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光る落とし物は、鈍感な君の心を照らさない。  作者: あかはる


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閑話4:初キス翌日の最適解と、観測史上最大の光について

【落田心一の章:事象『キス』に関する論理的考察、およびその実践的課題】


1. 観測、および初期分析


翌朝。俺、落田心一は、見慣れた自室の天井を眺めながら意識の浮上を感じていた。

三泊四日の旅の疲労がまだ体の芯に残っている。だがそれ以上に俺の脳は、昨夜東京駅で発生した一つの重大な事象によって飽和状態にあった。


事象名:ファーストキス。

発生時刻:昨日、午後九時十七分(推定)。

発生場所:東京駅、丸の内中央口付近。

当事者:俺、および、見附千明。


……キス。

その二文字の単語が、俺の論理的な思考回路に致命的なエラーを発生させていた。

俺はゆっくりと体を起こした。唇にまだ微かに残っている柔らかな感触。脳裏に焼き付いて離れない涙に濡れた彼女の笑顔。

それらのあまりにも鮮明な感覚データが、俺の分析能力を著しく低下させている。


落ち着け。俺は科学者を目指す男だ。

どんな未知の現象も、まずは冷静に観測し分析し、定義することから始めなければならない。

俺は机に向かい観測ノートの新しいページを開いた。そして震える手でペンを握りしめる。


『事象『キス』に関する初期考察』


まず物理的側面からのアプローチだ。

・接触時間:約3.7秒(体感に基づく推定値、誤差±1.5秒)。

・接触圧:極めて軽微。羽毛が触れる程度と比喩するのが妥当か。

・環境要因:気温約23度、湿度60%。九月の夜としては過ごしやすい気候。周囲の喧騒レベルは比較的高かったが、当事者間の心理的距離はゼロに収束していたため外的ノイズはほぼ観測されず。


……駄目だ。

こんな無味乾燥なデータを並べたところで何の意味もない。

問題は物理的な側面ではない。その行為が持つ意味、そしてその後に発生するであろう人間関係のパラダイムシフトだ。

俺と千明は昨日までとは違う、新しい関係性のフェーズに突入した。

ではこの新フェーズにおいて俺は、どのような行動を取るのが最適解なのか。

ここからが本題だった。


2. コミュニケーションプロトコルの策定、およびその困難性


問題はコミュニケーションだ。

キスをした翌日、恋人同士はどのような会話を交わすのが一般的なのだろうか。

俺のデータベースには該当するサンプルが一つも存在しない。

俺はスマートフォンを手に取った。千明へのメッセージアプリを開く。

何か送らなければならない。だが何と?


俺は思考を開始した。

まず目的を明確にする。

目的:昨夜の事象を肯定的に再確認し、二者間の関係性をより強固なものへと発展させること。

よし。目的は定まった。

ではそのための最適なメッセージ本文は何か。


第一稿:

『件名:昨夜の事象に関する事後報告。本文:昨夜の君の反応およびその後の俺自身の心拍数の上昇率を鑑みるに、あの接触事象は双方にとって極めて有意義であったと結論付ける。今後の関係性の発展に期待する』

……駄目だ。これは論文の要旨だ。即刻削除。


第二稿:

『昨日はサンキュ。またな』

……駄目だ。あまりにも簡潔すぎる。これでは昨夜の事象の重要性が伝わらない。まるでコンビニで買い物をした後の挨拶のようだ。削除。


第三稿:

『昨日は疲れただろう。ゆっくり休めたか?』

……無難だ。無難すぎる。これではただのクラスメイトからのメッセージと何ら変わりない。昨夜のあの特別な出来事を完全に無視している。だが下手に踏み込むよりはマシか……? 保留。


第四稿:

