高2・3月:春の別離と、静かなる侵食
第1部:体育祭の残照
高校生活、最初で最後の体育祭が終わった。
俺たちの二年二組は、劇的な逆転劇の末、総合優勝という最高の栄誉を手にした。その熱狂と興奮は、数日が過ぎても、まだ校内の空気の中に、陽炎のように揺らめいていた。
教室では、誰かが撮った写真を見ながら、あの日のプレーを振り返る声が、あちこちで上がっている。その輪の中心には、いつも、誇らしげなクラスメイトたちの笑顔があった。
俺は、そんな平和な光景を眺めながら、観測ノートに、ペンを走らせていた。
『体育祭に関する考察:集団的熱狂が、個人の、精神状態に、及ぼす影響について』
特に、俺の、興味を引いたのは、玲奈の、事例だった。
優勝が決まった、あの瞬間。彼女の、胸に灯っていた、あの、穏やかすぎる、桜色の光に、確かに、亀裂が、入った。そして、そこから、漏れ出した、本物の、感情の光。
だが、その変化は、一瞬だった。
祭りが、終わり、日常が、戻ってくると、彼女の光は、再び、あの、完璧な、平穏を取り戻していた。まるで、傷口が、かさぶたで、覆われるように。
偽物の光は、自己修復機能さえ、備えているというのか。
その、あまりにも、不気味な、仮説が、俺の頭を、離れなかった。
「……心一くん」
隣の席で、千明が、心配そうな顔で、こちらを、見ていた。
「……また、玲奈のこと、考えてた?」
「……ああ」
「……そっか。……私も、だよ」
彼女もまた、感じていた。
玲奈の、その、穏やかすぎる、笑顔の裏にある、言いようのない、空虚さを。
友人として、恋人として、俺たちは、無力だった。
ただ、すぐそばにある、異変を、観測することしか、できない。
その、もどかしさが、俺たちの心に、重く、のしかかっていた。
そして、その、もどかしさは、数日後、決定的な、現実となって、俺たちに、突きつけられることになる。
クラス替え。
それは、友情や、恋の、行方さえも、左右する、年に一度の、運命の、シャッフル。
その、審判の日が、すぐそこまで、迫っていた。
第2部:友情の座標
クラス替えの発表前日。
俺たち三人は屋上にいた。
冷たい三月の風が俺たちの髪を揺らす。眼下には夕暮れに染まる街並みが広がっていた。
誰も何も話さない。ただ明日下される運命の審判を前に、それぞれの想いを巡らせていた。
「……もし」
最初に沈黙を破ったのは千明だった。
「……もし私たち三人、ばらばらになっちゃったらどうしよう……。私、一人になったらきっと何も……」
「馬鹿ね」
玲奈がその言葉を遮った。
「……クラスが離れたくらいで、あんたが一人になるわけないでしょ。私がいる。……心一がいる」
そのぶっきらぼうな、しかし確かな愛情に満ちた言葉。
だが千明の不安は消えない。俺は意を決して口を開いた。
「……千明。思い出せ」
俺は空を指さした。一番星が瞬き始めている。
「俺たちの関係は星空だ。俺とお前は互いの引力で結ばれた連星。そして玲奈はその軌道を外から見守り時には修正してくれる観測者だ。たとえ見える位置が変わってもその引力がなくなることはない。俺たちの座標は変わらない」
俺の回りくどい比喩。だが千明には伝わったらしかった。彼女は涙ぐみながら頷いた。
「……うん」
その時だった。玲奈がふっと穏やかに微笑んだ。
「……大丈夫よ千明」
彼女は言った。
「どんな結果になっても変わらないわ。私たちはずっと友達よ。だから何も心配することはないの」
そのあまりにも静かで達観したような言葉。
以前の彼女ならきっと「クラスが離れたくらいで揺らぐような関係じゃないでしょ!」と檄を飛ばしたはずだ。だが今の彼女は違う。すべての変化をただ受け入れるかのようなその静かな諦観。
それは大人びているようでもあり、あるいは何かを諦めてしまったようにも見えた。
千明は、その玲奈の穏やかすぎる笑顔の奥で、彼女を包む桜色の光が少しも揺らがないことに、言いようのない不気味さを感じていた。友人との別れの可能性を前にして、なぜ彼女の光はこれほどまでに平穏なのだろうか、と。
その日の帰り道、俺たちは最後の「任務」に遭遇した。
駅の改札前で一年生の男子が、生徒手帳を失くして半泣きになっていたのだ。
光は単純なパニックの赤い光。俺たちはもはや阿吽の呼吸で行動した。
玲奈が駅員に事情を説明し、翼が周囲の注意を引き、俺と千明が光を追う。
五分後。俺たちは自販機の下で生徒手帳を発見し持ち主の元へと届けた。
感謝の言葉と安堵の笑顔。それは俺たちが二年二組で過ごした最後の日々を飾るにふさわしい、温かい光景だった。
俺たちの連携は完璧だった。明日このチームが解散させられてしまうかもしれないなんて、嘘のようだった。
第3部:審判の日、春の別離
そして運命の三月二十四日。
終業式の後、全校生徒が中央掲示板の前に殺到していた。そこに三年生の新しいクラス名簿が張り出されるのだ。
悲鳴と歓声が入り混じり巨大な渦となって校庭に響き渡る。
