高2・11月:懐疑論者の誕生日と、世界で一つの贈り物
第1部:極秘作戦、誕生日を祝え
十一月。文化祭の熱狂が遠い昔のように感じられる頃、校庭の木々は最後の輝きである紅葉を風に散らし、冬の訪れを静かに告げていた。
俺たちの高校二年生としての日常は、驚くほど穏やかに、そして順調に過ぎていた。クラスの不協和音は完全に消え去り、二年二組は今や学年でも有数のまとまりのあるクラスとして知られるようになっていた。
そして俺、落田心一と千明の関係もまた、秋の澄んだ空のように穏やかで安定した軌道に乗っていた。
その平和な日常に、新たな、そして俺にとっては極めて迷惑なプロジェクトが、秘密裏に立ち上がったのは十一月に入ってすぐのことだった。
「ねえ、玲奈」
昼休み、俺が少し席を外した隙に、千明が玲奈にひそひそと囁いていた。俺が教室に戻ると二人ははっとしたように口をつぐんだ。
……怪しい。
俺の分析的な思考が警鐘を鳴らす。彼女たちのその furtiveな(こそこそとした)行動。それは明らかに俺という観測対象から、何かを隠蔽しようとする意図の現れだ。
その日から俺の周囲で奇妙な現象が頻発するようになった。
俺が教室で読書をしていると、千明が何気ないふりをして近づいてきて尋ねる。
「ねえ心一くんって、好きな色とかある?」
「……特にない。すべての色は可視光線の波長の違いに過ぎない」
「そ、そっかー……」
またある時は、玲奈が俺に尋ねてきた。
「心一。あんた最近、何か欲しい物とかないわけ?」
「ない。現状の俺の生活環境は最適化されている。これ以上物を増やしてエントロピーを増大させる必要性は感じない」
「……そう。……あんたって本当に可愛くないわね」
極め付けは翼だった。
「なあ心一! お前、誕生日っていつよ!」
そのあまりにも単刀直入な質問。
俺はついに確信した。彼女たちが企んでいる、この極秘オペレーションの正体を。
――俺の、誕生日サプライズ計画。
俺の誕生日は十一月の中頃だ。俺自身、自分の生まれた日などカレンダー上の一つの数字以上の意味を見出したことはない。
だが彼女たちは違うらしい。その非合理的な記念日を盛大に祝おうと画策しているのだ。
まったく迷惑な話だ。
俺は気づかないふりをすることにした。彼女たちのその稚拙な計画を高みから見物するのも悪くない。
俺はこの茶番劇の結末を冷静に観測することに決めたのだ。心の中で大きなため息をつきながら。
一方その頃、千明は人生最大の難問に直面していた。
それは大学入試問題よりも遥かに厄介な問い。
――心一くんへの誕生日プレゼント、どうしよう!?
「うーん、うーん……」
彼女は玲奈と二人、放課後のカフェで頭を抱えていた。
「心一くん、何が欲しいか聞いても『何もいらない』しか言わないんだもん!」
「あいつはそういう奴よ。物欲ってものが絶望的に欠けてるのよ」
「本とかはどうかな?」
「あんたが選んだ本なんて、あいつ三十分で読み終わって『考察の余地がない』とか言い出すに決まってるわ」
「うう……。じゃあマフラーとかは?」
「ベタすぎるわね。それに、あいつ黒かグレーの服しか着ないじゃない。あんたがカラフルなマフラーなんてあげたら、一生使われないわよ」
玲奈の的確な分析に、千明はぐうの音も出なかった。
難しい。あの理屈っぽくて朴念仁で、でも世界で一番大好きな恋人を喜ばせるプレゼント。
そんな最適解がこの世界のどこにあるというのだろう。
千明は途方に暮れていた。
第2部:最適解としての贈り物
プレゼント選びは完全に暗礁に乗り上げていた。
千明は一人で街を彷徨った。デパート、書店、雑貨屋。あらゆる店を見て回ったが、これというものには出会えない。
心一くんが本当に喜んでくれるもの。彼のあの珍しい笑顔を見ることができる、特別な贈り物。
(……そうだ)
途方に暮れて公園のベンチに座り込んだその時、彼女はふと思い出した。
自分には誰にも真似できない特別な「目」があることを。
(光だ……!)
