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高2・4月:二度目の春と、教室の不協和音

第1部:新しい舞台、変わらない光


桜の花びらが春の風に乗ってひらひらと舞う。

固く閉ざされていた蕾がほころび、世界が淡いピンク色に染まるこの季節は終わりと始まりの匂いがした。俺、落田心一は真新しいクラスの名簿が張り出された掲示板の前で、これから始まる一年間の漠然とした期待とわずかな不安を感じていた。

高校二年生。その響きはどこか大人びていて、まだ自分のものだという実感はなかった。


「心一くん!」

背後から鼓膜を優しく揺らす明るい声がした。

振り返るまでもない。この世界でただ一つの特別な音色。

「ああ」

俺が振り返ると、そこには少しだけ大人びた新しい制服に身を包んだ千明が立っていた。春の日差しを浴びて、その笑顔は満開の桜よりも眩しく見えた。

「同じクラスだったね! よかったー!」

彼女は心の底から安堵したように胸を撫で下ろした。そのあまりにも素直な喜びの表現に、俺の口元も自然と緩む。

「……確率的には、想定内の結果だ」

「もー、またそういう理屈っぽいこと言うー」


彼女はそう言って楽しそうに笑った。

クリスマス、バレンタイン、そして春休み。恋人として初めて共に過ごした冬を経て、俺たちの関係はあのぎこちない手探りの段階を卒業していた。

もう彼女の顔をまともに見れないなんてことはない。触れ合う指先に心臓が跳ね上がるのは相変わらずだが、その緊張さえも今では心地よいものになっていた。


「あら、あんたたち。新学期早々甘い空気を撒き散らさないでくれるかしら」

呆れたような、しかしどこか楽しげな声が割り込んできた。雨宮玲奈だ。

三月の発表の通り、彼女も俺たちと同じ二年二組。その事実は俺にとって、この新しい環境における数少ない安心材料の一つだった。

「玲奈! クラス離れなくてよかったね!」

「仕方ないわよ。あんたたち二人だけにしといたら、一体何をしでかすか分かったもんじゃないし。私が監視してなきゃ」

玲奈はそう言って俺たちを交互に見た。

「まあ見てるこっちが恥ずかしくなるくらい順調そうね。クラスでももう公認の仲なんでしょ?」


そのからかいの言葉に千明が顔を赤らめる。

玲奈の言う通りだった。俺と千明が付き合っているという事実は、もはやクラスメイトたちの共通認識となっていた。

それは俺たちが公言したわけではない。ただ俺たちの間に流れる、その隠しようのない特別な空気がすべてを物語っていたのだ。


新しい教室、二年二組。そこには見慣れた顔も初めて見る顔も混じり合っていた。

俺と千明は窓際の一番後ろの席と、その隣に並んで腰を下ろした。

これから一年間、この場所が俺たちの新しい日常の舞台になる。


千明は俺の胸のあたりをそっと盗み見た。

俺には見えないが彼女には見えているはずだ。俺の心臓から放たれる温かくそして揺るぎない愛情の光が。

それは彼女にとってこの新しい環境における何よりの安心材料なのだろう。俺もまた隣で楽しそうに新しい教科書をめくっている彼女の横顔が、俺の心の中心にある不動の座標であることを再確認していた。


俺たちの二度目の春。それはどこまでも穏やかで、そして輝かしいものになる。

その時の俺たちはまだ、そう信じて疑わなかった。

この平和な教室に、静かな不協和音が忍び寄ってきていることにも気づかずに。


第2部:完璧な王子と、不自然な空虚


その男は新しいクラスの初日から特別な存在だった。

彼の名前は城戸雅也きどまさや

長い手足にモデルのような小さな顔。爽やかな笑顔と誰にでも分け隔てなく接する気さくな人柄。成績は常に学年トップクラスで運動神経も抜群。まさに少女漫画から抜け出してきたかのような『完璧な王子様』だった。

