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高2・8月下旬:夏休みの終わりと、選択の代償

第1部:夏休みの残照


八月下旬。あれほど猛威を振るっていた太陽は少しだけその勢いを和らげ、空は高くなり風には秋の気配が微かに混じり始めていた。終わりなき饗宴のように思えた夏休みも、その終焉を示すカレンダーの赤い印がすぐそこまで迫っていた。


「うーん、この問題やっぱり分からない……」

冷房の効いた図書館の自習室で玲奈が呻くように言った。俺たち三人は山のように積み上げられた夏休みの課題の、最後の追い込みをかけていた。

「どれだ」

俺は玲奈のテキストを覗き込む。数学Ⅲの複素数平面。確かにこの分野は直感的な理解が難しい。

「ここはだな、まずこの点を極形式で表して……」

俺が解説を始めると、隣で千明が感心したように声を上げた。

「すごいなあ心一くん。玲奈の分からないところが分かるなんて」

「当たり前だろ。俺たちはもう二年以上の付き合いになるんだからな」

玲奈はぶっきらぼうに、しかしどこか嬉しそうに言った。


そうだ。もう二年以上の付き合いになる。

俺と千明と玲奈。いつからかこの三人でいることが当たり前になっていた。

それぞれがそれぞれの役割を自然に果たしている。俺が論理の舵を取り、千明が感情の光を灯し、そして玲奈が現実という錨を下ろす。俺たちは歪で、しかし完璧なトライアングルだった。


勉強の合間に俺たちはこの夏の出来事を振り返っていた。

初めて三人で行った海辺の町。俺と千明の不器用な水族館デート。そしてあの崖の上で出会った老婆の記憶。

それは楽しく、そしてどこまでも切ない思い出だった。


「……結局、あれから連絡ないわね」

ふと玲奈が呟いた。その一言で俺たちの間の穏やかな空気が少しだけ張り詰める。

神楽坂悠人。

彼の名前を口にしなくても、俺たちにはそれが誰のことか分かっていた。

あの海辺の町で彼のすべてを賭けた哲学が打ち砕かれて以来、俺たちは彼と接触していなかった。彼のあの壊れてしまった最後の表情が、俺たちの夏の思い出に一つの重い影を落としていた。


「……神楽坂くん、今どうしてるんだろう」

千明がぽつりと呟く。その声には隠しきれない憂いが滲んでいた。

「大丈夫かな。あの時の彼、本当に今にも壊れちゃいそうだったから……」

「さあね。少しは頭を冷やしたんじゃないの」

玲奈が興味なさそうに言う。だがその声には彼女なりの懸念が滲んでいた。


俺は冷静に分析した。

「論理的に考えれば彼の思想の基盤は崩壊した。今の彼は精神的に不安定で予測不能な状態にある。下手に関わるべきではない」

だが千明は悲しそうに首を横に振った。

「……でも。でももし、彼のあの苦しみが光になって私に見えたとしたら。私、それを見て見ぬふりできるかな……。できないと思う」


その言葉。それは彼女の優しさの本質であり、そして彼女が背負う宿命でもあった。

光が見えるから放っておけない。たとえその光が自分たちを傷つけた敵から放たれるものであっても。


俺は何も言い返せなかった。なぜなら俺自身もまた同じ問いを心の中で繰り返していたからだ。

俺は神楽坂を許してはいない。だが彼のあの絶望を知ってしまった今、彼をただの「敵」として切り捨てることが果たして正しいことなのか。俺たちの掲げる「正義」とはそんな狭量なものだったのか。

