閑話3:夏夜祭と、座標確定済みの二人について
第1部:計画外のアンコール
夏の終わりの夕日が多摩川の川面をオレンジ色に染め上げていた。
神楽坂悠人は夕闇の中へと一人消えていった。
俺たちの前に重くそして巨大な問いを残して。
河川敷の土手に座り込んだまま、俺と隣にいる千明、そして少し離れた場所で心配そうにこちらを見ていた玲奈も、誰もが言葉を失っていた。
一つの戦いが終わったという安堵。そして救うことのできなかった魂があるという、どうしようもない無力感。その二つの感情が夏の終わりの生ぬるい風に混じり合って、俺たちの心を静かに満たしていた。
「……帰るか」
俺がようやくそう声を絞り出すと、千明は力なく頷いた。
そうだ、帰ろう。俺たちの長くて短かった夏休みも、もう終わりなのだから。
俺たちが重い腰を上げて立ち上がった、その時だった。
「……やだ」
ぽつりと千明が呟いた。
「え?」
「このまま夏休み終わらせちゃうの、やだ!」
彼女はそう言うと俺と玲奈の顔を交互に見つめた。その瞳にはいつもの光が戻り始めていた。
「だってせっかくの夏休み最終日だよ!? こんなしんみりした気分のまま終わるなんて絶対にやだ! 思い出、上書きしなきゃ!」
そのあまりにも彼女らしい前向きな暴論。
俺と玲奈は呆気に取られて顔を見合わせた。
「上書きってあんたねえ……。そんな簡単に切り替えられるわけ……」
「できるよ!」
千明はパンと手を叩いた。
「今日、駅前の神社で夏祭りやってるの! そこに行こうよ三人で!」
夏祭り。その言葉の響きは今の俺たちの心にはあまりにも眩しすぎた。
だが千明の瞳は本気だった。彼女はこの重苦しい空気を夏の夜の喧騒で吹き飛ばしてしまおうとしているのだ。
それはあまりにも無謀で、そして千明らしい優しさの形だった。
「……はあ。分かったわよ」
最初に根負けしたのは玲奈だった。
「どうせあんたは聞かないんでしょ。……で? どうせなら浴衣でも着ていくわけ?」
「着る!」
千明が満面の笑みで頷く。
「私の家に行こう! お母さんに着付け手伝ってもらおうよ! 玲奈の分の浴衣も確かあったはずだし!」
「……心一のはさすがにないわよ」
「心一くんは甚平があるよ! お父さんのだけど!」
「待て。俺はまだ行くとは一言も……」
俺のそのか細い抵抗は二人には全く届いていなかった。
こうして俺の意思とは無関係に、俺たちの夏休み最後の一夜は光と喧騒の夏祭りへとその舵を切ることになったのだった。
千明の家に着くと彼女のお母さんが、呆れながらも嬉しそうに俺たちを出迎えてくれた。
あっという間に女子二人は千明の部屋へと消えていく。
俺はリビングで千明のお父さんが出してくれた麦茶を飲みながら途方に暮れていた。
やがてお父さんから「君はこれを」と渡された一着の紺色の甚平。俺は観念してそれに袖を通した。
着慣れない和装と人の家の匂いがどうにも落ち着かなかった。
「お待たせー!」
弾むような声と共に千明と玲奈がリビングに現れた。
その姿を見て俺は息を呑んだ。
玲奈は紫陽花のような淡い紫色の浴衣。いつもはきつく結い上げられた髪も少し緩やかにまとめられ、うなじがやけに色っぽく見えた。
そして千明は。
朝顔を散りばめた白地の浴衣。髪には小さな花のかんざしが挿してある。
いつもと違うその和装姿は反則的なまでに可愛らしく、俺の論理的な思考を完全に停止させた。
「……ど、どうかな?」
恥ずかしそうにはにかむ千明。
俺は何か気の利いた言葉を探したが、結局「……ああ。悪くない」と答えるのが精一杯だった。
第2部:邂逅と喧騒の夏夜祭
神社の境内は想像を絶する喧騒に包まれていた。
裸電球の温かい光、食べ物の焼ける香ばしい匂い、そして人々の熱気。その混沌としたエネルギーの渦に俺は少しだけ気圧されていた。
「うわー! すごい人!」
千明はそんな喧騒さえも楽しむように目を輝かせている。
「はぐれないように気をつけなさいよ」
玲奈が人混みをかき分けながら先導する。
俺たちの最初の目的地はずらりと並んだ屋台だった。
「私、焼きそば食べたい!」
「私はりんご飴かしらね」
「俺はたこ焼きだ」
俺たちはそれぞれ目当てのものを手に入れ、境内の隅にあるベンチに腰を下ろした。
ソースの匂いが食欲をそそる。
俺が熱々のたこ焼きを口に運び、その破壊的な熱さに悶絶していると千明が腹を抱えて笑った。
「あはは! 心一くん猫舌だもんね!」
「……うるさい」
俺たちは子供のように笑い合った。数時間前のあの重苦しい空気が嘘のように遠ざかっていく。
そうだ。これでいいのだ。夏の終わりはこうでなくてはいけない。
「おう、心一に千明じゃねえか! 玲奈もいんのかよ!」
不意に背後から陽気な声がした。振り返るとそこにはクラスメイトの佐々木翼が立っていた。
その隣には見慣れない快活そうな女の子が寄り添っている。
「よお翼。……そちらは?」
「おう! 俺の新しい彼女! 可愛いだろ!」
翼はそう言ってにっと歯を見せて笑った。
その顔は俺たちが知るいつもの騒がしくて底抜けに明るい佐々木翼そのものだった。
クリスマスのあの痛々しい失恋の傷跡は、もうどこにも見当たらない。
千明が彼の胸のあたりを見てそっと微笑んだ。
彼女には見えているのだ。彼の胸に灯る新しい恋心の光が。