彼はあっという間にクラスの中心人物となり、その周りにはいつも男女問わず人の輪ができていた。


俺はそんな彼を少し離れた場所から冷静に観察していた。

嫉妬ではない。ただ純粋な分析対象としての興味だった。

完璧すぎるのだ、彼のすべてが。その笑顔も言葉遣いも立ち居振る舞いも、まるで精巧なプログラムに従って動いているかのように一点の淀みもない。

その完璧さが逆に俺にある種の違和感を抱かせた。

彼の笑顔は決して目の奥までは届いていない。彼の親しげな言葉は誰の心にも本当の意味では触れていない。

すべてが計算され尽くした完璧な演技のように、俺には見えた。


そんな俺の分析を裏付けるように、千明もまた彼に対して俺とは質の違う、しかし同じような違和感を感じ取っていた。


「……ねえ、心一くん」

ある日の昼休み、屋上で三人で弁当を広げている時だった。

「城戸くんのことなんだけど……」

「……ああ。何か気づいたか」


千明は少し戸惑ったように言った。

「うん……。あの人ね、すごく良い人だと思う。いつも笑顔で優しいし、誰かが困ってると一番に助けてくれる。でもね……」

彼女は自分の胸に手を当てた。

「……光が、ないの」


その言葉に俺は箸を止めた。

「光がない?」

「うん。全くないわけじゃないんだけど……。普通、人が笑ったり誰かに親切にしたりする時って、その人の胸のあたりから温かい光がふわって溢れるものなの。心一くんも玲奈も翼くんもみんなそう。でもね、城戸くんは違うの。彼の胸のあたりはまるで磨かれたガラスみたいになってて、その奥にすごく淡くて色のない光がぼんやりと灯ってるだけ。彼がどんなに笑っててもその光は少しも揺めめかないの。まるで感情がないみたいで……」


感情がない。

その千明の直感的な表現は、俺の論理的な分析と奇妙に一致していた。

感情を感じさせない完璧な演技。光を感じさせない完璧な擬態。

城戸雅也とは一体何者なんだ?


その謎は思わぬ形で俺たちの目の前に、具体的な事件となって姿を現した。

それは四月も終わりに近づいたある日の放課後のことだった。

教室で一人の女子生徒が半泣きになっていた。クラスでも大人しい、目立たないタイプの彼女だ。

「どうしよう……。お父さんに高校の入学祝いで買ってもらった万年筆がなくなっちゃった……」


それは彼女にとって何よりも大切な宝物らしかった。

教室に残っていた生徒たちが一斉に彼女の机の周りを探し始める。

もちろんその輪の中心には城戸がいた。

「大丈夫だよ、きっとすぐに見つかるから。みんなで探そう」

彼は爽やかな笑顔でそう言うと、リーダーシップを発揮し効率的に捜索の指示を出し始めた。


俺は千明の方を見た。

彼女は青ざめた顔で首を横に振った。

「……見えない。何の光も見えないの……」

「何だと?」


あり得ない。持ち主がこれほど動揺し、強く求めているというのに。光が見えないなどそんなことは今まで一度もなかった。

千明は自分の能力が壊れてしまったのではないかとパニックになっている。


「落ち着け、千明。何か理由があるはずだ」

俺は彼女をなだめながら思考を巡らせた。

光が見えない理由。考えられる可能性はいくつかある。

持ち主が心のどこかですでに見つかることを「諦めて」しまっている場合。だが彼女のあの取り乱しようはそれとは到底思えない。

では他に何が?

俺の視線は自然と、教室の中心でヒーローのように振る舞う城戸雅也へと向けられた。

光のない男。そして光のない落とし物。この二つの異常な事象の間に、因果関係はないのか?


