない。見つかったとしてもジャンク品で、まともに動かないものばかりだった。
「……もう駄目かな」
捜査三日目。すっかり日も暮れた帰り道、千明が力なく呟いた。
俺も半ば諦めかけていた。もはや専門の業者に頼むしかないのかもしれない。だが、それには金も時間もかかる。
俺たちはとぼとぼと学校までの道を歩いていた。
その時だった。
「……あれ?」
千明がふと足を止めた。
彼女の視線は道端にある小さな個人経営の電器店の、ショーウィンドウに注がれていた。そこは大型量販店に客を奪われ、今にもシャッターを下ろしそうな寂れた店だった。
その薄暗いショーウィンドウの一番奥、埃をかぶった棚の上にそれはあった。
一台の黒い旧式のラジカセ。カセットテープの挿入口がついている。
「……まさか」
俺たちは吸い寄せられるように店の中に入った。
店番をしていたのは人の良さそうな白髪の店主だった。
俺たちが事情を話すと、店主はにこにこと笑いながら言った。
「おお、カセットかい。懐かしいねえ。ああ、そのラジカセならまだ動くはずだよ。ちょっと待ってな」
店主は店の奥から長い電源コードを引っ張ってきた。
コンセントにプラグを差し込むと、ラジカセはかすかなモーター音を立てて命を吹き返した。
俺は震える手でポケットから祖母のテープを取り出した。そして、ゆっくりとラジカセにセットした。
店主も千明も玲奈も、固唾を飲んで俺の手元を見守っている。
俺は深く息を吸い込み、そして再生ボタンを押し込んだ。
『ガチャ』
テープが回り始める。
数秒間のノイズ。俺は固く目を閉じた。
頼む。動いてくれ。
そして、スピーカーから聞こえてきたのは、ノイズに混じった微かなピアノの旋律だった。
それは拙く、時々音を外したりもする、決して上手いとは言えない演奏だった。
だが、その一音一音が信じられないほど優しく、そして温かかった。
弾いているのは間違いなく祖母だった。俺は一度も祖母がピアノを弾く姿を見たことはなかった。
やがて演奏が終わり、テープは無音になった。
そして数秒後、そこに録音されていたのは祖母の声だった。
『……心一。聞こえるかい? おばあちゃんですよ』
その懐かしい声。俺の目から熱いものがこみ上げてくるのを止められなかった。
『これはね、おばあちゃんが昔、あなたのおじいちゃん……心一のおじいちゃんに初めて弾いてあげた曲なんだよ。おばあちゃん、ピアノなんて習ったこともなかったけどね。おじいちゃんのために一生懸命練習したんだ。下手くそだけど、おじいちゃんは「世界で一番素敵な演奏だ」って言ってくれた。それがおばあちゃんの何よりの宝物だった』
祖父は俺が生まれる前に亡くなっている。俺は祖父の顔を知らない。
『おじいちゃんが亡くなってから、もうずっとピアノなんて弾いてなかった。でもね、心一。あなたを見てると時々おじいちゃんを思い出すんだ。一つのことに夢中になると周りが見えなくなっちゃうところとか、不器用で素直じゃないところとか、そっくりだよ』
祖母はそこで楽しそうにくすくすと笑った。
『心一。あなたはこれからたくさん壁にぶつかると思う。自分の好きなものを誰かに否定されて、傷つくこともあるかもしれない。でもね、忘れないで。あなたのその探究心は誰にも負けない素晴らしい宝物なんだよ。おじいちゃんがそうだったように。あなたのその真っ直ぐな心が、いつか誰かの心を照らす光になる。おばあちゃんはそう信じてる。だから胸を張って、自分の信じる道を進みなさい。……大好きだよ、心一』
テープはそこで終わっていた。
後に残されたのは、サーッというノイズの音と、そして俺の嗚咽だけだった。
俺はその場にうずくまり、声を上げて泣いていた。
忘れていた。俺はずっと忘れていた。祖母が俺に注いでくれていた無償の愛を。
