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高1・8月(夏休み):心の光と祭りの夜

第1部:夏休みの始まりと新たな「光」の兆候

八月。世界は、白く燃えるような太陽と、すべてを塗りつぶすような蝉時雨に支配されていた。

四十日間という、途方もなく長く、そして自由な時間。それは、生徒という身分に与えられた、一種の治外法権の領域だった。学校という名の檻から解き放たれ、誰もが思い思いの羽を伸ばす季節。

だが、俺、落田心一にとって、その自由は、むしろ一種の戸惑いをもたらしていた。

夏休みに入って、一週間が過ぎた。俺は、自室の机に向かい、ひたすら問題集を解き、観測ノートを整理するという、生産的かつ非生産的な日々を送っていた。窓の外では、入道雲が、まるで巨大なカリフラワーのように、空へ空へとその勢力を拡大している。その圧倒的な生命力とは裏腹に、俺の時間は、時計の針が刻む音と共に、静かに、そして単調に過ぎていくだけだった。

観測ノートには、この一ヶ月で集めた、見附千明の能力に関するデータがびっしりと書き込まれていた。

『光の性質は、持ち主の執着心の種類によって、色や形状、動きが変化する(仮説)』

『光の強度は、物理的距離と無関係。執着心の強度に比例する』

『光の発生トリガーは、持ち主の「紛失」の認識とは必ずしも一致しない』

『光には「減衰」という概念が存在する。これは、持ち主の「諦め」の感情と相関関係にある可能性が高い』

書き連ねた文字を眺めながら、俺は深くため息をついた。

データは、集まった。仮説も、いくつか立てた。だが、肝心の観測対象が、いない。学校という強制的な接点がなくなった今、俺が見附と会うための合理的な理由は、存在しなかった。

もちろん、連絡を取ろうと思えば、いつでも取れる。だが、何と言って誘い出せばいい?「現象の観測を続けたいので、街を徘徊しないか」とでも言うのか? それはあまりにも不自然で、そして、何より、俺自身のプライドがそれを許さなかった。

これは、あくまで科学的な調査だ。個人的な感情で動くべきではない。俺は、そう自分に言い聞かせることで、心の奥底にある、得体の知れない物足りなさから目を逸らしていた。

一方、その頃。見附千明もまた、俺とは質の違う、しかし、どこか似たような手持ち無沙汰を感じていた。

夏休み。それは、友達と海へ行ったり、ショッピングを楽しんだり、恋の話に花を咲かせたり、そんなキラキラとしたイベントで埋め尽くされるべき時間のはずだった。もちろん、彼女にもそういう予定はあった。だが、スケジュール帳の空白を見つめるたびに、心のどこかに、ぽっかりと穴が空いたような感覚が広がっていく。

(なんだろう、この感じ……)

自室のベッドに大の字に寝転がりながら、千明は天井の木目をぼんやりと眺めていた。

楽しいはずなのに、何かが足りない。

まるで、毎日飲んでいた栄養ドリンクを、急に断たれたような。

その「何か」の正体に、彼女はまだ気づいていなかった。だが、脳裏をよぎるのは、いつも仏頂面で、理屈っぽくて、でも、いざという時には誰よりも真剣な顔で隣にいてくれる、一人の少年の姿だった。

その日の午後。俺のスマホが、軽快な通知音を鳴らした。画面に表示された名前に、俺の心臓が、ほんの少しだけ、普段より速く脈打ったのを自覚する。

『見附千明:暇だから、落とし物探し、しない?』

その、あまりにも単刀直入で、屈託のない文面に、俺は思わず、口元が緩むのを禁じ得なかった。

俺は、数秒間だけ逡巡するふりをした後、『調査の続きと、データの追加収集が必要だ。やむを得ない』と、誰に言うでもない言い訳を心の中で組み立て、承諾の返信を送った。

翌日、俺たちは駅前の広場で待ち合わせをした。夏の強い日差しが、容赦なくアスファルトに照りつけている。約束の時間の五分前。俺が指定された時計台の下に着くと、彼女はもう、そこにいた。

「あ、落田くん! おはよー!」

遠くから、俺の姿を見つけ、ぱっと顔を輝かせて手を振る。その姿は、俺がいつも学校で目にしている、快活な見附千明、そのものだった。だが、何かが、決定的に違っていた。

「……ああ」

俺は、短い返事を返すのが精一杯だった。

彼女は、制服ではなかった。

白いノースリーブのブラウスに、風にふわりと揺れる、淡いブルーのロングスカート。麦わら帽子を目深にかぶり、首筋には、汗が光っている。いつもは見慣れたポニーテールも、心なしか、普段より艶めいて見える。

その、あまりにも「女の子」らしい姿に、俺は、どうしようもないほどの気恥ずかしさを感じていた。同時に、自分の格好に意識が向かう。無地のTシャツに、チノパン。可もなく不可もない、没個性的な服装。隣に並んで、果たして釣り合いが取れているのだろうか。そんな、普段の俺なら絶対に考えないような、非論理的な思考が頭をよぎる。

