高1・3月:春の境界線と、二人の座標
第1部:春の匂いと、一年の終わり
二月が駆け足で過ぎ去り、三月の柔らかな日差しが冬の間固く閉ざされていた教室の窓をノックし始めた。凍てついていた校庭の土はぬかるみ、風はまだ冷たいながらもその中に春の匂いをかすかに含んでいる。一年という長いようで短かった旅の終わりが近づいていた。
「うーん……だめだ、分かんない……」
期末テストを三日後に控えた放課後、図書室の片隅で千明が数学の問題集を前に可愛らしい悲鳴を上げた。
「どこが分からない」
俺は読んでいた認知科学の専門書から顔を上げ、彼女のノートを覗き込んだ。二次関数の頂点を求める問題。つい数週間前に俺が教えたばかりの範囲だ。
「全部」
「……そうか」
俺はため息をつきながらもペンを取った。以前の俺なら「この前教えただろう」と冷たく突き放していたかもしれない。だが今の俺は違う。彼女のその絶望的なまでの数学への不適合性が、もはや愛おしくさえ感じられた。
「いいか千明。この公式の本質は……」
俺は一つ一つの手順を丁寧に、噛み砕いて説明を始めた。俺のその回りくどい論理的な解説を、彼女は時々首を傾げながらも真剣な眼差しで聞いていた。その真剣な横顔を見ていると俺の胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……なるほど! そういうことか! 心一くん、すごい! 天才!」
ようやく理解したのか、彼女はぱっと顔を輝かせ満面の笑みで俺を褒め称えた。そのあまりにもストレートな賞賛の言葉に、俺の方が照れてしまい咳払いで誤魔化した。
「……当たり前だ。それよりこの類題を解いてみろ。できるまで帰さないからな」
「えー! 鬼!」
そんな軽口を叩き合いながら勉強に勤しむ。
それが恋人同士になってからの俺たちの新しい日常だった。
バレンタインのあの日以来、俺たちの間にあったぎこちない壁は完全に取り払われた。俺は彼女を「千明」と呼ぶことにもう躊躇いはない。彼女もまた俺を「心一くん」と、少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに呼んでくれる。その名前を呼び合うだけのささやかな行為が、俺たちの心をどれだけ満たしてくれたことか。
「はい、お二人さん。糖分補給」
不意に俺たちの机に、缶コーヒーといちごミルクがことりと置かれた。
見上げるとそこには、やれやれとでも言うように肩をすくめる雨宮玲奈が立っていた。
「……玲奈。ありがとう」
「どういたしまして。それにしてもあんたたち、最近目に余るわよ」
「何がだ」
「その甘ったるい空気よ。見てるこっちの虫歯が痛みそうだわ」
玲奈はそう言って呆れたように笑った。
彼女はもう俺たちの関係を心配そうな目で見てはいない。ただ一人の友人として、俺たちのこの不器用な恋の行く末を楽しんでいるようだった。
この三人で過ごす穏やかな時間が、俺にとって何よりもかけがえのない宝物になっていた。
テスト期間中のある日のこと、俺たちは一つの小さな「落とし物」に遭遇した。
それは卒業式を終えたばかりの三年生の校舎へと続く渡り廊下に落ちていた。
一つの小さな金色のボタン。男子生徒の学ランの第二ボタンだった。
「あ……」
千明がそれをそっと拾い上げる。ボタンからは淡くそして複雑な光が放たれていた。
「この光……。ピンク色の恋心の光と、青色の寂しい光が混じってる。あと少しだけ、キラキラした未来への希望の光も……。すごく切ないけど温かい光だね」
俺はそのボタンを見つめた。
第二ボタン。卒業式に想いを寄せる相手に渡すという、この国に古くから伝わる恋の儀式。
おそらくこれは告白が叶わなかった誰かの想いの結晶なのだろう。あるいは勇気が出せずに渡せなかった未練の証か。
「どうする心一くん。持ち主、探す?」
「……いや、やめておこう」
俺は静かに首を横に振った。
「これは俺たちが介入すべき問題じゃない。このボタンはきっとここにあるべきなんだ。持ち主が自分の力でこの一年の恋に区切りをつけるための、これは墓標のようなものだ」
俺の言葉に千明は何も言わずにこくりと頷いた。
彼女も分かっていたのだ。すべての「落とし物」を元の場所へ返せばいいというわけではないことを。時にはそっと見守ることもまた、一つの優しさなのだと。