その日の捜索では結局、万年筆は見つからなかった。

女子生徒は泣きながら帰っていった。教室には重く後味の悪い空気が残った。


そして翌日の朝、事態は急展開を迎えた。

登校してきた俺たちが目にしたのは、女子生徒の机の上にそっと置かれた例の万年筆と、そしてその横で少し照れくさそうに笑う城戸の姿だった。


「いやあ、昨日の放課後、もう一度念のために教室を探してみたらね。教壇の隅の隙間に落ちてたんだよ。よかったね」

「城戸くん……! ありがとう……!」

女子生徒は涙を浮かべて彼に感謝する。クラスメイトたちも「さすが城戸!」「お前マジでヒーローだな!」と彼を賞賛した。

それはどこからどう見ても完璧な美談だった。


だが俺と千明だけが、その光景を冷たい目で見つめていた。

おかしい。教壇の隅の隙間など、昨日俺たちが何度も探した場所だ。そこには何もなかったはずだ。

そして何よりも決定的だったのは、千明の「証言」だった。


「……心一くん」

彼女は俺の袖を引き、小さな声で囁いた。

「……今も、見えない。城戸くんの胸の光。あれだけ良いことをしてみんなから感謝されてるのに、彼の光は少しも揺めめかない。ずっとあの色のない、空っぽの光のまま……」


俺の中で一つの恐ろしい仮説が形を結び始めていた。

もし彼が万年筆を隠し、そして自分で「発見」したのだとしたら。

その目的は何だ? 感謝されるため? ヒーローになるため?

その陳腐な承認欲求のためだけに、彼はこれほど手の込んだ芝居を打ったというのか。

俺は城戸雅也という人間の底知れない闇を、垣間見た気がした。


第3部:光なき落とし物の真実


城戸雅也への疑念。それは俺と千明の心の中で日に日に大きくなっていった。

だが確たる証拠はない。俺たちの疑いは千明の「光が見えない」という誰にも証明できない感覚と、俺の論理的な推測に基づくものに過ぎない。

クラスの誰もが城戸を「完璧で良い奴」だと信じて疑わない中、俺たちだけがその不協和音を感じ取っていた。


俺は彼の行動をより注意深く観察し始めた。

彼は常に誰かの役に立とうとしていた。授業で分からないところがあれば親切に教える。重い荷物を持っている女子がいればさっと駆け寄って持ってやる。

その一つ一つの行動は善意に満ちている。だがそのすべてが、あまりにも計算され尽くしているように俺には見えた。

彼は常に「他者からどう見られるか」を完璧に意識している。彼の行動原理は内側から湧き出る感情ではなく、外側からの評価なのだ。


そして第二の事件が起こった。

今度はクラスで飼育しているハムスターがケージからいなくなるという騒ぎだった。

女子生徒たちがパニックになる中、またしても城戸が冷静に場を収めた。

そして数時間の捜索の後、彼がハムスターを発見した。場所は準備室の棚の一番上。

「こんなところに登ってたなんて、おてんばだな、お前は」

彼はハムスターを優しく撫でながら爽やかに笑った。

再び彼はクラスのヒーローになった。


だが千明は見ていた。

ハムスターがいなくなった時、飼育係の女子生徒の胸からは確かに強い悲しみの光が放たれていた、と。

だがハムスターそのものからは何の光も感じなかった、と。

そして今回もまた、城戸がハムスターを発見したその輝かしい瞬間にさえ、彼の胸の光は微動だにしなかった、と。


「……おかしいよ、やっぱり」

屋上で千明は悔しそうに言った。

「ハムスターは『物』じゃないから光らないのかなとも思った。でも違う。飼育係の子の『大切』っていう気持ちは、確かに光になってた。なのにハムスター自身からは何も感じなかった。まるでそこにいないみたいに……」


俺の頭の中で仮説が確信へと変わっていく。

「……千明。お前の能力は『執着心』の光を捉えるものだ。そしてその光は『失われた』という認識、あるいはその可能性によってトリガーされる」

「うん」

「だがもし、『失われた』のではなく意図的に『隠された』のだとしたら?」


「え……?」

「持ち主の認識の外で第三者の悪意によって物が隠された場合。持ち主はそれを失くしたと思うが、物自体はその悪意の持ち主の支配下にある。そこには『執着』ではなく『支配』の意志しか存在しない。だから光は発生しない。……そう考えられないか?」


俺の推理に千明は息を呑んだ。

城戸がハムスターを隠し、そして自分で見つけ出した。そう考えればすべての辻褄が合う。

光が発生しなかった理由も、彼がいとも簡単に発見できた理由も。


「……でも、何のためにそんなことを……?」

「さあな。だが目的はおそらく一つだ。彼は『問題を解決する有能な自分』を演じたいんだ。そしてそのためなら彼は、自分で『問題』を作り出すことさえ厭わない。……歪んでいるよ、あいつは」


