高2・8月上旬:潮騒のメモリーと、虚ろな救済
第1部:夏への小旅行
八月。世界は燃えるような太陽とどこまでも続く青空に支配されていた。
俺たちの高校二年生として初めての夏休みは、その輝かしい幕を開けた。長く、そして濃密だった一学期を終え、俺たちの心には解放感と、これから始まる特別な季節への期待が満ちていた。
「ねえねえ! 夏休み、どこか行こうよ、三人で!」
夏休みに入って数日後の昼下がり。近所のファミリーレストランでかき氷の山を崩しながら、千明が子供のようにはしゃいだ声で言った。
「旅行? いいわね、賛成」
向かいに座る玲奈も珍しく乗り気だった。
「どこへ行くんだ」
俺が冷静に問いかけると、千明はキラキラした目で俺たちの顔を交互に見た。
「うーんとね、海が見たいな! 砂浜でスイカ割りして、夜は花火!」
「……ベタだな」
「ベタが一番なの!」
千明のあまりにも絵に描いたような夏のプランに、玲奈が現実的なツッコミを入れる。
「海ってことは、水着どうするのよ千明。あんた去年着てたの、まだ入るわけ?」
「うっ……。き、着れるもん! たぶん!」
慌てて反論する千明の姿に、玲奈は意地の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、どうせなら新しいの買えばいいじゃない。せっかくだし、明日でも見に行く?」
「行く!」
水着。その単語が俺の論理的な思考回路に、致命的なエラーを発生させた。俺は平静を装ってかき氷の溶けた水をすすったが、心臓が余計な音を立てているのを自覚していた。
結局、俺たちが行くことになったのは玲奈が昔家族でよく訪れたという、少し古風な海辺の町だった。都心から電車で二時間ほど。派手なリゾート地ではないが、静かで美しい砂浜があるのだという。
翌日、俺たちは三人で大型のショッピングモールに来ていた。
水着売り場という、男一人では決して足を踏み入れることのない領域。その色鮮やかで布面積の少ない空間に、俺は完全に気圧されていた。
「心一くん、どっちがいいと思う?」
試着室から出てきた千明が、恥ずかしそうに俺に尋ねる。白いフリルのついたビキニ。普段の快活な彼女とは違う、そのあまりにも女の子らしい姿に、俺は言葉を失った。
「……似合ってるんじゃないか」
そう答えるのが精一杯だった。俺のその反応を見て、彼女は嬉しそうに、そして恥ずかしそうに微笑んだ。
旅行当日。俺たちは少しだけ浮かれた気分でローカル線のボックス席に揺られていた。
窓の外を流れていく夏の景色。青々とした田園風景が次第に潮の香りを帯びた海の景色へと変わっていく。
千明は子供のように窓に顔を張り付かせている。玲奈は文庫本を読んでいるふりをしているが、その口元はかすかに綻んでいた。
俺はイヤホンで音楽を聴きながら、そんな二人をぼんやりと眺めていた。
千明が不意に俺の肩にこてんと頭をもたせかけてくる。寝てしまったらしい。その穏やかな寝息。俺はイヤホンの片方をそっと彼女の耳につけてやった。
そのささやかな恋人同士のやり取りを、玲奈が本の上からちらりと盗み見てやれやれと肩をすくめた。
すべてが穏やかで、そして完璧な夏の一日だった。
目的の駅に着くと、むわりとした潮風が俺たちを出迎えた。
錆びれた駅舎、古びた商店街、そしてその向こうに広がるどこまでも青い海と空。そのノスタルジックな風景に俺たちの心は自然と高揚していた。
旅館に荷物を置くと、俺たちは早速、目的の砂浜へと向かった。
「うわー! 海だー!」
サンダルを脱ぎ捨て、千明が波打ち際へと駆け出していく。
俺と玲奈もその後に続いた。熱い砂の感触と、ひんやりとした波の感触が、足の裏に心地よい。
「さて、と。着替えますか」
玲奈に促され、俺たちは海の家でそれぞれ水着に着替えた。
先に姿を現したのは玲奈だった。黒のシンプルなビキニに、薄いパーカーを羽織っている。その大人びた姿に、俺は少しだけ目のやり場に困った。
そして、少し遅れて千明が出てきた。
昨日、俺が「似合っている」と言った、あの白いフリルのビキニ。
太陽の光を浴びて輝く水しぶきと、白い砂浜。その中で、はにかむように頬を染めて立つ彼女の姿は、この世のどんな芸術品よりも美しく、俺の目に焼き付いた。