「悪い、待たせたか?」

「ううん、今来たとこ!じゃあ、行こっか! 今日は、どっち方面をパトロールする?」

パトロール、という子供じみた単語選びに、俺は少しだけ緊張がほぐれた。そうだ。これは、デートではない。あくまで、俺たちの「任務」の延長線上に過ぎない。

俺たちは、夏の太陽がぎらつく街を、あてもなく歩き始めた。蝉の声が、まるでシャワーのように、頭上から降り注いでくる。

「うわ、暑い……。落田くん、よく平気な顔してられるね」

「別に平気じゃない。だが、暑いと言ったところで、気温が下がるわけでもない。無意味な発声だ」

「うへえ、理屈っぽいのは相変わらずだねえ」

見附は、呆れたように笑いながら、カバンから取り出したハンカチで、額の汗を拭った。

制服という鎧を脱ぎ捨てた俺たちは、どこにでもいる、ただの高校生の男女だった。その事実が、俺たちの間の距離感を、微妙に、そして確実に変えていた。学校の廊下ですれ違うのとは違う。教室の隣の席で話すのとも違う。夏の日の光の下で、私服姿で隣を歩くという行為は、俺たちが思っている以上に、お互いを強く意識させた。

その日の「パトローる」の成果は、ささやかなものだった。

商店街のベンチの下で見つけた、小学生が落としたであろう、キャラクターのキーホルダー。公園の水道の蛇口に引っかかっていた、誰かのシュシュ。俺たちは、それらを交番に届けたり、落とし主が見つかるまで預かっておくことにして、今日の活動を終えることにした。

「ちょっと、休憩しない? さすがに喉渇いちゃった」

見附の提案で、俺たちは駅ビルに入っている、チェーンのカフェに入ることにした。冷房の効いた店内は、まるで天国のように感じられた。

窓際の席に並んで座り、俺はアイスコーヒーを、見附はイチゴの乗ったパフェを注文した。

「ぷはー、生き返るー!」

巨大なパフェを前に、見附は子供のようにはしゃいでいる。その姿は、俺が知っている「太陽みたいな女」そのものだった。

「しかし、お前はよくそんな甘いものを食べられるな。見ているだけで胸焼けがしそうだ」

「えー、美味しいじゃん! 落田くんも一口いる?」

「遠慮する」

俺は、アイスコーヒーの苦味で、口の中に広がりかけた甘ったるい想像を打ち消した。

しばらく、他愛ない会話が続いた。夏休みの宿題が、絶望的なまでに終わっていないこと。苦手な古典の教師が、やたらとねちねちしていること。最近ハマっている、深夜アニメの話。

普段の教室では、決して交わすことのない、パーソナルな話題。俺は、自分が意外と饒舌になっていることに、少しだけ驚いていた。見附は、聞き上手だった。俺の理屈っぽい話にも、「へえ、そうなんだ!」と、興味深そうに相槌を打ってくれる。その反応が、心地よかった。

「あ、落田くん、これ好きでしょ」

不意に、見附が、テーブルの隅に置かれていた雑誌を手に取り、俺の前に差し出した。

それは、カフェが客のために用意している、数冊の雑誌のうちの一冊だった。

表紙には、『緊急特集! 日本各地で目撃された未確認飛行物体! その正体に迫る!』という、扇情的な見出しが踊っている。

いわゆる、オカルト雑誌だ。

「……なぜ、俺がこれを好きだと?」

俺は、動揺を隠し、ポーカーフェイスを装って尋ねた。

「え、だって、落田くん、そういうの好きそうな顔してるもん」

「どんな顔だ」

「なんか、世界の真理を解き明かしたい! みたいな顔?」

見附の、あまりにも的確な指摘に、俺は言葉を失った。俺が、論理と理性で塗り固めた仮面の下に隠している、本来の姿。それを、彼女は、いとも簡単に見抜いてしまったのだ。

俺は、観念して、その雑誌を手に取った。ページをめくると、そこには、子供の頃の俺が夢中になって読んでいたような、荒唐無稽で、しかし、心を躍らせる記事が満載だった。

不鮮明なUFOの写真。宇宙人の想像図。古代文明のオーパーツ。

馬鹿馬鹿しい。非科学的だ。そう思う一方で、俺の心の奥底で、忘れかけていた何かが、疼き始めるのを感じていた。

俺は、いつしか、周りの音も聞こえなくなるほど、その雑誌に没頭していた。記事の一つ一つを、食い入るように読む。その写真の矛盾点を、科学的に考察する。それは、かつて俺が、嘲笑される前の俺が、最も愛した時間だった。

俺は、気づいていなかった。

そんな俺の横顔を、見附が、どんな表情で見つめていたのかに。

(あ……)

千明は、息を呑んだ。

目の前で、雑誌に夢中になっている落田心一。その姿は、千明が今まで見たことのないものだった。

いつもは、どこか冷めたような、斜に構えたような雰囲気をまとっている彼。だが、今の彼の横顔は、まるで、欲しかったオモチャを買ってもらった子供のように、無防備で、生き生きとしていた。

