高2・3月:最後の体育祭と、桜色の不協和音
第1部:祭りの前の静かなる波紋
三月。長く感じられた二年生としての時間も最後の定期テストが終わりを告げると、まるで早送りのようにその速度を上げた。
使い古した教科書、ノートに刻まれた無数の数式、そして教室の窓から見える冬枯れの木々に芽吹き始めた小さな緑の兆し。そのすべてが、一つの季節の終わりと新しい季節の始まりを俺たちに告げていた。
「うっしゃあ! 体育祭、絶対優勝すんぞ、俺たち!」
学年末テスト最終日の放課後。解放感に満ちた教室で翼が机の上に仁王立ちになって叫んだ。
その声にクラス中の男子たちが雄叫びで応える。
高校生活、最初で最後の体育祭。
俺たちの学年は二年生の時、グラウンドの全面改改修工事という不運に見舞われ体育祭が中止になっていた。だからこそ三年生になる直前、この三月に行われるイレギュラーな体育祭にかける皆の想いは例年以上に強かった。
「心一! お前もリレーの選手だからな! 手ぇ抜くんじゃねえぞ!」
「……善処する」
俺はうんざりした顔で答えながらも、その教室の熱気に悪い気はしていなかった。
隣では千明が「頑張ってね!」と太陽のような笑顔で俺を見上げている。その笑顔だけで俺の出場理由は十分に満たされる。
だがそんな賑やかな教室の片隅で、俺と千明だけが、一つの静かな違和感に気づいていた。
それは玲奈のことだった。
俺たちと同じ二年二組の仲間であり体育祭の実行委員としてクラスをまとめる彼女。その手腕は相変わらず完璧だったが、最近の彼女はどこか様子が違うのだ。
「……玲奈、実行委員の仕事大変だね」
千明が心配そうに声をかける。
「ええ。まあ、誰かがやらなければならないことだから」
玲奈はそう言って穏やかに微笑んだ。
以前の彼女なら「面倒だけど仕方ないでしょ」と、少しだけ棘のある、しかし人間味のある言い方をしたはずだ。だが今の彼女は違う。その聖母のような完璧な笑顔。その手首で静かに輝く、あのピンク色のブレスレット。
千明には、見えていた。
彼女の心の光が、感情の揺らぎを一切見せない、穏やかで均一な桜色の光に覆われているのを。それは美しく、そしてどこまでも不自然だった。
「玲奈の光、すごく穏やかで綺麗……。でもなんだろう、この感じ。……シンプルすぎる気がする」
以前千明が呟いたその言葉が、俺の心の片隅に小さな棘のように引っかかっていた。
「そういえばさ」
翼が話題を変えるように言った。
「今年の体育祭、マジで楽しみだよな! 俺たちの学年、去年グラウンドの改修工事で中止になっちまったから今年が最初で最後なんだぜ!」
そうだ。俺たちの学年は不運にも二年生の時の体育祭が中止になっていた。だからこそ高校生活最後の体育祭にかける皆の想いは、例年以上に強い。
「……そうね。どうせなら総合優勝、狙いたいわね」
玲奈が静かに闘志を燃やす。その横顔はいつもの彼女らしかったが、千明は、その心の光が全く揺らめかないことに、やはり言いようのない違和感を覚えていた。
第2部:完璧なアスリート
体育祭までの、一週間。
学校は本番に向けて日に日にその熱量を高めていった。放課後のグラウンドは各クラスの練習に励む生徒たちの活気で溢れている。
俺たちの二年二組もまた翼を中心として総合優勝を目指し猛練習に励んでいた。
俺が出場するのはクラス対抗リレー。俺は第三走者、そしてアンカーはもちろん、クラスの女子の中で一番の俊足である玲奈が務めることになっていた。
その日の放課後、俺は千明と共にリレーの練習をしていた。
バトンパスの練習。「心一くん、もっと腕をしっかり伸ばして!」「分かっている。タイミングの問題だ」
俺たちはああでもないこうでもないと、言い合いながら何度も練習を繰り返した。その何気ない時間さえもが愛おしい。
その時だった。グラウンドの向こう側で、一人黙々とトラックを走る玲奈の姿が目に入った。
そのフォームは完璧だった。無駄のない美しい動き、まるで機械のように正確なペース。
だが、そのあまりにも完璧な走りに、俺はある種の違和感を覚えた。
そこに闘争心が感じられないのだ。ただ淡々とプログラムをこなしているかのような、空虚な走り。
「……玲奈、すごいね」
千明がぽつりと呟いた。
「うん。すごく速い。……でもね」
彼女は悲しそうに目を伏せた。
「……玲奈の光、少しも燃えてないの。体育祭なのに。勝負なのに。ずっとあの穏やかな桜色のまま。……昔の玲奈なら、きっともっとギラギラした『絶対に負けたくない』っていう、青い炎みたいな光を放っていたはずなのに……」
千明の言葉が俺の胸に突き刺さる。
そうだ。玲奈は変わってしまった。彼女から人間らしい感情の揺らぎが失われている。
それは成長や成熟とは明らかに違う、何か別のものだった。
その日の帰り道、俺たちは体育祭の準備でごった返す体育倉庫の裏で、一つの「落とし物」に遭遇した。