「……へ、変かな?」
俺の視線に気づき、彼女が不安そうに尋ねる。
「いや……」
俺は、自分の心臓がうるさいのを無視して、答えた。
「……すごく、いいと思う」
俺のその率直な言葉に、彼女は心の底から嬉しそうに、太陽のように笑った。
その日、俺たちは本当にスイカ割りをし、夜にはコンビニで買った手持ち花火に火を灯した。
パチパチとささやかな火花を散らす線香花火の光。その光に照らされた千明の横顔が、あまりにも美しくて俺は言葉を失った。
この時間が永遠に続けばいい。心の底からそう願った。
この穏やかな夏が、俺たちの物語の一つのゴールであってほしい、と。
だが運命は俺たちに、そんな安易な休息を与えてはくれなかった。
俺たちの本当の夏は、まだ始まってもいなかったのだ。
第2部:絶望の光、啼く記憶
旅行二日目。その日も空は雲一つなく晴れ渡っていた。
俺たちは朝食を済ませると、町の外れにある景勝地として有名な断崖絶壁へと向かうことにした。そこからは雄大な太平洋を一望できるのだという。
バスに揺られ、緑豊かな山道を登っていく。やがて視界が開け、俺たちは息を呑んだ。
目の前にはどこまでも続く水平線。切り立った崖の下では、白い波が岩肌に打ち付けられ砕け散っている。
そのあまりにも雄大で、そして少しだけ恐ろしい光景。
「すごい……! 地球って丸いんだね……!」
千明が感嘆の声を上げる。俺も玲奈も言葉もなく、ただその絶景に圧倒されていた。
俺たちが普段向き合っている悩みや葛藤が、あまりにもちっぽけに思えるような絶対的な自然の力。
その時だった。
「……ぁ……」
隣に立つ千明が呻くような声を漏らした。
見ると彼女は顔を真っ青にして、口元を押さえている。その視線は断崖の一番先端、海に突き出した岩場の一点に注がれていた。
「千明!?」
俺が慌ててその肩を支える。彼女の体は小刻みに震えていた。
「……光……。ひかりが……」
「光? どこだ」
「あそこ……。崖の先……」
彼女が震える指で指し示すその場所。俺の目にはただ強い日差しを反射してきらめく岩肌しか見えない。
だが彼女には見えていた。俺たちには決して見ることのできない、恐ろしい何かが。
「……どんな光なんだ、千明!」
俺は叫んだ。
彼女は涙を浮かべかぶりを振った。
「……分からない……! 今まで見てきたどんな光とも違う……! ただ悲しいだけじゃない……! あの光、絶叫してる……! 純粋な絶望だけの光……! 痛くて冷たくて、心が張り裂けそう……!」
そのあまりにも異様な表現。俺と玲奈は顔を見合わせた。
俺たちは危険を感じながらも、その光の源へと近づいていった。
崖の先端は風が強く吹き付けている。一歩間違えれば真っ逆さまだ。
千明が指差すのは岩の裂け目だった。俺はそこに慎重に手を伸ばした。
指先に何か硬く、そしてざらりとした感触が触れる。
俺はそれをつまみ上げ、そして息を呑んだ。
それは一枚の貝殻だった。白く滑らかで美しい螺旋を描いている。だがその表面には深く亀裂が入っていた。
千明がその貝殻を目にした瞬間、彼女はひゅっと息を呑むとその場に崩れ落ちそうになった。
俺は慌てて彼女の体を抱きとめる。
「千明! しっかりしろ!」
彼女は俺の腕の中で激しく震えていた。
彼女が貝殻に触れた瞬間、その落とし物に込められた数十年に及ぶ絶望と悲しみの奔流が、彼女の心に直接流れ込んできたのだ。それは彼女の精神が耐えられる限界を遥かに超えていた。
俺たちはその場から逃げるように崖を下りた。麓の小さな茶屋でようやく一息つく。
千明はテーブルに突っ伏したまま動かない。その背中が小さく震えていた。
「……あれは一体何なんだ……」
玲奈が青ざめた顔で呟いた。
俺は茶屋の老婆に、あの崖について尋ねてみることにした。
老婆は俺たちが差し出した貝殻を一目見ると、悲しそうに目を伏せた。
「……ああ、今年もあの人が来とられたかね……」
老婆はぽつりぽつりと語り始めた。それはこの町で語り継がれる一つの悲しい物語だった。
今からもう五十年も昔、この町に一組の若い恋人たちがいた。男は漁師で、女は町の娘だった。
二人は将来を誓い合い幸せの絶頂にいた。
男が漁に出る前日、彼はあの崖の上で女にこの貝殻を渡したのだという。
