閑話2:乙女たちのデート報告会(という名の尋問)について
第1部:召集と尋問の準備
八月下旬。あれほど猛威を振るっていた太陽は少しだけその勢いを和らげ、空は高くなり風には秋の気配が微かに混じり始めていた。終わりなき饗宴のように思えた夏休みも、その終焉を示すカレンダーの赤い印がすぐそこまで迫っていた。
『千明。例の件について、詳細な報告を要求するわ』
夏休みも残すところあと数日となったある日の昼下がり。私のスマートフォンに幼馴染にして恋の監視役である雨宮玲奈から、そんなまるで風紀委員会の召喚令状のようなメッセージが届いた。
例の件。それは言うまでもなく、先日私と心一くんが二人きりで行った初めての水族館デートのことだ。
私はスマートフォンの画面を見たまま数秒間固まった。
報告。そのあまりにも無機質で事務的な響き。玲奈のにやにやと楽しげな顔が目に浮かぶようだった。
『……場所は私の部屋。日時は明日の午後二時。手土産に駅前のパティスリーのシュークリームを要求するわ。以上』
それはもはや拒否権のない決定事項だった。
私は観念したように『了解』とだけ返信した。
そして翌日の午後二時、私は言われた通り紙袋にシュークリームを忍ばせ、親友のその城塞へと足を踏み入れた。
玲奈の部屋は相変わらず、彼女の几帳面な性格を体現したかのように塵一つなく完璧に整頓されていた。
「……来たわね」
ローテーブルの向こう側で玲奈が眼鏡をクイと上げながら言った。
その手元には何故か大学ノートとボールペンが用意されている。
「……玲奈さん。これは一体……?」
「尋問よ」
彼女はきっぱりと言い放った。
「いい? 千明。これからあなたに行ってもらうのは、先日の落田心一とのデートに関する詳細な事情聴取よ。日時、場所、目的、そしてその結果。すべてを時系列に沿って正確に報告しなさい。もし虚偽の申告や記憶の改竄が見受けられた場合、風紀委員長の名において厳罰に処すわ。分かった?」
そのあまりにも本格的な尋問の構え。私はごくりと唾を飲んだ。
これはただのガールズトークなどではない。これは尋問だ。
私は裁かれるのだ、恋という名の法廷で。
「……さあ始めなさい。まずはそのデートの経緯からよ。どちらが誘ったの?」
玲奈がボールペンのキャップをカチリと外し、ノートにペン先を走らせる準備をする。
私は観念して重い口を開いた。
こうして私と心一くんの不器用で行き当たりばったりな初めてのデートの全貌が、白日の下に晒されることになったのだった。
第2部:オペレーション・パーフェクトデートの解剖
「……まず、誘ってくれたのは心一くんの方だったの」
私がそう切り出すと玲奈は「ほう」と興味深そうに眉を上げた。
「あいつから。珍しいじゃない。どんな口実で?」
「……それが、その……『デート、というやつだ』って……」
「ぶっ……!」
玲奈が盛大に吹き出した。
「何よそれ! あの朴念仁、相変わらずね! ま、まあいいわ。それで場所は?」
「それも心一くんが全部決めてくれて。水族館に行くことになったの」
私はそこからデートの前日譚について語り始めた。心一くんがそのデートのためにいかに周到な準備をしていたか。
彼がそれを『オペレーション・パーフェクトデート』と名付けていたことまではさすがに知らないが、その片鱗は私にも伝わってきていた。
「当日の朝もね、『10時17分発の電車に乗る』って分刻みのスケジュールを告げられて……」
「うわ、面倒くさ……」
玲奈が心底嫌そうな顔で呟いた。
「でもなんだかそういうところが彼らしいなって思って。私のために一生懸命考えてくれたんだなって嬉しかったんだよ」
「……はいはいごちそうさま。それで? その完璧なオペレーションは成功したわけ?」
