高2・8月中旬:潮騒のメモリーと、虚ろな救済2
第1部:自業自得
八月中旬。あの海辺の町から俺たちの日常へと帰ってきて一週間が過ぎた。
アスファルトの陽炎が揺れる東京の夏は、あの町の涼やかな潮風とは比べ物にならないほど息苦しい。俺たちはそれぞれ溜まっていた夏休みの課題を片付けたり、予備校の夏期講習に通ったりと、受験生らしい平凡な日常を取り戻していた。
だが、俺たちの心の中にはあの夏の数日間の出来事が、まるで映画の残像のように焼き付いて離れなかった。
崖の上に佇んでいた老婆の穏やかな笑顔。死さえも乗り越える愛の記憶の真珠色の光。そして何よりも、すべてに打ちのめされ惨めな背中を向けて去っていった、神楽坂悠人のあの壊れてしまった横顔。
「……神楽坂くん、今どうしてるんだろう」
三人で近所の市民プールに涼みに行った帰り道、千明がぽつりと呟いた。その声には隠しきれない憂いが滲んでいる。
「……あの時の彼、本当に今にも壊れちゃいそうだったから……」
その懸念は俺も玲奈も共有していた。
俺たちは確かに戦いに勝利した。俺たちの信じる正義を守り抜いた。だがその結果、俺たちは一人の人間の心を完全に破壊してしまったのかもしれない。その事実は勝利の高揚感とは程遠い、重い後味を俺たちの心に残していた。
「……自業自得よ」
玲奈が吐き捨てるように言った。その声はいつもより硬い。
「あいつがやろうとしていたことは許されることじゃない。私たちはそれを止めた、ただそれだけよ。あいつのその後のことまで私たちが責任を持つ必要はないわ」
その言葉は正論だった。玲奈は現実的な視点から俺たちに境界線を示そうとしているのだ。これ以上深入りするのは危険だ、と。
俺も頭では分かっていた。神楽坂は危険な存在だ。彼のその歪んだ思想と強力な能力は、いつまた俺たちに牙を剥くか分からない。
「……論理的に考えれば玲奈の言う通りだ」
俺は言った。
「彼は潜在的な脅威だ。彼の思想の基盤は崩壊したが、それ故に今の彼は精神的に不安定で予測不能な状態にある。下手に接触すればどんなリスクがあるか分からない」
俺の冷静な分析。だが千明は静かに首を横に振った。
「……でも」
彼女は俺と玲奈の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「でももし、彼のあの苦しみが光になって私に見えたとしたら。私、それを見て見ぬふりできるかな……。できないと思う」
その言葉。それは彼女の優しさの本質であり、そして彼女が背負う宿命でもあった。
光が見えるから放っておけない。たとえその光が自分たちを傷つけた敵から放たれるものであっても。
俺は何も言い返せなかった。なぜなら俺自身もまた同じ問いを心の中で繰り返していたからだ。
俺は神楽坂を許してはいない。だが彼のあの絶望を知ってしまった今、彼をただの「敵」として切り捨てることが果たして正しいことなのか。俺たちの掲げる「正義」とは、そんな狭量なものだったのか。
答えは出なかった。俺たちはその重い問いを胸に抱えたまま、残りの夏休みを過ごすことになった。神楽坂の影は夏の強い日差しの中でも、俺たちの足元に濃くそして長く伸び続けていた。
第2部:壊れた魂の光
その日、俺は一人で神保町の古本屋街を訪れていた。認知科学に関する古い専門書を探すためだ。
夏の午後の日差しがアスファルトに照りつけ、陽炎が立ち上っている。蝉の声がまるで耳鳴りのように響いていた。
目的の本を何冊か手に入れ、俺は帰路につこうとしていた。
その時だった。俺のスマートフォンの着信音が鳴った。千明からだった。その声は明らかに普通ではなかった。
『……心一くん! 今どこ!?』
「千明? どうした、そんなに慌てて」
『……光が見える……!』
その一言に俺の背筋が凍った。
『……あの時と同じ光……! 神楽坂くんのロケットから出てたあの冷たい銀色の光だよ! でも違うの! もっとぐちゃぐちゃで激しくて……! まるで心が引き裂かれそうになってるみたい……!』
「……どこだ、それは!」
『分からない……! でもすごく近いの! 今私も神保町にいるんだ!』
俺は彼女に自分の現在地を告げた。
数分後、息を切らした千明が俺の元へ駆け込んできた。その顔は真っ青だった。
「……こっちだ」
俺たちは走り出した。千明が指し示す光の方向へ。
それは古本屋街の喧騒から少し離れた静かな路地裏だった。古い神社の境内。その隅にあるベンチに一人の男が座っていた。
