高2・5月:忘却の光と、優しさの選択
第1部:新しい日常と、不穏な光
五月。風は若葉の匂いを運び、女子生徒たちの制服もブレザーを脱いだ爽やかな夏服へと姿を変えていた。強い日差しが教室の窓から差し込み、床にはくっきりとした光の四角形を描き出す。そんな生命力に満ちた季節。俺たちの高校二年生としての生活も、ようやくそのリズムを掴み始めていた。
二年二組の日常は驚くほど穏やかだった。
教室の隅で城戸雅也は、以前のような派手な輝きを失い、まるで置物のように静かに過ごしていた。あの一件以来、彼はクラスの中心でヒーローを演じることをやめた。時折遠巻きに俺たちの方を窺うような視線を向けてくるが、そこに敵意はない。ただ、どう接していいか分からないという戸惑いだけが浮かんでいた。彼が俺たちとの約束を守り、少しずつ自分自身と向き合おうとしていることを俺たちは知っていた。その再生への道がどれだけ長く険しいものかも。
そして俺と千明の関係もまた、穏やかな安定期に入っていた。
「心一くん、これ今日の古典のノート。きっとまた居眠りしてたでしょ」
「……感謝する」
「もー、素直じゃないんだから」
そんな軽口を叩き合いながらノートを貸し借りする。
昼休みには屋上で玲奈も交えて三人で弁当を広げる。
放課後には手を繋いで帰り道をゆっくりと歩く。
その一つ一つが当たり前で、そしてかけがえのない俺たちの日常。
千明の胸に灯る愛情の光はいつも温かく、そして安定して俺の心を照らしてくれていた。俺の心の羅針盤はもう決して揺らぐことはない。
そんな平和な五月のある日のことだった。
その異質な光は、何の前触れもなく俺たちの日常に姿を現した。
その日、俺たちは体育祭の実行委員の打ち合わせで、普段は使われていない旧校舎の会議室に来ていた。
古い木の匂いと埃の匂いが混じり合った静かな空間。
打ち合わせが終わり俺たちが部屋を出ようとした、その時だった。
「……待って」
千明がふと足を止めた。その表情はいつになく険しい。
彼女の視線は会議室のさらに奥へと続く、薄暗い廊下の突き当たりに注がれていた。
「……どうした」
「……光。見える。でも……」
彼女は言葉を選ぶように慎重に続けた。
「今まで見てきた光と全然違う。すごく綺麗なんだ。深く澄み切ったサファイアみたいな青い光。でもね……」
彼女は自分の腕をさすった。
「……その光、泣いてる。声を殺して一人でずっと泣き続けてるみたい。それに……。見つけてほしくないって言ってる。消えてなくなりたいって叫んでる……」
光が「消えたい」と願っている?
