高2・10月:秋桜祭の二重奏と、約束の鍵
第1部:祭りの最高潮と、まとわりつく視線
秋桜祭二日目。
祭りの最終日であるその日は昨日にも増して、校内は熱気に包まれていた。
俺たち二年二組のカフェ『修学旅行の思い出 ~もう一度、あの古都へ~』も朝から大盛況だった。口コミが広まったのか昨日以上に長い行列が教室の外まで伸びている。ステージでは江口と宮間さんのデュエットが心地よい音色を奏で、そのハーモニーはもはや俺たちのクラスの誇りとなっていた。
俺は技術ブースで機材の管理をしながら、そんな教室の光景を眺めていた。
昨夜、千明と交わした会話。嫉妬という非合理的な感情を彼女に受け入れられ、そして笑い飛ばされたことで俺の心は驚くほど軽くなっていた。もう迷いはない。俺は俺のままで彼女の隣にいればいいのだ。
「心一くん、お疲れ様! これ飲んで!」
休憩中、千明が俺に冷たい麦茶を差し出してくれた。その何気ない優しさが俺の疲れた体に染み渡る。
「……ああ、助かる」
「ううん。……昨日はごめんね。私、心一くんが悩んでるのに気づいてあげられなくて」
「……いや、俺の方こそ悪かった。くだらないことでお前を不安にさせた」
俺たちは顔を見合わせ、少しだけ照れくさく笑った。その穏やかな空気を切り裂くように、教室の入り口がにわかに騒がしくなった。
そこに立っていたのは昨日の、あの他校の男子生徒の集団だった。
「よお、また来たぜ可愛い店員さん」
リーダー格の男が昨日よりも馴れ馴れしい態度で千明に声をかける。
「……いらっしゃいませ」
千明の笑顔がわずかに引きつった。
「今日は俺たち本気だからさ。この後、うちの学校の奴らと後夜祭の打ち上げやるんだけど君も来ない? 絶対楽しいって!」
「すみません、私はこの後うちの学校の後夜祭があるので」
千明が丁寧に、しかしきっぱりと断る。
そのやり取りを俺は冷静な目で見つめていた。昨日のような心の嵐はない。ただ目の前の非合理的な集団に対する冷たい分析だけがあった。
彼らの目的は千明の同意ではない。友人たちの前で女子に声をかけるという行為そのものが、彼らのコミュニティにおける価値を高めるのだ。極めて原始的で非生産的な行動だ。
俺がそう分析している間に事態は動いていた。
「まあまあそう言わずにさ。連絡先くらい……」
男がしつこく千明に食い下がろうとした、その時だった。
「――お客様」
凛とした声が店内に響いた。
声の主はレジカウンターに立つ玲奈だった。
彼女は完璧な営業スマイルを浮かべながら、しかしその瞳は絶対零度の光を宿して言った。
「当店のスタッフに何か御用でしょうか。ご注文でしたら私が承りますが。……それ以外の個人的なお誘いでしたら、他のお客様のご迷惑になりますのでご遠慮いただけますか」
その丁寧な言葉遣いの裏にある有無を言わさぬ圧力。さすがは元風紀委員。
男たちは一瞬たじろいだが、リーダー格の男はまだ諦めていないようだった。
「なんだよ、ツレねえな……」
「そうだぜー! 俺の千明に気安く声かけてんじゃねえ!」
そこにさらに騒々しい声が割り込んできた。翼だった。
彼はカフェの備品であるお盆を盾のように構え、千明の前に立ちはだかる。
「千明は俺のマブダチなんだ! お前らみたいなチャラ男には渡さねえ!」
そのあまりにも暑苦しい友情の表明。それは火に油を注ぐだけだった。
「ああん? なんだてめえ」
他校の男たちが翼を睨みつける。一触即発の空気。
まずい。俺は技術ブースから飛び出そうとして、しかしその必要はなかった。
「……皆さん、お静かにお願いします」
静かな、しかしよく通る声がその場を制した。
城戸だった。
彼はいつの間にかその他校生たちの背後に立っていた。そして完璧な王子様スマイルを浮かべて言った。
「ここは皆さんが静かに雰囲気を楽しむためのカフェです。どうかご理解いただけますか」
その圧倒的なオーラと正論。そして彼の背後にいつの間にか集まっていた江口をはじめとするサッカー部の屈強な男たち。
多勢に無勢。リーダー格の男はちっと舌打ちをすると「……行くぞ」と仲間を促し、捨て台詞も吐かずに店を出ていった。
嵐は去った。千明がほっとしたように息をつく。
「……みんな、ありがとう」
「おうよ!」
翼が得意げに胸を張る。玲奈はやれやれと肩をすくめ、城戸は静かに微笑んで自分の持ち場へと戻っていった。
俺はその一連の光景を見ながら確信していた。
俺たちのクラスはもはやただの寄せ集めではない。一つの強固なチームなのだと。
そしてその中心にはいつだって千明がいる。彼女のその太陽のような存在が自然と皆を惹きつけ、そして動かすのだ。
俺はそんな彼女の恋人であることを、心の底から誇りに思った。
