高2・6月:六月の雨と、始まりの光
第1部:追憶の雨と、複雑な光
六月。世界は煙るような雨に包まれていた。
アスファルトを叩く無数の雨粒の音、湿った土の匂い、そして低く垂れ込めた灰色の雲。梅雨と呼ばれるこの季節は、人の心をどこか内省的にさせる。
俺、落田心一は、千明と二人一本の傘に身を寄せながら、濡れた通学路を歩いていた。肩と肩が触れ合う距離。彼女のシャンプーの甘い香りが、雨の匂いに混じって鼻腔をくすぐる。
「……ちょうど一年前だね」
千明がぽつりと呟いた。
「何がだ」
「心一くんが初めて私に話しかけてくれたの。雨の中、私が地面にひざまずいてるのを見て、『変な奴だ』って顔に書いてあったよ」
「……書いてない」
「書いてたよー」
彼女は楽しそうに笑った。
あの日、あの雨の日からすべては始まった。
彼女の不思議な能力。落とし物が放つ「執着」の光。いくつもの謎と出会いと別れ。
そして今、俺の隣で当たり前のように笑っている、このかけがえのない存在。
この一年で俺の世界は完全に変わってしまった。灰色だった俺の日常は、彼女という光によって鮮やかに彩られている。
「……そういえば」
俺はふと思い出したように尋ねた。
「お前のその能力はいつから始まったんだ? 物心ついた時から見えていたのか?」
俺の問いに、千明は少し意外そうな顔をした。そしてうーんと首を傾げる。
「どうだったかな……。あんまりはっきりとは覚えてないんだよね。でもたぶん、すごく小さい頃からだったと思う。キラキラ光る綺麗なものがよく見えてた、くらいの曖昧な記憶しかないや」
彼女自身もその能力の起源については、深く考えたことがないようだった。
それは彼女にとって息をすることと同じくらい、当たり前の日常の一部なのだろう。
だが、その「当たり前」が揺らぐ瞬間が、もうすぐそこまで迫っていた。
その日の放課後、俺たちは千明の忘れ物を届けるために彼女の実家の近くまで来ていた。
彼女の家は俺の家とは反対方向で、古い住宅街の一角にあった。
雨は相変わらずしとしとと降り続いている。
「あ、そうだ。ちょっと寄り道しない?」
千明が子供の頃によく遊んだという、小さな公園を指さした。
古びたブランコと滑り台、そして錆びついたジャングルジム。雨に濡れたその公園は、どこか物悲しい雰囲気を漂わせていた。
「昔よくここで泥だらけになって遊んだんだー。懐かしいな」
彼女がブランコに腰掛け、楽しそうに昔話を始めた、その時だった。
彼女の言葉がぴたりと止まった。そしてその顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
「……千明?」
俺が声をかけるが返事はない。
彼女の視線は公園の一番奥、大きな楠の木の根元に釘付けになっていた。
その瞳が信じられないものを見るように、大きく見開かれている。
「……光……?」
彼女はほとんど呻くように言った。
「……何これ……。今まで見たどんな光とも違う……」
俺は彼女のただならぬ様子に、事の重大さを察した。
「どんな光だ」
「……分からない……! いろんな色が混ざってる! 金色、銀色、青、ピンク……。全部の光が渦みたいになってぐるぐる回ってるの! すごく強くて眩しいのに……ぐちゃぐちゃで今にも壊れちゃいそう……!」
その混乱した説明。そして彼女は震える声で続けた。
「……この光……懐かしい感じがする。なんでだろう。まるで……まるで私自身の光みたい……」
彼女は何かに取り憑かれたように立ち上がった。そしてふらふらとおぼつかない足取りで、その楠の木へと近づいていく。
俺は慌てて彼女の後を追った。
木の根元は雑草に覆われ、打ち捨てられたガラクタがいくつか転がっていた。
千明はその草むらにひざまずくと、泥だらけになるのも構わずに何かを探し始めた。
その姿は一年前、俺が初めて彼女を目撃したあの雨の日の光景と瓜二つだった。
だが今の彼女の表情には、あの時のような純粋な好奇心はない。ただ自分の失われた半身を探すかのような切実さがあった。