俺がオカルト好きを馬鹿にされ心を閉ざしてしまったあの日、一番悲しんでいたのは俺自身ではなく祖母だったのかもしれない。
彼女はずっと信じてくれていたのだ。俺のこの歪んでしまった探究心でさえも、いつか誰かの役に立つ力になると。
千明がそっと俺の背中をさすってくれる。玲奈も黙って隣に寄り添ってくれている。店主のおじいさんも優しい目で見守ってくれていた。
千明には見えていた。
カセットテープから放たれていたあの金色と虹色の複雑な光。それが俺の嗚咽と共にゆっくりとその輝きを増していくのを。そしてその光がテープから離れ、まるで吸い寄せられるように俺の胸の中へと溶けていくのを。
それは祖母の「執着」がようやく俺の元へと帰り着いた瞬間だった。
第3部:消えかけの夢と、観測者のジレンマ
祖母の三回忌を経て、俺の中で一つの大きな区切りがついた。
進むべき道が明確になったことで、俺の視界は以前よりもずっとクリアになっていた。見附の能力に対する向き合い方も変わった。もはやそれは単なる「観測対象」ではない。俺が生涯をかけて解き明かすべき、壮大な「研究テーマ」そのものだった。
そして、その変化は見附自身にも影響を与えていた。
彼女は自分の夢を公言したことで、その能力に対する責任と覚悟を新たにしたようだった。
俺たちの「落とし物探し」は、もはや単なるボランティア活動ではなかった。
それは未来の「プロ」としての実地訓練であり、そして俺の研究のフィールドワークでもあった。
十一月も終わりに近づいた、ある日の放課後。
冷たい木枯らしが校庭の落ち葉をカサカサと舞い上げていた。
俺たちはその日、これまでで最も厄介な「光」に遭遇することになる。
「……ねえ、落田くん」
下駄箱で靴を履き替えていた見附が、ふと顔を上げた。
「……あっち。美術室の方角から、すごく弱々しい光が見える」
その声には緊張が滲んでいた。
「どんな光だ」
「……淡い水色の光。前に見つけたあのお守りの光みたいに、今にも消えちゃいそう。それにこの光、昨日も一昨日も同じ場所から見えてた。日に日にどんどん弱くなってる」
ゆっくりと減衰を続ける光。それは持ち主の心が徐々に「諦め」に支配されていっている証拠だ。
俺たちの胸に嫌な予感がよぎる。
「……行ってみよう」
放課後の美術室は、シンナーのツンとした匂いと静寂に満ちていた。
イーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスたちが、まるで墓標のように並んでいる。
見附は部屋の一番奥にある、用具入れのロッカーを指さした。
「……この中からだ」
俺が錆びついたロッカーの扉をゆっくりと開ける。
その一番下の段に、それはあった。
一冊のスケッチブック。何の変哲もない、画材屋で売っているごく普通のものだ。
俺はそれを手に取り、ページをめくってみた。
息を呑んだ。
そこに描かれていたのは、素人の俺の目にも分かるほど、圧倒的な画力で描かれたデッサンの数々だった。
石膏像、静物、そして窓から見える風景。
鉛筆の濃淡だけで描かれているとは思えないほどの立体感と生命感。
だが、どのページも途中で描くのをやめてしまっている。
完璧な導入部。しかし結論がない。
まるで持ち主の心の状態を、そのまま写し取ったかのようだった。
「……すごい、上手だね」
千明が俺の肩越しにスケッチブックを覗き込み、感嘆の声を漏らした。
「ああ。だが、なぜ途中で……」
俺はスケッチブックの裏表紙に書かれた名前を見つけた。
『二年四組 長谷部 望』
知らない名前だった。だが、二年生ということは俺たちの先輩だ。
「この光、本当に消えそうだよ。早くこの人に返してあげなきゃ!」
