高1・9月:自己嫌悪の光と論理的な解釈者
第1部:新学期と微細な断層
九月一日。季節の境界線であるその日付は、まるでスイッチを切り替えるかのように、世界の空気を変えた。あれほど猛威をふるっていた太陽は心なしか勢いを弱め、風は湿った熱の代わりに、乾いた秋の匂いを運び始めた。四十日間のモラトリアムは終わりを告げ、俺たちの日常は、再び学校という名の秩序の中へと回帰する。
教室の扉を開けると、夏休みを経てわずかに成長したクラスメイトたちの喧騒が、俺、落田心一を包み込んだ。日焼けした肌、変わった髪型、そして、どこか大人びた表情。誰もが、それぞれの夏を越えて、ここにいる。俺もまた、この夏、大きな変化を経験した。それは、外見ではなく、世界の認識に関わる、根源的な変化だ。
自分の席に着き、カバンを置く。窓の外では、まだ夏のなごりを惜しむかのように、数匹の蝉が最後の力を振り絞って鳴いていた。その声を聞きながら、俺は、無意識のうちに、ある特定の人物の姿を探していた。
やがて、教室の後ろの扉が開き、彼女は現れた。
「おはよー!」
太陽をそのまま凝縮したような笑顔。日差しを浴びて、少しだけ明るくなった髪をポニーテールに揺らしながら、見附千明は、教室の空気を一瞬で自分の色に染め上げた。友人たちに囲まれ、夏休みの思い出を弾けるような声で語り始める。
その姿は、夏休み前と何も変わらない、いつもの見附千明だった。
だが、俺には、分かっていた。俺と彼女の間には、あの夏を境に、目には見えない、しかし、決定的な断層が生まれてしまったことを。
彼女が、ふと、こちらを見た。
目が、合う。
その瞬間、俺たちの周りだけ、空気が、きしりと音を立てたような気がした。見附は、はっとしたように、わずかに頬を赤らめ、そして、慌てて視線を逸らす。俺もまた、どう反応していいのか分からず、意味もなく、手元の教科書に目を落とした。
心臓が、ドクンと、大きく脈打つ。
夏祭りの夜。掴んだ手の熱さ。提灯の明かりに照らされた、彼女の横顔。脳裏に蘇る記憶が、俺の思考を鈍らせる。
この、ぎこちない空気。それは、俺たち二人だけのものではなかった。
「ねえねえ、あの二人、なんか雰囲気違くない?」
「思った! 夏休み、絶対何かあったって!」
クラスの、特に感覚の鋭い女子たちの囁き声が、俺の耳にも届いてくる。俺は、気づかないふりを貫いたが、背中に突き刺さる好奇の視線が、やけに熱く感じられた。
そうだ。ここは、学校だ。俺たちの関係は、良くも悪くも、常にクラスメイトという名の観客の目に晒される。夏休みという、二人だけの閉じた世界は、もう終わったのだ。
「……おはよう、落田」
不意に、隣の席から、低い声がかかった。視線を上げると、そこには、腕を組んだ雨宮玲奈が、探るような目で俺を見下ろしていた。
「……ああ」
「夏休み、千明が世話になったみたいね」
その言葉には、感謝と、牽制と、そして、わずかな諦めのような響きが混じっていた。
「別に。俺は、俺がしたいことをしただけだ」
「ふん。まあ、あんたのそういうところが、あいつにとっては、居心地がいいのかもしれないわね」
玲奈は、それだけ言うと、自分の席へと戻っていった。だが、その横顔には、まだ、俺に対する完全な信頼とは程遠い、警戒の色が浮かんでいる。彼女は、千明の唯一の保護者として、俺という不確定要素を、値踏みし続けているのだ。
その日の昼休み。
俺たちの、奇妙な「評判」は、早くも学年の一部に広まりつつあった。
「なあ、翼。お前、何か知らねえの? あの落田と見附さんのこと」
佐々木翼が、数人の男子に囲まれて、質問攻めに遭っていた。
「んあ? 心一と千明? あー、あの二人は、名探偵コンビだからな!」
翼は、得意げに胸を張って、そう答えた。
「は? 名探偵?」
「おうよ! 俺の失くした魂を、何度、あいつらに救われたことか。千明の閃きと、心一の推理。まさに、最強のバディってわけよ!」
翼の、あまりにも的を射た(そして、本質からは、絶妙にズレた)説明に、周りの男子たちは、キツネにつままれたような顔をしている。俺は、遠くでそのやり取りを聞きながら、深くため息をついた。面倒なことになりそうだ、と。