そして、その瞬間。

千明は、見てしまったのだ。

彼の、心臓のあたり。

Tシャツの上から、ぼんやりと、しかし、確かに。

内側から発光するような、不思議な「光」が灯るのを。

それは、今まで彼女が見てきた、どんな「落とし物」の光とも違っていた。

物理的な物から放たれる光ではない。彼自身の、内側から湧き出てくるような、生命の光。

色は、複雑だった。青のようでもあり、紫のようでもあり、そして、その奥に、ほんのりと、温かい金色が混じっているような。形も、輪郭も、曖昧で、まるで陽炎のように揺らめいている。

そして、どこか、少しだけ、切ない感じがした。

「え……?」

千明は、思わず、小さな声を漏らした。

その声に、はっと我に返った俺が、顔を上げる。

「どうした?」

「う、ううん、何でもない!」

千明が、慌てて首を横に振った、その瞬間。

彼の胸にあったはずの光は、ふっと、かき消すように消えてしまっていた。

まるで、最初から、そんなものは存在しなかったかのように。

(……見間違い、かな)

千明は、自分の目を疑った。

だが、あの光の感覚は、確かに、今も目の奥に残っている。

落とし物ではない、人間の心臓から直接放たれる光。

そんなもの、今まで一度も見たことがなかった。

あれは、一体、何だったのだろう?

この出来事をきっかけに、千明は、俺と話す時に、無意識のうちに、俺の胸のあたりに注意を向けるようになっていた。

そして、この日、彼女が垣間見た「心の光」の正体が、俺たちの夏を、そして、俺たちの関係を、大きく揺さぶっていくことになる。

その時の俺たちは、まだ、そんな未来が待っていることなど、知る由もなかった。


第2部:夏期講習とすれ違う視線

夏休みが中盤に差し掛かった頃、俺たちの日常に、新たな舞台が加わった。

予備校の、夏期講習だ。

もちろん、俺と見附が示し合わせて同じ講座を取ったわけではない。俺は、志望校のレベルに合わせた特進クラスを。見附は、苦手な古文を克服するための基礎クラスを。それぞれが、それぞれの目的で申し込んだ結果、偶然にも、同じ予備校の、同じ時間帯の講習に通うことになったのだ。

そして、そこには、もう一人、見慣れた顔があった。

「げ、心一もいんの」

「……雨宮か」

予備校のロビーで、テキストを抱えた雨宮玲奈と鉢合わせした時、俺たちは、お互いに、あからさまに嫌な顔をした。

「あんたが、こんなところに来るなんて、槍でも降るかと思ったわ」

「お前に言われたくない。風紀委員の仕事はどうした」

「夏休みくらい、解放されたいのよ」

玲奈もまた、俺たちと同じく、この夏期講習の生徒だった。彼女は、持ち前の真面目さで、二学期に向けての予習に余念がないらしい。

そこに、「あ、二人ともいたー!」と、天真爛漫な声が割り込んできた。見附だ。

俺と玲奈が、まるで睨み合っているかのような険悪な空気も、彼女の前では、いとも簡単に霧散してしまう。

「三人とも一緒なんて、奇遇だね! これで、退屈な講習も楽しくなりそう!」

「……俺は、勉強しに来ているんだが」

「まあまあ、固いこと言わないの。ね、玲奈」

「……まあ、千明がいるなら、仕方ないわね」

玲奈は、やれやれと肩をすくめたが、その表情は、どこか安心しているようにも見えた。おそらく彼女としては、俺と見附が二人きりになる状況よりは、自分が監視できる環境の方が、まだマシだと判断したのだろう。

こうして、俺たちの夏休みは、予備校という、新たな「日常」のステージへと移行した。

講習は、午前中で終わる。その後、俺たちは、自然な流れで、三人で昼食をとったり、自習室で並んで勉強したりする時間が増えていった。

もちろん、その合間を縫って、俺と見附の「落とし物探し」も、継続されていた。玲奈は、そんな俺たちの行動を、どこか訝しげな、そして、心配そうな目で見守っていた。

「ねえ、千明」

ある日の昼休み。予備校の近くの公園で、三人でコンビニの弁当を広げている時だった。俺が飲み物を買いに席を立った隙に、玲奈が、千明に尋ねた。

「あんた、最近、本当に落田と仲良いわね」

「うん、仲間だからね!」

千明は、卵焼きを頬張りながら、屈託なく笑う。

「仲間、ねえ……。あいつ、あんたの『特技』のこと、どこまで知ってるの?」

「全部だよ。光が見えることも、執着心がどうのってことも」

「……全部!?」

玲奈は、思わず声を上げた。千明は、あっけらかんと続ける。

「だって、落田くん、すごく真剣に聞いてくれるんだもん。それに、私の見てるものを、馬鹿にしたりしないし。初めてだよ、あんな風に、私の能力に興味を持ってくれた人」

その言葉に、玲奈は、ぐっと唇を噛んだ。

千明の秘密を、幼い頃から、たった一人で守ってきたという自負。それが、いとも簡単に、俺という部外者に明け渡されてしまったことへの、小さな嫉妬。そして、何よりも、千明が、自分以外の誰かに、そこまでの信頼を寄せているという事実。