それは泥だらけになった一枚のゼッケンだった。名前の欄には『雨宮 玲奈』と書かれている。一年生の時の体育祭で使われるはずだったが、中止になったため未使用のまま忘れられていたものだろう。
千明がそれを拾い上げた瞬間、彼女ははっとしたように目を見開いた。
「……この光……!」
「どうした」
「……すごく懐かしい玲奈の光だ……! 青くてギラギラしてて『絶対に負けるもんか』って叫んでる! あの頃の玲奈の、本当の光だよ……!」
そのゼッケンに宿っていたのは、失われた過去の闘争心の光だった。
だがその光はひどく弱々しく、今にも消えそうに揺らめいていた。まるで今の玲奈の心の中で、かろうじて生き長らえている小さな残り火のように。
俺たちは言葉を失っていた。
どうすればいいのか、分からない。ただ無情にも体育祭の本番の日だけが、刻一刻と近づいてきていた。
第3部:桜色の疾走
体育祭当日。
雲一つない快晴。絶好の体育祭日和だった。
全校生徒の熱気がグラウンドに渦巻いている。
午前中の競技は順調に進んでいった。綱引き、玉入れ、障害物競走。
俺たちの二年二組は翼の獅子奮迅の活躍もあり、順調に得点を重ねていた。総合優勝の行方は、最終種目であるクラス対抗リレーに委ねられることになった。
そして運命の最終種目、クラス対抗リレーが始まろうとしていた。
俺は第三走者としてトラックの内側で体をほぐしていた。緊張で心臓が早鐘を打っている。
アンカーの位置で静かにストレッチをしている玲奈の姿があった。彼女の表情はどこまでも穏やかだった。まるでこれからピクニックにでも行くかのように。
そのあまりの平然とした佇まいが、逆に不気味だった。
「……心一くん」
千明が俺の元へ駆け寄ってきた。彼女は応援席から抜け出してきたらしい。その手には冷たいスポーツドリンクが握られている。
「……頑張って」
「……ああ」
「……玲奈のこと、見ててあげてね」
その小さな声。俺は何も言わずに頷いた。
俺に何ができるかは分からない。だが、やるしかないのだ。
パン、と乾いた号砲が響き渡る。
第一走者が一斉に飛び出した。凄まじいデッドヒート。歓声が地鳴りのようにグラウンドを揺らす。
俺たちのクラス二組はわずかにリードして第二走者へとバトンを渡した。
そして、俺の番が来た。
俺はチームメイトからバトンを受け取ると全力で走り出した。
心臓が張り裂けそうだ。足が鉛のように重い。だが俺はただ前だけを見て腕を振った。
アンカーの玲奈へと、この想いを繋ぐために。
最終コーナーを曲がりアンカーの玲奈の姿が目に入る。
俺は最後の力を振り絞り彼女へとバトンを渡した。完璧なバトンパス。
俺たちのクラスはトップで最終走者へと望みを託した。
第4部:勝利の違和感
玲奈が風のようにトラックを駆け抜けていく。
そのフォームは完璧だ。後続のクラスが必死で追いかけるが、その差は少しずつ、しかし確実に開いていく。
彼女は速かった。圧倒的に速かった。
だがその表情は能面のように変わらない。胸に灯る光も相変わらず穏やかな桜色のまま。まるで感情を失った美しい機械人形のようだった。
やがて玲奈は後続を大きく引き離したまま、一位でゴールテープを切った。
その瞬間、二年二組の応援席から爆発的な歓声が上がる。
俺たちは勝ったのだ。クラス対抗リレー優勝、そして総合優勝。
最高の結末。
クラスメイトたちがトラックになだれ込み、勝利の立役者である玲奈を担ぎ上げる。
「玲奈ー!」「よくやった!」「すげえ!」
賞賛と歓喜の渦。玲奈は仲間たちに担がれながら、困ったように、しかし完璧な笑顔で応えていた。
だが、俺と千明だけが、その歓喜の輪の中心で、言いようのない寒気を感じていた。
千明は呆然と呟いた。
「……勝った、のに。玲奈の光、少しも、変わらない……」
そうだ。
喜びも、達成感も、高揚感も、そこにはない。
周囲の熱狂とは裏腹に、玲奈の心の光だけは、完璧なまでに平穏な桜色のまま、微動だにしていない。
それはあまりにも異常で、人間離れした光景だった。
彼女は勝利という、人間が抱く最も強烈な感情の一つさえも、あの偽りの平穏の光に飲み込まれてしまったのだ。
閉会式。表彰台の中央で、玲奈が代表として優勝旗を受け取る。
スポットライトを浴び、全校生徒からの拍手喝采を受ける彼女。その姿はどこまでも誇らしく、美しかった。
だが俺と千明には、彼女が世界で一番孤独な存在に見えた。
周りをたくさんの笑顔に囲まれながら、たった一人だけ、本当の喜びを感じることができない。
その笑顔は完璧な仮面。その心の光は空っぽの平穏。
体育祭は終わった。俺たちのクラスは最高の栄誉を手にした。
だが俺たちの戦いはまだ終わっていない。むしろ、本当の戦いがこれから始まるのだと、俺は確信していた。
俺たちは救わなければならない。偽りの光に心を奪われた、俺たちの、たった一人の、大切な友人を。
その決意を胸に、俺は隣で静かに涙を流す千明の肩をそっと抱いた。
空はどこまでも青く、そして俺たちの未来を試すかのように、静かに見下ろしていた。