だが、その一方で。
翼の言った、「最強のバディ」という言葉が、悪い響きではないと感じている自分も、確かに、いた。
新学期が始まって数日後。俺たちの「バディ」としての能力が、再び、公の場で発揮される機会がやってきた。
放課後、クラスの女子の一人が、半泣きで、自分のロッカーの中をかき回していた。
「どうしよう、ない……。生徒会室に提出する、部費の会計報告書が……」
締め切りは、今日。再発行する時間はない。彼女の顔は、絶望の色に染まっていた。
クラスメイトたちが、「もう一回、よく探してみなよ」「先生に謝りに行くしかないんじゃない?」と、慰めにもならない言葉をかける中。
すっ、と、その輪の中に、見附が入っていった。
「大丈夫だよ。きっと、見つかるから」
彼女の、その根拠のない、しかし、不思議な説得力を持つ声が、場の空気を変える。
そして、彼女の視線が、ちらりと、俺の方へと向けられた。
それは、バディへの、暗黙の合図だった。
俺は、やれやれと肩をすくめ、立ち上がった。
「最後に、その報告書を見たのは、いつ、どこだ?」
俺は、刑事ドラマの聞き込みのように、冷静に質問を始めた。
「え、えーっと……確か、三時間目の休み時間に、この教室で、記入して……」
「その後は?」
「その後は、体育の授業があったから、ロッカーに、カバンと一緒に入れて……あ!」
彼女は、何かを思い出したように、声を上げた。
「体育の後、玲奈に呼ばれて、風紀委員会の手伝いで、資料を、印刷室まで運んだんだった!」
その言葉を聞いた瞬間、見附が、ぱっと顔を輝かせた。
「印刷室だ!」
彼女の目には、もう、光の在り処が見えているのだろう。
俺と見附は、顔を見合わせ、頷くと、同時に教室を飛び出した。
誰もいない、放課後の印刷室。インクと紙の匂いが、静かに満ちている。
見附は、一直線に、巨大な業務用コピー機の、裏の隙間を指さした。
「この奥。すごく、焦ってる色の光が見える!」
俺が、手を伸ばして、その隙間を探る。指先に、一枚の紙が触れた。
引きずり出すと、それは、まさしく、彼女が探していた、会計報告書だった。おそらく、資料を運ぶ際に、カバンから滑り落ちたのだろう。
教室に戻り、報告書を彼女に手渡すと、彼女は、何度も、何度も、俺たちに頭を下げた。
「ありがとう……! 本当に、ありがとう! 見附さん、落田くん!」
クラスメイトたちから、おお、と、感嘆の声が上がる。
「すげえ、まじで探偵みたいだな、お前ら」
翼が、自分のことのように、得意げに胸を張っている。
俺は、その賞賛の声を、どこか遠くに聞きながら、隣に立つ見附の横顔を盗み見た。
彼女は、少しだけ照れくさそうに、しかし、心の底から嬉しそうに、笑っていた。
誰かの「大切」を守れた、という、純粋な喜び。その笑顔が、あまりにも眩しくて、俺は、思わず、目を細めた。
(ああ、そうだ)
俺は、この顔が見たいために、この、面倒で、非合理的な活動に、付き合っているのかもしれない。
そんな、柄にもない感傷が、ふと、胸をよぎった。
そして、千明は、感じていた。
そんな俺の、心臓のあたりから。
いつもの、「オカルトへの未練」の光とは違う、あの、夏祭りの夜に見たのと同じ、穏やかで、温かい光が、放たれているのを。
そして、その光に呼応するように。
彼女自身の、心臓のあたりもまた、ぽっと、温かく、光り始めているのを。
それは、まだ、誰にも見せることのない、二人だけの、秘密の光だった。
第2部:文化祭準備と最初の影
九月も中旬に差し掛かると、学校全体が、どこか浮き足立った空気に包まれ始めた。
文化祭。
その、学生生活における最大級の祝祭に向けて、すべての歯車が、一斉に動き出す時期だ。俺たちのクラスでも、連日、放課後にホームルームが開かれ、今年の出し物について、侃々諤々の議論が交わされていた。
「やっぱり、食べ物系が、一番、盛り上がるって!」
「いや、去年、食中毒寸前の焼きそばを出したクラスがあっただろ。衛生管理が大変すぎる」
「じゃあ、お化け屋敷は? 定番だけど、手堅いぜ」
「うちのクラス、怖いの苦手な女子、多いじゃん」
