高2・修学旅行3日目夜:百鬼夜行と、二人だけの光
第1部:百鬼夜行の前夜
奈良の夜は都会のそれとは比べ物にならないほど深く、そして静かだった。
旅館での賑やかな夕食と慌ただしい入浴を終えた俺たち二学年の生徒全員は、旅館のすぐ裏手に広がる奈良公園の入り口に集められていた。
昼間ののどかな雰囲気はそこにはない。闇に沈んだ森はまるで巨大な黒い獣のように口を開け、俺たちを待ち構えていた。
これから始まるのは修学旅行最後の夜を飾るメインイベント。
担任教師が吊り上げた提灯の不気味な光の下、高らかに宣言した。
「――これより、『古都の闇に君の勇気を示せ! ドキドキ肝試し大会』を、開催する!」
その言葉を合図に、生徒たちの間から期待と恐怖が入り混じった歓声と悲鳴が上がった。
教師が懐中電灯で森の奥へと続く一本の細い道を照らし出す。
「ルールは簡単! この道を二人一組で進み、中間地点にあるチェックポイントでお札を取ってくるだけだ! だが道中、何が起きても我々は一切関知しない! 健闘を祈る!」
その無責任極まりない説明。そしてペアの組み合わせが発表されていく。
俺の名前が呼ばれる。
「落田心一、そして――見附千明!」
「ひぃっ!」
俺の隣で千明が小さな悲鳴を上げた。
彼女は俺の浴衣の袖をありったけの力で握りしめ、生まれたての子鹿のように震えている。
「む、無理無理無理……! 絶対に無理だってば……!」
「大丈夫だ。幽霊なんていない。いいね? すべては科学的に説明できる現象だ」
俺は彼女をなだめるように言った。だが俺のその論理的な慰めは、恐怖に支配された彼女の心には全く届いていないようだった。
「次! 雨宮玲奈、佐々木翼!」
その組み合わせに今度は玲奈が悲鳴に近い声を上げた。
「……最悪よ」
「よっしゃあ! 玲奈、任せとけ! 俺がどんな幽霊からも守ってやるぜ!」
翼の力強い宣言。だが千明には見えていた。彼の胸の奥で「うわ、まじかよ女子と二人きりとかめっちゃ緊張する!」という情けないピンク色の光が、激しく明滅しているのを。
そして最後に呼ばれたのはあの二人だった。
「牧野、そして音無さん!」
昼間の一件以来どこかバツの悪そうな牧野と、彼に感謝の眼差しを向ける音無さん。そのぎこちない二人の姿を、俺たちは温かい目で見守った。
「……が、頑張ろうね、牧野くん」
「……お、おう。……ま、任せとけ」
強がりを言う彼の手には、妹のお守りが固く握りしめられていた。
やがて最初のペアが悲鳴を上げながら、闇の中へと吸い込まれていく。
数分後、森の奥から「ぎゃあああ!」という絶叫が聞こえてきた。
その声に千明の体がびくりと跳ね上がる。
肝試しの雰囲気は最高潮に達していた。
第2部:闇夜の二人だけの光
「……次、落田、見附、行け」
教師に促され、俺たちはついにその闇へと足を踏み入れた。
渡されたのは一本の頼りない懐中電灯だけ。
俺は千明の手を強く握った。
「……大丈夫だ。俺がそばにいる」
「……うん」
彼女はこくりと頷いたが、その手は氷のように冷たかった。
森の中は完全な闇だった。
懐中電灯の光の輪が照らし出すわずかな範囲だけが、俺たちの世界のすべて。
ざわざわと風に木々が揺れる音、自分の心臓の音、そして隣でひっひっと息を殺す千明の気配。そのすべてが俺の五感を鋭敏にさせた。
歩き始めて数分後、最初の「それ」は現れた。
前方の木の陰から白い人影がぬっと現れたのだ。
「ぎゃああああ!」
千明が絶叫し俺の背中に全体重を預けてくる。
俺も一瞬心臓が跳ね上がったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「……落ち着け千明。あれはただのシーツを被った生徒会役員の鈴木だ」
