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高2・7月:夏色の空と、再生の光

第1部:夏の始まりと、微かな光


六月の長雨が嘘のように、七月の空はどこまでも高く、そして青く澄み渡っていた。

蝉の声が降り注ぐ太陽の光と共に、地上へとシャワーのように降り注ぐ。アスファルトの陽炎が遠くの景色を蜃気楼のように揺らしていた。

期末テストという学生にとっての一大戦闘期間が終わりを告げ、俺たちの高校二年生としての最初の学期も、またその終わりを迎えようとしていた。


「んー、もう無理……。一ミリも頭に入んない……」

夏休みを目前に控えたある日の放課後。図書室の冷房が効いた快適な空間で、千明が机の上に突っ伏して呻いた。

その目の前には、びっしりと数式が並んだ問題集が開かれている。

「まだ始めたばかりだろう」

俺は読んでいた専門書から顔を上げ、呆れたように言った。

「だって、だって! こんなに天気がいいのに! どうして私たちはこんな薄暗い場所に閉じ込められてなきゃいけないの!」

「……夏休みを補習で潰したいなら俺は止めないが」

「うっ……。それは嫌だ……」


彼女はむくりと体を起こすと、不満そうに唇を尖らせた。

その子供のような仕草に、俺は思わず笑みがこぼれそうになるのを必死で堪えた。

恋人同士になって半年以上が経った。

俺たちの関係はあの冬の日のぎこちなさを乗り越え、春の嵐を共に駆け抜け、そして今、夏の日差しのように穏やかで力強い安定期に入っていた。


隣にいるのが当たり前。

手を繋ぐのが当たり前。

互いの心にある光を感じ合うのが当たり前。

その穏やかな日常がどれほど尊く、そしてかけがえのないものか、俺たちはもう知っていた。


「……よし!」

千明は気合を入れ直すように、両手で自分の頬をぱちんと叩いた。

「やるぞー! 心一くん、次の問題教えて!」

「ああ」


俺は再び彼女のノートを覗き込む。

その真剣な横顔。時折俺の顔を盗み見る、その瞳の輝き。そして彼女の胸で変わらずに灯り続ける、温かい愛情の光。

そのすべてが俺の思考をクリアにし、そして俺の生きる世界の解像度を上げてくれる。

この謎に満ちた世界で俺が見つけ出した、唯一のそして絶対的な答え。

それが彼女だった。


そんな平和な日々が続いていた七月のある日、千明がふと奇妙なことを口にした。


「……ねえ、心一くん」

帰り道、二人でアイスを食べながら歩いている時だった。

「最近、変な光を見るんだ」

「変な光?」

「うん。すごく弱々しくてチカチカしてるの。切れかけの蛍光灯みたいに。色もほとんどなくて……。落とし物の光とは明らかに違う。でも、誰かの苦しいって気持ちが伝わってくるような、そんな危なっかしい光」