『昨夜の唇の感触、忘れない』

……どこかの恋愛小説の一節か。柄にもない。送信した瞬間に自己嫌悪で爆発散する未来しか見えない。削除。


俺は頭を抱えた。

分からない。最適解が見つからない。

たった一通のメッセージを送るという単純なタスクが、フェルマーの最終定理よりも難解に思えた。


業を煮やした俺はついに禁断の手段に手を出した。

検索エンジンを開き入力する。

『初キス 翌日 連絡』


表示された検索結果は、俺をさらに深い混沌へと突き落とした。

『朝一番に「おはよう」と昨日の感想を!』

『いや、ここは敢えて一日連絡を焦らして相手をドキドキさせるのが上級者テク』

『電話がベスト! 声を聞けば安心します!』

『電話は重い! まずは軽いスタンプから!』


……駄目だ。情報が錯綜しすぎている。どの意見も一長一短であり論理的な一貫性に欠ける。

俺はそっとスマートフォンを閉じた。

他人の無責任な言説に振り回されるのは俺の信条に反する。

俺は俺自身の論理で、この難問を解き明かさなければならない。


3. 結論、およびその実行


俺は原点に立ち返ることにした。

昨夜俺は、なぜ彼女にキスをしたのか。

それは論理的な判断ではなかった。ただ心がそうしろと叫んだからだ。

ならば今俺が取るべき行動もまた、同じではないのか。

複雑な計算もシミュレーションも必要ない。

必要なのはただ一つ。正直な俺の気持ち。


俺は再びメッセージアプリを開いた。

そして今俺が彼女に最も伝えたい言葉を打ち込んだ。

それは驚くほどシンプルだった。


『会って話せるか?』


送信ボタンを押す。もう後戻りはできない。

俺はベッドに倒れ込み天井を仰いだ。既読の文字がつくまでの数秒間が、永遠のように感じられた。

心臓がうるさい。だが不思議と後悔はなかった。

これが今の俺に出せる、唯一のそして正直な答えなのだから。


【見附千明の章:観測史上最大の光、およびその甘美なる後遺症】


1. 幸福なる飽和状態


翌朝、私は自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む優しい朝の光。小鳥のさえずり。どこにでもある休日の朝。

でも昨日までとは何かが決定的に違っていた。


私はゆっくりと体を起こした。そしてそっと自分の唇に指で触れてみる。

……夢じゃなかった。


その瞬間、昨夜の記憶が洪水のように蘇ってきた。

東京駅の喧騒。きらめく夜景。

「お前がいないと俺の世界には光がない」

そう言ってくれた彼の真剣な瞳。

そしてゆっくりと近づいてくる彼の顔。

触れただけの、優しいキス。


「~~~~~~っ!」


私は顔から火が出るような羞恥心に襲われ、枕に顔をうずめた。

駄目だ。思い出すだけで心臓が張り裂けそう。

嬉しくて恥ずしくて、どうしていいか分からない。

体中がふわふわして、まるで雲の上を歩いているみたいだ。


そして何よりも鮮明だったのは、あの瞬間に私だけが「見た」光景。

唇が触れたその瞬間、彼の胸の中心から放たれたあの光。

それはもはや光というより光の爆発だった。

純粋な黄金色の愛情のエネルギーが凝縮され、そして一気に解放されたような圧倒的な輝き。

観測史上最大級の光。

その眩いほどの光が私を完全に包み込んで、世界から音も色も消え去った。

そこにはただ彼と私と、そしてどうしようもないほどの幸福な光だけが存在していた。

その記憶があまりにも強烈すぎて、私はまだ正常な思考ができないでいた。


私はベッドから抜け出し鏡の前に立つ。そこに映っていたのはだらしなくにやけきった自分の顔だった。

「……しっかりしろ、私!」

パンパンと両手で頬を叩く。

今日は学校も休み。一日この幸福な記憶に浸って過ごそう。

そう思った矢先、一つの重大な問題に思い至った。


(……今日、心一くんに何て連絡すればいいんだろう……!?)


その考えが浮かんだ瞬間、私の幸福な夢見心地は一瞬で吹き飛んだ。

「おはよう」って普通に送ればいいの? それとも昨日のこと、少しは触れた方がいいの?

『昨日はありがとう』とか? いや、それじゃ何がありがとうなのか分からない!

『昨日のキス嬉しかったよ』なんて口が裂けても言えない!

ああ、どうしよう!