玲奈の胸中は、複雑な感情で渦巻いていた。

俺が、ペットボトルを手に戻ってくると、二人の間の空気は、どこか張り詰めているように感じられた。

「……どうした」

「別に、何でもないわ」

玲奈は、ぷいとそっぽを向く。見附は、そんな玲奈と俺の顔を、困ったように見比べていた。

その日から、俺は、講習中に、見附からの奇妙な視線を感じるようになっていた。

授業中、ふと横を見ると、彼女が、俺の顔ではなく、胸のあたりを、じっと見つめていることがある。そして、俺が視線に気づくと、はっとしたように、慌てて顔を伏せてしまうのだ。

それが、一度や二度ではなかった。

俺は、自分の服装に何か問題があるのかと、何度も確認したが、別におかしなところはない。

(一体、何なんだ……?)

彼女の不可解な行動は、俺を少しだけ、苛立たせた。

俺は、まだ知らない。その時、彼女の目に、何が映っていたのかを。

千明は、混乱していた。

あの日、カフェで初めて見て以来、彼女は、頻繁に、俺の胸にあの「光」を見るようになっていた。

それは、決まって、俺が何かに夢中になっている時に現れた。

例えば、数学の難問を、まるで芸術作品でも作り上げるかのように、鮮やかな手つきで解き明かしていく時。

例えば、歴史の講師が語る、戦国武将の意外なエピソードに、「ほう」と、感心したように目を細めた時。

そして、例えば、休憩時間に、玲奈と俺が、珍しくチェスの話で盛り上がった時。

そのたびに、彼の胸の奥で、あの、青みがかった金色の光が、静かに灯るのだ。

それは、彼の知的好奇心や、探究心が、最大限に刺激された瞬間に放たれる光らしかった。

千明は、その光を、「オカルトへの未練(信じたい気持ち)」の光だと、プロットで説明されているように理解していた。落とし物ではない、初めて見る「人の心」そのものの光。

だが、その光を見るたびに、千明の心は、ざわついた。

綺麗だ、と思う。

と同時に、その光が、自分以外のもの――難解な数式や、遠い歴史や、あるいは、雨宮玲奈に向けられているという事実に、ちくりと、胸が痛むのを、彼女は自覚していた。

光は、いつも一瞬で消えてしまう。だから、確信が持てない。

そのもどかしさから、彼女は、つい、俺の胸元を凝視してしまっていたのだ。

だが、その視線が、俺を困惑させていることにも、彼女は気づいていた。

どうすればいいのか、分からない。この光の正体を、彼に尋ねるべきなのか。いや、そんなことをしたら、もっと気味悪がられるだけかもしれない。

千明の悩みは、日に日に深くなっていった。そして、その悩みが、二人の間に、目に見えない、小さな溝を作り始めていた。

夏期講習も、残すところあと数日となった、ある日の帰り道だった。

その日は、玲奈が委員会の用事で先に帰り、俺と見附の二人だけだった。夕立が過ぎ去った後の、湿ったアスファルトの匂いが、むわりと立ち上ってくる。

「……なあ、見附」

俺は、意を決して、隣を歩く彼女に尋ねた。

「最近、何か、様子がおかしくないか。俺の顔に、何かついているか?」

「えっ!? い、いや、何もついてないよ!」

見附は、ぎくりとしたように、大げさに首を横に振る。その反応は、明らかに「何かを隠しています」と白状しているようなものだった。

俺は、ため息をついた。

「なら、なぜ、そんなに俺の胸のあたりをじろじろ見るんだ。気味が悪い」

「ご、ごめん……! そんなつもりじゃ……」

見附は、俯いて、消え入りそうな声で謝った。その姿を見て、俺は、少しだけ言い過ぎたことを後悔する。

だが、その時。

「あ……」

見附が、ふと顔を上げ、ある一点を指さした。

俺たちの少し先、歩道橋の階段の途中に、小さな光が灯っているのが、彼女の目には見えていた。

「落とし物だ。行こう」

俺たちは、顔を見合わせ、頷くと、足早にそちらへ向かった。

階段の踊り場に落ちていたのは、一枚の写真だった。セピア色に変色した、古い写真。そこには、若い夫婦と、まだ赤ん坊の子供が、幸せそうに笑っている姿が写っていた。

見附が、その写真を拾い上げた、瞬間だった。

彼女の顔が、さっと青ざめるのが分かった。

「この光……お守りの時と、同じだ」

「……減衰しているのか」

「うん。すごく、弱々しい。今にも、消えちゃいそう……」

その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの日の、バス停での光景が蘇る。

光が消えたお守りを手に、ただ、涙を流していた彼女の姿が。

まずい、と思った。

このまま、この写真の持ち主が見つからなかったら。俺たちの目の前で、この光が消えてしまったら。彼女は、また、あの時のように傷つくことになる。

「千明、これは、交番に届けよう。俺たちで探すのは、難しい」

俺は、できるだけ、冷静な声で言った。だが、見附は、かぶりを振った。

「嫌だ! 交番に届けたって、持ち主が見つかる前に、光が消えちゃうかもしれない! そしたら、この家族の『大切』が、なくなっちゃうんだよ!」

その瞳には、頑ななまでの、強い意志が宿っていた。彼女の正義感は、時に、自らを傷つけることさえ厭わない、危うい刃物になる。俺は、この数週間で、それを痛いほど学んでいた。

