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光る落とし物は、鈍感な君の心を照らさない。  作者: あかはる


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高1・10月:星祭りの影と、未練の観測者

第1部:祭りの前夜、星々の下で

十月。金木犀の甘い香りが、通学路の空気を満たし始めた。夏の残滓は完全に姿を消し、高く澄み渡った空は、来るべき文化祭の成功を約束しているかのように、どこまでも青かった。

校内は、一種の熱病に浮かされていた。廊下を歩けば、ペンキの匂いと、槌音と、そして、生徒たちの楽しげな笑い声が、渾然一体となって耳に流れ込んでくる。誰もが、年に一度の祝祭に向けて、最後の追い込みをかけていた。

俺たちのクラス、一年三組が企画した「星空カフェ」の準備も、いよいよ大詰めを迎えていた。

教室は、その原型を留めていない。窓は、何重にも重ねられた暗幕で覆われ、外界の光を完全に遮断している。天井には、無数の小さな穴を開けた黒い画用紙が吊るされ、その裏には、複雑に配線されたLEDの豆電球が仕込まれていた。床には、濃紺のカーペットが敷き詰められ、机と椅子は、カフェ仕様の洒落たものに替えられている。そこは、もはや、いつもの見慣れた教室ではなく、静寂と、期待に満ちた、小さな宇宙空間だった。

「落田くん、プロジェクターの調子、どう?」

背後から、ぱたぱたと軽い足音と共に、聞き慣れた声がした。振り返ると、そこには、Tシャツの袖をまくり、頬に少しだけ塗料をつけた見附千明が立っていた。

「問題ない。恒星のまたたきを再現するために、0.2秒周期のランダムな明滅プログラムを組んだ。惑星の軌道計算も、ほぼ、正確なはずだ」

俺は、自作のプラネタリウム用プロジェクター――といっても、強力なLEDライトと、いくつものレンズを組み合わせただけの簡素なものだが――の最終調整をしながら、答えた。

「わー、すごい! さすがだね、落田くん!」

見附は、心底、感心したように、目を輝かせた。その、あまりにも純粋な賞賛の言葉に、俺は、少しだけ、むず痒いような気持ちになり、咳払いで誤魔化した。

「そっちは、どうなんだ。装飾は、終わりそうか」

「うん、バッチリだよ! 見て見て、テーブルに置く、LEDキャンドル。これ、私が一個一個、和紙を貼って、リメイクしたんだ」

彼女が、嬉しそうに見せてくれたのは、小さな蝋燭型のライトだった。和紙を通した光は、柔らかく、そして、温かい。この、星空カフェの、ささやかな主役になるであろう、小さな光たちだ。

ふと、教室の入り口に目をやると、腕を組んだ雨宮玲奈が、壁に寄りかかって、俺たちの様子を眺めていた。その表情は、以前のような、棘のあるものではなく、どこか、穏やかで、そして、楽しげですらあった。

九月の一件以来、俺たち三人の関係は、劇的に変化した。玲奈は、もう、俺を敵視してはいない。それどころか、時々、的確なツッコミを入れながら、俺と見附の、この、ぎこちない関係を、面白がっている節さえあった。彼女は、千明の「保護者」から、俺たち二人の、最も、信頼できる「理解者」へと、その立ち位置を変えたのだ。

「あら、二人とも、仲がよろしいことで」

玲奈が、からかうような口調でこちらにやってくる。

「別に。業務連絡だ」

「はいはい。まあ、あんたたちの、その、ちまちましたやり取りのおかげで、準備が捗ってるなら、総責任者としては、文句はないけどね」

その日の放課後。

クラスの大部分の生徒が帰り、喧騒が去った教室で、俺たち三人は、最後の仕上げ作業に取り掛かっていた。

「よし、じゃあ、点灯式、行ってみようか」

玲奈の、その言葉を合図に、俺は、教室の照明のスイッチを、すべて、オフにした。

訪れる、完全な、静寂と、闇。

一瞬の後。

俺が、プロジェクターのスイッチを入れると、天井に満天の星が咲き誇った。

「「うわぁ……」」

見附と玲奈の、感嘆の声が、静かに響いた。

俺がプログラミングした通り、星々は、ランダムに、そして、リアルに、またたいている。天の川が、淡い光の帯となって、教室を横切り、ゆっくりと、回転している。見附が作った、テーブルの上のLEDキャンドルも、点灯され、まるで、地上に舞い降りた、小さな星々のように、温かい光を放っていた。