その姿を見て俺たちは息を呑んだ。
神楽坂悠人だった。
だがその姿は、俺たちが知るあの傲岸不遜な敵の面影はどこにもなかった。
制服は着崩れ、髪は乱れている。その顔は憔悴しきり、目の下には深い隈が刻まれていた。
彼はただ虚ろな目で空を見上げ、そしてその手にはあの銀色のロケットが握りしめられていた。
千明の言った通りだった。彼女は彼の胸のあたりを指差し、小さく震えている。彼女には見えているのだ、そこから放たれる激しく乱れた銀色の光が。それはもはや悲しみというより、純粋な自己破壊の衝動。自分自身を許せないという、底なしの自己嫌悪の光なのだと、彼女の表情が物語っていた。
俺たちが近づいていく足音に、彼は気づいたようだった。
ゆっくりとこちらを向くその瞳には何の光も宿っていない。
「……なんだ。君たちか」
その声には何の敵意もなかった。ただすべてを諦めきった深い疲労だけが滲んでいた。
俺たちは何も言えずに彼の前に立った。どんな言葉をかけるべきか分からなかった。
沈黙を破ったのは神楽坂の方だった。彼は自嘲するようにふっと笑った。
「……滑稽だろう。僕は君たちに負けた。あの老婆の言葉に僕のすべては否定された。……忘却は救済なんかじゃなかった。ただの逃避で、そして魂の自殺だったんだ」
彼は手のひらのロケットを見つめた。
「あの日以来、僕は思い出そうとしている。両親の顔を、声を。このロケットに触れれば何か思い出せるんじゃないかって。でも駄目なんだ。何も思い出せない。ただこの胸の痛みだけが鮮明に蘇ってくる。……君の言う通りだったな、落田心一。僕は愛まで消してしまったんだ」
彼は顔を上げた。その瞳には涙さえ浮かんでいなかった。あまりにも乾ききった絶望。
「……僕は僕の手で、両親を二度殺したんだよ」
その告白。それは断罪を求める罪人の声だった。
俺たちはただ、そのあまりにも重い言葉を受け止めることしかできなかった。
彼が背負っている罪と罰。それは俺たちが想像するよりもずっと深く、そして救いがたいものだった。
第3部:返せない、失われたもの
神楽坂のその絶望的な告白。
それは俺たちに新たな、そして最も難解な問いを突きつけていた。
俺たちはこの壊れてしまった魂をどうすればいい?
千明はただ黙って彼の隣に座っていた。その瞳には深い悲しみと、そしてどうしようもない無力感が浮かんでいた。
彼女の能力はこういう時、あまりにも残酷だ。彼の心の痛みが光となって、ダイレクトに彼女の心に流れ込んでくる。それは彼女の精神をじわじわと削り取っていく。
俺は冷静に思考を巡らせた。
今俺たちが向き合っているこの問題。それはもはや「落とし物」ではない。
失われたものは物理的な物ではない。神楽坂が自らの手で消し去ってしまった、かけがえのない「記憶」そのものだ。
それは俺たちが決して見つけることも返すこともできない、絶対的な喪失。
俺たちの理念も能力も、ここでは完全に無力だった。
俺たちは場所を近くの喫茶店に移した。玲奈にも連絡を取り合流する。
神楽坂はまるで人形のように、俺たちのされるがままになっていた。
玲奈は事情を聞くと、俺たち以上に冷静だった。
「……これはもう私たちの手には負えないわ」
彼女はきっぱりと言った。
「専門家の助けが必要よ。カウンセラーか、あるいは医者か。彼の心の傷は私たちがどうこうできるレベルを超えている」
それは正論だった。そして最も現実的な解決策だ。
だが千明は静かに首を横に振った。
「……駄目だよ、それだけじゃ」
彼女はテーブルの下で震える神楽坂の手を、そっと握った。
「……だって彼のこの光は助けを求めてる。誰かに罰してほしいって叫んでる。それと同時に誰かに許してほしいって願ってる。その声から目を逸らしちゃ駄目だよ」
彼女の優しさ。それは時に無謀でそして危うい。
だがその優しさこそが、俺たちの最後の希望なのだと俺は知っていた。
「……ならどうするんだ」
俺は尋ねた。
「俺たちに何ができる。記憶は返せない。罪を許すことも罰することも俺たちにはできない」
その時だった。神楽坂が初めて顔を上げた。
そして俺の目を真っ直ぐに見て言った。
「……君ならできるんじゃないのか」
「……何?」
「……君のその力で。僕のこの空っぽの心を分析して、論理的に僕がこれからどうすればいいのか、教えてくれるんじゃないのか」
そのあまりにも意外な言葉。
彼は俺のその理屈っぽい思考能力に、最後の望みを託そうとしているのだ。
それは医者に診断を求める患者の目だった。