「でも、どうやって探すんだ! 手がかりは、この写真一枚だけだぞ」

「それでも! 諦めたくない!」

見附は、ほとんど叫ぶように言った。その声は、悲痛な響きを帯びていた。

俺は、ぐっと、言葉に詰まる。

そうだ。彼女は、いつだって、そうだ。

他人の「大切」を、自分のことのように、必死で守ろうとする。そのために、自分がどれだけ傷つくかなんて、まるで考えていないかのように。

このままでは、駄目だ。

このまま、彼女の無謀な優しさに付き合っていたら、彼女は、いつか、本当に壊れてしまう。

俺は、彼女を守らなければならない。

彼女の、その危うい正義感から。そして、彼女自身の、その特殊な能力から。

「……分かった」

俺は、深く、息を吸い込んだ。

「探そう。だが、条件がある」

「……条件?」

「タイムリミットを設ける。今日の、日没までだ。それで見つからなかったら、潔く諦めて、交番に届ける。いいな?」

それは、彼女の暴走を止めるための、俺なりの精一杯の提案だった。

見附は、しばらく、俺の顔をじっと見つめていた。その瞳には、葛藤の色が浮かんでいる。

やがて、彼女は、小さく、しかし、はっきりと頷いた。

「……分かった。日没まで」

俺たちの、タイムリミット付きの捜査が、始まった。

夕暮れが、刻一刻と、街を赤く染めていく。

それは、まるで、彼女の心のタイムリミットを告げる、残酷なカウントダウンのように、俺には見えた。


第3部:夏祭りの夜、交差する想い

日没までのタイムリミット。それは、あまりにも短く、そして絶望的な時間だった。

手がかりは、一枚の古い家族写真のみ。写っている建物の特徴や、服装の年代から、ある程度の推測はできる。だが、広大なこの街で、たった一枚の写真を頼りに人を探し出すなど、砂漠で一粒のダイヤを見つけるようなものだ。

俺は、いつものように、論理的なアプローチを試みた。

「写真の裏に、何か書かれていないか?」

「ううん、何もない」

「撮影された場所は……背景の建物に見覚えはないか? この様式の家は、七〇年代から八〇年代にかけてのものだ。この近辺の、古い住宅街を探してみる価値はある」

俺が冷静に分析を進める横で、見附は、ただ、じっと写真を握りしめていた。

「……こっちだと思う」

彼女は、一つの路地を指さした。

「……また、直感か」

「うん。この写真が、泣いてる。すごく、悲しい声で、こっちだよって」

彼女の言葉は、非科学的で、何の根拠もない。だが、今の俺には、それを否定する気力も、そして、権利もないように思えた。俺たちは、彼女のその、か細い「声」だけを頼りに、夕暮れの住宅街を歩き始めた。

蝉の声が、いつの間にか、ひぐらしの鳴き声に変わっている。空は、燃えるような茜色と、深い藍色が混じり合った、幻想的なグラデーションを描いていた。美しい、しかし、残酷なほどに、時間の経過を告げる空だった。

俺たちは、何軒もの家のインターホンを鳴らし、写真を見せては、頭を下げた。だが、返ってくるのは、「さあ、存じ上げませんね」という、無情な言葉ばかり。

見附の顔から、みるみるうちに表情が消えていく。彼女の焦りと、絶望が、隣を歩く俺にも、痛いほど伝わってきた。

彼女が握りしめる写真から放たれる光は、もはや、いつ消えてもおかしくないほど、弱々しくなっているという。

「……もう、駄目かも」

公園のベンチに、力なく座り込み、見附が呟いた。

空は、ほとんど夜の色に染まっている。一番星が、瞬き始めていた。

タイムリミットだ。

俺は、何も言えなかった。どんな言葉をかければいいのか、分からなかった。俺の無力さを、これほど痛感したことはない。

その時だった。

遠くから、軽快な祭囃子の音が、風に乗って聞こえてきた。

「……あ」

見附が、顔を上げた。

「今日だ、夏祭り……」

その声には、何の感情もこもっていなかった。

だが、その「夏祭り」という単語が、俺の脳の、ある部分を強く刺激した。

「……神社だ」

俺は、ほとんど叫ぶように言った。

「え?」

「その写真、神社で撮られたものじゃないのか? 七五三か、あるいは、宮参りか。そうだとしたら、この近辺の大きな神社を探せば……!」

俺の言葉に、見附の瞳に、わずかに光が戻った。

「でも、どこの神社……」

「祭囃子が聞こえる方角だ! 行くぞ、見附!」

俺は、彼女の手を掴み、走り出した。もはや、論理も何もない。ただ、最後の可能性に、すべてを賭けるしかなかった。

掴んだ彼女の手は、驚くほど、冷たくなっていた。

祭囃子の音を頼りに、俺たちは、夜の街を疾走した。

やがて、提灯の明かりが連なる、神社の参道が見えてきた。

境内は、たくさんの人々でごった返している。綿あめの甘い匂い、イカ焼きの香ばしい匂い、そして、人々の熱気。その、非日常的な空間に、俺たちは、ほとんど転がり込むようにしてたどり着いた。