見附は焦ったように言った。彼女の脳裏には、あのお守りの悲劇が蘇っているのだろう。
持ち主の情熱を再び燃え上がらせるために、一刻も早くこの才能の証明であるスケッチブックを届けなければならない。それが彼女の正義感だった。
だが、俺はその彼女の純粋な衝動を静かに制止した。
「……待て、見附」
「え、でも!」
「焦るな。俺たちの目的はただ物を返すことじゃない。その先にある持ち主の心の救済だ。そうだろ?」
俺のその言葉に、見附ははっとしたように口をつぐんだ。
「……考えてみろ。このスケッチブックは彼女にとって、自分の才能の証明であると同時に、夢を諦めた挫折の象徴でもある。それを今、不用意に彼女の元へ届けることが、本当に彼女のためになると思うか?」
「……」
「むしろ、それは彼女の癒えかけた傷口に塩を塗り込むだけの残酷な行為になるかもしれない。俺たちはまず知る必要がある。なぜ彼女が描くのをやめてしまったのか、その理由を」
俺は変わった。
以前の俺なら、見附の衝動に同調していたか、あるいはただ冷ややかに傍観していただろう。
だが今の俺は違う。俺は彼女の「羅針盤」だ。
彼女がその優しさ故に道に迷いそうになった時、正しい方向を指し示すのが俺の役目なのだ。
見附はしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがてこくりと深く頷いた。
「……分かった。落田くんの言う通りだね。私、また焦ってた」
こうして俺たちの新たな捜査方針が決まった。
それは「持ち主の心の背景を探る」という、より高度で繊細なアプローチだった。
俺たちは玲奈に協力を仰いだ。
彼女の顔の広さと情報網は、こういう時に絶大な力を発揮する。
玲奈は美術部の友人に、それとなく長谷部望という先輩について尋ねてくれた。
返ってきた情報は、俺たちの予想を裏付けるものだった。
長谷部先輩は美術部のエースだった。誰よりも絵を愛し、その才能はコンクールで何度も賞を取るほどだった。
だが、一ヶ月ほど前からぱったりと部に顔を出さなくなったという。
理由は誰も知らない。
ただ、最後に彼女が参加した大きなコンクールで、彼女が生まれて初めて「落選」という結果を突きつけられたことだけが、事実として残っていた。
「……挫折、か」
俺は玲奈からの報告を聞きながら呟いた。
原因は判明した。だが問題はここからだ。
どうすれば彼女の心を救える?
スケッチブックをただ返すだけでは駄目だ。何かもう一つ、きっかけが必要だ。彼女がもう一度ペンを握りたくなるような、ポジティブなきっかけが。
俺たちがその方策を練っていた、まさにその時。
最悪のタイミングで、その男は再び俺たちの前に姿を現した。
俺たちが美術室でスケッチブックについて話し合っていると、入り口のドアが静かに開いた。
そこに立っていたのは神楽坂悠人だった。
彼はまるで最初から俺たちがここにいることを知っていたかのように、何の驚きも見せずに言った。
「……そのスケッチブック。やはり君たちが持っていたか」
「……神楽坂……!」
見附が警戒心を剥き出しにして、スケッチブックを胸に抱きしめる。
「その光、もうすぐ消えるよ」
彼は悲しげに目を細めた。
「才能に見放された哀れな絵描きの、最後の断末魔だ。僕が楽にしてあげる」
「ふざけるな!」
俺は叫んだ。
「お前には関係ない! これは俺たちの問題だ!」
「関係なくはないさ」
神楽坂は静かに首を横に振った。
「消えかけている未練の光を放置しておくことは、僕の信条に反する。それはただ本人の苦しみを長引かせるだけの残酷な行為だ。本当の優しさとは、その苦しみの根源を断ち切ってやることじゃないのかな?」
彼の歪んだ、しかし一貫した論理。
俺は反論した。