「必ず帰ってくる。だからこれを俺だと思って待っていてくれ」と。
だが男が乗った船は沖で嵐に遭い、二度と港に戻ってはこなかった。
女はそれからずっと待ち続けているのだという。来る日も来る日もあの崖の上で海を見つめて。
最初は誰もが彼女を慰めた。だが十年、二十年と経つうちに、彼女は町の風景の一部になった。誰もが「またあの人がいる」と遠巻きに眺めるだけの存在に。
彼女は今や腰の曲がった老婆だ。だが今も毎年、男がいなくなったその日になると、必ずあの崖の上に現れるのだという。
「……その貝殻は」老婆は言った。「あの人が毎年崖に供える花のようなものなんじゃろう。そして一年経つとまた新しい貝殻を拾ってここへ来る。……もう五十年になるかのう。あの人の時間はあの日からずっと止まったままなんじゃ……」
そのあまりにも長大で、そして救いのない物語。俺たちは言葉を失っていた。
あの絶叫するような光の正体。それは半世紀という途方もない時間にわたって積み重ねられてきた、一人の人間の純粋な悲しみそのものだったのだ。
俺たちはどうすることもできなかった。この巨大な絶望の前で、俺たちの力などあまりにも無力だった。
千明の能力も俺の論理も、何一つ通用しない。俺たちは初めて完全な敗北を喫した。
第3部:忘却の救済者
俺たちがその圧倒的な無力感に打ちひしがれている、その時だった。
茶屋の入り口の暖簾が揺れ、一人の男が入ってきた。
その姿を見て、俺は全身の血が凍りつくのを感じた。
神楽坂悠人だった。
彼の様子は以前と明らかに違っていた。痩せ、その瞳の奥には狂信的な光が宿っている。
六月のあの日、千明にその信念を打ち砕かれた彼は、より過激な思想へとその身を投じていたのだ。
彼は俺たちを一瞥すると、興味なさそうに視線を逸らした。彼もまたあの強大な光に引き寄せられて、この町へ来たのだ。
「……やはり来たか」
彼は俺たちではなく虚空に向かって呟いた。
彼は俺たちが持っている貝殻に気づくと、その瞳を細めた。
「……これか」
彼はまるで希少な標本を見るかのように、その貝殻を眺めた。
「これこそが僕が探し求めていた、純粋な『未練』の結晶だ。何十年も人を一つの場所に縛り付け続ける、最強の呪い」
その言葉に、千明がか細い声で反論した。
「……呪いなんかじゃない……! これはあの人の、愛の証だよ……!」
「愛?」
神楽坂は鼻で笑った。
「それは感傷的な欺瞞だ。愛はとっくの昔に死んでいる。今そこに残っているのは、ただの執着という名の腐臭だけだ。彼女は死んだ男の亡霊に心を食い尽くされている、哀れな犠牲者に過ぎない」
彼は言った。六月のあの日以来、彼は自分の使命を悟ったのだ、と。
中途半端な未練の光などどうでもいい。自分が救済すべきはこのような最も深く救いのない苦しみに囚われた魂なのだ、と。
彼はこの老婆をその終わらない地獄から解放するためにここへ来たのだ。
「……やめて」
千明が震える声で言った。
「あの人の思い出を、あなたに消す権利なんてない!」
「権利じゃない。使命だ」
神楽坂は冷たく言い放った。
「君たちに何ができる? 彼女のそばに寄り添い『可哀想に』と同情の言葉をかけるだけか? それで彼女の何が救われる? 君たちのその無力な感傷こそが、彼女を苦しみの牢獄に閉じ込めている共犯者なんだよ。僕のやり方こそが慈悲だ」
その歪んだ、しかし揺るぎない論理。
俺は反論した。
「記憶を消すことが慈悲だと!? それは魂の殺人と同じだ! お前にはそれが分からないのか!」
「分かるさ。だから僕がその罪を背負うんだ。彼女の代わりにね」
もはや議論は無意味だった。彼は俺たちの言葉など聞く気はない。
彼は立ち上がった。
「……彼女を探す。そしてすべてを終わらせる。君たちには邪魔をさせない」
彼はそれだけを言い残すと、風のように茶屋を出ていった。
俺たちはただ呆然と、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
第4部:記憶を巡る戦い
神楽坂を止めなければならない。
俺たちの心は一つだった。
これはもはや「落とし物」を巡る問題ではない。一人の人間の尊厳と記憶を守るための戦いだ。