そこは、まさに、宇宙だった。

俺たちが、この一ヶ月、力を合わせて、作り上げてきた、手作りの、小さな、小さな、宇宙。

俺たちは、言葉もなく、ただ、その光景に、見入っていた。

隣に立つ、見附の、息遣いが、聞こえる。彼女の、その横顔が、星々の、淡い光に照らされて、幻想的に、浮かび上がっている。

彼女が、ふと、こちらを見た。

目が、合う。

闇の中で、俺たちは、お互いの瞳の中に、小さな星が、きらめいているのを、確かに、見た。

その、永遠のようにも、一瞬のようにも感じられる、沈黙。

それを破ったのは、玲奈の、わざとらしい、咳払いだった。

「……ま、まあ、悪くないんじゃないの。これなら、お客さん、呼べるでしょ」

彼女は、少しだけ、照れくさそうに、そう言った。

その、穏やかで、満ち足りた空気は、まるで、嵐の前の、静けさのようだと、この時の俺たちはまだ知る由もなかった。

すべての作業を終え、俺たちが、校舎の鍵を、警備員室に返しに行った帰り道だった。

すっかり、夜の帳が下りた校庭を、三人で並んで歩く。

肌寒い、秋の夜風が心地よかった。

「あ……」

不意に、見附が足を止めた。

その視線は、校門のすぐ脇の、植え込みに注がれている。

「どうした」

「……光。見える」

その声は、いつもと少しだけ違っていた。

どこか不安げで、そして、戸惑っているような響き。

「でも……なんだろう、この光」

彼女が、言う。

「すごく、冷たい感じがする。今まで見た、どんな光とも違う。鋭くて、まるで、ガラスの破片みたいに、キラキラしてる。そして……すごく、寂しい感じがする」

俺と玲奈は、顔を見合わせた。

見附の、その、ただならぬ様子に、俺たちの心にも小さなさざ波が立った。

俺は、彼女が指し示す植え込みに、近づいた。

スマートフォンのライトで、足元を照らすと、そこには、一枚の、プラスチックカードが落ちていた。

拾い上げて、確認する。

それは、他校の、男子生徒の、学生証だった。

写真には、整った、しかし、どこか、影のある、無表情な少年が写っている。

その、あまりにも、感情の読めない瞳が、俺の、心の、何かを、ざわつかせた。

名前の欄には、こう記されていた。

神楽坂かぐらざか 悠人ゆうと

「どうする、これ。交番に、届ける?」

玲奈が、尋ねた。

「いや……」

俺は、首を横に振った。

「文化祭には、他校の生徒も、大勢、来る。もしかしたら、明日、本人が、探しに来るかもしれない。俺たちの、カフェの受付で、預かっておこう。その方が、確実だ」

それが、最も、合理的な判断だと、思った。

俺は、その学生証を、ポケットにしまい、何事もなかったかのように、再び、歩き出した。

だが、俺の背後で、見附が、まだ、その場を、動かずに、植え込みのあった場所を、じっと、見つめているのに、俺は、気づいていた。

彼女の、その、不安げな横顔。

そして、俺のポケットの中で、冷たい感触を伝える、一枚の学生証。

それが、これから始まる、俺たちの、平穏な日常を、根底から、揺るがすことになる、嵐の、最初の、一滴であったことを。

俺たちは、まだ、誰も、知らなかった。

第2部:祭りの日、邂逅する観測者

文化祭、当日。

学校は、前夜の静けさが、嘘のような、熱気と、喧騒に、包まれていた。

色とりどりの、クラスTシャツを着た生徒たちが、廊下を駆け回り、中庭のステージからは、軽音楽部の、けたたましい演奏が、鳴り響いている。模擬店の、ソースの焼ける、香ばしい匂いと、生徒たちの、高揚した声が、混じり合い、年に一度の、特別な空間を、作り上げていた。