まとまりのない意見が、教室の中を飛び交う。俺は、そんな非生産的な議論を、腕を組んで、冷ややかに眺めていた。どうせ、最終的には、一番声の大きい奴の意見が通るのだ。それが、集団というものの、非合理的な本質だ。
そんな混沌に、一石を投じたのは、意外な人物だった。
「……提案、があります」
静かに、しかし、凛とした声で、手を挙げたのは、見附だった。
クラスの視線が、一斉に彼女に集まる。
「私、みんなで、『プラネタリウム・カフェ』をやるのは、どうかなって、思います」
プラネタリウム・カフェ。
その、予想外の、そして、どこか詩的な響きを持つ単語に、教室は、一瞬、静まり返った。
「教室を、暗幕で完全に覆って、天井いっぱいに、星空を映し出すの。手作りの、簡単なプロジェクターでいい。テーブルには、小さなLEDキャンドルを置いて……。お客さんには、星空を眺めながら、静かにお茶を飲んでもらうの。素敵だと思わない?」
彼女が、夢見るような表情で語ると、クラスの、特に女子生徒たちの目つきが変わった。
「え、なにそれ、めっちゃ良くない!?」
「インスタ映え、間違いなしじゃん!」
「ロマンチック……!」
場の空気は、一気に、見附の提案へと傾いていった。「光」という、この物語の根幹を成すテーマを、見事に掬い取ったかのような、彼女らしい提案だった。
結局、多数決の結果、俺たちのクラスの出し物は、「星空カフェ」に、正式に決定した。
プロジェクトが決定すれば、次は、役割分担だ。
クラス委員長が、黒板に、チョークで、各係の名前を書き出していく。
『内装・装飾係』『接客・ウェイター係』『広報・デザイン係』『企画・技術係』
「はーい! 私、内装やりたい! 天井に、キラキラの星を、いーっぱい飾り付けたいな!」
見附は、真っ先に、手を挙げた。彼女の快活な性格には、ぴったりの役割だろう。
自然と、彼女の周りには、数人の女子が集まり、内装係のチームが形成されていく。
問題は、俺だった。
どの係にも、興味がない。というか、他人と協力して、何かを成し遂げるという行為自体が、億劫だった。
俺が、黙って傍観していると、不意に、クラス委員長が、こちらを向いた。
「なあ、落田。お前、PCとか、得意だろ? 企画・技術係、やってくれないか。プラネタリウムの、プロジェクターの仕組みを考えたり、BGMを選んだり、結構、重要な役割なんだが」
その提案は、俺にとって、悪くないものだった。一人で、黙々と作業に没頭できる。他人と、必要以上にコミュニケーションを取る必要もなさそうだ。
俺が、「……分かった」と、頷くと、委員長は、ほっとしたように、息をついた。
そして、このプロジェクト全体の、総責任者。その、最も面倒で、骨の折れる役割に、自ら、立候補した人物がいた。
「……総責任者は、私がやります」
手を挙げたのは、雨宮玲奈だった。
その、あまりにも、当然のような立候補に、クラスの誰もが、納得したように頷いた。規律を重んじ、責任感の強い彼女以外に、この大役を任せられる人間は、いなかった。
こうして、俺たちの文化祭準備は、本格的に、その幕を開けた。
玲奈は、総責任者として、完璧な仕事ぶりを発揮した。各係の進捗状況を細かく管理し、的確な指示を出し、予算の計算から、学校側への申請書類の作成まで、すべてを、一人で、完璧にこなしていた。
その姿は、まるで、精密機械のようだった。感情を挟まず、ただ、淡々と、やるべきことを、こなしていく。
だが、その完璧さが、ある日、脆くも、崩れ去る瞬間がやってきた。
それは、内装係が、天井に貼るための、黒い暗幕のサイズを、少しだけ、間違えて発注してしまった、という、ささいなミスがきっかけだった。
「ご、ごめん、玲奈……! 私、測り間違えちゃって……」
ミスをした女子生徒が、涙目で、玲奈に謝罪する。
周りのクラスメイトも、「まあ、ちょっとくらい、しょうがないよ」「今から、買い足しに行こうぜ」と、彼女を庇うように、声をかけた。
誰もが、そうやって、穏便に、事が収まるものだと、思っていた。
だが、玲奈の反応は、俺たちの予想を、遥かに、超えていた。
「……しょうがない、ですって?」
彼女の声は、氷のように、冷たかった。