答えは出なかった。俺たちはその重い問いを胸に抱えたまま、残りの夏休みを過ごすことになった。


図書館の帰り道、俺たちは偶然一人の人物に出会った。

城戸雅也だった。彼もまた予備校の夏期講習の帰りらしい。

「……よお」

俺が声をかけると彼は一瞬驚いたように目を見開いた後、ぎこちなく頭を下げた。

「……落田。それに、見附さんと雨宮さんも」


あの一件以来、彼はクラスの中で静かに過ごしていた。もう完璧な王子を演じることはない。

だがその表情には以前のような空虚さの代わりに、自分自身と向き合う苦悩とそして誠実さがあった。

「……夏休みの課題、終わったか?」

俺が当たり障りのない話題を振ると、彼は少しだけ困ったように笑った。

「……いや、まだ全然。特に数学が壊滅的で」

「そうか。なら今度俺が見てやる」

「え……?」

「その代わりお前は、千明の古典を見てやれ。お前、古文は得意だろう」


俺の提案に城戸はしばらくきょとんとしていたが、やがてその意味を理解したのか静かに頷いた。

「……ああ。分かった」

それは俺たちなりの、彼との新しい関係の始まりだった。罪を許すのではない。ただ彼のこれからを友人として見守っていく。その決意の表明だった。

彼と別れた後、千明が嬉しそうに言った。

「……城戸くん、少しだけ光が温かくなった気がする」

そうか。それならよかった。

俺たちのあの選択は間違っていなかったのだ。


第2部:選択の使者


夏休みも残すところあと三日となった八月の終わり。

その連絡は何の前触れもなく、俺のスマートフォンに届いた。

登録していない番号からの短いメッセージ。その差出人の名前を見て、俺の心臓が跳ねた。

『神楽坂 悠人』


メッセージの内容はシンプルだった。

『話がしたい。一人で来てほしい』

そして日時と場所が指定されていた。夏休み最終日の午後五時、多摩川の河川敷。


俺はすぐに千明と玲奈に連絡を取った。電話の向こうで二人が息を呑むのが分かった。

『……罠よ! 絶対に罠だわ!』

玲奈が叫んだ。

『一人で行くなんて危険すぎる! 私たちも行く!』

『そうだよ心一くん! 神楽坂くん、何を考えてるか分からないんだよ!?』

千明も半泣きで訴える。


二人の心配はもっともだった。だが俺は首を横に振った。

「……いや、これは罠じゃない。交渉だ」

『交渉?』

「そうだ。メッセージは俺個人に宛てられている。そして『一人で来い』と指定している。もし俺たちに危害を加えたいならもっとやり方はあるはずだ。これは彼なりの誠意の表明だ。彼が本気で話をするつもりだという証拠。ならば俺もその条件を呑むべきだ。対等な立場で話をするために」


俺の冷静な分析に二人は言葉を失った。

玲奈はしばらく黙っていたが、やがて深いため息と共につぶやいた。

『……分かったわ。あんたがそこまで言うなら止めない。でも約束して。何かあったらすぐに連絡すること。GPSは常にオンにしておきなさい。もしもの時は私が警察に通報するから』

「……ああ、感謝する」


玲奈との電話を切った後、千明がまだ不安そうな声で言った。

『……本当に、大丈夫なの?』

「大丈夫だ」

俺は彼女を安心させるように、できるだけ穏やかな声で言った。

「俺はお前の羅針盤なんだろ? なら俺が信じた道を、お前も信じてくれ」

『……うん』


彼女のその小さな返事。

俺は彼女の不安を完全に拭い去ることはできないと分かっていた。

夏休み最終日、約束の時間が近づく。

家を出る直前、千明から短いメッセージが届いた。

『気をつけてね』

その後に小さなウサギがお辞儀をしているスタンプが添えられていた。

俺はふっと口元を緩め、そして覚悟を決めて玄関のドアを開けた。


約束の場所、多摩川の河川敷。

夏の終わりの夕日が長く影を伸ばしている。川面がオレンジ色にきらきらと輝いていた。

土手の上に一人の少年が立っていた。

神楽坂悠人だった。


第3部:壊れた羅針盤の答え


俺は土手を上り神楽坂の前に立った。

夕暮れの風が俺たちの間を吹き抜けていく。

彼は以前会った時よりもさらに痩せたように見えた。だがその瞳には、あの時のような狂信的な光はなく、ただ深い静寂が広がっていた。


「……来てくれたか」

彼が静かに口を開いた。

「ああ。話とは何だ」

俺は単刀直入に尋ねた。


彼はしばらく黙って夕日に染まる川面を眺めていた。

やがて彼は俺の方を見ずに、ぽつりと語り始めた。

「……あの後、僕はすっと考えていた。君たちの言ったこと、そしてあの老婆の言葉。……僕のやり方は間違っていた。僕はただ自分の痛みから逃げるために、救済という大義名分を振りかざしていただけだったんだ」


