高2・10月:秋桜祭の狂想曲と、懐疑論者の嫉妬
第1部:秋桜祭の幕開けと、最初の波紋
十月。澄み渡る秋空の下、俺たちの高校は年に一度の熱狂に包まれていた。
秋桜祭。それが俺たちの文化祭の名称だ。
校門には生徒会が製作した巨大なアーチが飾られ、色とりどりの風船が秋風に揺れている。校舎の中はクラスTシャツに身を包んだ生徒たちの喧騒と、様々な模擬店の活気で満ち溢れていた。
この日のために俺たちが一ヶ月以上かけて準備してきた祭りが、ついに始まったのだ。
そして俺たち二年二組の企画『修学旅行の思い出 ~もう一度、あの古都へ~』。
その京都・奈良をテーマにしたカフェ兼写真展は、開場と同時に長蛇の列ができるほどの大盛況となっていた。
「いらっしゃいませー!」
法被を模した揃いのTシャツに身を包んだ千明が、太陽のような笑顔で客を迎え入れる。
教室の中は生徒たちの手作りとは思えないほど精巧に作られた、金閣寺や千本鳥居の背景画で飾られている。壁には修学旅行で撮影されたたくさんの写真が、楽しげなコメントと共に展示されていた。
そして教室の中央に作られた小さなステージでは、あの日俺たちがその再生のきっかけを作った江口と宮間さんが、ギターとキーボードで美しいアンサンブルを奏でていた。
その優しい音色がカフェ全体の雰囲気を温かく包み込んでいる。
俺は教室の隅に設けられた技術ブースでスライドショーの上映管理をしながら、その光景を眺めていた。
九月のあの不協和音に満ちていた教室が嘘のようだ。
クラスの誰もが自分の役割を誇らしげに、そして楽しそうにこなしている。その一人一人の胸から放たれる達成感と喜びのオレンジ色の光が混じり合い、教室全体を一つの巨大な温かい光の塊のように輝かせていた。
千明にはこの光景がどう見えているのだろうか。きっと俺が想像するよりもずっと眩しく、そして美しい光に満ちているに違いない。
「落田、ちょっとこっち見てくれる? 音響のバランスが少しおかしいのよ」
レジカウンターの中から玲奈が鋭い視線を送ってくる。彼女は持ち前の完璧な管理能力で、この混沌としたカフェの現場を一人で仕切っていた。
俺は頷くとミキサーの調整に取り掛かる。
千明は看板娘として客席を飛び回り、玲奈は司令塔として全体を指揮し、そして俺は裏方としてそのすべてを支える。
俺たちのトライアングルは、この文化祭という戦場においても完璧な連携を見せていた。
事件の最初の波紋は、そんな平和な午後のひとときに訪れた。
一団の男子生徒がカフェに入ってきた。他校の制服。少し着崩したその服装とやけに自信ありげなその態度は、彼らがこの文化祭を品定めに来た百戦錬磨の「ナンパ師」であることを物語っていた。
そして彼らの視線は案の定、一点に集中した。満面の笑みで注文を取る千明の姿に。
「ねえ、そこの店員さん」
グループのリーダー格と思われる長身の男が千明に声をかけた。
「はい、ご注文は?」
「ご注文は君の連絡先かな」
そのあまりにも使い古された口説き文句。俺は技術ブースの中で思わず舌打ちをした。
千明はきょとんとした顔で首を傾げた。
「え? すみません、当店ではそのようなメニューは扱っておりませんが……」
彼女の天然の切り返しに男は一瞬面食らったようだったが、すぐに気を取り直し爽やかな笑顔を作った。
「はは、面白い子だね。俺、隣の明邦高校の生徒なんだけど。君すごく可愛いから、よかったらこの後一緒に学校回らない?」
「すみません、今仕事中なので!」
千明はそう言ってぺこりと頭を下げると、他の客の注文を取りに行ってしまった。
男はつまらなそうに仲間と顔を見合わせた後、適当なドリンクを注文して席に着いた。だがその視線はずっと、店内を動き回る千明の姿を執拗に追い続けていた。
俺はミキサーのフェーダーを握りしめながら低い声で呟いた。
「……非合理的な行動だ。成功確率は限りなくゼロに近い」
俺の脳は冷静に状況を分析している。千明があんな男に靡くはずがない。
分かっている。分かっているが、俺の心臓のあたりが妙にざわついて不快だった。
俺はその不快な感情の正体を『嫉妬』という非生産的なバグであると断定し、思考のゴミ箱へとドラッグ&ドロップした。
はずだった。
第2部:後輩からの宣戦布告
最初の波紋はささいな出来事として過ぎ去っていった。
カフェの午後のピークも落ち着き、俺たち三人は交代で休憩を取ることにした。