教室の空気が、一瞬で、凍りつく。
「あなたは、自分が、どれだけ、無責任なことをしたか、分かっているの? この暗幕は、特注品なのよ。今から買い足したって、文化祭当日までに、間に合う保証はどこにもない。あなたの、その、たった一つの、軽率なミスが、クラス全員の努力を、無に帰す可能性があったのよ! ルールと、責任の重さを、もっと、自覚するべきだわ!」
その剣幕は、異常だった。
風紀委員として、校則違反者を取り締まる時の、比ではない。そこには、個人的で、そして、激しい、怒りの感情が、渦巻いていた。
ミスをした女子生徒は、完全に萎縮し、ただ、俯いて、肩を震わせている。周りの生徒たちも、玲奈の、その、あまりにも過剰な剣幕に、何も言えずに、押し黙っていた。
見附が、心配そうに、「玲奈、そんなに怒らなくても……」と、口を挟もうとしたが、玲奈は、それを、鋭い視線で遮った。
「千明は、黙ってて。これは、クラス全体の問題よ」
その、拒絶の言葉。
俺は、その時、見ていた。
玲奈の、その完璧な仮面の下に隠された、深い、深い、苦悩の影を。
やがて、玲奈は、はっとしたように、自分の感情的な言動に気づいたらしかった。
彼女は、一度、固く、目を閉じ、そして、ゆっくりと、息を吐いた。
「……すみません。少し、言い過ぎました。この件の、リカバリーについては、私が、業者と交渉します」
そう、冷静に告げると、彼女は、誰とも視線を合わせずに、足早に、教室を出ていった。
残された教室には、重く、気まずい沈黙だけが、取り残されていた。
俺は、玲奈が去っていった、扉の方を、じっと見つめていた。
あの、完璧な、雨宮玲奈。
彼女の、あの、常軌を逸した、怒り。
それは、一体、どこから来るんだ?
俺の、論理的な思考が、警鐘を鳴らす。
彼女の行動は、合理的ではない。そこには、彼女自身も、コントロールできないほどの、強い感情的な動機が、隠されているはずだ。
そして、その答えを、俺よりも先に、「見て」しまった人物が、すぐ隣にいた。
「……見附?」
俺は、隣に立つ見附の、異様な様子に気づき、声をかけた。
彼女は、顔を、真っ青にして、玲奈が去っていった方向を、ただ、呆然と見つめていた。
その瞳は、何か、信じられないものを、見てしまったかのように、大きく、見開かれている。
「……どうした。気分でも、悪いのか」
「……ううん」
彼女は、か細い声で、首を横に振った。
「……今、見えたの」
「何がだ」
「玲奈の、胸のところに……」
彼女は、そこで、一度、言葉を詰まらせ、そして、震える声で、続けた。
「光が……。落とし物じゃない、光が……。落田くんのとも、違う……。すごく、冷たくて、暗くて、時々、バチって、火花みたいに、点滅する……。まるで、怪我したみたいな、痛々しい、光が……」
それは、彼女が、初めて目にする、「心の光」の、もう一つの側面。
「オカルトへの未練」でも、「淡い恋心」でもない。
人間の、最も、暗く、そして、深い場所から放たれる、負の感情の光。
玲奈の「自己嫌悪の光」。
その、おぞましいほどに、痛々しい光の残像が、千明の心を、そして、俺たちの、これから始まる、新たな「捜査」の始まりを、告げていた。
第3部:心の傷跡を辿る捜査
玲奈の激しい剣幕が残した波紋は、クラスの中に、小さく、しかし、確かな澱となって沈殿していた。文化祭準備の活気ある空気の中に、どこか、ぎこちない遠慮が混じり合う。誰もが、あの完璧な風紀委員長の、心の地雷がどこにあるのか、探りかねていた。
当の玲奈は、翌日から、何事もなかったかのように、完璧な「総責任者」の仮面を被って、再び、俺たちの前に現れた。発注ミスをした暗幕の件も、彼女が業者と交渉し、追加分を特急で送ってもらうことで、事なきを得たらしい。その手際の良さは、相変わらず、非の打ち所がなかった。
だが、千明には、見えていた。
その、完璧な笑顔の下で、彼女の心臓を苛む、あの、痛々しい光が。
昨日よりも、さらに、暗く、そして、深く、淀んでいるように見えた。まるで、嵐の前の、不気味な静けさのように、その光は、今にも、また、激しい火花を散らしそうに、揺らめいていた。
「……玲奈、大丈夫?」