「どうしよう、人が多すぎて、探せないよ……」

人混みの中で、見附が、途方に暮れたように呟いた。

その時、俺の目に、境内の隅に設置された、一つの看板が飛び込んできた。

『迷子・落とし物預かり所』

俺は、最後の希望を胸に、そのテントへと向かった。

対応してくれたのは、人の良さそうな、町内会の役員らしき男性だった。

俺は、息を切らしながら、事情を説明し、写真を見せた。

男性は、その写真を一目見るなり、「ああ、この写真なら」と、目を細めた。

「さっき、ご年配の女性が、これと同じものを探して、ここに立ち寄られましたよ。『亡くなった息子夫婦の大切な形見を、落としてしまった』と、ひどく落ち込んでおられました」

その言葉を聞いた瞬間、俺と見附は、顔を見合わせた。

見つかった。

持ち主が、見つかったのだ。

男性は、その女性が向かったであろう場所を、俺たちに教えてくれた。

俺たちは、深く頭を下げると、再び、人混みの中を走り出した。

彼女が言っていた、「悲しい声」。それは、亡くなった息子夫婦を想う、おばあさんの、心の声だったのかもしれない。

そして、俺たちは、ついに、その人を見つけ出した。

神社の裏手にある、小さな池のほとり。そこで、一人、ベンチに座り込んでいる、小柄な老婆の姿があった。

見附が、ゆっくりと、その背中に近づいていく。

「あの……」

老婆が、ゆっくりと振り返る。その顔には、深い悲しみの皺が刻まれていた。

見附は、何も言わずに、そっと、その手に、例の写真を握らせた。

老婆は、その写真を見ると、わっと、声を上げて泣き出した。

「ああ……よかった、よかった……。あの子たちの、たった一枚の……」

しゃくり上げながら、何度も、何度も、俺たちに頭を下げる老婆。

見附は、そんな彼女の隣に、そっと寄り添い、優しく、その背中をさすっていた。

その光景を、少し離れた場所から、俺は、ただ、黙って見ていた。

見附の横顔は、涙で濡れていた。

だが、それは、あの日の、絶望の涙ではなかった。

誰かの「大切」を、守りきることができた、安堵と、そして、喜びの涙だった。

その日の帰り道。

祭りの喧騒を後にし、俺たちは、静かな夜道を、ゆっくりと歩いていた。

お互いに、何も話さない。だが、その沈黙は、少しも、気まずいものではなかった。

今日の出来事が、俺たちの間に、言葉では言い表せない、確かな何かを、結びつけてくれたような気がした。

「……ねえ」

不意に、見附が、俺の服の袖を、くいと引いた。

「ん?」

「あのさ……今日、お祭り、行かない?」

その提案は、あまりにも、唐突だった。

「は? 今からか?」

「うん。だって、せっかく、こんなに近くまで来たんだし……。それに、玲奈も、誘ってくれてたし……」

後半は、ほとんど、言い訳のように聞こえた。

俺は、一瞬だけ、躊躇った。

だが、彼女の、潤んだ瞳で、上目遣いにこちらを見つめる表情に、俺が、ノーと言えるはずもなかった。

「……分かった。少しだけだぞ」

俺の返事を聞くと、見附は、ぱっと、今日一番の笑顔を見せた。

「やった!」

そして、俺たちは、再び、あの、光と喧騒の渦の中へと、戻っていった。

玲奈に連絡を取ると、彼女は、案の定、射的の屋台で、店主を困らせるほどの腕前を披露していた。

「遅いじゃないの、二人とも。どこで道草食ってたのよ」

俺たちが、今日あった出来事をかいつまんで話すと、彼女は、驚いたように目を見開いた後、「……そう。良かったじゃない」と、少しだけ、優しい顔で笑った。

三人で、屋台を冷やかして回る。

玲奈は、射的で取った、巨大なぬいぐるみを、見附に押し付けた。

見附は、りんご飴と、チョコバナナを両手に持ち、幸せそうに頬張っている。

俺は、そんな二人を、少し離れた場所から眺めていた。

「ほら、心一も食べなさいよ」

玲奈が、俺に、たこ焼きの舟を突きつけてくる。

「いらん」

「いいから。あんた、今日、どうせ何も食べてないでしょ」

俺は、渋々、爪楊枝を受け取り、たこ焼きを一つ、口に放り込んだ。

熱い。だが、不味くはなかった。

やがて、玲奈が、「私、友達と合流するから」と、先に帰っていった。おそらく、俺たちを二人きりにするための、彼女なりの気遣いなのだろう。その去り際の横顔は、どこか、少しだけ、寂しそうに見えた。