玲奈の意地の悪い質問に、私はうっと言葉に詰まった。
そして正直に白状した。その完璧な計画が開始わずか十分で、私という予測不能な変数によっていかに無残に破壊されていったのかを。
「……駅に着いてすぐに、ガチャガチャの機械にコインが詰まっちゃった男の子を見つけちゃって……」
「……ああ、目に浮かぶわ。あんたは放っておけないものね」
「うん。それで駅員さんを呼んだりしてたら、予定の電車に乗り遅れちゃったの」
玲奈は頭を抱えた。
「……その時の心一の顔、想像つくだけで面白いわね。きっと脳内でけたたましいエラー音が鳴り響いてたに違いないわ」
「そ、そんなことないよ! たぶん!」
「それで? 水族館に着いてからは?」
私は水族館での出来事を思い出しながら語り始めた。
心一くんが自信満々に熱帯魚のトリビアを語り始めたのに、私がそれを完全に無視してチンアナゴの水槽に駆け寄ってしまったこと。
彼が計画していた観覧ルートをことごとく、私が「可愛い!」の一言で破壊し尽くしてしまったこと。
「……極め付けはね、『ふれあいコーナー』でのことだったんだけど」
私はあの時のヒトデの話をした。私が「このヒトデすごく光ってる!」と叫び、心一くんが「この種に生物発光の能力はない」と冷静に分析し、そして私が「違うよ! 執着の光だよ! きっとこの岩のくぼみがお気に入りなんだよ!」と反論した一連の流れを。
その話を聞いた玲奈はついに堪えきれなくなったのか、テーブルに突伏して腹を抱えて笑い始めた。
「……ひっ……! ヒトデの縄張り意識……! あはははは! だめ、もうお腹痛い……!」
「な、何よ! 本当だったんだもん!」
「あんたたちのその根本的な認識のズレっぷり、もはや芸術の域に達してるわよ……! あいつの必死に組み立てた論理が、あんたのその超常現象の前で粉々に砕け散る様が目に浮かぶわ……!」
玲奈は涙を拭いながら言った。
「……それで? 結局あいつの計画はどうなったのよ。完全に失敗?」
「う、うん……。たぶん……」
私がしょんぼりと頷くと、玲奈は意外なことに優しく微笑んだ。
「……いいじゃない。その方があんたちらしいわよ。ガチガチの計画通りのデートなんて、あんたには似合わないもの」
その言葉に私は少しだけ救われた気がした。
そして話はいよいよデートの後半戦へと移っていく。
第3部:クライマックスの純度
「……でもね」
私は続けた。
「計画がぐちゃぐちゃになってからの方が、心一くん、なんだか楽しそうだったんだ」
「ほう?」
私はイルカショーでの出来事を話した。
最前列に座ったせいでずぶ濡れになったこと。文句を言いながらも彼が本当に楽しそうに笑っていたこと。その笑顔は私が今まで見てきたどんな彼の笑顔よりも自然で、そして無防備だったこと。
スケジュールもトリビアもすべてを忘れて、ただ目の前の瞬間を二人で共有している。その感覚が何よりも嬉しかったのだと。
私の話を玲奈は黙って聞いていた。そのからかいの色は消え、真剣な眼差しに変わっていた。
「……そう。あいつようやく分かったのね。あんたといる時に一番大事なことが何なのか」
その静かな呟きは、まるで全てを見通しているかのようだった。
そして話は、あの幻想的なクラゲの水槽の前での出来事へと至る。
私はあの時の光景を思い出すだけで胸が熱くなった。
薄暗い空間、青い光に照らされた無数のクラゲたち、自然と繋がれた手の温もり。
「……それでね」
私は少しだけ声を潜めた。
「……心一くんが言ってくれたの。『お前がいないと俺の世界には光がない』って」
その言葉を口にした途端、玲奈が息を呑むのが分かった。
彼女はしばらく何も言わずに固まっていたが、やがて深く、深ーくため息をついた。
「……あの朴念仁が、ねえ……」