俺は試されているのだ。俺の羅針盤としての力が。
俺は観念して頷いた。
「……分かった。だが期待はするな。俺にお前を救うことなどできない。できるのは、いくつかの可能性を提示することだけだ」
それは俺にできる最大限の誠意だった。
第4-部:贖罪の灯火、再生の道
俺は神楽坂と向き合った。それはさながらカウンセリングのようだった。
俺は彼に質問を重ねた。彼が両親を失った時のこと、彼が能力に目覚めた時のこと、彼が自分の記憶を消そうと決意した時のこと。
彼は最初は躊躇いがちに、しかし次第に堰を切ったようにすべてを語り始めた。
彼の話は壮絶だった。
彼は事故の瞬間を見ていたのだ。目の前で両親が血塗れで倒れているその光景。そのあまりにも強烈なトラウマが彼の能力を目覚めさせた。
彼はその日からすべての「未練」が光として見えるようになった。そして自分自身の胸に灯る、両親を失ったその絶望の光が、彼を二十四時間苛み続けた。
彼はその耐え難い痛みから逃れるために自分の記憶を消した。だがそれは最悪の選択だった。
俺は彼の話を黙って聞いた。そして俺なりの分析を彼に告げた。
「……お前は間違えたんだ。消すべきは記憶ではなかった」
「……なら何だと言うんだ」
「……罪悪感だ。お前は自分を責めている。『あの時自分がもっと早く助けを呼んでいれば』『自分が事故の原因なのではないか』と。その根拠のない罪悪感が、お前の悲しみを歪んだ自己破壊の衝動へと変えたんだ」
俺の指摘に、神楽坂ははっとしたように顔を上げた。
俺は続けた。俺自身の経験を語りながら。
「前に話したかもしれないが、俺も大切な人を失った。祖母だ。俺は彼女が亡くなった後、しばらく自分を責めたよ。もっと会いに行けばよかったと。もっと感謝の言葉を伝えればよかったと。後悔は尽きない。だがな」
俺は彼の目を真っ直ぐに見て言った。
「俺は忘れないことを選んだ。その痛みも後悔も、すべてが俺が祖母をどれだけ愛していたかの証だからだ。……お前が失ったのは記憶じゃない。愛していたという事実と向き合う勇気だ」
俺の言葉が彼の心のどこに届いたのか、それは分からない。
だが彼のその空っぽだった瞳に、ほんの僅かな、しかし確かな光が灯ったのを俺は見逃さなかった。
「……俺たちにはお前の記憶を返すことはできない」
俺は最後の提案をした。
「だがお前に新しい目的を与えることはできるかもしれない」
「……目的?」
「そうだ。……もしお前が本気で自分の罪を償いたいと思うなら、俺たちの仲間になれ」
そのあまりにも突拍子のない提案。神楽坂も隣で聞いていた千明と玲奈も、目を丸くしていた。
「……お前のその力は使い方を間違えれば凶器になる。だが正しく使えば誰かを救う力にもなるはずだ。お前は誰よりも記憶を失う痛みを知っている。だからこそお前には救える心があるはずだ。……それがお前の贖罪の道になるんじゃないのか」
それは俺が導き出した、彼のための唯一の「未来」への処方箋だった。
罰ではない。役割を与えることによる再生。
俺たちは敵を求めるのではない。仲間を求めているのだと。
神楽坂は呆然と俺たちの顔を見比べていた。
千明のどこまでも優しい眼差し。玲奈の厳しくも公正な眼差し。そして俺の真っ直ぐな眼差し。
彼は何も答えなかった。
ただしばらく沈黙した後、静かに立ち上がった。
そして深々と一度だけ頭を下げると、何も言わずに喫茶店を出ていった。
俺たちはその後ろ姿を黙って見送った。
彼が俺たちの提案を受け入れるかどうか、それは分からない。
だが俺たちが為すべきことはやった。俺たちは彼に新しい「可能性」を提示したのだ。
千明が窓の外を見つめて呟いた。
「……見て」
彼女の視線の先、雑踏の中を歩いていく神楽坂の後ろ姿。
彼女には見えているのだろう。彼の胸のあたりに、荒れ狂っていた銀色の光はもうない。代わりにそこには、まるで闇夜に初めて灯る蝋燭の炎のように、小さくか細い、しかし確かに揺るぎない一つの灯火が生まれているのを。
それは記憶の光ではない。喜びの光でもない。
新しい目的を見つけこれから生きていこうとする、人間の意志の光。
贖罪という名の、再生の光だった。
俺たちの夏は終わろうとしていた。
それはあまりにも多くの出会いと別れと、そして学びがあった夏だった。
俺たちはまた一つ強くなった。
そして俺たちの物語は、また新しい仲間を迎えるかもしれないという予感を胸に、次の季節へと続いていく。
夏の終わりの空はどこまでも高く、そして澄み渡っていた。