第2部:先生の、失われた光
一人の生徒会役員が、各クラスを回って、一枚のポスターを配っていた。
後夜祭のタイムテーブルと、そのメインイベントの告知だった。
『秋桜祭フィナーレ! ミスター&ミス秋桜コンテスト開催!』
その文字に、クラスの女子たちが色めき立つ。
だが、その下に書かれた小さな文字に、誰もが目を疑った。
『今年のテーマは「逆転」! ミスコンには男子が、ミスターコンには女子が出場します!』
「「「ええええええ!?」」」
教室がどよめきに包まれる。
「マジかよ!」「面白そうじゃん!」「誰が出るの!?」
生徒会役員はにやりと笑い、一枚の推薦用紙をヒラヒラさせた。
「というわけで、二年二組さん! この、栄えある、『ミス秋桜コンテスト』に、出場する男子代表を、一人推薦してください! 締め切りは一時間後!」
その無茶苦茶な要求。
クラスの視線が一斉に、教室内の男子生徒へと注がれる。
「やっぱり、江口じゃない?」「いや、サッカー部はもうこりごりだって!」
「じゃあ翼は?」「あいつは、面白いけど華がねえ!」
そんな失礼な会話が飛び交う中、
一人の女子生徒がぽつりと呟いた。
「……ねえ、城戸くんとか、どうかな……?」
その一言。
それがすべての始まりだった。
その場の女子たちの意見が、一瞬で一つにまとまった。
「「「それだ!!!!」」」
「え、ちょ、待って……!」
教室の隅で、静かに、作業をしていた城戸が、顔を真っ青にする。
「城戸くんなら、絶対、綺麗だよ!」「顔小さいし、手足長いし!」「私たちで、完璧に、プロデュースするから!」
女子たちの、暴走はもう誰にも止められない。
彼女たちはすでに完璧なシナリオを、頭の中に描き上げていた。
あの、完璧な王子様が、女装してステージに立つ。
その、究極のギャップ。
これ以上のエンターテイメントはない。
「いや俺は、そういうのは、本当に、苦手で……!」
城戸は必死で抵抗する。
だが、一度火がついた乙女たちの情熱は消せない。
「はい、決定ー!」「推薦理由は、『クラスの、総意』で、よし!」
こうして城戸雅也は、本人の意思とは全く無関係に二年二組の代表として、後夜祭のメインステージへと、その身を捧げることになったのだった。
その絶望に満ちた彼の表情を、俺は少しの同情と、かなりの安堵と共に眺めていた。
……俺じゃなくて、よかった。
午後の喧騒がピークに達した頃、俺たちのカフェに一人の来客があった。
それは若い女性の教師だった。確か一年生の現代文を担当している佐藤先生だ。
彼女は何か探し物をしているのか、落ち着かない様子で店内をきょろきょろと見回していた。
「……あの、何かお探しですか?」
千明が声をかけると彼女ははっとしたように顔を上げた。
「あ、いえ、ごめんなさい! ちょっと探し物をしてて……。気にしないで!」
彼女はそう言って無理に笑顔を作ったが、その表情は明らかに追い詰められていた。
そして千明は見ていた。彼女の胸の奥から放たれる強いパニックの光を。燃えるような赤い焦りの光。
「……先生」
千明はもう一度彼女に声をかけた。
「……もしかして、落とし物ですか?」
その一言に佐藤先生の瞳が大きく見開かれた。そして次の瞬間、その瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……う……。ごめんなさい……。どうしよう……」
彼女はその場にしゃがみ込み、顔を覆ってしまった。
ただ事ではない。俺と玲奈も彼女の元へ駆け寄った。
俺たちの文化祭最後の「事件」が始まろうとしていた。
俺たちは佐藤先生をカフェのバックヤードになっている準備室へと案内した。
彼女は少し落ち着きを取り戻したのか、途切れ途切れに事情を話してくれた。
彼女が失くしたものは一本の小さな古い鍵だった。
「……あの鍵は……」
彼女は震える声で言った。
「……婚約者がくれたオルゴールの鍵なんです」
彼女には来年の春に結婚を約束した恋人がいるのだという。そしてその彼もまた、この高校の卒業生だった。
「彼は高校生の時、私に告白してくれました。……この学校のある特別な場所で。その時に彼は手作りのオルゴールをプレゼントしてくれたんです。『このオルゴールが俺の気持ちの鍵だから。絶対に失くさないでくれ』って……」
そのオルゴールの中には彼からのプロポーズのメッセージが隠されているのだという。
「……今日、文化祭で疲れている彼のために、お弁当を作ってきたんです。そのお弁当と一緒にあのオルゴールを渡して驚かせようと思って……。学生の時の気持ちを思い出してもらおうって……。でもその鍵だけをどこかで落としてしまって……!」
あまりにもロマンチックで、そして切実な物語。