その声は呆れているようでもあり、感心しているようでもあった。
「……言うじゃないの。あいつもようやくロマンチックなセリフの一つも言えるようになったわけね」
その玲奈の茶化すような言葉に私は救われた。
一人で抱えていたら、きっとこの甘すぎる記憶の重さに押しつぶされてしまいそうだったから。
「……それでね、玲奈」
私はこの話を誰かに聞いてもらいたくて仕方がなかった。この世界でただ一人、私のこの秘密を共有してくれる親友に。
「……その時見えたの。心一くんの胸の光が。今まで見たどんな光よりも綺麗で温かくて……。探究心の青でも愛情のオレンジでもない、純粋な金色の光。……あれが心一くんの本当の私への気持ちなんだって、はっきりと分かったの」
私の告白に玲奈は黙って頷いた。
彼女には光は見えない。だがその光景がどれほどの意味を持つのか、彼女は誰よりも深く理解してくれていた。
「……そっか。よかったじゃない、千明」
彼女は心の底からそう言ってくれた。その優しい一言が私の胸に温かく染み渡った。
しばらくその余韻に浸っていた、俺たちの甘い空気を切り裂いたのは玲奈の次の一言だった。
「……で?」
彼女は急に尋問官の顔に戻って身を乗り出してきた。
「……え?」
「キスは? したの? しなかったの? はっきり言いなさい!」
そのあまりにも直接的な質問。私の頭は完全に沸騰した。
「なっ、ななな、ななな、何を言うのよ玲奈!」
「何って、当然の疑問でしょ。それだけの雰囲気になって何もないとかあり得ないわよ。さあ白状しなさい! しないとあんたの黒歴史ポエム、クラス中に朗読するわよ!」
「そ、それは駄目ー!」
こうしてデートの詳細報告会は、最終的に恋バナという名の仁義なき戦いへと発展していったのだった。
第4部:結論と、未来の座標
「……まあ、合格点をあげてもいいわ」
一頻り私をからかい尽くして満足したのか、玲奈はシュークリームを頬張りながら言った。
「あんたもあいつも、少しは成長したみたいだし。何より本当に楽しそうじゃないの」
「……うん」
私は素直に頷いた。
本当に楽しい一日だった。
計画はぐちゃぐちゃだったけど、スマートとは程遠いデートだったけど。
でもそれでよかったのだ。
私たちは私たちしいペースで、少しずつ恋人になっていけばいい。そう思えたから。
「……それにしても」
玲奈がふと真顔に戻って言った。
「……神楽坂の件が片付いて本当によかったわね。あんな重い出来事の後だったから、なおさらあんたたちにはああいう普通の時間が必要だったのよ」
その言葉に私は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
そうだ。俺たちの夏はまだ終わっていない。神楽坂悠人という大きな問いがまだ残っている。
「……どうなるんだろうね、神楽坂くん」
「さあね。あいつがどうするかはあいつ自身が決めることよ。私たちはもうできることはやったんだから」
玲奈のきっぱりとした言葉。それはどこまでも正しく、そして現実的だった。
だが私の胸の中には、あの時の彼の壊れてしまいそうな光の残像がまだ焼き付いて離れなかった。
「……ま、今は難しい話はやめ!」
玲奈はそう言ってパンと手を叩いた。
「今はあんたの幸せそうな顔を見てるだけで十分よ。……で、結局キスはどうだったのよ」
「も、もうその話はおしまい!」
私と玲奈の笑い声が、夏の終わりの部屋に響き渡る。
色々あった俺たちの二度目の夏。それは甘くてしょっぱくて、そして少しだけ切ない味がした。
だがそのすべての出来事が俺たちの絆をより強く、そして深くしてくれたことを私は知っていた。
夏の終わり。それは新しい季節への始まりの合図。
俺たちの物語はまだ始まったばかりなのだから。