そうだ。ただ物として探すから見つからないんだ。
私が探すべきは、心一くんのあの心の光と共鳴するような「光」を放つ物。
彼の魂が喜ぶ贈り物。
その発想の転換は彼女に新しい道標を与えてくれた。
彼女は再び歩き出した。今度はただ漠然と商品棚を眺めるのではない。心の目を開き、特別な「光」を探すために。
彼女は彼が好きそうな場所を巡った。
知的好奇心を刺激する科学博物館のギフトショップ。古い知恵が詰まった神保町の古本屋街。そして最新の論理が詰まった秋葉原の電気街。
だがこれという「光」には出会えなかった。
日はすでに西に傾き、空はオレンジ色に染まっている。
諦めかけて家に帰ろうとしたその時だった。
彼女の足がふと止まった。
それは大通りから一本入った路地裏にある小さな店だった。
『古物商・時の螺旋堂』
そう書かれた古びた看板。ショーウィンドウには埃をかぶった顕微鏡や天球儀が並べられている。
怪しい。だがその店の奥から、彼女は確かに感じていた。弱くしかし凛とした不思議な光の気配を。
彼女は意を決してその店の扉を開けた。
カラン、とドアベルが鳴る。
店内は薄暗く、古い時計のカチコチという音だけが響いていた。
「……いらっしゃい」
店の奥から現れたのは、ルーペを目にかけた職人気質といった風貌の老人だった。
「……何かお探しかな、お嬢さん」
「あ、いえ……。その……」
千明は店の中を見渡した。壁には古い航海図。棚には年代物の万年筆やタイプライター。まるで時間旅行に来たかのような不思議な空間。
そして彼女は見つけた。あの光の源を。
店のいちばん奥のガラスケースの中、ビロードの布の上にそれは置かれていた。
真鍮でできた小さなコンパスだった。
手のひらに収まるほどの小さなサイズ。だがその存在感は圧倒的だった。
使い込まれ所々色が剥げているが、それが逆に長い時間を旅してきた証のように見えた。
そしてそのコンパスからは、確かに光が放たれていた。
それは誰かの「執着」の光ではなかった。物そのものが持つ「魂」の光。
千明はそれを「可能性の光」と呼んだ。それは知性と探究心を象徴する、あの心一の青みがかった金色の光と全く同じ質の光だったのだ。
「……これだ」
千明は呟いた。これしかない。彼に贈るべきプレゼントは。
「……お目が高いね、お嬢さん」
店主の老人が言った。
「それは第二次大戦中のイギリスの軍用コンパスだよ。長いこと持ち主の航海を支えてきた逸品だ。……どんな嵐の中でも決して方角を見失わなかったと言われている」
どんな嵐の中でも方角を見失わない。
その言葉は千明の胸に深く突き刺さった。
そうだ。心一くんは私の羅針盤だ。私が道に迷いそうになった時、いつだって正しい道を示してくれる。
ならば私が彼に贈るべきはこれなのだ。
あなたが私の道標であるように、私もあなたの進むべき道を照らす光でありたい。
そんな想いを込めて。
千明はそのコンパスを買うことを決めた。
それは彼女がなけなしのお小遣いをすべてはたいてもまだ足りないほどの値段だったが、店主は「嬢ちゃんのその真っ直ぐな目に免じて、勉強しとくよ」と笑って少しだけまけてくれた。
第3部:祝福の日、世界で一つの贈り物
そして俺の誕生日当日がやってきた。
俺はもちろん気づかないふりをしていた。
朝から千明はそわそわとして落ち着きがない。玲奈はそんな彼女を見ながらにやにやと笑っている。
そのあまりにも分かりやすい茶番劇。俺は内心ため息をつきながら、その「時」が来るのを待っていた。
放課後。案の定、千明と玲奈は俺の両腕を掴んだ。
「心一くん、ちょっと来て!」
「心一、観念しなさい」
俺は抵抗することなく、なすがままに彼女たちに連行されていった。
行き先は二年二組の教室だった。
ドアを開けた瞬間、パンパンとクラッカーの音が鳴り響いた。
「「「落田(心一)! 誕生日おめでとー!」」」
教室の中には翼や音無さん、江口、宮間さん、そしていつの間にか輪の中に加わっていた城戸まで、俺たちの親しい仲間たちが集まっていた。
教室はささやかに飾り付けられ、机の上にはジュースとスナック菓子が並べられている。
「……なんだこれは」
俺はわざとらしく言った。
「見て分かんねえのかよ! お前のためのサプライズパーティーだよ!」
翼が俺の肩をばんばんと叩く。
そのあまりにも真っ直ぐな祝福の言葉。俺の心の奥がじん、と熱くなるのを感じた。
……悪くない。いや、むしろかなり嬉しいと思ってしまっている自分がいた。
パーティーは賑やかに、そして和やかに進んでいった。
皆からそれぞれささやかなプレゼントをもらう。翼からはなぜかプロテインのシェイカー。玲奈からは俺が読みたがっていた洋書の専門書。
そのすべてが温かかった。
そして最後に、千明がもじもじと俺の前に立った。
その手には小さなラッピングされた箱が握られている。
クラスの皆の視線が一斉に俺たち二人に注がれる。
「……あのね、心一くん。……誕生日おめでとう」
彼女はそう言うと俺にその箱を差し出した。
俺はそれを受け取りゆっくりとリボンを解いた。
箱の中に入っていたのは、――真鍮製の古いコンパス。
そのあまりにも完璧な選択に俺は言葉を失った。
なぜ分かったんだ。俺が本当に欲しかったものが。いや、欲しいとさえ気づいていなかった俺の魂の形を。
俺はそのコンパスを手のひらに乗せた。
ずしりとした重み。長い時間を旅してきたその風格。そして何よりもその中心で揺れる一本の針。
それはただの方位磁石ではなかった。俺の進むべき道を指し示す、羅針盤そのものだった。
その時、俺の隣で千明が息を呑むのが分かった。
彼女には見えていたのだろう。
俺がそのコンパスを手にした瞬間、俺の胸に灯る青みがかった金色の探究心の光が今までで一番強く輝きを放つのを。
そしてその光がすぐに俺の彼女への愛情を示す黄金色の光と溶け合い、一つの完璧な光となるその奇跡の瞬間を。
彼女はただ嬉しそうに、そして少しだけ誇らしそうに微笑んでいた。
俺はようやく声を絞り出した。
「……ありがとう、千明」
俺のその心からの言葉に彼女は満面の笑みで頷いた。
俺は続けた。
「……これは俺が今まで受け取ったどんな物よりも、論理的でそして完璧な贈り物だ」
その俺なりの最大限の感謝の言葉。
それを聞いた仲間たちが「ひゅーひゅー!」と囃し立てる。
俺たちの周りには温かい祝福の光が満ち溢れていた。
懐疑論者の誕生日はこうして俺の人生で最も忘れられない一日となった。
その中心にはいつだって彼女の光があった。俺の唯一のそして絶対的な方角を示し続ける、愛おしい光が。
俺はそっと彼女の手を握りしめた。
その温もりこそが俺がこの世界で手に入れた、何よりも確かな宝物なのだから。