彼女は眉をひそめた。

「その光ね、決まって学校の中で見るんだ。でもいつも一瞬で消えちゃったり、場所が移動したりして、ちゃんと追えたことがないの」

その話は俺の探究心を刺激した。

幽霊のような光。それは一体何なのだろうか。


それから数日間、俺たちはその正体不明の光の追跡調査を始めた。

千明のその曖昧な感覚だけが頼りだった。

旧校舎の廊下。体育館裏の渡り廊下。そして屋上へと続く階段の踊り場。

光は神出鬼没に現れては消える。

その出現パターンから、俺は一つの仮説を立てた。

「……この光の主は、おそらく一人でいる時にだけこの光を発している。そしてその場所は人目を避けるような場所が多い」


俺たちは狙いを定め、張り込みをすることにした。

期末テストが終わり生徒たちが皆浮き足立って帰っていく放課後、俺たちは息を潜めてその「時」を待った。

そしてついに、その光の主を捉えることに成功した。


光が現れたのは第二校舎の一番奥にある空き教室だった。

俺たちは足音を殺し、そっとその教室のドアのガラス窓から中を窺った。

教室の中には一人の男子生徒がいた。夕暮れの西日に照らされ、机に突っ伏してうずくまっている。

その背中はひどく小さく、そして孤独に見えた。


千明が息を呑んだ。

「……あの光、あの子からだ……」

彼女が指差すその生徒の胸のあたりから、確かにあの弱々しくそして危なっかしい光が放たれていた。

そして俺たちはその生徒の顔を見て、絶句した。


そこにいたのは、城戸雅也だった。


第2部:道化師の心の在り処


城戸雅也。

かつて完璧な王子を演じ、クラスの中心に君臨していた男。

俺たちの手によってその仮面を引き剥がされた、孤独な道化師。

あの一件以来、彼はクラスの中でその輝きを失っていた。誰とも深く関わろうとせず、ただ静かに息を潜めるように日々を過ごしている。

俺たちは彼との約束通り、彼の秘密を誰にも明かさなかった。ただ遠巻きに、彼が自分の力で立ち直るのを見守っていた。


だが目の前の彼の姿は、俺たちの想像以上に深刻な状態であることを物語っていた。

彼から放たれる弱々しい光。それは千明によれば「助けて」と叫ぶ、悲痛な心の悲鳴なのだという。


俺たちはどうすべきか迷った。

下手に声をかければ彼のプライドを傷つけるだけかもしれない。だがこのまま見て見ぬふりもできない。

俺たちは屋上へと場所を移し、玲奈も交えて三人で話し合った。


「……そう。あいつ、やっぱりまだ苦しんでるのね」

俺たちの報告を聞き、玲奈は静かに言った。

「私たちがやったことは、本当に正しかったのかしらね。あいつの仮面を剥がして、空っぽの自分と向き合わせることが」

「……分からない」

俺は答えた。

「だが、あのまま彼が嘘の自分を演じ続けていたら、もっと深く壊れていたかもしれない。俺たちは彼に変わる『きっかけ』を与えただけだ。そのきっかけをどうするかは彼自身の問題だ」


「でも!」

千明が口を挟んだ。

「今の城戸くんは、一人でどうしていいか分からなくなってるんだよ! あの光はそういう光だもん! 私たちがきっかけを作ったなら、最後まで責任を持つべきじゃないかな……?」


千明の真っ直ぐな言葉。俺も玲奈も反論できなかった。

そうだ。断罪するだけでは何も解決しない。俺たちはあの時、彼に「助けを求めろ」と言ったのだ。

ならばその助けを求める声に、今応えなくてどうする。


俺たちは覚悟を決めた。もう一度、城戸雅也と向き合うことを。


次の日の放課後、俺たちは昨日と同じ空き教室で一人うずくまっている城戸の元へと向かった。

俺たちの足音に彼はびくりと肩を震わせ、顔を上げた。その瞳には怯えと警戒の色が浮かんでいる。


「……何の用だ」

彼は低い声で威嚇するように言った。

俺が何かを言う前に、千明が一歩前に出た。

彼女は優しい、しかしどこまでも真剣な眼差しで彼を見つめた。


「城戸くん。……最近、苦しそうだね」

そのあまりにも単刀直入な、しかし温かい言葉。

城戸の肩から力が抜けていくのが分かった。彼の張っていた虚勢がゆっくりと溶けていく。


「……別に」

彼はそう呟いたが、その声にはもう力はなかった。

千明は彼の隣にそっと腰を下ろした。

「……私たちに話してくれないかな。城戸くんが今、何に苦しんでいるのか。力になれるか分からないけど、でも聞くことならできるから」


その無垢な優しさ。それが彼の心の最後の扉をこじ開けた。

彼はしばらく俯いて黙っていたが、やがてぽつりぽつりと自分の胸の内を語り始めた。


「……分からないんだ」

彼は言った。

「どうすればいいのか分からない。君たちにあの日言われて、俺はもう誰かの期待に応えるために行動するのをやめた。ヒーローを演じるのをやめた。でもそしたら……。俺には何も残ってなかった。どうやって人と話せばいいのか。どうやって笑えばいいのか。本当の自分がどんな人間だったのかさえ、もう思い出せないんだ」