以前の光とは違う、少しだけ大人びた、でもやっぱりどこまでも温かいピンク色の光が。
俺は心の底から安堵した。よかったな翼。
「お前らこそデートかよ! ひゅーひゅー!」
翼のからかいに千明が顔を赤くする。
俺たちは翼カップルと別れると、再び祭りの喧騒の中へと戻った。
次に向かったのは射的の屋台だった。
「よし、私が一番でかい景品を落としてやるわ」
玲奈が自信満々にコルク銃を構える。その様はまるで凄腕のスナイパーのようだった。
パン、パン、と乾いた発射音が響く。だがコルクの弾は虚しく景品の箱をかすめていくだけ。
「……おかしいわね。今日の私、調子が悪いみたい」
玲奈は悔しそうに唇を噛んだ。
「心一くんもやってみなよ!」
千明に促され俺も銃を構えた。
銃口、的、そして目。その三点を結ぶ直線をイメージする。風速、湿度、コルクの質量と初速。あらゆる変数を脳内で計算し俺は引き金を引いた。
放たれた弾は美しい放物線を描き、見事一番下の景品のど真ん中に命中した。
だが景品はびくともしない。
「……なるほどな。接着剤で固定されているというわけか。非論理的だ」
俺の大人げない分析に、屋台のおやじが苦い顔をした。
俺たちが射的に夢中になっているそのすぐ隣で、一人静かに祭りの喧騒を眺めている人影があった。
城戸雅也だった。
彼は俺たちに気づくと小さく会釈した。その表情にはもうあの完璧な仮面はない。ただ少しだけぎこちない、はにかんだような笑みが浮かんでいた。
千明が彼に手を振る。彼もまた小さく手を振り返し、そして人混みの中へと消えていった。
彼の胸の光はまだ小さい。だがその光が彼自身の力で灯された本物の光であることを、俺たちは知っていた。
「……さて、と」
射的に満足したのか玲奈が伸びをした。
「私はそろそろ他の友達と合流するわ。……あんたたち二人でごゆっくり。羽目を外しすぎるんじゃないわよ」
その言葉は釘を刺しているようで、その実俺たちの背中を押してくれていた。
玲奈はそう言うと手を振りながら、雑踏の中へと消えていった。
第3部:夏夜の終着点
玲奈と別れ再び二人きりになる。
途端に祭りの喧騒が少しだけ遠ざかり、互いの存在を強く意識した。
「……どこか行くか」
「……うん」
俺たちはどちらからともなく、神社の本殿へと続く石段を登り始めた。そこは屋台が並ぶ参道から少し離れており人もまばらだった。遠くに聞こえる祭囃子の音が心地よい。
その時だった。
「あ……!」
千明が短い悲鳴を上げた。石段を登る途中、彼女の下駄の鼻緒がぷつりと切れてしまったのだ。
「……どうしよう。歩けないや」
彼女はその場にしゃがみ込み途方に暮れている。
俺はため息を一つついて彼女の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「……乗れ」
「えっ!? い、いいよそんな!」
「いいから。このままここにいるつもりか」
彼女はしばらく躊躇っていたが、やがておそるおそる俺の背中にその柔らかな体を預けてきた。
立ち上がるとずしりとした重みと、そしてシャンプーの甘い香りが俺を包み込んだ。
俺は何も言わずに石段を登り始めた。
背中の温もり。聞こえてくる彼女の小さな呼吸の音。俺の心臓がうるさいくらいに高鳴っていた。
石段を登りきった本殿の脇で、俺たちは一つの「落とし物」を見つけた。
ベンチの上にぽつんと置かれた小さなヘアピン。
「……光ってるね」
千明が俺の背中の上で囁いた。
その光は明るく、そして少し慌てたようなピンク色の光だった。きっと持ち主の女の子が今頃必死で探しているのだろう。
俺たちがどうしようかと考えていると、石段の下から息を切らして駆け上がってくる小さな女の子とその両親の姿が見えた。
「あった!」
女の子はヘアピンを見つけると満面の笑みを浮かべた。
俺たちは顔を見合わせ微笑んだ。それはこの夏の最後の夜に舞い降りた、ささやかで温かい奇跡だった。
やがて遠くの空にヒュルルという音が響き、そして大きな花火が打ち上がった。
後夜祭の花火大会が始まったのだ。
「わあ……!」
千明が俺の背中の上で歓声を上げる。
俺は彼女をおぶったまま、花火が一番よく見える場所へと移動した。
夜空に次々と咲き誇る光の大輪。赤、青、緑、金色。
その眩い光が俺たち二人を照らし出す。
俺はあの失敗だらけの水族館デートを思い出していた。あの時俺は「完璧なデート」を計画した。だが本当の完璧な瞬間とは、こういう予期せぬハプニングとそして奇跡の先にあるのかもしれない。
花火が途切れた一瞬の静寂。
「……心一くん」
耳元で千明が囁いた。
「……ありがとう。今年の夏も楽しかった」
「……ああ」
俺はそれ以上何も言えなかった。
ただ背中の温もりと重みを感じながら、夜空を見上げていた。
彼女には見えていたのだろう。花火の光に照らされた俺の胸に灯る、どこまでも穏やかで温かい金色の光が。そしてそれに呼応するように輝きを増す、彼女自身の心の光が。
ひときわ大きなスターマインが夜空を埋め尽くし、俺たちの夏は終わりを告げた。
だがそれは決して寂しい終わりではなかった。
明日から始まる新しい季節への期待に満ちた、始まりの合図。
俺たちの二度目の夏はこうして、忘れられない一夜の光と共にその記憶に刻まれたのだった。