俺たちの「星空カフェ」は、予想を遥かに超える、大盛況だった。

『静かで、落ち着ける』『ロマンチックで、デートにぴったり』という、口コミが、瞬く間に、広まり、教室の前には、開場と同時に、長蛇の列ができていた。

「すみません、ただいま、三十分待ちとなっておりまーす!」

玲奈が、総責任者として、完璧な仕切りで、客をさばいている。その表情は、生き生きとしており、心の底から、この状況を、楽しんでいるのが、分かった。

俺は、舞台裏で、プロジェクターの、微調整や、BGMの管理に、徹していた。

そして見附は、このカフェの、まさに太陽として、輝いていた。

「いらっしゃいませー!」

彼女の、その一点の曇りもない笑顔と、細やかな気配りは、客の心を鷲掴みにした。彼女がテーブルにドリンクを運ぶたびに、そこだけ、空気が華やぐようだった。

俺は暗い舞台裏から、そんな彼女の姿を眺めながら、この手作りの宇宙が、彼女のためにこそあるべき場所だと、感じていた。

昼過ぎ。交代で、休憩を取ることになり、俺たち三人は、久しぶりに、外の空気を吸いに、校舎の外へ出た。

「いやー、すごいね! お客さん、途切れないよ!」

見附が、興奮した様子で、言う。

「当たり前でしょ。誰が、計画したと思ってるのよ」

玲奈が、得意げに、胸を張る。

その、軽口を、叩き合う二人を眺めながら、俺は模擬店で買った焼きそばを、黙々と口に運んでいた。

「あ、落田くん、それ、一口ちょうだい」

見附が俺の焼きそばのパックを、覗き込んでくる。

俺が何も言わずに、パックを差し出すと、彼女は嬉しそうに、一口、頬張った。

「んー、おいしー!」

そのあまりにも無防備な距離感。

俺は、心臓がまた余計な音を立てるのを自覚し、慌てて彼女から視線を逸らした。

そんな俺たちの様子を玲奈が、やれやれ、とでも言うように、生暖かい目で見ている。

この、穏やかで、満ち足りた時間。

それが、永遠に、続けばいいと、柄にもなく、そう、願ってしまった。

俺たちが、カフェに戻ると、客足は少しだけ、落ち着いていた。

俺は舞台裏の、自分の持ち場に戻り、見附と玲奈は、再び、接客と会計の仕事に戻っていった。

すべてが、順調だった。

その男が現れるまでは。

彼は、一人でカフェにやってきた。

長身で、線の細い、整った顔立ち。服装は、俺たちとは違う、他校の制服。

だが、彼の、その、異質さは、外見だけではなかった。

彼は、周りの客のように、天井の星空に、感嘆の声を上げるでもなく、ただ静かに、店内を見渡していた。

その視線は、星々ではなく、そこにいる、人々一人一人の内面を探るかのように、鋭く、そして、どこか冷ややかだった。

俺は、その異様な雰囲気に、無意識のうちに、警戒心を抱いた。

そして、気づいた。

彼こそが、昨夜俺が拾った、あの学生証の持ち主。

神楽坂 悠人、その人だった。

彼はやがて、店の中心で客の案内をしていた、見附の元へ、ゆっくりと歩み寄っていった。

俺は、舞台裏から、固唾を飲んで、その様子を、見守っていた。

彼は、学生証のことを、切り出すのだろうか。

だが、彼の口から、発せられた言葉は、俺の予想を完全に、裏切るものだった。

「……君も、見えるんだね」

その声は、静かで、穏やかだったが、有無を言わさぬ確信に満ちていた。

「この薄暗い空間に渦巻いている、たくさんの澱んだ光が」

見附の、笑顔が、凍りついた。

彼女の大きな瞳が、信じられないものを見るように、大きく、見開かれる。

俺もまたその言葉に、全身の血が逆流するような衝撃を受けた。

こいつ、まさか。

見附と、同じ能力者だとでも言うのか。

神楽坂は、続けた。

彼は、カフェの隅で、楽しそうに談笑している、一組のカップルを顎で示した。

「……見てごらん。あの二人が、お揃いで、カバンにつけている、ストラップ。そこから、強い光が、放たれているのが、見えるだろう?」

俺の目には、もちろん、何も見えない。

だが、見附の、その青ざめた表情が、彼の言葉が、真実であることを物語っていた。

「でもね」

神楽坂は、残酷なほど、優しい声で、言った。

「あれは、君が思うような、『執着』という名の、温かい光じゃない。あれは、『未練』だよ。過去に、縛り付けられ、未来の、可能性を、奪い去る呪いの光だ。いずれ、あの二人を、不幸にする、ただの、重い鎖に過ぎない」