やがて彼女の指が何かを掘り当てた。
それは湿った土と枯れ葉にまみれた、小さな何かだった。
彼女がそれを慎重に手のひらに乗せる。
それは古びて色褪せた布で作られた、小さな巾着のようなものだった。中には何か硬いものが入っているようだが、それが何なのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、この小さな袋こそが、あの混沌とした光の発生源であるということだった。
千明がそれを握りしめた瞬間、彼女の肩がびくりと大きく震えた。
そしてその瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……何これ……。何なの……?」
彼女の脳裏に、断片的なイメージが嵐のように流れ込んでくるのが分かった。
優しい誰かの笑顔。軽やかなピアノの旋律。そして、一つの光がふっと消えていく絶望的な光景。
だがそのどれもが靄のかかったように不鮮明で、意味をなさない。
これは彼女自身の「落とし物」。だが彼女は、その物語を完全に忘れてしまっていたのだ。
自分の能力の根源に関わる、あまりにも重い記憶の喪失。
俺たちの二度目の梅雨は、静かに、そして残酷にその幕を開けた。
第2部:忘れられた記憶のパズル
自分の過去からの「落とし物」。
そのあまりにも不可解な謎は、千明の心を深く蝕んでいった。
あの日以来、彼女は時々何の前触れもなくぼんやりと遠くを見つめるようになった。手の中のあのお守りを握りしめ、何かを必死に思い出そうとしている。
だが記憶の扉は固く閉ざされたままだった。
「大丈夫だ、千明。俺がいる」
俺は彼女を励まし続けた。
「これは今まで俺たちが解いてきたどんな謎とも違う。お前自身の問題だ。だが一人で抱え込むな。俺たちはバディだろ。どんな謎でも二人なら必ず解ける」
俺の言葉に、彼女は何度も救われたように頷いた。
俺たちはこの、千明自身の失われた記憶という最も難解なパズルに挑むことを決意した。
捜査はまず、その「落とし物」自体から始まった。
その古びた巾着。俺はそれを慎重に分解してみた。
布を解くと中から出てきたのは、一つの小さなガラス玉だった。透明なガラスの中に、青い羽根が一枚封じ込められている。
子供の宝物。そんな印象だった。
「……これ、見覚えあるか?」
俺の問いに、千明はかぶりを振った。
「……分からない。でも、すごく懐かしい感じがする」
手がかりはそれだけ。
俺と玲奈は、千明に内緒で独自の調査を開始した。
玲奈は自分の母親にそれとなく昔のアルバムを見せてもらった。千明たちがまだ保育園に通っていた頃の写真。そこに何かヒントが隠されているかもしれない、と。
「……あったわ」
数日後、玲奈が興奮した声で俺に一枚の古い写真を見せてくれた。
そこには砂場で遊ぶ幼い千明と玲奈の姿が写っていた。
そしてその千明の首には、青い羽根の入ったガラス玉のネックレスがかかっている。
間違いない。これだ。
「……これ、いつ頃の写真だ?」
「母が言うには、私たちが五歳の頃、保育園の卒園式の時の写真だって」
五歳。その年齢が、一つのキーワードになるかもしれない。
だが決定的な手がかりは、やはり千明の家族しか知らないはずだった。
俺は千明を説得した。辛いかもしれないが、お母さんに話してみるべきだ、と。
彼女はしばらく躊躇っていたが、やがて意を決したように頷いた。
その週末、俺は千明と共に彼女の実家を訪れていた。
彼女の両親にすべてを話すために。もちろん能力のことは伏せた。ただ「子供の頃に失くした大切な思い出の品が見つかった。だがその記憶がどうしても思い出せない」と。
千明の母親は俺たちが差し出したガラス玉を見ると、一瞬驚いたように目を見開いた。そして次の瞬間、その瞳を潤ませ懐かしそうにそれを手に取った。
「……まあ、これ……。おばあちゃんのだったのに……。こんなところにあったのね……」
「おばあちゃん?」
千明が聞き返す。
彼女の母親はゆっくりと、そして少し悲しそうに語り始めた。