「え……?」
「よく見ろ。足元がスニーカーだ。それにあの独特の猫背。間違いない」
俺のそのあまりにも冷静な分析に、千明はきょとんとした顔で俺の背中から顔を上げた。
白い人影――鈴木は俺の解説に気勢を削がれたのか「ちぇっ」と舌打ちをして闇の中へと消えていった。
だが次の瞬間、足元からうめき声が聞こえ何かが俺の足首を掴んだ。
「ひゃあああ!」
今度は俺が素っ頓狂な声を上げてしまった。千明が俺の腕にさらに強くしがみつく。
「……し、心一くん!?」
「……だ、大丈夫だ! これは恐らく地面に掘った穴に体育教師の田中が隠れていただけだ! あの特徴的な加齢臭で分かる!」
「か、かれいしゅう……」
その後も俺たちの道中には様々な刺客が現れた。
木の上からぶら下がってくる骸骨の模型。背後から追いかけてくるチェーンソー(もちろん刃はついていない)の音。
そのたびに千明は絶叫し、そして俺はその仕掛けを冷静に分析し解説するという、奇妙な連携プレイが生まれた。
それは恐怖と笑いが入り混じった奇妙な肝試しだった。
「……ねえ心一くん」
しばらく歩いた後、千明が少しだけ落ち着きを取り戻して言った。
「うん?」
「……なんだかあんまり怖くなくなってきたかも」
「そうか」
「うん。心一くんが全部解説してくれるから。……でもね、それだけじゃないんだ」
彼女は俺の顔を見上げた。懐中電灯の頼りない光に照らされたその瞳は真剣だった。
「私ね、見えるんだよ。みんなの光が」
「……光?」
「うん。脅かしてる先生たちの『うしし、驚いたか!』っていういたずらっ子のオレンジ色の光とか。隠れてる先輩たちの『次だ、次!』っていうワクワクした黄色の光とか」
彼女の目にはこの闇の森が、たくさんの楽しげな光で溢れた遊園地のように見えているらしい。
「……だからね、分かるの。ここには本当の悪意なんて一つもないんだなって。みんなただ楽しんでるだけなんだなって」
その言葉は俺の心を温かくした。
そうだ。ここはただの楽しいお祭りの夜なのだ。
俺たちは笑い合った。繋いだ手に力がこもる。
この闇の中、二人だけの光の輪の中。世界に俺と千明しかいないような不思議な感覚。
この時間がずっと続けばいいと思った。
第3部:そこにないはずの光
俺たちが中間地点のチェックポイントまであともう少しというところまで来た時だった。
それまで楽しそうに周りの光の実況をしていた千明が、ぴたりと足を止めた。
その表情から笑みが消えている。
「……どうした」
「……待って」
彼女の視線は俺たちが進むべきコースから外れた、森の奥深くへと向けられていた。
そこは懐中電灯の光も届かない完全な闇だった。
「……あっち……。光が見える」
その声は先ほどまでの軽やかさとは全く違う、緊張を帯びていた。
「……でも今までのと違う」
「……脅かしてる生徒の光じゃないのか」
「うん。全然違う。いたずらとかそういう温かい光じゃない。……すごく小さくて頼りなくて、そしてものすごく悲しい光だよ。……青くてふるふると震えてる。まるで迷子の子供が泣いてるみたいな光……」
迷子の子供。その言葉に俺の胸がざわついた。
こんな夜の森の奥深くに子供がいるはずがない。
ではこの光は一体何なんだ?
俺たちの頭に昼間のガイドの言葉が蘇る。
『非業の最期を遂げた貴族の魂が、今もこの森を彷徨っている』
馬鹿な。非科学的だ。
だが千明が見ているこの光は紛れもない本物だ。それは誰かの純粋な「執着」の光なのだから。
俺たちは顔を見合わせた。
どうする? コースを外れこの危険な闇の中へ進むのか?