千明の瞳が潤んでいる。
「……大丈夫です先生! きっと見つかります!」
「でも、もう文化祭も終わっちゃう……! 彼はもうすぐここに来るはずなのに……!」
タイムリミットは後夜祭が始まるまでの約一時間。広大な校内。人の喧騒。絶望的な状況だった。
だが俺たちには最強の武器がある。
「千明」
俺の呼びかけに彼女はこくりと頷いた。
「……光は見える。先生の心からはもちろん強い焦りの光が。でもそれとは別に鍵そのものからも光が出てる」
「どんな光だ」
「……すごく古くて優しい金色の光。でも不思議なの。その光、一人分じゃない。二人の想いが重なり合ってる。そんな二重奏みたいな光……」
二重奏の光。それは先生とその婚約者、二人の思い出が宿っている証拠。
「光はどこからだ」
「……こっち! 旧校舎の方角から!」
旧校舎。そこは今はほとんど使われていない古い木造校舎だ。
俺たちの頭に一つの可能性が浮かんだ。先生と婚約者の「秘密の場所」とは。
俺たちは走り出した。
玲奈はカフェの留守をクラスメイトに頼み、俺たちの後を追う。
俺たちの最後の「任務」だ。
第3部:約束の鍵と、祭りの終わり
旧校舎は文化祭の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
千明は迷うことなく三階の一番奥にある一つの教室を指差した。
『第三音楽室』
その古びたプレート。俺たちは息を呑んだ。
そこは九月のあの日、江口と宮間さんが和解したあの音楽室だった。
ドアには鍵がかかっていなかった。
俺たちが中に入ると埃っぽい空気の中に、一台の古いグランドピアノが静かに佇んでいた。
千明はそのピアノへと一直線に向かう。
そして鍵盤の蓋と本体の僅かな隙間を指差した。
「……この中に光が……!」
俺は慎重にその隙間に指を入れた。指先に冷たい金属の感触。
引きずり出すとそれは間違いなく、先生が探していた小さな銀色の鍵だった。
おそらく彼女は思い出のこの場所を訪れた際に、何かの拍子に落としてしまったのだろう。
「やった……!」
千明と顔を見合わせ拳を突き合わせる。
その時だった。背後でドアが開き一人の男性が入ってきた。
俺たちと同じ高校の卒業生だと一目で分かる、懐かしそうな表情。
彼の視線は俺たちの手の中にある鍵に注がれていた。
そしてその隣に、息を切らした佐藤先生が駆け込んできた。
「……あなた……!」
「……探しに来たよ。……見つかったのか、俺たちの宝物」
男性はそう言って優しく微笑んだ。
ドラマのような再会。俺たちは静かにその場を去ろうとした。
だが先生が俺たちを呼び止めた。
「待って! ……本当にありがとう。あなたたちのおかげだわ」
彼女は涙を浮かべながら深々と頭を下げた。
千明の目には見えていた。先生とその婚約者の胸の奥で、二つの金色の光が重なり合い、一つの完璧な光となって輝き出すその美しい瞬間が。
俺たちの文化祭最後の「任務」は、こうして完璧な形で幕を閉じた。
俺たちが自分たちの教室に戻ると、カフェはちょうど閉店作業の真っ最中だった。
窓の外はすでに夕暮れのオレンジ色に染まっている。
「お疲れ様ー!」
クラスメイトたちの明るい声が俺たちを迎えた。
やがて校内放送が、文化祭の昼の部の終了を告げた。
『――本日の文化祭はこれにて終了です。生徒の皆さんは速やかに片付けを行い、後夜祭の準備を始めてください』
そのアナウンスを聞きながら、俺はふと廊下に目をやった。
そこでは例の推薦委員会を名乗る女子たちが、げっそりとした顔の城戸を囲んでいた。その手にはフリルのついた明らかに女性用のドレスが握られている。
「さあ城戸くん、覚悟を決めて!」
「い、嫌だ……! 俺は絶対に嫌だからな……!」
その悲痛な叫びは、祭りの終わりの喧騒の中に虚しく消えていった。どうやら彼の運命は決まったらしい。南無。
俺は自分の席に戻り、窓の外を眺めた。
校庭では後夜祭の準備が始まっている。キャンプファイヤーの大きなやぐらが組まれていた。
俺たちの長くて短い二日間の祭りも、もうすぐ終わりを迎える。
「……心一くん」
隣で千明が俺の顔を覗き込んだ。
「後夜祭、楽しみだね」
「……ああ」
俺は頷いた。
祭りの終わりはいつも少しだけ寂しい。
だが今は不思議とそんな気持ちはなかった。
最高の仲間たちと、最高の恋人と共に過ごした、最高の二日間。
その温かい思い出が、俺の胸を満たしていた。
そして今夜、この祭りの最後を飾る、特別な時間がまだ残っている。
俺は隣で微笑む千明の手をそっと握った。
夕日が照らす教室の隅で、俺たちの二度目の文化祭は、そのクライマックスへと向かって静かに動き出していた。