未練。

鎖。

その、あまりにも、ネガティブな単語。

見附は、か細い声で反論した。

「……ち、違う……! あれは、二人が、お互いを、大切に、思ってるっていう、証の光だよ……!」

「本当に、そうかな?」

神楽坂は、悲しげに、微笑んだ。

「君の、そのお人好しな善意は、時に人を傷つける。君が良かれと思って返すその『落とし物』は、本当に、その人の未来にとって、必要なものなのかな? むしろ、君は過去という名の、呪いを、わざわざその人の元へ届け直している、ただの残酷な配達人なのかもしれないよ」

その言葉は、鋭い刃物となって、見附の信念の、最も柔らかな部分を、深く、深く、えぐり取った。

彼女の顔から、血の気が、引いていく。

そのあまりにも一方的な断罪。

俺はもう黙って見てはいられなかった。

「……待て」

俺は舞台裏から飛び出し、見附を庇うように神楽坂の前に立ちはだかった。

「……君は?」

神楽坂が初めて、俺の方を見て、訝しげに、眉をひそめた。

「お前の、その主張は、証明不可能な、前提に基づいている」

俺は、冷静に、しかし、強い、怒りを込めて言った。

「お前は恣意的に、『執着』という、中立的な感情を、『未練』というネガティブな言葉にすり替えている。その根拠は何だ? お前の個人的な主観か? それを他人に押し付ける権利が、どこにある」

俺の論理的な反論に、神楽坂は、少しだけ驚いたように目を見開いた。

そして、次の瞬間。

彼は、ふっと、面白そうに、口元を、緩めた。

「……なるほど。君は、彼女の、騎士ナイトというわけか。面白いな。見えないブラインドが、見えるシーアーを守ろうとする、その構図は」

その見下したような、物言い。

俺の怒りのボルテージが、さらに跳ね上がる。

だが彼は、もはや俺と議論を続ける気はないようだった。

彼は、受付カウンターの方へ、歩いていくと、そこに置かれていた、自分の学生証を、ひょいと、つまみ上げた。

「これは、君たちが、拾ってくれたのかな。だとしたら、礼を言うよ」

彼は、俺たちの方を振り返ると、学生証をひらひらと振って見せた。

その無表情な瞳が、最後にもう一度、見附を射抜いた。

「……覚えておくといい」

彼は静かな、しかし、心の奥底まで凍りつかせるような声で言った。

「その無垢な優しさは、いずれ君自身を滅ぼすことになる。忘れないで」

それだけを言い残すと、彼はくるりと背を向け、カフェの出口へと向かっていった。

暗幕の隙間から、外の眩しい光が差し込み、彼のシルエットを黒く縁取る。

そして彼は、光の中に溶け込むように、消えていった。

残されたのは、圧倒的な静寂と、そして見附の信念の土台に、深く打ち込まれた疑念という名の楔だった。

彼女は、その場に立ち尽くしたまま、小さく震えていた。

文化祭の喧騒が、まるで遠い異世界の出来事のように聞こえていた。

はい、承知いたしました。

ご指摘いただいた箇所について、読点の打ち方を見直し、より自然で読みやすい文章に修正いたします。物語の内容や展開は維持したまま、表現を調整します。「第3部」から書き直します。

高1・10月:星祭りの影と、未練の観測者 (修正版)

第3部:揺らぐ信念と、能力の実証

神楽坂悠人が嵐のように去っていった後、俺たちの手作りの宇宙には彼の言葉が毒の霧のように漂い続けていた。

見附は完全に意気消沈していた。あれほど輝いていた太陽のような笑顔は完全に雲に隠れ、その表情は不安と疑念に深く沈んでいる。

「……私、間違ってたのかな」

休憩中、誰もいない準備室で彼女はぽつりと呟いた。その声はあまりにも弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。