そのあまりにも矛盾した言葉。俺の背筋に冷たい何かが走った。
それは俺たちが今まで扱ってきたどんな「落とし物」とも違う、危険な匂いがした。
俺たちは吸い寄せられるように、その薄暗い廊下の奥へと足を踏み入れた。
光の源は廊下の突き当たりにある古い音楽室からだった。
鍵はかかっていない。
俺はぎしりと音を立てるドアをゆっくりと開けた。
部屋の中は埃っぽく、時間が止まっている。壁には有名な音楽家たちの肖-像画が色褪せて並んでいた。
千明は部屋の中央に置かれた一台のグランドピアノへと導かれていく。
その黒く艶やかなピアノの譜面台の上に、それはひっそりと置かれていた。
一冊の古い楽譜だった。
第2部:失われた旋律と、亡霊の記憶
俺はその楽譜を手に取った。
表紙は擦り切れページは黄ばんでいる。だがそこに書かれていたのは印刷された文字ではない。インクで丁寧に書き込まれた手書きの五線譜と音符たちだった。
それは誰かの手によるオリジナルの楽曲。
楽譜の一番最後のページ、そこには小さな文字で曲のタイトルらしきものが記されていた。
『忘却のセレナーデ』
そしてその下には作者の名前。
『水樹 瀬奈』
「……この光、この楽譜から出てる」
千明が俺の手元を覗き込み、呟いた。その声は震えている。
「すごく悲しい光だよ心一くん。この曲を作った人の喜びと絶望と後悔と……。全部がごちゃ混ぜになって渦巻いてる。そしてそのすべての感情が『消えてしまいたい』って願ってる……」
俺は楽譜を閉じた。
水樹 瀬奈。この学校の生徒だろうか。
俺たちはこのあまりにも痛々しい光の謎を解き明かすべく、調査を開始した。
玲奈の力を借り古い卒業アルバムを調べると、すぐにその人物は見つかった。
水樹 瀬奈。五年前にこの学校を卒業した先輩だった。
アルバムに写る彼女は儚げで、そしてどこか影のある美しい少女だった。
彼女の紹介文にはこう書かれていた。
『三年連続、県ピアノコンクールで金賞受賞。将来を嘱望された天才ピアニスト』
天才。その輝かしい経歴。
だが俺たちがさらに調査を進めると、不可解な事実に突き当たった。
彼女は高校卒業後、音楽大学には進学していなかったのだ。それどころかピアノとは全く無関係の、東京の私立大学の文学部に進学していた。そして卒業後はごく普通の一般企業に就職している。
まるで高校時代までの輝かしい経歴のすべてを、捨て去るかのように。
「……一体何があったんだろう」
図書室で古い新聞の縮刷版をめくりながら、千明が呟いた。
ピアノコンクールに関する過去の記事。そこには若き日の水樹瀬奈の写真が何度も掲載されていた。どの写真の彼女も誇らしげで、そして自信に満ち溢れている。
高校三年生、最後のコンクール。その記事を見つけ出すまでは。
その記事は他のものよりずっと小さかった。結果を伝える短い文章。
『優勝は……。尚、最有力候補と目されていた水樹瀬奈は、二次予選で敗退した』
二次予選敗退。常勝だった天才の初めての、そして最後の敗北。
この記事を境に彼女の名前は紙面から完全に姿を消していた。
「……これが原因なのかな」
千明が悲しそうに言った。
「ああ。おそらくはな」
挫折。あまりにも完璧だった彼女の世界。
その世界がたった一つの敗北によって崩れ落ちてしまったのだ。
そして彼女はピアノを捨てた。自分のすべてだったはずの音楽を過去の亡霊として、この古い音楽室に封印したのだ。
謎は解けた。だが俺たちの心は晴れなかった。
むしろ、より深く重いジレンマに囚われていた。
俺たちはどうすべきなんだ?
この楽譜は彼女の才能の結晶だ。そして同時に彼女の心の傷そのものでもある。
俺たちの理念に従うなら、この「落とし物」を彼女の元へ返し、彼女自身に「選択」を委ねるべきだ。
もう一度ピアノと向き合うのか、それとも完全に過去として葬り去るのか。その選択の「可能性」を修復すること。それが俺たちのやり方だったはずだ。
だが本当にそれでいいのだろうか。
千明は言った。この光は「消えたい」と願っている、と。
持ち主自身が忘れたいと望んでいる過去の亡霊。それをわざわざ掘り起こし、彼女の目の前に突きつけることが本当に「優しさ」なのだろうか。
それはようやく塞がりかけた古傷をこじ開けるだけの、残酷で独善的な行為ではないのか。
「……分からないよ、私」
千明は楽譜を胸に抱きしめ、かぶりを振った。
「この光、すごく苦しんでる。返してあげるのが怖い。でもこのままにしておくのも、この光があまりにも可哀想だよ……」
彼女の心は二つに引き裂かれていた。
そして俺の頭の中には、あの男の声が響いていた。神楽坂悠人の声が。
『本当の優しさとは、その苦しみの根源を断ち切ってやることじゃないのかな?』
初めて俺は彼のその歪んだ思想に、一縷の共感を覚えてしまっていた。
忘れることで救われる心があるのかもしれない。
俺たちのやっていることは、本当に正しいことなのか?