放課後、内装係の作業中、千明は、意を決して、玲奈に声をかけた。
玲奈は、天井の星の配置を指示していた手を止め、振り返ると、完璧な笑顔を、千明に向けた。
「ええ、何が? 暗幕の件なら、もう、解決したわよ」
「ううん、そうじゃなくて……。玲奈自身のこと。昨日、すごく、疲れてるみたいだったから……」
「あら、心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫。私は、いつでも、完璧な私でいなくちゃいけないから」
その言葉は、冗談めかしていたが、千明には、それが、彼女自身に課した、呪いのように聞こえた。
「でも……!」
千明が、何かを言い募ろうとした、その時。
玲奈は、すっと、その笑顔を消し、真顔で、言った。
「千明。私のことは、いいの。それより、あんたこそ、気をつけなさい。落田と、馴れ合いすぎよ。あいつが、あんたの、その『人の良さ』につけ込んで、何を考えているか……」
それは、いつもの、俺への牽制の言葉。だが、今日のそれは、どこか、切実な響きを帯びていた。まるで、彼女自身の、過去の失敗を、千明に、重ね合わせているかのように。
玲奈は、それだけ言うと、背を向け、再び、作業へと戻っていった。
彼女の背中が、千明を、明確に、拒絶していた。
「……駄目だ。話、聞いてくれない」
その日の帰り道。千明は、公園のブランコに揺られながら、力なく、呟いた。
俺は、その隣で、自販機で買った、ぬるい缶コーヒーを、ちびちびと飲んでいた。
「あんなの、初めて見た。玲奈の、あんなに、痛そうな光……。まるで、ずっと、血が流れてる傷口みたいだった。どうにかしてあげたいのに、私、何もできないよ……」
俯く彼女の、ポニーテールが、頼りなげに、揺れる。
その姿を見て、俺の胸が、ちくりと、痛んだ。
こいつは、いつだって、そうだ。他人の痛みを、自分の痛みのように、感じてしまう。その、共感能力の高さが、彼女の美徳であり、そして、最大の弱点でもある。
俺は、缶コーヒーを、一気に、飲み干した。
そして、決意を固めて、口を開いた。
「……見附。今回の件、俺に、任せろ」
「え?」
「これは、お前のような、直感タイプが、正面からぶつかって、解決できる問題じゃない。相手は、論理と理性で、心の周りに、要塞を築いている。それを、こじ開けるには、こちらも、同じ土俵で戦う必要がある」
これは、もはや、落とし物探しではない。
人の、心の、最も、深く、そして、暗い場所に隠された、「失われた過去」を探し出す、新たな「捜査」だ。
そして、その捜査には、感情的なアプローチは、通用しない。
必要なのは、冷静な観察と分析。
つまり、俺の、出番だ。
「……でも、どうやって?」
「まず、情報収集だ。雨宮玲奈という人間の、行動原理を、プロファイリングする。彼女の、あの異常なまでの完璧主義と、ルールへの固執。その根源には、必ず、何らかの、原体験が存在するはずだ」
俺は、観測ノートの、新しいページを開いた。
そしてそこに、『被疑者:雨宮玲奈』と書き込んだ。
俺の「捜査」は、まず最も身近な情報源への聞き込みから始まった。
「なあ、見附。お前が雨宮の『特技』を知るきっかけになったという、小学生の頃のキーホルダー事件。その時のことを、詳しく話してくれ」
俺たちは、場所を図書館の人気のない閲覧室に移していた。
千明は、少し、驚いたように、目を見開いた。
「え、あの時のこと? なんで、今、それを……」
「いいから、話せ。どんな些細なことでもいい。お前が覚えていることを、すべて」
俺の、真剣な眼差しに、彼女は、何かを察したようだった。
こくりと頷き、そして遠い過去の記憶を辿るように、ゆっくりと、話し始めた。
「あれは、小学四年生の時だったかな。玲奈、当時、クラスで一番仲が良かった男子がいてね。その子から誕生日に、可愛い猫のキーホルダーを、もらったの」
それは玲奈の、淡い初恋の思い出だった。
「玲奈はそれが宝物で。毎日、ランドセルにつけてた。でも、ある日学校に着いたら、それがなくなってることに気づいたの」
半泣きで、必死に探す玲奈。だが、キーホルダーはどこにも見つからない。
