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閑話:論理的な水族館(アクアリウム)デートの最適化と、その破綻について

第1部:計画段階・オペレーション・パーフェクトデート


あの潮騒と絶望の町から帰ってきて数日が過ぎた。

八月の上旬。夏休みはまだその大部分を青々と残している。俺たちの心に残った神楽坂悠人という重い影。それは夏の強い日差しの中でも時折ふとした瞬間に、俺たちの心を冷たく曇らせた。

だからこそ俺は思ったのだ。今俺たちに必要なのは非日常的な事件ではない。どこにでもある平凡でありふれた、そして最高に幸福な「日常」なのだと。


「……千明」

ある日の昼下がり、俺は電話の向こうの恋人に告げた。

千明。その名前を口にするだけで胸の奥が温かくなる。そんな関係が俺たちの当たり前になっていた。

「次の日曜日、……二人で出かけないか」

『えっ!』

受話器の向こうで彼女が息を呑むのが分かった。

「……いわゆる、その……デートというやつだ」

俺がそう付け加えると、電話の向こうは数秒間の沈黙の後、爆発した。

『で、で、で、でーと!?』

「……声が大きい」

『い、行く! 絶対行く!』


そのあまりにも嬉しそうな声に、俺の口元が緩んだのを悟られてはいけない。俺はあくまで冷静に事務連絡のように続けた。

「分かった。場所と時間は俺の方で設定する。追って連絡するから予定を空けておけ」

『うん!』

元気な返事を聞いて俺は電話を切った。そして深く息を吐く。心臓が柄にもなく早鐘を打っていた。


さて、と。

俺は自分の部屋の机に向かった。ここからが本番だ。

俺、落田心一の真価が問われる瞬間。

俺は真っ白なノートを広げ、そこに力強い文字を書き込んだ。


『オペレーション・パーフェクトデート:対象(千明)の感情的満足度を最大化するための論理的アプローチについて』


そうだ。デートとは科学だ。行き当たりばったりの感情的な行動は非効率を生み、リスクを増大させるだけだ。

目的は明確。『千明を楽しませること』。

その目的を達成するために、俺は俺の持つすべての論理的思考能力を投入する。


まず場所の選定。俺はインターネットで『高校生 デート 人気スポット 東京』と検索し、表示された膨大な選択肢を分析し始めた。

遊園地は待ち時間が非効率。映画館は会話が不可能。ショッピングは俺の精神的消耗が激しい。

そして俺の目に一つの選択肢が留まった。『水族館』。

これだ。天候に左右されない全天候型施設。適度な暗さと静けさが親密な雰囲気を醸成する。何より多種多様な海洋生物という、知的で興味深い会話のネタが無限に存在する。完璧だ。


場所は決まった。次に当日のタイムスケジュールだ。

俺は水族館の公式サイトを開き、館内マップとイベントスケジュールをダウンロードした。イルカショー、ペンギンの散歩、餌やりタイム。それらの時間を基点に最適な観覧ルートを逆算していく。