俺は答えを出せずにいた。
第3部:忘却という名の、優しさ
俺たちのジレンマは数日間に渡って続いた。
放課後、俺、千明、そして玲奈の三人は屋上で何度もこの問題について議論を重ねた。
「でもやっぱり、返すのが筋なんじゃないかな」
千明が口火を切った。彼女の基本的なスタンスは、やはり「持ち主の選択を尊重する」というものだった。
「彼女がこの楽譜を見てどう感じるかは彼女自身の問題だよ。私たちが勝手にその可能性を奪う権利はないと思う」
その正論。だが俺はそれに素直に頷くことができなかった。
「……だが、その選択が彼女を再び苦しめる結果になったらどうするんだ。俺たちはその責任を取れるのか? 俺たちがやっていることは無責任な善意の押し付けじゃないのか?」
俺の反論は明らかに神楽坂の思想に影響されていた。俺自身そのことに気づいていた。
だが無視できない真実がそこにはあった。
俺たちは人の心という、あまりにもデリケートでそして危険な領域に足を踏み入れているのだ。
そんな俺たちの平行線の議論を、玲奈は腕を組んで黙って聞いていた。
やがて彼女は深々とため息をつくと、口を開いた。
「……あんたたち二人とも、少し傲慢になってるんじゃないの」
その冷や水を浴びせるような一言。俺と千明ははっとしたように顔を見合わせた。
「千明。あんたの言う『可能性を返す』っていうのは聞こえはいいわ。でもそれは結局、あんたが『良いことをした』って満足したいだけの自己満足かもしれない。結果的に相手が傷つく可能性から目を逸らしているだけじゃないの?」
「……っ!」
千明が息を呑む。
玲奈の言葉は容赦なく続く。
「そして心一。あんたの言う『傷つける可能性』っていうのも、結局はあんたの憶測に過ぎないわ。あんたが相手の心を分かった気になって、勝手に『保護』しようとしてるだけ。それもまた別の形の傲慢よ。……あんたたち、いつから神様にでもなったつもり?」
玲奈の厳しい、しかし的確な指摘。俺たちは二人とも何も言い返せなかった。
そうだ。俺たちは知らず知らずのうちに思い上がっていたのだ。自分たちの力が人の心を救えるなどと。
俺たちができるのは、ほんの些細なきっかけを作ることだけだ。その先を決めるのはいつだって本人なのだ。
「……じゃあ、どうすればいいのよ」
千明がほとんど呻くように言った。
「返すのも違う。返さないのも違う。じゃあ答えはどこにあるのよ……」
その時だった。
俺の頭の中で一つのアイデアが閃いた。
それは返すのでもなく、返さないのでもない。第三の選択肢。
俺たちの傲慢さを排し、そしてすべての選択を完全に本人に委ねる唯一の方法。
「……方法が一つだけあるかもしれない」
俺の言葉に、千明と玲奈が顔を上げた。
俺は自分の考えを二人に話して聞かせた。
それは一種の賭けだった。だが今の俺たちにできる、最善のそして唯一の誠実な方法だと俺は信じていた。
俺の作戦を聞いた二人は最初驚いたように目を見開いたが、やがてその意味を理解し深く頷いた。
俺たちの心が再び一つになった。
第4部:旋律が選んだ、未来
俺の作戦はこうだ。
まず俺は水樹瀬奈先輩の現在の連絡先を調べ上げた。彼女は都内のIT企業で働いているごく普通の会社員だった。
だが俺たちは彼女に直接連絡は取らない。それはあまりにも唐突で、そして彼女の心の平穏を乱す行為だからだ。
次に俺は音楽制作ソフトを使い、あの手書きの楽譜『忘却のセレナーデ』を一音一音丁寧に打ち込み、デジタルの音源ファイルを作成した。