再び、二人きりになる。

祭りの喧騒が、急に、遠い世界の出来事のように感じられた。

俺たちの間に、気まずいような、それでいて、心地よいような、不思議な沈黙が流れる。

「……はぐれると、面倒だ」

俺は、そう、ぶっきらぼうに呟くと、見附の、細い手首を掴んだ。

「え……」

見附の、息を呑む気配が伝わってくる。

俺は、彼女の方を見ずに、ただ、前を向いて、人混みの中を歩き始めた。

掴んだ手首が、驚くほど、熱い。その熱が、俺の心臓の鼓動を、少しずつ、速めていくのを感じていた。

俺たちは、神社の、一番奥にある、小さな池のほとりまでやってきた。

そこは、祭りの中心から少し離れており、人もまばらだった。

池の水面が、提灯の明かりを反射して、きらきらと揺れている。

「……綺麗だね」

見附が、ぽつりと、呟いた。

俺は、何も答えずに、ただ、彼女の横顔を見ていた。

横顔が、提灯の明かりに照らされて、やけに、白く見えた。

りんご飴を頬張る、その唇が、妙に、艶めかしく見えた。

俺は、自分の心臓が、今まで経験したことのないような、激しいリズムで高鳴っているのを感じていた。

(何だ、これは……)

この感情は、知らない。

論理では、説明できない。

ただ、分かるのは。

目の前の、この少女から、目が離せない、ということ。

彼女の、その笑顔を、守りたい、ということ。

彼女を、傷つけるものすべてから、遠ざけたい、ということ。

それは、単なる「研究対象への責任感」や、「バディへの同情」では、到底、説明のつかない、もっと、ずっと、個人的で、そして、強い感情だった。

その時だった。

見附が、ふと、俺の顔を、じっと見つめてきた。

そして、彼女の目が、俺の、胸のあたりに、吸い寄せられるように、注がれた。

(あ……また、光ってる)

千明は、見ていた。

彼の胸に、あの、温かくて、穏やかな光が灯るのを。

それは、彼がオカルト雑誌を読んでいた時の、「オカルトへの未練」の光とは、明らかに、色も、形も、そして、温度も違っていた。

もっと、ずっと、優しくて、柔らかくて、そして、少しだけ、甘い感じのする光。

千明は、もう、分かっていた。

この光が、「落とし物」から放たれる光と、同じ種類の、つまり、「執着」の光であることを。

そして、今、この瞬間。

彼の「執着」が、目の前の、自分自身に向けられているであろうことも。

確信を得るために、彼女は、意を決して、尋ねた。

「ねえ、落田くんってさ」

その声は、自分でも驚くほど、震えていた。

「何か、すごく大事なもの、心の中に隠してない?」

それは、彼女が見た、「穏やかな光」の正体を探るための、カマをかけるような質問だった。

俺は、彼女のその、あまりにも核心を突いた言葉に、心臓を、鷲掴みにされたような衝撃を受けた。

(……見透かされているのか?)