その時クラスの一人の女子が言ったのだ。「昨日、A子ちゃんが、玲奈ちゃんのキーホルダーを、羨ましそうに見てたよ」と。
「A子ちゃんはね、玲奈と同じで、その男子のことが、好きだったの。だから、その言葉を、信じちゃって……。A子ちゃんが、自分のキーホルダーを、盗んだんだって、思い込んじゃった」
玲奈は、クラスの中で、A子を、激しく、問い詰めた。
A子は、「知らない」と、泣きながら、否定した。
だが、一度、疑いの目を向けられた彼女は、クラスの中で、孤立していった。
教室の空気は、最悪だった。
玲奈自身も、A子を悪者にした、という罪悪感と、でも、キーホルダーが返ってこない、という怒りとでぐちゃぐちゃになっていた。
『そんな時に、千明が、見つけてくれたのよ。私の、キーホルダーを』
玲奈は以前、俺にそう話していた。
だが、千明の口から語られた事実は、少しだけ、違っていた。
「私ね、その時見えてたんだ。キーホルダーの光が。それは、玲奈の『大好き』っていう気持ちがこもった、すごく綺麗なピンク色の光だった。その光は、ずっと校庭の隅にある、誰も使ってない、古いウサギ小屋の中から放たれてた」
誰も、知らないはずの場所。
だから、玲奈は、千明の「特技」を、信じるようになった。
だが、問題は、そこではなかった。
「キーホルダーは、誰かが盗んだわけじゃなかったの。前日に、ウサギ小屋の裏で、友達とかくれんぼをしてた時に、何かの拍子に落としちゃってただけだったんだ」
「……つまり」
俺は、息を呑んだ。
「雨宮は、無実の人間を自分の早とちりと嫉妬心から、犯人だと決めつけて吊し上げた、ということか」
「……うん」
千明は、悲しそうに、頷いた。
「もちろん、玲奈はすぐに、A子ちゃんに泣きながら謝ったよ。A子ちゃんも、『いいよ』って、許してくれた。でもね……」
千明は、そこで、言葉を切った。
「玲奈は、ずっと、許してなかったんだと思う。A子ちゃんのことじゃなくて……。そんな、卑怯なことをしてしまった、自分自身のことを」
……ピースが、はまった。
俺の頭の中で、すべての情報が、一つの明確な像を結び始めた。
雨宮玲奈の、完璧主義。
それは、彼女の生来の性格などではない。
後天的に、彼女自身が、自分に課した、強固な「鎧」だ。
小学生の頃に、犯してしまった一つの大きな「過ち」。
自分の感情的な判断が、無実の人間を、深く、傷つけてしまった、という消えない罪悪感。
彼女は、二度とあんな過ちを犯さないために。
二度と自分の感情に流されないために。
感情を捨て、ルールと、論理と、完璧さだけを信じるようになったのだ。
彼女の、あの異常なまでの怒り。
それは、ルールを破ったクラスメイトへの怒りなどではない。
あの日の、卑怯で、愚かだった自分自身への終わらない怒りそのものなのだ。
俺は観測ノートに結論を書き込んだ。
『雨宮玲奈の「落とし物」は、物理的なキーホルダーなどではない。彼女が、本当に失くして、そして、ずっと探し続けているもの。それは、「過ちを犯した、自分自身を許す心」だ』と。
「……どうすればいいんだろう、落田くん」
千明が、不安そうな顔で俺を見上げる。
「玲奈を、救ってあげられるかな」
俺は、静かにノートを閉じた。
そして、顔を上げ、彼女のその真っ直ぐな瞳を見返した。
「……ああ。だが、正面からの説得は逆効果だ。彼女のその頑なな要塞を、内側から解体する必要がある」
俺は、一つの作戦を思いついていた。
それは、一人の人間の、心の最も柔らかな部分に触れる、危険な賭けだった。
だが、やるしかないと思った。
隣で、俺を信じて見つめている、この、お人好しな相棒のために。
そして何より、一人で十年近くも、終わらない罪悪感に苛まれ続けている、あの不器用な完璧主義者のために。
俺は文化祭準備でごった返す教室の隅で、一人パソコンに向かっている玲奈の元へと向かった。
千明は少し離れた場所で、固唾を飲んで、俺たちの様子を見守っている。
「……雨宮」
俺が声をかけると、彼女はパソコンの画面から目を離さずに答えた。
「何、落田。今、忙しいんだけど」
「少し、いいか。お前が、今作っている、そのシフト表のことで提案がある」