私は完全にパニックに陥っていた。

昨日の彼はあんなに格好よかったのに、今日の私はどうしようもなく情けない。

このままでは駄目だ。私には助けが必要だ。

こういう時の唯一の専門家、私の頼れる親友の助けが。


2. 恋愛上級者(という名の親友)への緊急コール


私は震える手でスマートフォンを手に取り、ある人物に電話をかけた。

数回のコール音の後、『……もしもし。何よ、朝っぱらから』と、不機嫌そうな、しかし頼りになる声がした。

玲奈だった。


「れ、玲奈ー!」

「うわっ、うるさいわね。……どうしたのよそんな半泣きになって」

「ど、どうしよう! 私もうどうしていいか分からない!」

私のその錯乱した様子に、玲奈は何かを察したようだった。電話の向こうで深々とため息をつくのが聞こえる。


『……はいはい落ち着きなさい千明。……さてはあんたたち、昨日ついにキスでもしたんでしょ』


そのあまりにも的確な指摘。私は言葉を失った。

「な、なんで分かったの!?」

『あんたのそのパニックのレベルで大体想像つくわよ。で? どうだったのよ。良かったの? 悪かったの? ちゃんと報告しなさい』


私は玲奈のその落ち着いた声に、少しだけ冷静さを取り戻した。

そして昨夜の出来事と、そして今自分が抱えている悩みを洗いざらい彼女に打ち明けた。

「……それでね、今日なんて連絡すればいいか分からなくて……!」


私のあまりにも初々しい悩みに、玲奈は電話の向こうで盛大に吹き出した。

『あはははは! あんたたち本当に面白いわね!』

「わ、笑い事じゃないよ!」

『ごめんごめん。……いい千明、あんたは何もしなくていいわ』

「え?」

『こういうのはね、男の方から動くのを待つのがセオリーなの。特に相手はあの超理論派の朴念仁よ。今頃あんたに送るメッセージの一言一句を、素因数分解でもしてるんじゃないの。だからあんたはどーんと構えて待ってなさい。きっと今日中に何かアクションがあるはずだから』


玲奈の妙に説得力のあるアドバイス。確かに心一くんならあり得そうだ。

私は少しだけ気持ちが楽になった。

「……そっか。そうだよね」

『そうよ。だからあんたは部屋の掃除でもして気を紛らわしてなさい。じゃあね』

そう言って玲奈は一方的に電話を切った。


嵐のような親友。でも彼女と話すといつも心が軽くなる。

私は「よし」と気合を入れ直しベッドから出た。

玲奈の言う通りだ。私は待つだけ。彼からの言葉を。


3. そして、光は届く


だが待つというのは存外苦しいものだった。

午前中、私は部屋の掃除をしたり溜まっていた録画を見たりして必死で気を紛らわした。

だが意識は常に枕元に置いたスマートフォンに向いている。

まだ連絡は来ない。お昼ご飯を食べても来ない。午後になっても来ない。


(……もしかして)

私の心に再び黒い不安の雲が広がり始める。

(……昨日のこと、後悔してるんじゃ……)

(……私、何か変な反応しちゃったかな……)

(……やっぱり私とのキスなんて嫌だったんじゃ……)

一度考え始めるともう駄目だった。ネガティブな思考がぐるぐると頭の中を巡る。

あの翼くんの心が砕け散った時の光景が脳裏をよぎる。失うことの恐怖。

私はベッドに倒れ込み、再び枕に顔をうずめた。


その時だった。

ポケットの中でスマートフォンがぶるりと震えた。

私は飛び起きるように体を起こし、慌てて画面を確認する。

そこに表示されていたのは『心一くん』という四文字。

心臓が口から飛び出しそうだった。

私は震える指でメッセージを開いた。

そこに書かれていたのはたった一言。


『会って話せるか?』


そのあまりにも彼らしい不機用で真っ直ぐな言葉。

その一文を見た瞬間、私の心の中に広がっていた黒い不安の雲は一瞬で吹き飛んだ。

そしてその代わりに、彼の胸から放たれたあの黄金色の光が私の胸いっぱいに広がっていく。

涙がぽろりとこぼれた。でもそれは悲しい涙じゃなかった。


私は急いで返信を打った。

さっきまであれほど悩んでいたのが嘘のように、言葉は自然と指先から溢れ出てきた。


『うん。私も会いたい』


送信ボタンを押す。既読の文字。すぐに返信が来る。

『じゃあ三十分後、いつもの公園で』


私はベッドから飛び起きた。そしてクロー-ゼットを開け、一番お気に入りの服を引っ張り出す。

鏡の前で髪をとかしリップクリームを塗る。

心臓がドキドキしてうるさい。でもそれは不安のドキドキじゃない。

これから始まる新しい物語への期待に満ちた、幸福な鼓動だった。

私は玄関のドアを開け、夏の終わりの名残と秋の始まりの澄んだ空気が混じり合う、光の中へと駆け出していった。

私の大好きな光の持ち主が待つ、その場所へと。

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