ピアノの音色はフリーのソフト音源を使った簡素なものだ。だがそこに込められた旋律の美しさと切なさは、確かに再現されていた。
そして最後のステップ。
俺はアマチュアの音楽家たちが集う匿名のウェブサイトに、その音源ファイルをアップロードした。
投稿者名は「名無しの音楽愛好家」。
そこに俺は短いメッセージを添えた。
『先日、古い学校の音楽室で埃をかぶっていた楽譜を見つけました。タイトルも作者も分かりません。ですがその旋律があまりにも美しく、このまま誰にも知られずに忘れ去られてしまうのはあまりにも惜しいと思いました。もしこの曲に心当たりのある方がいらっしゃいましたら、何か情報を教えていただけると幸いです』
嘘を一つだけついた。本当は作者の名前を知っている。
だがそれでいいのだ。
俺たちはすべてを手放した。
楽譜を返すのでもなく隠すのでもなく、その旋律の魂だけをデジタルの海へと解き放ったのだ。
あとは彼女自身が決めることだ。
このインターネットの海の片隅に流れ着いた自分の過去の亡霊。それに気づくか気づかないか。気づいたとしてそれに声をかけるかかけないか。
すべての選択は彼女の手に委ねられた。
これこそが俺たちが見つけ出した、最大限の「可能性の修復」の形だった。
俺たちはそれから毎日そのウェブサイトをチェックした。
一日、二日、三日。何の反応もなかった。
俺たちの投稿は他の無数の投稿の中に埋もれ、誰の目にも留まらずに消えていくのかもしれない。
「……やっぱり無理だったかな」
千明が弱音を吐いた。俺も焦燥感を感じていた。
そして一週間が経ったある日の夜、その「奇跡」は起こった。
俺たちの投稿に一つの新しいコメントがついていた。
投稿者名は『Sena』。
俺は息を呑んだ。
そのコメントはあまりにも短く、そしてシンプルだった。
『懐かしい曲。
見つけてくれて、ありがとう』
それだけだった。
そこには彼女の過去に関する説明も後悔も、そして未来に関する決意も何も書かれてはいなかった。
ただ静かな感謝の言葉だけがそこにあった。
だがそれで十分だった。
俺は隣でスマホの画面を覗き込んでいた千明の顔を見た。
彼女は涙を流していた。そして今まで見たどんな時よりも穏やかに微笑んでいた。
「……心一くん」
彼女は俺の部屋に保管してあったあの古い楽譜を手に取った。
「……見て」
彼女が指差すその楽譜。
俺の目には相変わらずただの黄ばんだ紙切れにしか見えない。
だが彼女には見えていた。
あのサファイアのように青く、そして痛々しいほどに泣き続けていた光。
その光が、まるで嵐が過ぎ去った後の夜空のようにその激しい揺らぎを収め、静かで穏やかな銀色の光へと変わっていくのを。
悲しみや後悔が消えたわけではない。ただそのすべての過去を受け入れ、そして許したかのような深く優しい鎮魂の光。
忘却のセレナーデは、その役目を終え、今はただの美しい思い出のノクターンへと変わったのだ。
俺たちは一つの答えを見つけ出した。
必ずしも物理的に物を返すことだけが正解ではない。時にはそっと距離を置き、相手の選択を信じて待つこと。それもまた一つの優しさの形なのだと。
俺たちの力との向き合い方は、また一つ深みを増していた。
五月の澄み渡る空の下で、俺たちは屋上からどこまでも続く青空を見上げていた。
俺たちの二年生の物語はまだ始まったばかりだ。その行く手にはきっとまたたくさんの答えのない問いが待っているだろう。
だがもう俺たちは迷わない。俺たちは三人で悩み考え、そして俺たちだけの答えを見つけ出していくのだ。
その決意を胸に、俺たちは新しい季節の風を感じていた。