移動時間、各水槽の平均滞在時間、昼食の混雑予測。あらゆる変数を考慮し、俺は一分刻みの完璧なスケジュールを組み上げた。


『10:00 駅前集合』

『10:17 電車乗車(3号車が最も乗り換えに便利)』

『11:00 水族館到着、入場』

『11:15 熱帯魚エリア観覧(滞在時間20分)』

……

『13:00 イルカショー(Aブロックの5列目が最も水しぶきと視認性のバランスが良い)』

……


我ながら完璧な計画だった。これさえあれば当日の俺は迷うことなく千明をエスコートできるはずだ。

さらに俺は万全を期すために、各エリアで披露するための海洋生物に関するトリビアを暗記し始めた。

『クリオネは実は貝の仲間である』

『マンボウの学名は Mola mola。ラテン語で石臼を意味する』

『タコの心臓は三つある』

よし。これで会話が途切れる心配もない。

俺は自分の完璧な計画に満足し、その夜珍しくぐっすりと眠った。

千明というこの世で最も予測不能なアノマリー(異常存在)が、俺の完璧な論理式をいかに容易く破壊するかをまだ知らずに。


第2部:千明という名の予測不能変数


デート当日。

俺は約束の時間の十分前に駅前の集合場所に到着した。

今日の俺に死角はない。脳内には完璧なスケジュールがインプットされている。

やがて「心一くーん! お待たせー!」と明るい声が聞こえてきた。

振り返ると、そこには夏らしい白いワンピースに身を包んだ千明が立っていた。

そのあまりの眩しさに俺の心臓が非論理的な音を立てる。落ち着け俺。これも想定内の事象だ。


「……いや、今来たところだ」

俺はポーカーフェイスを装い言った。

「よし、では行こう。予定では10時17分発の電車に乗る」

「うん!」


彼女は嬉しそうに頷いた。完璧な滑り出し。

俺たちは改札へと向かった。その時だった。


「あ……!」

千明が突然足を止めた。

「どうした」

「……光ってる。あそこのガチャガチャの機械……」


彼女が指差す機械の前で小さな男の子が半泣きになっている。どうやら投入した百円玉が機械の中で詰まってしまったらしい。

「……可哀想……。ちょっと待ってて!」

彼女はそう言うと男の子の元へと駆け寄っていった。

おい、待て。予定が狂う。

俺の心の叫びも虚しく、彼女はしゃがみ込み男の子に優しく話しかけている。やがて駅員を呼んできて無事に百円玉は救出された。男の子は満面の笑みで千明にお礼を言っている。

それはどこからどう見ても美しい光景だった。だが俺の額には冷たい汗が流れていた。


時計を見る。現在の時刻10時20分。予定の電車はすでに出発している。

開始わずか十分で計画に致命的な遅延が発生した。警戒レベルを一気に3へと引き上げる。


「ごめんね心一くん、待たせちゃって」

「……いや。……次の電車で行こう」


なんとか平静を装い、俺たちは水族館へとたどり着いた。

入り口はすでに家族連れやカップルでごった返している。

「よし千明。まずは計画通り熱帯魚エリアからだ。滞在時間は20分。効率的に回るぞ」

「うん!」


俺たちは色とりどりの魚たちが泳ぐ大水槽の前に立った。完璧な青い世界。

よし、ここで早速準備してきたトリビアを披露するチャンスだ。

「……なあ千明。あの黄色くて四角い魚がいるだろ。あれはハコフグと言ってだな。フグの仲間だが毒は皮膚にしか持たない。その毒はオストラクシンと呼ばれ……」


俺の流暢な解説。だが千明は全く違う場所を見ていた。

「わー! 見て見て心一くん! あそこのチンアナゴ可愛いー! 砂からにょろにょろ出たり入ったりしてるー!」

彼女は俺の話など全く聞いていなかった。それどころか俺の手を引きチンアナゴの水槽の前へと駆け出していく。

俺の完璧な導入は完全に失敗に終わった。


その後も俺の計画はことごとく、彼女という予測不能な変数によって破壊され続けた。

クラゲの水槽の前で三十分以上動かなくなったり、ペンギンの可愛さに夢中になりアシカショーの時間を忘れかけたり。

そのたびに俺は脳内でスケジュールを再計算し、必死で軌道修正を試みた。

だがもう無駄だった。俺の完璧なはずの論理式は、彼女の「可愛い!」という一言の前に完全に無力だったのだ。


極め付けは「ふれあいコーナー」での出来事だった。

そこはヒトデやナマコなどに直接触れることができるエリアだ。

千明は子供のようにはしゃいで水槽に手を入れている。

その時、彼女が叫んだ。

「見て心一くん! このヒトデすごく光ってる!」


俺は眉をひそめた。

「……発光? いや、この種のヒトデに生物発光の能力はないはずだ。おそらく照明の反射だろう」

「ううん、違うよ! 執着の光!」

彼女は真顔で言った。

「きっとこの岩のくぼみがすっごくお気に入りなんだよ! 『ここは俺の場所だ! 誰にも渡さん!』ってすごい強い意志の光を放ってる!」


ヒトデの縄張り意識が光になって見えるだと……?