その静かな告白。彼は自分の敗北を完全に認めていた。

「君の言う通りだったよ落田心一。僕は強い人間じゃない。痛みと向き合うことから逃げ出した、ただの臆病者だ」


俺は何も言わなかった。ただ彼の次の言葉を待った。

俺は今日、彼に答えを突きつけられるためにここへ来たのだ。俺が彼に提示した「贖罪」という道に対する、彼の答えを。


「……君の提案、嬉しかった」

彼は初めて俺の方を向いた。その瞳にはほんのわずかな、しかし確かな感謝の色が浮かんでいた。

「……僕のような人間に仲間になれと言ってくれる君たちの、その優しさが。……正直、眩しすぎたよ」


彼はそこで一度言葉を切った。そして寂しそうに微笑んだ。


「……だが僕は、君たちの仲間にはなれない」


その拒絶の言葉。俺の心臓が小さく軋んだ。


「……なぜだ」

「……君たちは強いからだよ」

彼は言った。

「君たちは辛い記憶や悲しみと向き合い、それごと抱きしめて前に進める強さを持っている。君のその祖母への想いも、見附さんの彼女自身の過去も、その土台には揺るぎない『愛』があったからだ。……でも僕にはそれがない」


彼は自分の胸に手を当てた。

「僕の土台は、僕自身の手で破壊してしまった空っぽの空間だ。愛されていたという記憶さえ失くしてしまった僕には、君たちの言う『愛』を信じるための足場がないんだよ。そんな僕が君たちの隣に立つ資格はない」


そのあまりにも切実で、そして誠実な自己分析。

俺はもはや何も言えなかった。彼が下したその結論は、彼自身の魂の形そのものだったのだから。


「……だが」

彼は続けた。

「……僕はもう以前の僕ではない。もう二度と誰かの心を僕のエゴで消し去るような真似はしない。……それが僕にできる唯一の償いだからだ」


彼はこれからの自分の道について語り始めた。

彼はこれからも「光」を見続けるという。だがもう決してそれに干渉はしない。

ただそこに苦しんでいる魂がいることを知り、その痛みを見届ける「観測者」として生きていく、と。

それはあまりにも孤独で過酷な道だった。彼が自分自身に課した、終わりのない贖罪の旅。


俺は彼に手を差し伸べることはできなかった。

彼のその覚悟の前では、どんな言葉も無力だった。


第4部:夏の終わり、新しい弧の始まり


「……話はそれだけだ」

神楽坂はそう言うと俺に背を向けた。

「……達者でな、落田心一。見附さんにもよろしく伝えてくれ。……君たちの光がこれからも多くの心を照らすことを、願っているよ」


それが彼との最後の言葉になった。

彼は夕闇に沈みゆく河川敷を一人静かに歩き去っていった。

その後ろ姿はもうあの時のように惨めではなかった。

壊れた羅針盤はもう方角を指し示すことはできない。だが彼はその壊れた羅針盤を抱きしめたまま、自分の足で歩いていくことを選んだのだ。


俺は急いで千明と玲奈が待つ場所へと戻った。

公園のベンチで二人は固唾を飲んで俺の帰りを待っていた。

俺は神楽坂との会話のすべてを二人に話した。

俺の話を聞き終えると二人は何も言わなかった。ただ玲奈は静かに目を伏せ、千明は潤んだ瞳で神楽坂が去っていった方角をじっと見つめていた。


「……そっか」

やがて千明が呟いた。

「……それが彼の選択なんだね」

その声には悲しみと、そしてどこか安堵したような響きがあった。

俺たちは彼を救うことはできなかった。だが俺たちは彼の暴走を止め、彼が彼自身の道を見つけ出すきっかけを作った。

それでよかったのかもしれない。いや、それでよかったのだ。


その日の夜、夏休み最後の夜。

俺は千明と二人、近所の高台から街の夜景を眺めていた。

夏の熱気を帯びた夜風が心地よい。

神楽坂との出来事は俺たちの心に一つの大きな区切りをつけた。俺たちの夏は終わったのだ。


「……色々あったね、今年の夏も」

千明が俺の肩に寄りかかりながら言った。

「ああ」

「でも楽しかった。海も水族館も……全部」

「……そうだな」


俺たちはこの夏多くのことを学んだ。

愛の記憶の尊さを。忘れ去られた心の再生を。そして救うことのできない魂があることも。

そのすべてが俺たちを少しだけ大人にさせた。


明日からまた新しい学期が始まる。

そこにはどんな「落とし物」が待っているのだろうか。どんな喜びと悲しみが俺たちを待ち受けているのだろうか。

それはまだ誰にも分からない。

だがもう俺たちは何も恐れない。


俺は千明の手を強く握った。彼女もまた強く握り返してくれた。

その手の温もり。それさえあれば俺たちはどこへだって行ける。どんな暗闇も照らしていける。

俺たちの物語はまだ終わらない。

夏の終わりは新しい季節の始まりの合図なのだから。

俺たちは黙って眼下に広がる無限の光の海を見つめていた。

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