俺たちは底知れない恐怖を感じていた。

それは神楽坂のような超常的な脅威とは全く違う。もっと日常に潜む、静かで陰湿な悪意。

人の心を巧みに操作し、自分の価値を証明しようとする空っぽの承認欲求。


俺たちは決意した。この歪んだマッチポンプの構造を暴き出し、そして終わらせなければならないと。

だがどうやって? 証拠は何もない。下手に動けば逆に俺たちがクラスの中で孤立することになるだろう。


俺は一つの作戦を立てた。

それは彼が仕掛けてくるのを待つのではなく、こちらから罠を仕掛けるというものだった。

彼の行動パターンは読めている。彼は誰かの「大切」なものが失われ、そして自分がそれを解決するというシナリオを好む。

ならばこちらでその「シナリオ」を用意してやればいい。


俺は玲奈に協力を頼んだ。

彼女は俺たちの城戸に対する疑念を、最初は半信半疑で聞いていた。だが俺の論理的な説明と千明の真剣な訴えに、次第に顔つきを変えていった。

「……なるほどね。確かにあいつの完璧さには私もどこか違和感を覚えてはいたわ。……いいでしょう。面白そうじゃない。その化けの皮、三人で剥がしてやりましょうよ」

玲奈は不敵に笑った。

俺たちの最強の協力者が加わった。


作戦の決行は数日後。俺たちは周到に準備を進めた。

舞台はこの二年二組の教室。主役は城戸雅也。

そして失われる「大切」なものは。


「……これ、本当にやるの?」

玲奈が少しだけ不安そうな顔で尋ねた。

「ああ。やるしかない」

俺の手の中にあったのは一本のシャープペンシル。

亡くなった祖母の形見である、あのペンだった。


第4部:心の座標、再生への道筋


俺たちの作戦は、単なる犯人探しではなかった。彼の化けの皮を剥がすことが目的ではない。その仮面の下にある、空っぽの心を理解し、もし可能ならば、再生への道筋を示すこと。それが俺たちの本当の狙いだった。千明の優しさと、俺の論理、そして玲奈の現実的な視点。そのすべてを懸けた、危険な賭けだった。


決行の日。

俺は計画通り、授業中に祖母の形見のペンが自分にとっていかに「大切」であるかを、城戸に聞こえるようにアピールした。隣の席の千明は、俺の大根役者ぶりに笑いを堪えるのに必死だ。

昼休み。俺と千明が教室を出る。廊下で待っていた玲奈に、俺はそっとペンを手渡した。

「頼んだぞ」

「任せなさい。でも、本当にいいのね? あんたたち、ただ彼を断罪したいわけじゃない。そういうことでしょ?」

玲奈の真剣な問いに、俺と千明は強く頷いた。


数分後、俺と千明が教室に戻り、俺は計画通りに叫んだ。

「ない! ペンがない!」

俺は机の中、カバンの中をひっくり返してパニックになったふりをする。

クラスメイトたちが集まる中、城戸が心配そうな、完璧な善人の顔で近づいてきた。

「どうしたんだ落田。大事なペンなんだろ? みんなで探そう!」

彼がそう号令をかけた時だった。


「その必要はないわ」

教室の入り口に、玲奈が立っていた。

「城戸雅也。あんたに話がある。少し、いいかしら」

玲奈は彼を人気のない廊下へと連れ出した。俺と千明も、それに続く。


「……何の用かな、雨宮さん」

まだ、完璧な仮面を崩さない城戸。

玲奈は何も言わずに、スマートフォンの画面を彼に見せた。

そこには、誰もいない教室で、玲奈のカバンから俺のペンを抜き取り、自分のポケットにしまう城戸の姿が映っていた。彼が犯行に及ぶ瞬間を、玲奈が別の角度から撮影していたのだ。