その悲痛な告白。仮面を剥がされた道化師の素顔。

そこにあったのは空っぽの自分自身と向き合う、途方もない孤独だった。


「……みんなが俺を見てる気がする。陰で笑ってる気がする。俺が空っぽだって馬鹿にしてるって……。もう誰も信じられないんだ」


そして彼は震える手で、ポケットから一枚の封筒を取り出した。

「……一人だけいたんだ。俺がこんな風になる前から、ずっと仲良くしてくれてた奴が。小学校からの幼馴染で……。でも俺はあいつのことさえ、自分の完璧さを引き立てるための道具みたいに扱ってた。あいつが俺に向けてくれてた本当の優しさにも気づかずに……」


彼はその幼馴染と喧嘩別れしたまま、疎遠になってしまっているのだという。

「……謝りたいんだ。でも怖い。今更どの面下げて会えばいいのか。会って何を話せばいいのか。あいつもきっと俺のことなんか、もう見損なってるに決まってる……」


彼が握りしめているその封筒。それはその幼馴染に宛てた、書くに書けない謝罪の手紙。

それこそが彼の「落とし物」だったのだ。

許されたいと願う心。本当の繋がりを取り戻したいと願う執着。

だが自分自身を信じられない彼のその光は、あまりにも弱々しく、今にも消えそうに揺らめいていた。


第3部:本物の心の在り処


城戸の告白を聞き、俺たちは言葉を失っていた。

彼の苦しみの根源は、俺たちが想像していた以上に深く根深いものだった。

これは単に「落とし物」を見つけて届ければ解決するような、単純な問題ではない。

彼が失くしているのは手紙ではない。自分自身を信じる心、他人と向き合う勇気、そのものなのだから。


俺たちは屋上へと場所を移し、再び三人で向き合った。

「……どうしよう。私、何て声をかけてあげればいいのか分からなかった……」

千明は自分の無力さに唇を噛んでいた。

「……難しい問題ね」

玲奈も腕を組んで考え込んでいる。


俺は冷静に状況を分析した。

「……目的は何だ?」

俺の問いに二人が顔を上げる。

「俺たちの目的は、彼に手紙を渡させることか? それとも彼と幼馴染を仲直りさせることか?」

「……それは……」


「違う」

俺は断言した。

「俺たちの目的は、城戸が自分の力で最初の一歩を踏み出す、その手助けをすることだ。俺たちがお膳立てをして無理やり仲直りさせたって何の意味もない。それはあの一件の繰り返しだ。俺たちがまた彼のためのシナリオを書いてやるだけのことになる」