俺たちはそのボタンを渡り廊下の窓際にそっと置いた。西日がその小さな金属片を照らし出し、まるで一つの星のように輝かせている。
俺たちはそのはかなくも美しい光景を、ただ黙って見つめていた。
もうすぐ俺たちも一つ学年が上がる。この一年という時間が過ぎ去っていくそのどうしようもない切なさと、そして未来への漠然とした期待。その二つの感情が俺たちの胸の中で静かに交差していた。
第2部:未来の座標、心の地図
期末テストが終わり、校内は解放感と同時に新たな緊張感に包まれ始めていた。
学年末の恒例行事、二年生への進級に際しての「クラス替え」の発表が間近に迫っていたからだ。
それは生徒たちにとって人間関係の一大再編イベント。友人と同じクラスになれるか、恋人と離れ離れになってしまうのか。その発表までの数日間は誰もが落ち着かない気分で過ごすことになる。
「……どうしよう、心一くん」
放課後、いつもの屋上でフェンスに寄りかかりながら、千明が不安そうな声を漏らした。
「もし私たち、クラスが離れ離れになっちゃったら……」
その瞳には隠しきれない恐怖の色が浮かんでいる。
彼女の不安は、ただ恋人と会えなくなるという寂しさだけではない。俺たちの「バディ」としての活動が困難になることへの懸念も含まれていた。これまでのように気軽に教室で情報を共有したり、一緒に抜け出したりすることができなくなるかもしれない。
以前の俺ならそんな彼女の不安を、「非合理的な杞憂だ」と一蹴していただろう。
だが今の俺は違う。俺は彼女のその柔らかな心の揺らぎを、ちゃんと受け止めることができた。
「……確率的には、八クラスあると仮定すれば同じクラスになる確率は八分の一だ」
俺はまず冷静に事実を述べた。
「えー! そんなに低いの!?」
「だがクラスが離れたとしてもこの学校はそれほど広くはない。休み時間や放課後に会うことは可能だ。俺たちの活動が根底から損なわれることはない」
俺はそこで一度言葉を切り、そして彼女のその不安げな瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「それに、クラスが離れたくらいで俺たちの関係は変わらない。俺がお前の羅針盤であることも、お前が俺の光であることも、何も変わらない」
俺のその不器用な、しかし正直な言葉。
それが彼女の心にどう響いたのか。彼女は一瞬驚いたように目を見開いた後、ふわりと花が咲くように微笑んだ。
「……うん。そうだね。ごめん、私また弱気になってた」
その笑顔を見て俺は心の底から安堵した。
そしてその会話は自然と、もっと遠い未来の話へと繋がっていった。
来年のクラスのことだけではない。高校を卒業したその先の、俺たちの未来について。
「……心一くんはもう大学とか決めてるの?」
「ああ。いくつか候補は絞り込んである。認知科学か、あるいは脳科学を深く学べる場所だ」
俺はスマートフォンの画面を彼女に見せた。そこには俺がブックマークしたいくつかの大学の研究室の名前が並んでいる。
「すごい……。私、全然考えてなかったな……」
彼女は自分の進路希望調査の用紙に何と書いたかを思い出した。
『人の役に立ちたい』という漠然とした想いから、とりあえず書いた『公務員』という三文字。その夢が今の彼女には少しだけ色褪せて見えていた。
「……私、本当になれるのかな。『落とし物のプロ』なんて、漠然とした夢……」
「なれるさ」
俺は即答した。
「お前には誰にも真似できない才能がある。そして誰よりも強い意志がある。道は一つじゃないはずだ。警察の遺失物係だけが答えじゃない。例えば探偵事務所でその能力を活かすこともできる。あるいは骨董品や美術品の鑑定士なんて道もあるかもしれない。その『光』の来歴を読み解く専門家として」
俺が具体的な可能性をいくつか提示すると、彼女の曇っていた表情がみるみるうちに晴れていくのが分かった。
「そっか……。そうだよね! いろんな道があるんだね!」
そうだ。未来は無限だ。
俺たちはまだその広大な地図の出発点に立ったばかりなのだ。俺たちはこれからそれぞれの座標を見つけ出していかなければならない。
「……なあ、千明」
俺は夕暮れの空を見上げた。一番星が瞬き始めている。
「俺たちの関係は、この星空みたいなものだ」
「え?」