「私、今まで良かれと思ってやってきたけど……。本当は、あの人の言う通り余計なお世話だったのかもしれない。みんなの前に進む邪魔をしてただけなのかも……」

膝を抱えてうずくまる彼女の姿は、見ていられないほど痛々しかった。

俺は隣に座り、言葉を探した。

「……奴の主張はただの詭弁だ」

俺はできるだけ冷静な声を作って言った。

「何の裏付けもない、ただの個人的な哲学に過ぎない。そんなものにお前が揺さぶられる必要はない」

「でも……!」

彼女は顔を上げた。その大きな瞳は涙で潤んでいる。

「あの人、見えてた。私と同じものが。だとしたら、あの人の言うことの方が正しいのかもしれないじゃない……!」

その悲痛な叫び。それは彼女が初めて出会った「同類」からの全否定。その衝撃がどれほどのものか、俺には想像することしかできない。

「……千明」

不意に、部屋の入り口から静かな声がした。

玲奈だった。彼女は俺たちの様子を心配そうに見守っていた。彼女は中に入ってくると、千明の隣にそっと腰を下ろす。

「あんたは間違ってないわ」

玲奈はきっぱりと言った。

「少なくとも、私はあんたに救われた。あんたが私の『落とし物』を見つけてくれなかったら、私は今でも一人であの暗い場所に閉じこもってたはずよ」

その言葉は何よりも強い説得力を持っていた。

見附ははっとしたように玲奈の顔を見つめた。

俺は続けた。

「そうだ。奴の主張は仮説に過ぎない。だが、俺たちの目の前には実証されたデータがある。雨宮の一件がそうだ。お前がきっかけを作ったことで、彼女は前に進むことができた。これは否定しようのない事実だ」

俺は観測ノートを開いた。

「神楽坂の言うことは一つの極端なデータポイントに過ぎない。お前が今まで積み重ねてきた数多くの『感謝された』という事実、その全体の傾向を覆すほどの力はない。統計的に見ても、お前の行動はポジティブな結果をもたらしている確率の方が圧倒的に高い」

俺の理屈っぽい慰めと、玲奈の実体験に基づいた励まし。その二つの言葉に、見附の揺らいでいた瞳に少しずつ光が戻り始めていた。

「……玲奈……落田くん……」

だが、彼女の心の奥底に突き刺さった疑念の棘は、まだ完全には抜けきってはいなかった。

その棘を引き抜くためには、もっと強力な何かが必要だった。

そして、その「何か」は、俺たちが最も望まない形で訪れることになった。

文化祭二日目。

千明の心の傷はまだ癒えていなかったが、彼女はプロとして無理に笑顔を作り、接客をこなしていた。だが、その笑顔がどこかぎこちないことを、俺と玲奈は気づいていた。

昼過ぎ。教室の前が急に騒がしくなった。

「うおおお! 無えええええ! 俺のドリームチケットがァァァ!」

その聞き覚えのある絶叫。佐々木翼だった。

彼はクラスTシャツのポケットやズボンのポケットを何度もひっくり返しながら、半狂乱になっている。

「どうしたの、翼」

玲奈が呆れたように尋ねた。

「チケットだよ! 今日の後夜祭のメインステージでやるスペシャルライブの! 超楽しみにしてたのに、どこにもねえんだよ!」

それは彼にとって、まさに「今、この瞬間」における世界のすべてだったのだろう。そのあまりにも切実な叫び。

見附の体がびくりと震えた。

彼女はおそるおそる、翼の方へと視線を向けた。そして、見てしまったのだ。

翼の胸のあたりから放たれる、強烈な光を。

それは今までで一番明るく、そして純粋な、彼の「今」への執着の光だった。黄色く激しく点滅する、パニックの光。

これは絶好の機会だった。神楽坂の主張が正しいのかどうか、それを実証するための完璧なテストケースだ。

見附はごくりと唾を飲んだ。そして、意を決したように翼の元へ歩み寄ろうとした。

その、瞬間だった。

「……やあ。また会ったね」

悪夢が再び現実となって、俺たちの前に現れた。

神楽坂悠人が、昨日と全く同じ静かな、しかし不気味な威圧感を漂わせてそこに立っていた。

「……あなた……!」

見附が警戒心を剥き出しにして彼を睨みつけた。

神楽坂はそんな彼女の視線を意にも介さず、パニックになっている翼を値踏みするように眺めた。

「……なるほど。分かりやすい執着の光だ。あれだけ純粋な欲望の光は珍しい。だが、それ故に彼は今、ひどく苦しんでいる」

彼はまるで医者が患者を診断するかのように、冷静に分析した。

そして、彼は見附に向かって微笑んだ。

「……見ていなよ。僕のやり方を見せてあげる」

その言葉と同時に、神楽坂は翼が騒いでいる方向へとその冷たい視線を向けた。そして、ゆっくりと目を閉じる。その横顔は、まるで祈りを捧げている聖者のようでもあり、あるいは呪いをかけている黒魔術師のようでもあった。