俺はもはや反論する気力もなかった。

この少女の前では常識も科学も論理も、すべてが通用しない。

俺は敗北を認めた。オペレーション・パーフェクトデートは完全に失敗に終わったのだと。


第3部:深海の光、心の法則


計画が完全に破綻した俺は、もはや全てを諦め流れに身を任せることにした。

スケジュールもトリビアも全て忘れた。ただ千明の行きたい場所へ行き、彼女が見たいものを一緒に見る。

するとどうだろう。俺の心から焦りが消え、純粋に目の前の光景を楽しめるようになっていた。

計画の破綻は、むしろ俺の心を解放した。不測の事態を楽しむという、俺の論理にはなかった新しいパラメータを発見した気分だった。


イルカショーでは、最前列に座ったせいでずぶ濡れになった。文句を言う俺の横で、千明は腹を抱えて笑っている。その笑顔を見ていると、まあいいかという気分になった。

アシカが見せるコミカルな芸に二人で笑い転げ、巨大なジンベエザメの悠然とした泳ぎに時間を忘れて見入る。

それは俺が計画していたスマートなデートとは程遠い、行き当たりばったりの子供じみた時間だった。

だが千明は心の底から楽しそうに笑っていた。その笑顔を見ているだけで俺の心も満たされていく。

目的は「千明を楽しませること」。

そうか。プロセスはどうであれ目的は達成されているのか。

俺は自分の計画の根本的な欠陥に、ようやく気づき始めていた。


やがて俺たちはこの水族館の最後のエリアへとたどり着いた。

そこは深海生物が展示された薄暗い空間だった。

そしてその一番奥にそれはあった。壁一面が巨大な水槽になっており、その中を無数のミズクラゲが幻想的に漂っている。青いライトアップに照らされたその光景は、まるで宇宙空間のようだった。


「……綺麗……」

千明がぽつりと呟いた。

周りの喧騒が嘘のように遠ざかり、そこには静かで美しい二人だけの時間が流れていた。

俺たちは言葉もなく、ただその幻想的な光景に見入っていた。

自然と、俺は彼女の手を握っていた。彼女もまた、ごく自然に、その手を握り返してきた。


不意に千明が俺の方を向いた。その瞳はクラゲの光を反射して潤んでいる。

「……ありがとう心一くん。今日すっごく楽しい」

「……ああ」

「連れてきてくれて本当によかった。……あの海に行ってからずっと心の中に重いものがあったから。でも今日なんだか、それが全部洗い流されたみたい」


彼女はそう言って優しく微笑んだ。

その笑顔、その感謝の言葉。俺の心臓が大きく脈打った。

もはやそこに論理も計算もなかった。ただ純粋な衝動だけがあった。


俺は彼女を見つめた。青い光に照らされたその横顔。俺のために一生懸命悩んでチョコレートを作ってくれた指。俺の名前を呼ぶその唇。

そのすべてがどうしようもなく愛おしいと思った。


「……俺もだ」

俺は呟いていた。

「……お前がいないと、俺の世界には光がない」


それは俺の心からの言葉だった。彼女という光がなければ俺は今でも、あの灰色の論理だけの世界で一人彷徨っていただろう。

俺の言葉に、千明の瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。

そして彼女は、今までで一番美しい笑顔で笑った。


その瞬間、彼女には見えていた。

俺の胸の中心で、今まで見てきたどんな光よりも純粋で力強い黄金色の光が溢れ出すのを。

それは探究心の青でも愛情のオレンジでもない、ただ彼女への想いそのもの。

俺がこのデートでずっと探し求めていた「最適解」の光だった。

それは計画を捨て心を開いた、その瞬間にこそ現れる奇跡の光だったのだ。


俺たちはそのまましばらく手を繋いで、クラゲたちを眺めていた。

俺のオペレーション・パーフェクトデートは結果として大失敗に終わった。

だがその失敗の先で、俺は誰よりも大切な答えを見つけ出すことができた。

恋とは論理ではない。心そのものなのだと。

その温かい結論を胸に、こうして俺たちの二度目の夏は、忘れられない一日をその記憶に刻んだのだった。

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