「それは優しさなんかじゃない! ただの思考停止だ! 苦しみから逃げることと乗り越えることは全く違う! お前のやっていることは、ただのロボトミー手術と同じだ! 痛みと一緒にその人間の成長の可能性まで奪っていることに、なぜ気づかない!」
俺と神楽坂の視線が火花を散らす。
イデオロギーの激突。
見附の「可能性の修復」という思想と、神楽坂の「苦しみの除去」という思想。
そして、その二つの狭間で、俺は論理という武器を手に戦っていた。
神楽坂は俺の言葉に、初めて感情の揺らぎを見せた。
その無表情な瞳の奥に、一瞬だけ深い苦悩の色が浮かんだのを俺は見逃さなかった。
彼は何かを言いかけて、しかしやめてしまった。
そして代わりに、俺たちに宣告した。
「……いいだろう。なら、君たちのそのおめでたい理想論が、どこまで通用するか見せてもらおうか」
彼は冷たく言い放った。
「タイムリミットは明日一日。それまでに君たちがその絵描きの心を『救済』できなかった場合、僕が僕のやり方で彼女の未練を終わらせる。……いいかい?」
それは一方的な最後通牒だった。
俺たちは彼のその挑戦を受けて立つしかなかった。
一人の人間の夢と未来を賭けた、タイムリミット付きの戦いが今、始まろうとしていた。
第4部:未来を描くための、選択
神楽坂が突きつけてきた残酷なタイムリミット。
俺たちに残された時間はわずか二十四時間。その間に長谷部先輩の心を救えなければ、彼女の「絵を描きたい」という心の光は、神楽坂によって永遠に消し去られてしまう。
「どうしよう、落田くん……! 明日までに、なんて無理だよ……!」
見附は完全にパニックになっていた。
俺は彼女の肩を強く掴んだ。
「落ち着け、見附! 諦めるのはまだ早い。方法はあるはずだ。思考を止めるな」
俺は自分の頭をフル回転させた。
必要なのはきっかけだ。彼女がもう一度自分の才能を信じられるようになる、客観的なきっかけ。
コンクールでの落選。それが彼女の心を折った元凶だ。
だとしたら必要なのは、それとは別の評価軸。
誰か一人でもいい。彼女の絵を心から評価し、必要としている人間の存在。
それを示すことができれば……。
俺は一つの可能性に思い至った。
「……玲奈、頼みがある」
俺はスマートフォンを取り出し、玲奈に電話をかけた。
「文化祭のパンフレット、その表紙のイラストを描いたのは誰だ?」
玲奈からの答えは俺の仮説を裏付けるものだった。
今年の文化祭のパンフレットの表紙。その美しい星空のイラストを描いたのは、他ならぬ長谷部望、その人だったのだ。
俺はすぐに生徒会室へと向かった。
生徒会の役員に事情を話し、パンフレットの原画を見せてもらう。
そこに描かれていたのは息を呑むほど美しく、そして優しい星空だった。俺たちの「星空カフェ」のコンセプトとも奇跡的にリンクしていた。
そして、俺はその絵の隅に小さなサインが書かれているのを見つけた。
『N.H』
長谷部望。間違いない。
だが重要なのはそこではなかった。
生徒会の役員が言った。
「ああ、この絵ね。すごく評判が良かったんですよ。特に、文化祭に来ていた外部のお客さんから問い合わせが何件もあって」
「問い合わせ?」
「ええ。『この絵を描いた生徒さんに、ぜひうちの店のポスターを描いてほしい』って。駅前の小さな雑貨屋の店長さんなんですけどね。すごく熱心で」
……あった。
これだ。
これこそが彼女の心を救うための、最後のピースだ。
俺はすぐにその雑貨屋へと向かった。
店長の女性に事情を話すと、彼女は喜んで俺に一枚の便箋を託してくれた。そこには長谷部先輩の絵に対する賞賛の言葉と、そして「もしよろしければ、ぜひ一度お話を」という真摯な依頼の言葉が綴られていた。
俺はその手紙を握りしめ、学校へと引き返した。
見附と玲奈が心配そうな顔で俺を待っていた。