「いやー、疲れた! でも楽しいね!」
「売上も上々よ。この調子なら目標金額達成できるわ」
俺たちは中庭のベンチに座り、他のクラスの模擬店で買ったクレープを頬張っていた。
その平和な時間を破ったのは一人の男子生徒だった。
「……あのっ!」
俺たちの前に立っていたのは見慣れない一年生の男子だった。
サッカー部のユニフォームを着ている。日に焼けたその顔は緊張で真っ赤になっていた。
彼は真っ直ぐに千明を見つめて言った。
「……み、見附先輩! ですよね!?」
「え? あ、うん、そうだけど」
「……あの、少しだけ二人でお話できませんか!」
そのあまりにも切実な申し出。俺と玲奈は顔を見合わせた。
これは十中八九、あれだ。
千明は少し戸惑っていたが、彼の真剣な眼差しに断りきれなかったのだろう。
「……う、うん。いいよ」
彼女はそう言うと俺たちの方を振り返り、「ごめん、すぐ戻るから」と言って、その一年生と共に少し離れた木陰へと歩いていった。
俺と玲奈はその後ろ姿を黙って見送っていた。
「……あらあら」
玲奈が面白そうに口元を緩めている。
「千明も隅に置けないわねえ。あの子、一年生の間で結構な人気者らしいわよ。サッカー部の期待の新人だって」
「……そうか」
俺は興味なさそうに相槌を打ちながら、クレープの最後の一口を口に押し込んだ。
甘すぎる。
俺はポケットの中で固く拳を握りしめていた。
木陰で話す二人の姿が視界の端に入る。何を話しているのかは聞こえない。だがその光景は俺の心をじわじわと蝕んでいった。
一年生の彼は必死に何かを語りかけている。千明は困ったように、しかし優しく微笑んでいる。
やがて一年生は深々と頭を下げた。千明もまた彼に何かを告げ、そして頭を下げた。
俺の脳内で高速のシミュレーションが開始される。
状況からの推測。彼のあの態度。千明のあの表情。
導き出される結論は一つ。
『告白』
その二文字が俺の思考回路を焼き切った。
分かっている。千明がそれを受ける可能性はゼロだ。確率論的には100%あり得ない。俺たちの関係性はこの一年半で強固に構築されている。
だが。
だが俺の心臓はまるで警鐘のように激しく脈打っている。
なぜだ。なぜ俺はこれほどまでに穏やかでいられない。
目の前で自分の恋人が他の雄に求愛されている。その事象を観測したことで俺のシステムに深刻なバグが発生しているのだ。
俺はそのバグの正体を知っていた。
嫉妬。非合理的で非生産的な所有欲。論理的には完全に無価値な感情。
だがその無価値なはずの感情が、今俺のすべてを支配しようとしていた。
「……あらあら」
隣で玲奈が俺の顔を覗き込んでにやにやしている。
「穏やかじゃないわねえ落田くん。顔、すごいことになってるわよ。般若のお面みたい」
「……うるさい」
俺はそれだけを言うのが精一杯だった。
俺はこの感情の暴走を抑え込むために、すべてのリソースを費やさなければならなかったのだから。
第3部:嫉妬の論理的帰結
「……お待たせ」
数分後、千明が俺たちの元へ戻ってきた。
その表情はどこか晴れやかで、そして少しだけ気まずそうだった。
「……終わったのか」
「うん……」
「で? なんて言われたのよ」
玲奈が早速尋問を開始する。
千明は観念したように白状した。
「……『入学した時からずっと好きでした』って……。『付き合ってください』って……」
やはりそうか。俺の握りしめた拳にさらに力がこもる。
「もちろん断ったわよね?」
「うん。ちゃんと断ったよ。『ごめんなさい。気持ちはすごく嬉しい。でも私、付き合ってる人がいるから』って」
その言葉。『付き合ってる人がいるから』。
そのフレーズを聞いた瞬間、俺の心のバグは一瞬で修復された。
そうだ。彼女には俺がいる。その当たり前の事実が何よりも強力なアンチウイルスとして機能した。
俺は深く息を吐き、体の力を抜いた。
だが俺のその心の嵐に千明は気づいていなかった。
彼女は俺の機嫌が悪いのだと勘違いしたのだろう。心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……心一くん? どうしたの? 黙り込んじゃって……」
俺の態度は確かにおかしい。さっきからほとんど口を聞いていない。彼女が不安になるのも無理はなかった。
だが俺はまだ自分の感情をうまく言語化することができなかった。嫉妬というあまりにも非合理的な感情をどう説明すればいい?