「俺という恒星とお前という惑星。俺たちは互いの引力に引かれ合って、この軌道を回っている。クラスが変わろうと卒業して進む道が別れようと、この万有引力の法則だけは変わらない。俺たちは決して離れることはない」
俺のそのあまりにも理屈っぽく、そしてロマンチックのかけらもない比喩。
それを聞いた千明は最初きょとんとしていたが、やがてくすくすと笑い出した。
「何それ。心一くんらしいね」
彼女はそう言って、俺の肩にこてんと頭をもたせかけてきた。
その不意打ちの仕草に、俺の心臓が大きく跳ねる。
「……でも、嬉しい。ありがとう、心一くん」
俺たちは黙って寄り添いながら、夜の帳が下りてくるのを見ていた。
未来への不安が完全に消えたわけじゃない。だが俺たちの心には、確かな一つの道標が灯っていた。
隣にいるこの温もり、この存在こそが、俺たちの進むべき道を照らし出す不動の北極星なのだと。
第3部:春の境界線
三学期の終業式。
それは一年間の終わりを告げる儀式であると同時に、新たな始まりへの号砲でもあった。
式の後、校舎の中央掲示板の前に黒山の人だかりができていた。二年生のクラス分けが発表されたのだ。
悲鳴と歓声があちこちから聞こえてくる。
「行くぞ、千明、玲奈」
俺たちは覚悟を決めて、その人混みの中へと分け入っていった。
心臓が早鐘のように鳴っている。
頼む。そんな非合理的な祈りが、思わず口をついて出そうになる。
俺たちは掲示されたクラス名簿の紙に、必死で自分たちの名前を探した。
自分の名前よりも先に、互いの名前を。
「……あった! 私、二組だって!」
千明が声を上げた。
『二年二組 見附 千明』
俺は自分の名前を探す。同じ二組の名簿に視線を走らせる。
『二年二組 雨宮 玲奈』
玲奈も同じクラスか。
そして。
『二年二組 落田 心一』
俺の名前はそこにあった。
千明と玲奈と同じクラスに。
「……よかった……!」
隣で千明が安堵の声を漏らし、その場にへなへなと座り込みそうになるのを俺は慌てて支えた。
俺自身もまた論理では説明のつかない、深い深い安堵感に包まれていた。
「……はあ。やっぱりね」
背後からため息混じりの声がした。玲奈だった。
彼女は俺たちの名前を見つけると、やれやれと首を振った。
「あんたたち本当に、くっついてないと生きていけないんじゃないの? まるで運命共同体ね」
そのからかいの言葉。だが、その運命という言葉が今の俺には妙に心地よく響いた。
こうして俺たちの高校一年生は終わりを告げた。
教室に戻り最後のホームルームを終え、クラスメイトたちと別れの挨拶を交わす。
「また来年な!」
「クラス離れちゃったけど、また遊ぼうぜ!」
そんな言葉が飛び交う中、俺たちは三人静かに教室を後にした。
校門へと向かう桜並木。固く閉ざされていたその蕾がほころび始め、いくつかの枝には気の早い花が咲き始めていた。
春の境界線。俺たちは今、確かに一つの季節を越えようとしていた。
「……終わっちゃったね、一年生」
千明がぽつりと呟いた。
「そうね。色々ありすぎた一年だったわ」
玲奈が遠い目をして答える。
色々ありすぎた。その言葉通りだった。
この一年で俺の世界は完全に変わってしまった。灰色で退屈だったはずの日常は、光と謎と、そしてかけがえのない温もりに満ちた世界へと変貌した。
そのきっかけをくれたのは、間違いなく、隣で桜を見上げているこの不思議な少女だった。
俺は去年の六月を思い出していた。
雨の中、泥だらけで地面にひざまずく彼女の姿を「変な奴だ」と断じたあの日のことを。
あの時の俺に教えてやりたい。その「変な奴」が、お前の世界のすべてを変えることになるのだ、と。
「来年はどんな年になるかな」
千明が期待に満ちた声で言う。
「さあな。だが、きっと退屈はしないだろうな」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
俺たちの関係はもう、クラスが同じか違うかなんて些細なことで揺らぐことはない。
俺たちはそれぞれの道を見つけ、そしてその道が交わる未来を信じているのだから。
俺は千明のその小さな手をそっと握った。
彼女は驚いたようにこちらを見たが、すぐに優しく握り返してくれた。
その手の温かさが、俺たちのこれから始まる新しい物語のすべてを物語っていた。
春の柔らかな光の中で、俺たちの高校二年生の物語が、今、静かに始まろうとしていた。
甘く、切なく、そしてどこまでも眩しい光に満ちた季節が。