俺たち三人もその渦の中へと飛び込んでいった。
「きゃっ!」
人の波に押され千明がよろめくのを、俺はとっさに支えた。
「大丈夫か」
「うん……」
俺たちは肩を寄せ合いながら必死で掲示板の前へと進む。
そしてついにその白い紙の前にたどり着いた。
無数の名前の羅列。俺は息を殺しその文字を目で追った。自分の名前より先に彼女たちの名前を。
『三年一組』
そのクラス名簿に俺は自分の名前を見つけた。
『落田 心一』
そしてその二つ下に。
『見附 千明』
「……あった……!」
俺と千明は同時に声を上げた。
同じクラスだ。よかった。心の底から安堵の息が漏れた。
だが俺たちの喜びは一瞬で凍りついた。
玲奈の名前がない。一組の名簿に彼女の名前はどこにもなかった。
俺たちは血の気が引くのを感じながら、隣のクラス名簿へと視線を移す。
二組、三組、四組……。
そしてついに見つけた。
『三年五組 雨宮 玲奈』
五組。それは文系の特別進学クラスだった。俺たち一組とは校舎の階も違う。
……離れてしまった。
その事実が冷たい現実となって俺たちの胸に突き刺さる。俺たちのトライアングルは崩れたのだ。
俺たちが呆然と立ち尽くしていると、背後から声がした。
「……なんだ、あんたたち。そんな世界の終わりのような顔して」
玲奈だった。
彼女は俺たちが見ている名簿をちらりと見ると、こともなげに言った。
「あら、私五組なのね。……残念だったわね千明。あんたのお守り役がいなくなって」
その声には悲しみも寂しさも微塵も感じられなかった。ただ穏やかな事実確認。それが異常なほど不自然で俺たちの胸を締め付けた。
「……そんなこと……!」
千明の瞳に涙が浮かぶ。
「そんなことないよ! 寂しいに決まってるじゃない!」
「そう?」
玲奈は不思議そうに首を傾げた。
「でも仕方ないじゃない。決まったことなんだから。……大丈夫よ。昼休みには会えるんだし」
彼女はそう言ってにっこりと微笑んだ。その完璧な聖母のような笑顔。
千明は戦慄した。親友との別離というこの決定的な瞬間にさえ、玲奈の胸に灯る光は完璧なまでに穏やかな桜色のまま、微動だにしていない。悲しみの青も寂しさの灰色も一欠片たりとも混じっていない。
あり得ない。人間である限りそんなことは絶対にあり得ないのだ。
その光は美しい。しかしあまりにも人間離れしている。それは本物の平穏ではない。感情そのものが奪われた、空っぽの平穏だ。
「じゃあ私もう行くわね。新しいクラスの友達と挨拶してこないと」
彼女はそう言ってひらりと手を振ると、俺たちに背を向け歩き去っていった。
その後ろ姿は少しも迷いがなく、そしてどこまでも軽やかだった。
あまりにも玲奈らしくないその別れの姿。
俺と千明はただ呆然と、その小さな背中が雑踏の中へと消えていくのを見送ることしかできなかった。
第4部:静かなる侵食
俺と千明は桜並木の下で立ち尽くしていた。
春の訪れを告げる柔らかな風。舞い散る花びら。
そのあまりにも美しい風景が、今の俺たちの心にはどこか空々しく映っていた。
「……心一くん」
千明が震える声で言った。
「……玲奈の光、やっぱりおかしいよ」
彼女は俺のコートの袖を強く握りしめた。
「……今日の玲奈の光、最後までずっと綺麗すぎた。私たちが離れ離れになるって決まった時でさえ、少しも揺らめかなかった。悲しみの色なんて全然見えなかった。……あんなの玲奈じゃない。絶対におかしいよ……!」
その悲痛な訴え。
俺の頭の中で今まで散らばっていたパズルのピースが、一つの恐ろしい絵を結び始めた。
玲奈の最近の不自然な落ち着き。受験への焦りのなさ。体育祭での闘争心の欠如。そして別離に対する異常なまでの平然とした態度。
千明が感じていた「シンプルすぎる光」という違和感。
そのすべてが、一つの線で繋がった。
「……あのブレスレットだ」
俺は呟いた。
「二月のあの日から彼女がずっと身につけている、あの……」
偽物の光。
俺たちは一月のあの日、受験生のお守りからそれを観測した。
持ち主の本当の感情を覆い隠し偽りの幸福を与える光。
その正体不明の光が今、俺たちの最も身近な存在を蝕んでいる。
玲奈は気づいていない。自分自身がゆっくりと何者かに乗っ取られようとしているその恐ろしい事実に。
彼女が感じている平穏は本物ではない。アストルという謎の存在が仕掛けた、甘美な毒なのだ。
そして俺たちは彼女と離れてしまった。
毎日顔を合わせその変化を間近で観測することができなくなってしまった。
侵食は静かに、そして確実に進んでいくだろう。俺たちが気づかない場所で。
俺たちの高校三年生という最後の一年間。その始まりを告げるチャイムは、すでに不吉な響きを帯びていた。
俺たちは戦わなければならない。
目に見えない敵と。そして何よりも大切な友人を救い出すために。
俺は隣で震える千明の肩を強く抱き寄せた。
春の空はどこまでも青く、そして残酷なほどに美しかった。