城戸の顔から血の気が引いていく。その完璧な仮面が、音を立てて崩れ落ちた。

「……違う……これは……」

彼が言い訳を探して視線を彷徨わせた、その時だった。


「城戸くん」

千明が、一歩、前に出た。その瞳には、怒りではなく、深い悲しみの色が浮かんでいた。

「あなたの胸、光がないんだ。ううん、正確には、すごく淡くて色のない光があるだけ。まるで空っぽみたいに。……どうして? あなた、本当は楽しくないんでしょ? 嬉しいとか悲しいとか、そういうの、感じないんでしょ?」


千明のその純粋な問い。それはどんな詰問よりも鋭く、彼の心の奥底に突き刺さった。

彼女は彼の罪を責めているのではない。彼の心の「不在」を、ただ、悲しんでいるのだ。

その、ありのままの感情が、彼の最後の砦を打ち砕いた。


「……分からないんだ……」

彼は初めて、弱々しい本音を漏らした。

「……気づいたら、いつもこうなってた。期待されて、それに応えなきゃって思うと、いつの間にか……。誰かに『すごい』って言われる瞬間だけ、自分が、ここにいていいんだって思える。でも、それ以外の時は、自分が何なのか、もう、分からないんだ……」


その悲痛な叫び。千明には見えていた。彼の胸の奥にある、あの色のない空っぽの光。それが今、激しく揺らめき、その中心にほんの僅かな、しかし確かな黒い点のような絶望の光が生まれるのを。

彼はヒーローを演じることでしか自分を保てない、孤独な道化師だったのだ。


「……この動画は、誰にも見せない」

俺は静かに言った。

「え……?」

城戸が、信じられないという顔で、こちらを見る。

「だが、条件がある。一つ、今まで隠したものを、すべて、元の場所へ戻せ。万年筆も、ハムスターも、お前の仕業なんだろ」

城戸は、こくりと、小さく頷いた。

「そして、二つ目だ。……助けを、求めろ。カウンセラーでも、親でも、誰でもいい。一人で、自分を演じ続けるのは、もう、やめろ。それが、できないなら……俺たちに、話せ」


俺の、その、予想外の提案に、城戸は、言葉を失っていた。


「私、見てみたいんだ」

千明が、続けた。

「本当の、城戸くんの、心の光が。嬉しいとか、楽しいとか、そういう、温かい光が、きっと、あなたの中にも、眠ってるはずだから。それが見つかるまで、私、待ってるから」


その、どこまでも、真っ直ぐで、お人好しな、言葉。

城戸の、空っぽだったはずの瞳から、一筋、涙が、こぼれ落ちた。

それは、彼が、何年もの間、忘れていた、本物の、感情の、雫だったのかもしれない。


「……もし、また、同じようなことをしたら」

最後に、玲奈が、釘を刺した。

「その時は、容赦しないわ。この動画は、そのための、保険。……分かったわね?」

城戸は、涙を流しながら、何度も、何度も、頷いた。


俺たちの作戦は、終わった。

後味の悪い、勝利。

だが、そこには、確かに、再生への、小さな、小さな、光が、灯っていた。


その日の帰り道、俺たちは三人、黙って夕暮れの道を歩いていた。

「……私、間違ってたのかな」

千明がぽつりと呟いた。

「あんなやり方で彼を追い詰めるべきじゃなかったのかも……」


「いいや」

俺は首を横に振った。

「俺たちは間違っていない。歪んだ正義はいつか誰かが正さなければならなかった。ただ……」

俺は言葉を切った。

「……俺たちも、神楽坂と同じ過ちを犯すところだったのかもしれないな」


人の心を断罪し、裁くことの傲慢さ。俺たちはそのギリギリの境界線に立っていたのだ。そして、最後の最後で、踏みとどまることができた。


二度目の春。それは穏やかな始まりではなかった。

俺たちの前にはまだたくさんの答えのない問いが横たわっている。

光とは何か。心とは何か。そして正義とは何か。

俺たちはその問いを胸に抱きながら、歩いていくしかないのだ。

千明が俺の手をそっと握った。玲奈が俺たちの背中をぽんと叩いた。

そうだ。俺たちは一人じゃない。

このどうしようもなく複雑で、そして美しい世界を、俺たちは三人で歩いていくのだ。

春の不協-和音の中で、俺たちの二年生の物語はまだ始まったばかりだった。

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