次の瞬間、見附が息を呑んだ。

「あ……!」

彼女の視線の先、翼の胸から放たれていたあの強烈な光が、まるで風に吹き消される蝋燭の炎のように、急速に揺らぎ、そしてその輝きを失っていく。それはお守りの時のような、ゆっくりとした悲しい減衰ではなかった。誰かの明確な意志によって、強制的にその存在を消されていく、暴力的な消失だった。

「やめて……!」

見附が叫んだ。だが、もう遅かった。

ほんの数秒の間に、翼のあのまばゆいほどの光は完全に沈黙した。まるで最初からそんなものは存在しなかったかのように。

そして、その光の消失と全く同じタイミングで、あれほど半狂乱になっていた佐々木翼の動きがぴたりと止まった。

彼は数秒間きょとんとした顔で宙を見つめていたが、やがて不思議そうに首を傾げた。

「……あれ?」

彼は頭をぽりぽりと掻いた。

「……まあ、いっか。ライブより、あっちのケバブの方が美味そうだしな! よーし、食うぞー!」

彼はまるで何事もなかったかのようにケロッとした顔でそう言うと、鼻歌交じりで模擬店の方へと歩き去っていった。

彼の心の中から、「ライブに行きたい」という執着が完全に消え去ってしまったのだ。

後に残されたのは、圧倒的な静寂と、そして戦慄だった。

神楽坂はゆっくりと目を開けた。そして、呆然と立ち尽くしている見附に向かって静かに告げた。

「……これが、『救済』だよ」

彼の無表情な瞳には何の感情も浮かんでいなかった。

「彼はもう、失くした物のことで苦しまない。過去の執着から解放されて、未来へと歩き出した。僕のやり方の方が、合理的で、そして優しいと思わないかい?」

その言葉は悪魔の囁きのように響いた。

見附は何も言い返せなかった。彼女はただその場に立ち尽くし、わなわなと唇を震わせているだけだった。

彼女の信念、彼女の優しさ、彼女のすべてが、今、目の前で木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。

俺は怒りで頭が沸騰しそうになるのを必死で堪えていた。

これは救済などではない。ただの暴力だ。佐々木翼という人間の自由意志に対する、許されざる介入だ。

俺は神楽坂に掴みかかろうとして、しかし隣にいた玲奈に腕を強く掴まれて制止された。彼女は無言で首を横に振っていた。今は駄目だ、と。

神楽坂はそんな俺たちを一瞥すると、興味を失ったように踵を返した。

その去り際に、彼はもう一度だけ見附に向かって言った。

「君のその力は、あまりにも不完全で、そして危険だ。いつか君は、取り返しのつかない過ちを犯すことになるだろう。その前に、気づけるといいね」

彼は雑踏の中に消えていった。

後に残されたのは、自分の無力さに打ちひしがれる一人の少女と、そしてどうすることもできずに、ただその傷ついた背中を見守ることしかできない俺たち二人だけだった。

第4部:星空の下の誓い

文化祭の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。

後夜祭のキャンプファイヤーの準備が進むグラウンドの賑わいを背中に聞きながら、俺たちは三人、黙ってあの教室へと戻っていた。俺たちの手作りの宇宙、「星空カフェ」へと。

すべての営業を終え、客が一人もいなくなったその場所は、静かで、そしてどこまでも優しかった。

天井には俺が作った星々が変わらずにまたたいている。テーブルの上のLEDキャンドルも、まだその温かい光を灯し続けていた。

見附は一番奥の席にぽつんと一人で座り、膝を抱えて俯いていた。その小さな背中は、今にも崩れてしまいそうなくらい頼りなく見えた。

神楽坂のあの圧倒的な能力の実証。そして「救済」という名の下に行われた、翼の心の強制的な上書き。その二つの出来事は、彼女の心を完全に折ってしまっていた。

俺と玲奈は、そんな彼女の少し離れた場所に立ったまま、かけるべき言葉を見つけられずにいた。

何を言えばいい?

「気にするな」とでも言うのか?

「お前は間違ってない」とでも言うのか?

