高1・7月下旬:減衰する光と心の在り処
夏の扉が、すぐそこまで迫っていた。教室の窓から吹き込む風は、もはや涼やかさよりも、アスファルトの熱を含んだ生ぬるさに満ちている。終業式を数日後に控え、クラスメイトたちは、来たるべき四十日間の楽園――夏休みの計画に胸を躍らせていた。その浮き足立った喧騒の中で、俺と見附だけが、重く湿った秘密を共有し、どこか上の空でその時間を過ごしていた。
原因は、あのバス停で見つけた「消えかけの光」だ。
見附が指し示したベンチの下から、俺たちは一つの古びたお守りを見つけ出した。京都の、学業成就で有名な神社のものらしい。赤い紐は色褪せ、布地も薄汚れている。だが、誰かが長く、大切に身につけていたであろうことは、そのくたびれた様子からもうかがえた。
「この光、本当に消えそうだよ……。早く持ち主に返さないと!」
お守りを拾い上げた瞬間から、見附の様子は一変した。いつもの快活さは影を潜め、その表情には切迫した焦りの色が浮かんでいる。まるで、時限爆弾のタイマーでも見ているかのような、鬼気迫るほどの真剣さだった。
「落ち着け、見附。まずは、状況を整理しよう」
俺は、観測ノートを開きながら、彼女をなだめようとした。だが、彼女の耳には届いていないようだった。
「だって、この光、どんどん弱くなってるんだもん! このままじゃ、消えちゃう!」
「だから、その『光が消える』とは、どういうことなんだ? 具体的に説明しろ」
俺の冷静な問いかけに、見附ははっとしたように顔を上げた。彼女は、潤んだ瞳で俺を見つめ、震える声で言った。
「光が消えたら……もう、おしまいなの」
「おしまい、とは」
「持ち主が、その物を探すのを、完全に『諦めた』ってことだから。そうなると、私にも見つけられなくなる。その人の『大切』が、世界から一つ、本当に消えちゃうってことなんだよ!」
その言葉は、俺の胸にずしりと重く響いた。
人の「諦め」。
それは、希望や執着といった、ある種のエネルギーが尽きた状態だ。見附の能力は、そのエネルギーを「光」として捉えているに過ぎない。つまり、彼女が目にしているのは、単なる物理現象ではなく、人の心の、最も繊細で、そして残酷な断面図そのものなのだ。
俺は、初めて、彼女が背負っているものの重さを垣間見た気がした。これは、面白い「現象」などではない。他人の心の光と影に、否応なく触れ続けてきた彼女の日常は、俺が想像するよりも、ずっと過酷なものなのかもしれない。
「……分かった。急ごう」
俺は、観測ノートを閉じた。もはや、これは客観的な調査や分析の問題ではなかった。一刻も早く、このお守りを持ち主の元へ届けなければならない。俺たちには、時間が残されていない。
俺たちの奔走が始まった。
終業式までの、残り三日間。それが、俺たちに与えられたタイムリミットだった。
まずは、情報収集だ。俺は、論理的なアプローチを取ることにした。
「このお守りは、京都の北野天満宮のものだ。学業成就で有名だな。持ち主は、受験生である可能性が高い」
俺はスマホで神社の情報を調べ上げ、見附に告げた。
「じゃあ、三年生の先輩かも!」
「ああ。だが、三年生全員に聞き込みをする時間はない。もっと情報を絞り込む必要がある」
俺は、バス停の場所と、お守りの状態から、持ち主の人物像をプロファイリングしていく。
「このバス停を使うのは、主に駅の南側に住む生徒だ。そして、お守りがこれだけ古びているということは、少なくとも数年間は身につけていたと考えられる。高校受験、あるいは中学受験の時から持っていたのかもしれない」
一方、見附のアプローチは、俺とは全く異なっていた。彼女は、俺の推理を聞きながらも、じっとお守りを握りしめ、目を閉じている。
「……こっちな気がする」
不意に、彼女はそう言うと、駅とは反対方向を指さした。
「何か、根拠があるのか」
「ううん、ない。でも、このお守りが『こっちだよ』って、弱々しく呼んでる気がするの」
直感。非論理的。だが、俺はもう、彼女のその感覚を、頭ごなしに否定することはできなかった。俺の論理と、彼女の直感。二つを組み合わせれば、あるいは。