玲奈が頷いた。

「そうね。心一の言う通りよ。これはあいつ自身の問題。私たちが手を出せる領域は限られているわ」

「じゃあ私たちは、ただ見てるだけしかできないの?」

千明が悲痛な声を上げる。


「いや」

俺は首を横に振った。

「できることはある。直接的ではない、間接的なサポートだ」


俺たちの作戦は単純だった。

それは無理に彼を変えようとするのではなく、ただ俺たちの日常の中に彼の居場所を作ってやること。

彼を「可哀想な奴」として特別扱いするのではない。ただのクラスメイト「城戸雅也」として当たり前に接すること。

そこに打算も演技もない本物の人間関係があるのだと、彼に示してやること。

それこそが今の彼にとって何よりの薬になるはずだと、俺は考えた。


次の日から俺たちのささやかな作戦が始まった。

俺は授業で分からないことがあると、わざと城戸に質問しに行った。

「おい城戸。この問題の解き方を教えろ」

彼は最初戸惑っていたが、俺が純粋に教えを乞うているのだと分かると、少し嬉しそうにそして丁寧に解説してくれた。


千明は昼休みに彼を誘った。

「城戸くん、よかったら一緒にお弁当食べない? 玲奈もいるよ」

彼は最初は固辞していたが、千明の天真爛漫な押しに根負けし、おずおずと俺たちの輪に加わった。


玲奈は風紀委員の仕事の手伝いを彼に頼んだ。

「ちょっと城戸。あんた暇でしょ。この資料運ぶの手伝いなさいよ」

そのぶっきらぼうな口調は、彼を病人ではなく対等なクラスメイトとして扱っている証拠だった。


俺たちは彼に何も聞かなかった。幼馴染のことも手紙のことも一切口にしなかった。

ただ俺たちの日常の中に、彼のための椅子を一つ用意しただけだ。

最初はぎこちなかった彼も次第にその居場所に慣れていった。俺たちの前で彼は無理に笑うことをやめた。

そして時折、本当に楽しそうに微かに口元を緩めることがあるのを、俺たちは知っていた。


第4部:最初の、本物の光


七月も終わりに近づき、夏休みが目前に迫ったある日の放課後。

その日も俺たちは四人で図書室で受験勉強に取り組んでいた。

城戸はすっかり俺たちの勉強会に参加するのが当たり前になっていた。


「……なあ」

勉強が一段落したその時、城戸が意を決したように口を開いた。

俺たち三人は顔を上げ、彼の次の言葉を待った。

彼は一度深く息を吸い込み、そして言った。


「……俺、行ってみようと思う」


その一言だけだった。

だが俺たちにはその言葉の意味が痛いほど分かった。

彼は行くのだ。失われた過去と向き合うために。自分の本当の心を取り戻すために。


「……そうか」

俺はただそれだけを言った。玲奈も黙って頷いている。

千明は何も言わなかった。ただその大きな瞳を潤ませ、今までで一番優しい笑顔で彼を見つめていた。


城戸はそんな俺たちを一人一人順番に見た。

そして初めて心の底から照れくさそうな笑顔を見せた。

「……ありがとう」


その言葉を口にした瞬間だった。

千明がはっと息を呑んだ。

彼女には見えていた。

城戸の胸の奥、あの色のなかった空っぽの空間に、まるで闇夜に灯る一番星のように、小さくか細い、しかし確かに温かい金色の光がぽっと灯るのを。

それは彼が自らの意志で作り出した、最初の「本物」の心の光だった。

勇気という名の、再生の光だった。


城戸は立ち上がった。

その足取りはまだ少しおぼつかない。だがその背中は、俺たちが初めて見た時よりもずっと大きく、そして力強く見えた。

彼は一度だけこちらを振り返り小さく頭を下げると、図書室を出ていった。


俺たちは彼のその後ろ姿を黙って見送った。

彼が幼馴染に許してもらえるかど-うか、それは分からない。だがもうどうでもいいことだった。

重要なのは結果ではない。彼が自分の意志で一歩を踏み出したということ。それ自体が何よりも尊い答えなのだから。


千明が俺の顔を見上げた。その瞳はキラキラと輝いていた。

「……よかったね、心一くん」

「……ああ」


俺たちは一つの仕事をやり遂げたのだ。

落とし物を見つけるのではない。人の心に寄り添い、その再生を手助けするという新しい役割。

俺たちの力と絆はまた一つ、新しいステージへと進んだのだ。


窓の外にはどこまでも続く夏色の空が広がっていた。

もうすぐ長い夏休みが始まる。

この夏が俺たちの物語をどこへ運んでいくのか、それはまだ誰にも分からない。

だが俺たちの心には確かな自信と、そして未来への期待が満ちていた。

俺たちはただ光を見つけるだけじゃない。光を作り出す手助けさえできるのだから。

その誇りを胸に、俺たちは新しい季節の扉を開けた。

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