「……別に。次の展示の最適なルートについて再計算していただけだ」
俺の口から出たのはそんな白々しい嘘だった。
その俺の冷たい態度に、千明の表情が曇った。
「……そっか。……ごめん、邪魔しちゃったね」
彼女はそう言って俯いてしまった。
まずい。完全に悪循環だ。俺の心の問題が彼女を傷つけている。
だがどうすればいいのか分からない。
その重苦しい空気を見かねてか、玲奈が助け舟を出してくれた。
「はいはい休憩おしまい! カフェ戻るわよ! ほら千明、行くわよ!」
玲奈に腕を引かれ千明は名残惜しそうに俺の方を見ながら歩き出した。
一人ベンチに残された俺は、大きくため息をついた。
俺は一体何をやっているんだ。
その日の放課後。文化祭一日目が終わり、俺たちは後片付けをしていた。
千明はまだ俺と目を合わせようとしない。
彼女の胸の光がどうなっているのか俺には分からない。だがきっと悲しい色をしているに違いない。
俺は意を決した。もう逃げるのはやめだ。
俺は自分のこの非合理的な感情と向き合わなければならない。そしてそれを彼女に正直に伝えなければならない。
俺は一人で教室の飾り付けを直している千明の元へ向かった。
そして彼女の隣に立ち言った。
「……千明」
「……!」
彼女の肩がびくりと震えた。
「……昼間はすまなかった」
「……ううん、私が悪いの。心一くん忙しいのに邪魔しちゃって……」
「違う」
俺は彼女の言葉を遮った。
「……怒っていたわけじゃない。ただ俺の感情のパラメーターが、許容範囲外の数値を示していただけだ」
「……え?」
俺は観念してすべてを白状した。
俺の心の中で起こっていた不格好で、そして滑稽なバグについて。
「……非合理的な独占欲。一般的に嫉妬と呼ばれる感情だ。お前が他の雄に求愛されているという事象を観測したことで、俺のシステムに深刻なエラーが発生していた」
俺のそのあまりにも回りくどい告白。
それを聞いた千明は最初きょとんとして、目をぱちくりさせていた。
そして次の瞬間、彼女はぷっと吹き出した。それはやがて堪えきれない笑い声へと変わった。
「あはははは!」
彼女はお腹を抱えて笑い転げている。その心の底から楽しそうな笑い声。
「な、なんだ、そんなことだったの?」
彼女は涙を浮かべながら言った。
「……ごめん。でもなんかおかしくて……。心一くん、可愛い」
可愛い、だと……?
俺は今この人生で初めて言われたその言葉に、完全にフリーズした。
千明はそんな俺の手を取り、優しく握りしめた。
「……ありがとう心一くん。ヤキモチ妬いてくれて嬉しい」
彼女のストレートな言葉と手の温もり。俺の心のバグは完全に消え去った。
そして彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「でも心配しないで。私の一番は心一くんだけだよ。……私の心の光がそう言ってる」
その最強の殺し文句。俺はもう何も言い返せなかった。
ただ顔から火が出そうなのを必死で堪えるだけだった。
俺たちの最初の危機はこうしてあっけなく終わりを告げた。
嫉妬という非合理的な感情さえも、俺たちの絆の前ではただのスパイスに過ぎないのかもしれない。
俺たちは顔を見合わせ笑い合った。
秋の夕暮れの教室で。俺たちの二度目の文化祭はまだ始まったばかりだった。