俺はあくまで、事務的な文化祭の準備に関する会話を装って、彼女の警戒心を解いていく。
シフトの非効率な点をいくつか指摘する。
彼女は最初は面倒そうに聞いていたが、俺の指摘が的確であることに気づくと、次第に真剣な表情で、俺の話に耳を傾け始めた。
会話が一区切りついた、その瞬間。
俺はまるで何かのついでであるかのように呟いた。
「……お前を見てると、時々思う」
「……何をよ」
「お前はルールを守らせるのが、好きなわけじゃない。むしろ、誰よりもルールに縛られて苦しんでいるように見える」
玲奈のキーボードを打つ指が、ぴたりと、止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、初めて俺の顔を真っ直ぐに見た。
その瞳には、驚きと、困惑と、そしてほんのわずかな恐怖の色が浮かんでいた。
俺は続けた。
「人間は誰だって間違う。俺も、お前も、見附も。どんなに完璧なルールを作っても、感情がある限り、人は間違う生き物だ。それは避けられない」
「……何が、言いたいの」
「重要なのは、間違わないことじゃない。間違った後にどうするかだ。そして何より……。他人を許すことよりもずっと難しい、自分自身を許せるかどうかだ」
俺は彼女に説教をしたいわけじゃない。
ただ、俺なりの解釈を提示したかった。
お前のその苦しみは、俺にはこう見えていると。
それは慰めではない。共感でもない。
ただ純粋な論理的な「解釈」だ。
俺の言葉が、彼女の心のどこに届いたのか。
それは、俺には分からない。
だが、彼女のその完璧な仮面の一部に小さな、しかし確かなヒビが入ったのを俺は、見逃さなかった。
第4部:雪解けの光と新たな絆
俺のあまりにも核心を突いた言葉に、玲奈はしばらく何も言えずに固まっていた。その完璧なポーカーフェイスが、わずかに揺らぎ、その奥にある生身の感情が透けて見える。
彼女は何かを言い返そうとして、しかし言葉を見つけられずに、ぐっと、唇を噛み締めた。その瞳が、助けを求めるように揺れている。
俺はこれ以上彼女を追い詰めるつもりはなかった。
俺がやるべきことは、解釈の提示までだ。
あとは、彼女自身が自分の心とどう向き合うか、という問題だ。
俺が黙ってその場を立ち去ろうとした、その時だった。
「……待って」
か細い、しかし、凛とした声が俺の背中を引き止めた。
振り返ると、玲奈が俯いたまま立っていた。
その握りしめられた拳は、小さく震えている。
「……どうして」
彼女は顔を上げずに呟いた。
「どうして、あんたに、そんなことが、分かるのよ……」
その声は、怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。
俺は静かに答えた。
「別に。分かったわけじゃない。ただ、そう見えた、というだけだ。お前の行動のすべてが、まるで過去のたった一つの過ちを償うためだけにあるように、俺には見えた」
俺の言葉に、玲奈の肩が、びくりと、大きく震えた。
そして、次の瞬間。
彼女のその完璧な仮面は、ついに音を立てて崩れ落ちた。
「……っ、……う……」
嗚咽が彼女の喉から漏れ出す。
彼女は、両手で顔を覆い、その場に蹲った。
そのあまりにも無防備でか弱い姿は、俺たちが知っているあの完璧な雨宮玲奈の姿とはかけ離れていた。
「……卑怯、だったのよ、私……!」
途切れ途切れに、彼女の口から、懺悔の言葉が、紡ぎ出されていく。
「A子が、悪くないって、心のどこかで、分かってたのに……! 好きな人を、取られたくなくて、キーホルダーが、返ってこないことの、苛立ちを、誰かに、ぶつけたくて……! 私は、あの子を、傷つけた……!」
十年近く、彼女の心の中に澱のように溜まり続けていた罪悪感。
その黒く、そして重い感情が、堰を切ったように溢れ出してくる。
「……それ以来、怖くなったの。自分の、心が。自分の、この、醜い、感情が。だから、決めたのよ。もう、二度と、感情で、物事を、判断しないって。ルールだけを、信じるんだって。完璧で、いなくちゃいけないんだって……!」
彼女の悲痛な告白。