それは千明が五歳の頃の物語だった。
このガラス玉は千明の母方の祖母の形見だったのだという。
祖母はアマチュアの画家だった。そしてその祖母の夢を継いだのが、千明の母親だった。彼女もまた絵を描くことが大好きだった。
「……でも駄目だった」
母親は寂しそうに笑った。
「私には母ほどの才能はなかった。それに千明が生まれてからは絵を描く時間もなくなって……。いつしか私は絵を描くことをやめてしまったの」
そしてあの日、千明が五歳だったあの日。
母親はアトリエにしていた部屋を片付け、すべての画材を処分しようとしていた。
その様子を、幼い千明はただ黙って見ていたのだという。
「……その時のこと、私よく覚えてる。あの子、何も言わなかったけどすごく悲しそうな顔をしてた。私が何かすごく大切なものを捨ててしまうって、分かってたみたいに」
その時、幼い千明は「見て」いたのだ。
母親の胸のあたりから放たれていた「絵を描きたい」という夢の光。その美しく力強い光が、母親の「諦め」と共にふっと力なく消えていく、その決定的な瞬間を。
それは彼女が人生で初めて目撃した「心の光の消失」だった。
そのあまりにも衝撃的な光景。五歳の彼女にはそれが何を意味するのか理解できなかった。ただ、どうしようもない喪失感と悲しみが彼女を襲った。
「……その日の夜だったわ。このガラス玉がなくなったのは」
母親は続けた。
「あの子、おばあちゃんの形見のこのガラス玉をネックレスにして肌身離さずにつけてたのに、急に『ない』って泣き出して……。家中を探したけど結局見つからなかった。あの子きっと、私のせいで自分の一番大切なものまで失くしてしまったって思ったのね……」
千明は母親の話を聞きながら、ただ黙って涙を流していた。
パズルのピースがすべてはまったのだ。失われた記憶の扉がゆっくりと開いていく。
あの混沌とした光の正体。それは祖母の愛情の光、母の失われた夢の光、そして幼い自分の悲しみと無力感の光。そのすべてが混じり合った彼女の能力の原体験。
彼女が「光を失わせたくない」と強く願うようになった、すべての始まりの光景だったのだ。
彼女はそのあまりにも辛い記憶をこのガラス玉と共に、心の奥底に封印してしまっていた。
第3部:未練の観測者、再び
千明は自分の過去と向き合った。
それは辛く、そして痛みを伴う作業だった。
だがその記憶の再生は彼女をより強くさせた。
自分がなぜこれほどまでに「光」にこだわるのか。その理由を知った今、彼女の瞳には以前よりもずっと深く、そして揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
彼女はあのガラス玉を再びネックレスにして首から下げた。
混沌としていた光はもうそこにはない。代わりにそのガラス玉からは、穏やかで温かい金色の光が放たれていた。
過去のすべての悲しみを受け入れた、証の光だった。
すべては解決した。そう思っていた。
あの男が再び俺たちの前に姿を現すまでは。
その日、俺たちは再びあの思い出の公園を訪れていた。
雨は上がり、雲の隙間から夕日が差し込んでいた。千明が過去を乗り越えたことを祝う、ささやかな儀式のようなものだった。
「……もう大丈夫だよ」
千明は胸のガラス玉を握りしめ、微笑んだ。
「この光が、これからは私を守ってくれるお守りだから」
その穏やかな時間を引き裂くように、静かな声が背後からかけられた。
「……すごい光だ」
振り返ると、そこに神楽坂悠人が立っていた。
その表情はいつもと変わらない。だがその瞳は、千明の胸元にあるガラス玉に釘付けになっていた。
彼はまるで獲物を見つけた獣のように、その瞳をギラつかせていた。
「……今まで見た中で最も深く、そして最も哀しい『未練』の光だ」
彼は俺たちのことなど目に入っていないかのように、千明に向かって言った。
彼はこの強大な光の引力に引き寄せられてここへ来たのだ。
「あなたには関係ない」
千明はきっぱりと言った。その声にはもう以前のような怯えはない。