どんな言葉も、今の彼女の前では空虚で無力なものに思えた。

沈黙を破ったのは玲奈だった。

彼女は静かに千明の隣の席に腰を下ろした。

「……確かに、佐々木は楽になったのかもしれないわね」

玲奈は天井の星を見上げながらぽつりと呟いた。

「失くしたチケットのことで、もう悩まなくて済むんだから。あの神楽坂とかいう男の言う通り、ある意味では『救済』なのかもしれない」

その言葉に千明の肩がびくりと震えた。

俺は玲奈が何を言うつもりなのかと息を呑んだ。

「でもね」

玲奈は続けた。

「あいつはチケットを失くしただけじゃない。あいつは、あのライブをずっとずっと楽しみにしてた『時間』も、一緒に失くしたんじゃないかしら」

その静かな問いかけ。

千明がゆっくりと顔を上げた。

「ライブに行くためにお小遣いを貯めてた時間。友達とどの曲を歌うかなって予想してた時間。今日の後夜祭を指折り数えて待ってた、そのキラキラした時間。あの男は、チケットへの執着と一緒に、そのかけがえのない思い出や期待、そのすべてを消し去ってしまった。……未練を消すってそういうことよ。思い出を消すことと同じ。後に残るのは、楽になったっていう感情なんかじゃない。ただ、心が空っぽになるだけじゃないかしら」

玲奈のその言葉は、誰よりも彼女自身の心の痛みを知っているからこそ重みを持っていた。

彼女は自分の過去の過ちという「未練」に、十年近くも縛られてきた。だが、その苦しい時間があったからこそ今の彼女がいる。もし、あの男が彼女のその罪悪感を消し去ってしまったとしたら、彼女は楽にはなれただろう。だが同時に、今の優しさと強さを手に入れることもなかったはずだ。

俺は玲那の言葉を引き継ぐように口を開いた。観測ノートを開く。そこには俺なりの神楽坂に対する分析が記されている。

「神楽坂のやり方は、人の感情の状態を強制的に上書きするハッキングのようなものだ。それは明確な意思の侵害行為だ。許されるべきじゃない」

俺は千明の目を真っ直ぐに見て言った。

「だが、お前のやり方は違う。お前は、持ち主に『選択肢』を返しているんだ」

「……選択肢?」

「そうだ。落とし物を返す。それを受け取った持ち主がどうするかは、持ち主自身の自由だ。再びそれを大切にするという選択。あるいは、それを見て過去に区切りをつけて、自分の意志で前に進むという選択。お前は誰の心も操作していない。ただ、失われた可能性を元の場所へ戻しているだけだ。お前のやっていることは幸福の強制じゃない。可能性の修復だ」

俺の論理。

玲奈の感情。

二つの異なる視点から紡ぎ出された言葉。それがゆっくりと、千明の凍りついた心に染み渡っていく。

彼女の瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。それは悲しみや無力感の涙ではなかった。

「……そっか」

彼女は涙を拭いもせず微笑んだ。その泣き顔は、今まで見たどんな笑顔よりも美しく、そして力強かった。

「……私、間違ってなかったんだ……。私、これからも、光を探しても、いいんだ……」

そうだ。

それでいいんだ。

俺は心の中で強く頷いた。

その時だった。

遠くから、わあ、という大きな歓声が聞こえてきた。後夜祭のキャンプファイヤーに火が灯されたのだ。

窓の暗幕の隙間から、燃え盛る炎の赤い光が差し込み、俺たちの星空を淡く照らし出した。

俺たちは三人、黙って立ち上がった。そして自然と窓のそばへと寄り添い、遠い炎を眺めた。

神楽坂悠人との戦いは、まだ始まったばかりだ。あいつはきっと、また俺たちの前に現れるだろう。その歪んだ正義を振りかざして。

だが、もう千明は一人じゃない。

彼女の隣には、彼女の心を誰よりも理解する親友がいる。

そして、彼女のもう一方の隣には、彼女の進むべき道を論理の光で照らし出す、不器用な羅針盤がいる。

千明がそっと俺の服の袖を握った。

俺は何も言わずに、その小さな手をそっと握り返した。その手の温かさが、俺たちの決意の証だった。

俺たちはこれからも光を探し続ける。人の心に灯る、か弱く、しかし尊い執着という名の光を。それを踏みにじろうとするどんな影からも、守り抜いてみせる。

俺は千明の横顔を盗み見た。彼女の瞳の中には、キャンプファイヤーの赤い炎が揺らめいていた。

そして、俺には見えないけれど、きっと彼女には見えているはずだ。俺の胸の奥で、彼女への想いと共に強く、そして温かく燃え盛る、心の光が。

星祭りの夜は終わる。

そして、俺たちの本当の戦いが、今、始まろうとしていた。

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