それを、教室の隅で見守っていた、千明の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
彼女には見えていた。
玲奈の心の変化が。
嗚咽と共に、玲奈の胸から吐き出されていく、黒い感情。
それと同時に、彼女の心臓を苛んでいた、あの痛々しい、自己嫌悪の光が、少しずつその色を変えていくのを。
暗く、淀んだ、くすんだ紫の光が、ゆっくりと、薄れていく。
そしてその傷口の縁の部分から。
まるで、夜明けの空のように、淡く、そして温かい銀色の光が滲み出し始めていた。
それは治癒の光。
雪解けの光。
彼女が初めて、自分自身の過去と向き合い、そしてそれを受け入れようとしている証の光だった。
俺は、そんな彼女の隣に黙ってしゃがみ込んだ。
そして、何も言わずに、ポケットから取り出したハンカチを、そっと差し出した。
それは、慰めでも同情でもない。
ただ、一人の不器用な人間に対する、もう一人の不器用な人間からの、ささやかな敬意の表明だった。
玲奈は、しばらく顔を覆ったまま泣きじゃくっていた。
やがて、嗚咽が少しずつ収まってきた頃。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その泣き腫らした真っ赤な目で、俺の顔をじっと見つめた。
そしておずおずと、俺の差し出したハンカチを受け取った。
「……あんたって、本当に……」
彼女は鼻をすすりながら言った。
「……変な奴ね、落田」
その声にはもう、以前のような棘はなかった。
代わりに、そこには雨上がりの澄んだ空気のような穏やかな響きがあった。
「……ありがとう」
その、小さな、小さな、感謝の言葉。
それが、俺たちの間の分厚い氷の壁を、完全に溶かしていった。
その日の、帰り道。
俺たちは、三人で並んで歩いていた。
玲奈の目は、まだ少し赤かったが、その表情は今まで見たどんな時よりも晴れやかで、そして穏やかだった。
俺と玲奈の間に、もう、あの緊張した空気はない。
代わりにそこには、少し気恥ずかしくて、でも、どこか温かい新しい関係性が生まれていた。
「……ねえ」
不意に、玲奈が俺に尋ねた。
「あんた、どうして、分かったの? 私の、あの時のこと」
「別に。ただの、論理的な、帰結だ」
俺は、素っ気なく、答えた。
「ふふっ。そう」
玲奈は、楽しそうに笑った。
その笑顔は、彼女が今まで俺たちに見せたことのない、年相応の、少女の素顔だった。
その玲奈の隣で、千明は、ただ黙って微笑んでいた。
彼女の目には、もう玲奈の胸に、あの痛々しい光は見えていなかった。
代わりに、そこには淡く、優しい、銀色の光が静かに灯っていた。
それはまだ完全ではないかもしれない。
だが、確かに彼女の心が癒え始めていることを示していた。
そして千明は、ちらりと、俺の横顔を盗み見た。
俺の心臓のあたりから放たれる、あの温かい光。
その光が、今玲奈のその銀色の光と、優しく共鳴し合っているように彼女には見えた。
三角関係なんかじゃない。
もっと、ずっと尊くて、そして強い絆。
互いの痛みを理解し、支え合うことができる、理解者としての確かな絆が、今、ここに生まれたのだ。
文化祭本番まで、あと一週間。
俺たちのクラスの、「星空カフェ」の準備は、この日を境に、驚くほどスムーズに進み始めた。
総責任者である、雨宮玲奈が変わったからだ。
彼女は、相変わらず有能で真面目だった。
だがそこに、以前のような人を寄せ付けない、完璧主義の冷たさはもうなかった。
彼女は笑顔で周りの意見に耳を傾け、時には自分の弱さや、失敗談を冗談めかして話したりもした。
そんな、彼女の変化は、クラス全体の空気を和やかにしそして一つにまとめていった。
俺たちは、三人で一緒に作業をする時間が増えた。
天井に、星を飾り付ける千明と玲奈。
そのプロジェクターの調整をする、俺。
その光景はどこにでもある、高校生のありふれた青春の一ページ。
だが、俺たち三人の間には、誰にも語ることのできない深く、そして、かけがえのない、秘密の絆が、確かに結ばれていた。
九月の澄み渡る秋の空の下で。
俺たちの二学期は、まだ、始まったばかりだった。