「関係なくはないさ」
神楽坂は初めて千明の顔を見た。そしてその瞳に憐れみの色を浮かべた。
「君はずっとこれに縛られて生きてきたんだな。君が他人の『執着』にあれほどこだわる理由がようやく分かった。……可哀想に」
その見下したような同情。俺の怒りが沸点に達する。
だが俺が口を開くよりも早く、彼は続けた。
「……楽にしてあげよう」
彼の声は悪魔の聖歌のように優しかった。
「そのすべての始まりとなった呪いを。君を縛り付ける最大の未練を。僕がこの手で断ち切ってあげる」
それは彼なりの最大限の「救済」の提案だった。
彼は本気で千明をその過去の呪縛から解放してやろうとしていたのだ。
その歪んだ善意が何よりも恐ろしかった。
第4部:記憶という名の、選択
神楽坂がゆっくりと手を上げた。
その指先が千明の胸のガラス玉に向けられる。彼がその能力を使おうとしているのが分かった。千明のこのかけがえのない始まりの光を、永遠に消し去るために。
「やめろ!」
俺は叫び、千明の前に立ちはだかった。玲奈も俺の隣に立ち、神楽坂を鋭く睨みつけている。
「……邪魔をするな。これは彼女のための儀式だ」
神楽坂は冷たく言い放った。
「待って、二人とも」
その静かな声。
俺の背後から千明が一歩前に出た。
彼女は俺と玲奈を制し、一人で神楽坂の前に立った。
その小さな背中は、しかし少しも震えてはいなかった。
彼女は胸のガラス玉を強く握りしめた。
そして神楽坂のその空虚な瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「これは呪いなんかじゃない」
彼女の声は雨上がりの空のように、どこまでも澄み渡っていた。
「確かに悲しい記憶だよ。辛い思い出だよ。でもこれはおばあちゃんの愛の光、お母さんの夢の光、そして私が今の私になった始まりの光。これを消すことは、私自身を消すことと同じだ」
その揺るぎない宣言。神楽坂の眉がわずかに動いた。
千明は続けた。その声には彼に対する深い憐憫の情が込められていた。
「……あなたも本当は気づいてるんじゃないの?」
「……何?」
「あなたが本当に消したかったのは、痛みだけだったはずだよ。ご両親を失ったその耐え難い悲しみだけだったはず。でもあなたは間違えて、愛まで消してしまった。だからあなたの心は今、空っぽなんだよ」
そのあまりにも的確な指摘。それはどんな論理よりも鋭く、神楽坂の心の一番柔らかな場所に突き刺さった。
彼の顔が初めて苦痛に歪んだ。彼が長年目を逸らし続けてきた真実。それを目の前の少女に突きつけられ、彼は言葉を失っていた。
「私は忘れない」
千明は言った。
「この痛みを、この悲しみを、私は絶対に忘れない。だってそれこそが私を作っている大切な一部だから。この光と、一緒に私は生きていく。それが私の選択だから」
彼女の力強い、生きるための誓い。それは神楽坂の死へと向かう哲学を完全に打ち砕いた。
彼は呆然と、千明のその眩しいほどの生命の光を見つめていた。
そしてやがて何かを諦めたように、ふっと力を抜いた。
彼は何も言わなかった。
ただ一度だけ何かを言いたそうに口を開いたが、結局何も言わずに背を向けた。
そして夕暮れの雨上がりの街の中へと、静かに消えていった。
その後ろ姿は今までで一番小さく、そして孤独に見えた。
嵐は去った。空には大きな虹がかかっていた。
千明は胸のガラス玉を見つめた。その金色の光は今、虹色の輝きを帯びて穏やかに、そして力強く彼女の胸で輝いていた。
彼女は自分の過去を完全に受け入れ、そして乗り越えたのだ。
彼女は顔を上げ、俺を見て微笑んだ。
その笑顔は雨上がりの太陽のように、どこまでも優しくそして強かった。
俺たちの二年生の物語は本当の意味で、今、始まったのかもしれない。
自分自身の謎を解き明かし、そして本当の強さを手に入れた彼女と共に。俺たちはこれからどんな暗闇も照らしていけるだろう。
俺たちの心にある、始まりの光で。
六月の雨上がりの空の下、俺たちは固く手を繋いだ。