俺たちは茶屋を飛び出し、必死で老婆の行方を探した。
老婆が毎年泊まっているという古びた旅館。だが彼女はそこにはいなかった。
日はすでに西に傾き空は赤く燃え始めている。焦りが俺たちの心を蝕んでいく。
この小さな町で神楽-坂が彼女を見つけ出すのは時間の問題だ。
「……どこにいるの……!」
千明が悲痛な声を上げる。
その時、俺の脳裏に一つの可能性が閃いた。
彼女が来るのは毎年同じ日。そして訪れるのは毎年同じ場所。
ならば彼女が帰る前に必ず立ち寄る場所もまた……。
「……墓地だ」
俺は呟いた。
「亡くなった恋人の墓がこの町のどこかにあるはずだ。彼女はきっとそこにいる」
俺たちは町で一番古い寺へと走った。
夕暮れの墓地は静まり返り、ひぐらしの鳴き声だけが響いていた。
そして俺たちは見つけた。海を一望できる小高い丘の上、一つの古い墓石の前に静かに手を合わせる老婆の後ろ姿を。
そしてその数メートル後ろに、亡霊のように佇む神楽坂の姿も。
俺たちは息を殺し物陰に隠れた。
神楽坂がゆっくりと老婆へと近づいていく。
やめろ。心の中で叫ぶ。だが声は出ない。
神楽坂が老婆の肩に手をかけようとした、その瞬間だった。
老婆がゆっくりと振り返った。
その顔には深い皺が刻まれていたが、その表情は驚くほど穏やかだった。
彼女は神楽坂を見上げ、そして優しく微笑んだ。
「……まあ、綺麗なお顔の坊やだねえ。わしに何か用かね?」
そのあまりにも穏やかな声に、神楽坂の動きが止まった。
老婆は俺たちの方へ視線を向けた。俺たちが隠れていることに気づいていたのだ。
そして千明の手に握られている貝殻を見つけた。
「……まあ懐かしい。その貝殻、わしが今朝崖に置いてきたものじゃよ」
彼女はゆっくりと立ち上がると、俺たちの元へ歩み寄ってきた。
「……驚かせてごめんね。毎年こうして騒がせてしもうて」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。
千明がおそるおそる貝殻を彼女に差し出す。
老婆はそれを受け取ると、愛おしそうに撫でた。
「……ありがとう。でもね、もうこれはわしにはいらんのよ」
「え……?」
「わしはね、苦しむためにここへ来てるんじゃないんじゃよ」
老婆は海へと視線を向けた。その瞳は遠い過去を見ていた。
「……悲しいよ。もちろん今でも悲しくて胸が張り裂けそうになる。でもね、あの方を思い出せるのはこの悲しみだけなんじゃ。この場所だけなんじゃよ。忘れてしまうことの方が、わしにはずっとずっと怖いことなんじゃ」
その静かで、しかし何よりも強い言葉。
それは神楽坂の哲学を根底から覆す、真実の響きを持っていた。
忘却は救済ではない。忘却こそが本当の死なのだと。
愛とは喜びも悲しみも、そのすべてを抱きしめて生きていくことなのだと。
神楽坂は呆然と、その場に立ち尽くしていた。
彼が「救済」しようとしていたその本人が、彼の救済を完全に拒絶したのだ。
彼の信じてきたすべてが目の前で崩れ落ちていく。
彼は老婆のその穏やかな笑顔と、自分の空っぽの心を見比べ、そして何も言わずに踵を返した。
逃げるように墓地を去っていく彼の後ろ姿は、あまりにも惨めだった。
嵐は去った。
老婆は俺たちに優しく微笑んだ。
「……ありがとうね、若い人たち。わしの思い出を守ってくれて」
彼女はそう言うと、千明の手に再び貝殻を握らせた。
「それはあんたたちにあげる。わしの心はもうこの海と空にあれば十分だから」
千明がその貝殻を握りしめた瞬間、彼女には見えていた。
あの絶叫するような純白の光がふわりとその激しさを収め、穏やかでどこまでも優しい真珠色の光へと変わっていくのを。
それは死さえも乗り越えた愛の記憶の光だった。
帰りの電車の中、俺たちは三人黙って窓の外を流れる夜景を眺めていた。
疲れていた。だがその心は不思議なほど満たされていた。
俺たちは大きな戦いに勝利したのだ。人の心の尊厳を守り抜いた。
そして証明したのだ。たとえそれがどれほどの悲しみを伴おうとも、記憶こそが人が人であるための最後の砦なのだと。
俺たちの夏はまだ始まったばかりだ。だが俺たちはこの夏、最も大切な何かを学び取った気がしていた。