それともルールに従いこのか細い光を見過ごして先へ進むのか?
答えは決まっていた。
俺たちは光から目を逸らすことなどできない。
「……行くぞ」
俺が言うと千明は力強く頷いた。
俺は彼女の手を強く握りしめた。
俺たちの本当の「肝試し」が今、始まったのだ。
第4部:本当の勇気
決められたコースを外れ、俺たちは獣道のような森の奥深くへと足を踏み入れた。
懐中電灯の頼りない光だけが俺たちの道標だ。
足元はぬかるみ、木の根が行く手を阻む。
千明は黙って俺の後ろをついてくる。彼女の目は闇のその先にある一点の青い光だけを捉えていた。
「……光が強くなってきた。この近くだよ」
千明が囁いた。
俺たちは息を殺しゆっくりと進む。
やがて俺たちの目の前に小さな開けた場所が現れた。その中央にぽつんと一つの古い石の祠があった。
月の光が差し込み、その祠を青白く照らし出している。
そしてその祠の前にそれはあった。
「……絵馬?」
祠の前に立てかけるようにして一枚の小さな絵馬が置かれていた。
風雨に晒され文字も絵も消えかかっている。
だがその古い木の板から、確かにあの悲しい青い光が放たれていた。
これだ。これが光の正体だ。
俺はその絵馬をそっと手に取った。
そして懐中電灯の光で、そこに辛うじて残っている文字を読んだ。
それは子供の拙い字で書かれていた。
『お母さんの病気が、早く、よくなりますように』
そのあまりにも切実な願い。俺は言葉を失った。
いつの時代の子供が書いたものなのか。その願いは叶ったのか叶わなかったのか。もはや知る術はない。
ただ子供の母親を想う純粋な祈りだけがこの絵馬に宿り、何十年あるいは何百年もの間、この森の奥で光を放ち続けていたのだ。
それは悲しい光なんかじゃない。どこまでも温かく、そして尊い愛の光だった。
俺たちはどうすべきか分かっていた。
俺たちはその絵馬を祠の中にそっと戻した。そして二人並んで静かに手を合わせた。
俺たちが祈るべきは、この絵馬の願いが叶うことではない。
この純粋な想いを抱いた名も知らぬ子供の魂が、どうか安らかでありますように、と。
俺たちが顔を上げた瞬間、千明があっと小さな声を上げた。
彼女には見えていた。絵馬から放たれていたあの悲しい青い光がふわりと姿を変え、穏やかで満足したような金色の光へと昇華していく、その奇跡の瞬間が。
そしてその光はまるで役目を終えたかのように、静かに闇の中へと溶けていった。
俺たちは来た道を引き返した。
元のコースに戻るとちょうど次のペアである玲奈と翼が、悲鳴を上げながら通り過ぎていくところだった。
俺たちは何食わぬ顔でその後ろに続いた。
俺たちの秘密の冒険は誰にも知られることはない。
やがて俺たちは肝試しのゴール地点へとたどり着いた。
そこには提灯が煌々と灯り、先にゴールした生徒たちの笑い声が響いていた。
俺たちは疲労と安堵感に包まれながら、その光の輪の中へと入っていった。
俺たちが体験した本当の「肝試し」。それは偽物の幽霊を怖がることではなかった。
見知らぬ誰かの小さな祈りの光に気づき、それに向き合う勇気を持つことだったのだ。
俺は隣で微笑む千明の顔を見た。
ゴール地点の提灯の光に照らされたその笑顔。それこそがこの闇の夜における俺にとって唯一の、そして何よりも確かな光なのだと改めて思った。
古都の最後の夜はこうして静かに、そして不思議な温かさに満ちて更けていった。