俺の、この、生まれたばかりの、名前もない感情を。

彼女は、その不思議な目で、すべて、お見通しだというのか。

「……さあな」

俺は、そう言って、話を逸らすのが、精一杯だった。

だが、俺の心臓は、正直だった。

ドクン、ドクンと、まるで、警鐘のように、激しく脈打っている。

そして、その瞬間。

千明は、はっきりと、見た。

俺の胸に灯った、温かい光が、今までで一番、強く、そして、眩しく、輝くのを。

同時に、千明自身の心臓もまた、彼の鼓動に呼応するかのように、甘く、そして、切なく、高鳴っていた。

祭囃子の音が、遠くに聞こえる。

夏の夜の、生ぬるい風が、二人の間を、そっと、吹き抜けていった。


第4部:夏休みの終わりと芽生えた感情

あの夏祭りの夜を境に、俺と見附の間の空気は、明らかに変わった。

それは、まるで、化学反応の前と後みたいに、不可逆的で、そして、決定的な変化だった。

俺たちは、それまでのように、気軽な「バディ」として、隣を歩くことが、できなくなっていた。

お互いの存在を、今までとは、全く違う意味で、強く、意識してしまっていたからだ。

夏休みの残り、約一週間。

俺たちは、宿題を終わらせるという、もっともらしい口実のもと、毎日のように、町の図書館で顔を合わせていた。

広々とした、静かな閲覧室。隣同士の席に座り、それぞれが、参考書や問題集を広げる。

だが、ペンを走らせる音と、ページをめくる音の合間に、俺たちの意識は、常に、隣にいる相手へと向いていた。

ふとした瞬間に、視線が合う。

目が合うと、二人とも、まるで、感電したかのように、びくりと体を震わせ、そして、慌てて、それぞれの机の上へと、視線を逃がす。

彼女が、髪を耳にかける、そのささやかな仕草に、俺の心臓が、無意味に跳ねる。

俺が、難しい数式を解くために、眉間に皺を寄せる、その横顔を、彼女が、盗み見している気配を感じる。

そのたびに、俺の胸の奥で、あの、温かい光が、静かに、灯っては、消える。

そして、彼女は、その光を、確かに、感じ取っている。

言葉は、ない。

だが、その沈黙は、どんな雄弁な会話よりも、多くの感情を、俺たちの間で、交わし合っていた。

もちろん、「落とし物探し」も、続けていた。

だが、その目的は、もはや、当初の「現象の観測」や「データ収集」からは、大きく逸脱していた。

それは、俺たちが、二人でいるための、大切な「口実」になっていた。

「光が見える」という、彼女の言葉を合図に、図書館を抜け出し、夏の終わりの街を、二人で歩く。

その時間は、俺にとって、何よりも、かけがえのないものになっていた。

そして、八月三十一日。

長く、そして、短かった夏休みの、最後の日がやってきた。

俺たちは、どちらからともなく、あの、すべてが始まった場所の一つである、バス停へと、足を運んでいた。

光が消えたお守りを手に、彼女が泣き、俺が、初めて「守りたい」という感情を抱いた、あの場所だ。

ベンチに並んで座り、俺たちは、流れていく雲を、黙って眺めていた。

夏休みが終わってしまうことへの、一抹の寂しさと、明日から、また、教室で会えることへの、淡い期待。

そんな、アンビバレントな感情が、胸の中で、入り混じる。

「……見附」

俺は、意を決して、口を開いた。

この夏、ずっと、俺の頭の中で、考え続けていた問い。

それを、今、彼女に、ぶつけなければならない、と思った。

「お前の、その能力は。お前にとって、幸せなものなのか?」

俺の問いに、見附は、少しだけ、驚いたように、目を見開いた。

そして、その視線を、自分の足元に落とし、寂しそうに、微笑んだ。

「……分からない」

彼女は、静かに、そう答えた。

「嬉しいことも、たくさんあったよ。落とし物を見つけて、『ありがとう』って言ってもらえた時とか。落田くんの、大事なペンを見つけられた時とか」

彼女は、そこで、一度、言葉を切った。

「でもね。悲しいことも、同じくらい、たくさんあった。あの、お守りの時みたいに、間に合わなくて、光が消えちゃうのを、ただ、見てることしかできなかった時とか……」

その声は、夏の終わりの、夕暮れの風のように、もの悲しく、響いた。

「私にも、分からないんだ。この目が、どうして、私にあるのか。でも、光が見えちゃうから。見えちゃうから、放っておけないだけなんだよ」

それは、彼女の、偽らざる本心だったのだろう。

正義感でも、使命感でもない。

ただ、そこに「光」があるから、手を伸ばさずにはいられない。

その、あまりにも純粋で、そして、危うい衝動。

俺は、そんな彼女を、どうしようもなく、愛おしい、と思った。

そして、同時に、決意した。

「……俺が、お前の隣にいる理由を、考えようと思う」

俺は、彼女の方を見ずに、前を向いたまま、そう告げた。

「え……?」

「俺は、お前みたいに、光を見ることはできない。お前みたいに、人の心に、寄り添うこともできないかもしれない」

俺は、言葉を、一つ一つ、選ぶように、続けた。

「だが、俺は、考えることができる。論理的に、物事を分析して、最善の道を探すことができる。お前が、その力に振り回されて、傷つきそうになった時。俺が、お前の、羅針盤になってやる」

それは、バディとして、相棒として、という意味だけではない。

もっと、違う形で。

もっと、個人的な意味で。

彼女を、支えたい。

それが、俺なりの、不器用な、告白だった。

俺の言葉を聞いた、見附は、何も言わなかった。

ただ、隣で、息を呑む気配がした。

そして、俺が、ちらりと、彼女の横顔を盗み見ると。

彼女は、顔を、夕焼けよりも、真っ赤に染めて、俯いていた。

その瞬間。

千明は、感じていた。

自分の、心臓のあたりが。

今まで感じたことのない、温かい光で、満たされていくのを。

それは、落田心一という存在が、彼女の中で、かけがえのない、「大切なもの」になった、確かな証だった。

新学期が、始まる。

久しぶりに顔を合わせるクラスメイトたちの、賑やかな声。

俺は、自分の席に着き、何気なく、見附の席の方を見た。

彼女も、ちょうど、こちらを見ていた。

目が、合う。

二人の間に流れる空気は、夏休み前とは、まるで、違っていた。

その変化に、いち早く気づいた雨宮玲奈が、教壇の近くで、やれやれ、とでも言うように、深いため息をついたのを、俺は、視界の隅で、捉えていた。

夏が、終わった。

そして、二人の、新しい物語が、始まろうとしていた。

まだ、言葉にはならない、淡い恋心の光。

その光が、これから、どんな落とし物を、そして、どんな未来を、照らし出していくのか。

長く、そして、少しだけ、切ない二学期が、今、静かに、その幕を開けた。

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