「……分かった。行ってみよう」
俺たちは、彼女が指し示した方向へと歩き始めた。それは、古い住宅街が広がるエリアだった。
しかし、歩いても歩いても、手がかりは見つからない。道行く人に尋ねてみても、「さあ、分からないわねえ」と首を傾げられるばかりだ。
「やっぱり、俺の推理の方が正しかったんじゃないか。三年生の教室を当たるべきだ」
焦りから、俺は少しだけ苛立った口調で見附に言った。
「……ごめん。でも、こっちな気がしたんだけどな」
見附は、しょんぼりと肩を落とす。彼女のその姿を見て、俺はすぐに自分の言葉を後悔した。違う。八つ当たりすべき相手は、彼女ではない。
「いや、悪かった。俺も焦っている」
「ううん、私のせいだよ。落田くんは、ちゃんと考えてくれてるのに、私はただ、感じるだけだから……」
「お前のその『感じる』力があったから、俺のペンも見つかったんだ。忘れたわけじゃない」
俺の言葉に、見附は少しだけ驚いたように顔を上げた。そして、小さく「ありがとう」と呟いた。
俺たちの間に、気まずい沈黙が流れる。
時間だけが、無情に過ぎていく。お守りの「光」は、見附によれば、もはや風前の灯火だという。
捜査二日目。俺たちは、作戦を変更した。俺の論理と彼女の直感を融合させる。俺が立てた「駅の南側に住む受験生」という仮説の範囲内で、彼女が「光」の気配をより強く感じる場所を探す、というものだ。
聞き込みを続ける中で、俺たちは、ある一人の生徒の噂を耳にした。
「そういえば、駅の南に住んでた田中先輩、最近見ないね」
「ああ、美術部の。推薦で美大を目指してたけど、うまくいかなくて、最近、学校も休みがちだって聞いたよ」
美術部。美大。推薦。
その単語が、俺の頭の中で一つの線として繋がった。
北野天満宮は、学問の神様であると同時に、芸術の神としても信仰されている。
田中先輩。三年生。駅の南側在住。
間違いない。この人が、お守りの持ち主である可能性が、極めて高い。
俺たちは、すぐさま田中先輩の自宅へと向かった。逸る気持ちを抑え、インターホンを鳴らす。
出てきたのは、人の良さそうな、彼女の母親だった。
俺たちが事情を説明し、お守りを見せると、母親は「まあ」と小さく声を上げた。
「これ……娘のものです。高校受験の時に、京都に旅行した際に、私が買ってやったもので……」
やはり、当たりだ。俺と見附は、顔を見合わせた。安堵の表情が、お互いの顔に浮かぶ。
「先輩は、いらっしゃいますか」
俺が尋ねると、母親の表情が、ふっと曇った。
「それが……あの子、一週間前に、田舎の祖母の家に……。少し、気持ちが落ち込んでしまって、環境を変えた方がいいだろうということになりまして」
その言葉は、俺たちにとって、絶望的な宣告に等しかった。
「一週間前……」
「ええ。推薦入試が、思うような結果にならなくて。ずっと大切にしていたこのお守りも、『もう、神頼みなんて意味ない』なんて言って、どこかに放り出してしまったようで……」
母親の言葉が、全ての謎を解き明かした。
推薦入試の失敗。それが、彼女の「諦め」の正体だった。夢を諦めた彼女にとって、もはやこのお守りは、何の価値もない、ただの過去の遺物になってしまったのだ。
「……そうですか。分かりました、ありがとうございました」
俺は、深く頭を下げ、その場を後にした。見附も、力なく俺に続いた。
田中先輩は、もうここにはいない。そして、彼女は、もうこのお守りを求めてはいない。
それは、俺たちがどう足掻いても、覆すことのできない「事実」だった。
帰り道。俺たちは、どちらからともなく、あのバス停に立ち寄っていた。
夕暮れのベンチに並んで座り、言葉もなく、遠くの空を眺める。
見附は、自分の手のひらに乗せたお守りを、じっと見つめていた。
「……あ」
不意に、彼女が息を呑むのが分かった。
俺が、彼女の顔を見ると、その大きな瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……見附?」
彼女は、何も答えない。ただ、その視線は、手のひらのお守りに釘付けになっている。