俺は二人にこれまでの経緯を説明した。
「……すごい、落田くん……! よく見つけたね!」
「あとは、どうやってこれを彼女に届けるかだ」
正面から渡すのは駄目だ。それは同情に見えてしまう。
あくまでさりげなく。彼女自身が自分の意志で再び立ち上がるきっかけを作るだけだ。
俺たちは翌日の早朝、まだ誰もいない学校に忍び込んだ。
そして長谷部先輩の下駄箱に、そっと例のスケッチブックを戻した。その最初のページに、雑貨屋の店長からの手紙を挟んで。
すべては準備された偶然。だが、その偶然を掴むかどうかは彼女自身の選択だ。
俺たちは少し離れた物陰から、登校してくる長谷部先輩の姿を見守っていた。
彼女はどこか浮かない顔で自分の下駄箱を開ける。そして、そこにあるはずのないスケッチブックを見つけ、驚いたように目を見開いた。
彼女はおそるおそるそれを手に取り、そして挟まれていた手紙に気づく。
手紙を読む彼女の表情が、みるみるうちに変わっていく。
驚き、困惑、そしてその瞳にゆっくりと涙が滲んでいく。
その瞬間だった。
見附が俺の腕を掴んだ。
「……落田くん……!」
彼女には見えていた。
長谷部先輩の胸のあたりから放たれる、あの淡く消えかけていた水色の光。
それがまるで凍てついた大地に春が訪れたかのように、ゆっくりと、しかし確かにその輝きを取り戻していくのを。
光はまだ弱々しい。だが、その中心に確かな熱を帯びた金色の光が灯り始めていた。
それは絶望の淵から再び立ち上がろうとする、人間の意志の光だった。
俺たちはもうそれ以上見ている必要はなかった。
俺たちの勝利だ。いや、彼女自身が勝ち取った、未来への第一歩だ。
その日の放課後。
俺たちは屋上で三人、夕焼けを眺めていた。
もうそこには神楽坂悠人の姿はなかった。彼がこの結果をどう受け止めたのか、それは分からない。
だが、俺たちは俺たちのやり方で一つの心を救うことができた。その事実だけで十分だった。
俺は自分の胸に手を当て、この夏からの出来事を反芻していた。
あの「進路希望調査」の用紙。俺たち三人は、それぞれの答えを、とうの昔に提出している。
玲奈は「法学部」。千明は「人の役に立ちたい」という漠然とした想いから「公務員」。そして俺は、まだ迷いながらも、ひとまず「理学部」と書いた。
あの時は、ただの記号でしかなかったその言葉たちが、今、俺の中で、全く違う重みと意味を持って響いていた。
「俺が書いた『理学部』っていう選択は、間違ってなかったかもしれない」
俺は、夕焼け空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「千明。お前のその能力は、俺が人生をかけて探究するに値する、最も深遠な謎だ。科学と心、その境界で何が起きているのか、俺はこの目で突き止めたい。それが、俺の進むべき道だ」
俺の決意表明に、隣にいた見附は、驚いたように目を見開いた。そして、すぐに、嬉しそうに微笑んだ。
「そっか。落田くんらしいね」
彼女もまた、自分の胸に手を当てた。
「私も、あの用紙に書いた『公務員』っていう夢、今なら、もっとはっきり言えるよ。私は、この力で、一人でも多くの人の『大切』を守りたい。光が消える悲しみを、少しでも減らしたい。そのための、プロになる。それが、私の道だから」
それぞれの道。
提出した用紙に書いた言葉は同じでも、その奥にある覚悟の深さが、夏の前とはまるで違っていた。
俺たちは顔を見合わせ、静かに頷いた。
違う道かもしれない。だが、その先で必ず交わる、運命の道だ。
木枯らしが俺たちの頬を撫でていく。
長く厳しい冬が、もうすぐそこまで来ていた。
だが、俺たちの心は、これから始まる新しい物語への期待で、熱く燃えていた。