俺も、彼女の視線の先を追った。
俺の目には、相変わらず、ただの古びたお守りにしか見えない。
だが、彼女の目には、見えていたのだろう。
最後の光が、ふっと、力なく消えていく瞬間が。
持ち主の心が、完全に「諦め」を受け入れた、その決定的な瞬間が。
お守りから光が消えた、ということは、どういうことか。
それは、田中先輩が、もはや自分の夢を追いかけることを、完全にやめてしまった、ということの証明に他ならなかった。
俺たちが届けようとしていたのは、単なる物ではない。持ち主の「希望」や「執着」そのものだった。
そして、俺たちは、それに間に合わなかったのだ。
「……ごめんね」
見附は、消え入りそうな声で、何度もそう呟いた。
「間に合わなくて、ごめんね……」
その涙は、見ず知らずの先輩のために流しているのか、それとも、自分の無力さに対して流しているのか。
彼女は、その場に崩れ落ちそうなほど、小さく肩を震わせていた。いつも太陽のように笑っている彼女の、初めて見る、弱い姿だった。
俺は、その姿に、激しく心を揺さぶられた。
今まで、俺は彼女の能力を、興味深い「研究対象」として、どこか他人事のように見ていた。
だが、違った。
この能力は、彼女の心を、じわじわと蝕む諸刃の剣なのだ。他人の「諦め」を目の当たりにするたびに、彼女はこうして、一人で傷ついてきたのかもしれない。
俺は、どうすればいい?
気の利いた慰めの言葉など、一つも思い浮かばない。論理も、理性も、今、この瞬間、何の役にも立たない。
俺は、ただ黙って、彼女の隣に座り続けた。
そして、近くの自動販売機で買った、ぬるいお茶のペットボトルを、そっと彼女の手に握らせた。
「……ありがとう」
見附は、涙で濡れた顔を上げて、小さくそう言った。
その声は、ひどく、か細かった。
「人の心に、土足で踏み込んでいるのではないか」
玲奈に言われた言葉が、再び脳裏をよぎる。
そうだ。俺たちは、知らず知らずのうちに、他人の心の、最もデリケートな部分に触れていたのだ。そして、その結果、こうして傷ついている。
守りたい、と思った。
この、強がりで、お人好しで、そして、誰よりも脆い心を持った少女を、どうにかして守ってやりたい。
そんな感情が、俺の中に芽生えていることに、俺自身、戸惑っていた。
終業式の日。
夏休みの解放感に沸き立つ教室の喧騒は、やけに遠くに聞こえた。
俺と見附の間には、あの日以来、少しだけ気まずく、しかし、以前とは明らかに質の違う空気が流れていた。
それは、共に一つの「喪失」を体験した者だけが共有できる、静かで、そして重い絆のようなものだったのかもしれない。
ホームルームが終わり、生徒たちが蜘蛛の子を散らすように教室を飛び出していく中、見附が、俺の席にやってきた。
「あの……落田くん」
「……なんだ」
「夏休み、どうするの?」
「別に。受験勉強でもする」
「そっか。……あの、さ」
彼女は、何かを言いかけて、やめてしまった。その瞳には、まだ、あの日の悲しみの色が、うっすらと残っている。
「……また、付き合う」
俺は、ほとんど無意識に、そう口にしていた。
「え?」
「『落とし物探し』だ。夏休みも、付き合ってやる」
俺の言葉に、見附は、一瞬だけ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
そして、次の瞬間。
その表情が、ぱっと、雨上がりの空に架かる虹のように、明るく綻んだ。
「……うん!」
それは、まだいつもの太陽のような笑顔にはほど遠い、少しだけ、泣き出しそうな笑顔だった。
だが、俺には、それが、どんな笑顔よりも眩しく見えた。
長い、夏が始まる。
この四十日間が、俺たちの関係を、そして、この奇妙な能力との向き合い方を、どう変えていくのか。
屋上のフェンスの向こうには、どこまでも続く、青い空と白い入道雲が広がっていた。
その夏の空の下で、俺は、答えを探し続けなければならない。
俺は、見附千明という人間と、そして、俺自身の心と、どう向き合っていくべきなのか、という、決してテストには出ない、最も難しい問いに対する、答えを。




