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高1・2月:論理の告解と、心光の調律

第1部:論理式の崩壊


「……落田くんは……」

彼女の声は冬の静まり返った教室に、痛々しいほど響いた。

「……もう私のこと、好きじゃなくなっちゃったの?」


その問いは鋭いガラスの破片となって、俺の胸に深く突き刺さった。

目の前で千明がその大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼしている。そのあまりにもまっすぐな悲しみが、俺が作り上げた完璧なはずの論理の世界を根底から揺さぶった。

違う。そうじゃない。

俺はお前のためを思って、お前を守るために。

そんな自己満足の言い訳が喉まで出かかったが、声にはならなかった。俺の行動が彼女をここまで追い詰めていた。その紛れもない「結果」が、俺の論理の完全な敗北を告げていた。


「……なぜ、そう思う」


俺の口から出たのは、そんな愚かしいほど間の抜けた問いだけだった。

その言葉がさらに彼女を傷つけたことに、この時の俺はまだ気づいていなかった。

「だって……!」

彼女は嗚咽を漏らしながら叫んだ。

「落田くん、変わっちゃったんだもん! あの日を境に急に冷たくなって……私のこと避けて……! それに……!」

彼女は自分の胸をぎゅっと掴んだ。

「……光が見えなくなったの。落田くんの胸にあったあの温かい光が。あなたが無理やりそれを消そうとしてるのが分かったから……! 翼くんの時と同じだったから……! あなたの心も壊れてなくなっちゃうんじゃないかって……怖くて、怖くて……!」


その悲痛な告白。

俺はようやく理解した。俺の愚かな「配慮」が彼女に翼のあの悲劇的な失恋を想起させ、彼女自身の恋心まで失われてしまうのではないかという最悪の恐怖を与えていたのだ。

俺は彼女を守ろうとして、逆にその手で崖っぷちまで突き落としていた。


「……馬鹿だった」

俺は声を絞り出した。

俺の呟きに、千明はびくりと肩を震わせた。

俺は観念してすべてを話すしかなかった。俺が作り上げた欠陥だらけの論理式を、その前提からすべて。


「……俺は、お前のためを思っていた」

俺は俯いたまま語り始めた。

「お前が言ったんだ。『落田くんの光が強すぎて、他の光がよく見えない』と。だから俺は考えた。俺のこの感情が、お前の能力の『ノイズ』になっているのだと。だから俺はそれを抑制しようとした。感情を論理で蓋をして、お前にとってのノイズを消し去ること。それがお前にとっての最善の配慮だと、論理的に判断したんだ」


俺のあまりにも独善的で、そして不器用な告白。

千明は呆然と涙を浮かべたまま、俺の言葉を聞いていた。


「……すべて俺の間違いだった」

俺は顔を上げた。そして彼女のその濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。

「俺はお前の心を数式か何かのように、単純なものだと思い込んでいた。入力に対して決まった出力が返ってくる機械のように。……だが違った。人の心はそんなものじゃない。俺は、お前を傷つけた。……本当に、すまなかった」


俺は深く頭を下げた。

それは俺が生まれて初めて誰かにした、心からの謝罪だった。

教室に沈黙が落ちる。聞こえるのは彼女の小さな嗚咽と、窓の外を吹き抜ける冬の風の音だけだった。


やがて、ぽす、と軽い衝撃が俺の頭にあった。

顔を上げると、千明が俺の頭を小さな両手でわしゃわしゃと撫でていた。その瞳はまだ赤く腫れていたが、そこにはもう絶望の色はなかった。


「……落田くんの、馬鹿」

彼女はそう言うと、今度は安心したようにわっと声を上げて泣き出した。

その涙はもう悲しみの涙ではなかった。

「……心配したんだから……! 私、てっきりもう嫌われたのかと……!」

「……悪かった」

「……本当に馬鹿なんだから……!」


彼女は何度も俺を「馬鹿」と罵りながら、しかしその手は優しく俺の髪を撫で続けていた。

その温かさが、俺の凍てついていた心にゆっくりと染み渡っていく。

俺はようやく理解したのだ。

恋とは論理ではない。不器用な言葉と触れ合う温もりで確かめ合っていく、もっとずっと厄介で、そして愛おしい何かのだと。

長いすれ違いの冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。


第2部:光の調律、心の対話


あの涙の告解の後、俺と千明の関係はようやく本当の意味で「恋人」としてスタートラインに立った。

気まずさはまだ残っている。だがその質は以前とは全く違っていた。それは互いを傷つけることを恐れる冷たい距離感ではなく、相手をもっと知りたいと願う温かい羞恥心だった。


「……千明」

翌日の放課後、俺が意を決して彼女の名前を呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせ、そして顔を真っ赤にした。

「……な、なに、落田くん」

「……いや、心一だ」

「え……?」

「……これからは心一と呼べ。俺も千明と呼ぶ」


それは俺なりのけじめであり、そして新たな関係の始まりの合図だった。

「……し、心一……くん」

彼女が蚊の鳴くような声で俺の名前を呼ぶ。それだけで俺の心臓が馬鹿みたいに跳ね上がった。

俺たちはまるで生まれたての雛鳥のように、一つ一つ手探りで恋人としての作法を学んでいかなければならなかった。


そして俺たちは、あの根本的な問題にもう一度向き合うことにした。

千明の能力の「飽和」の問題だ。

「もう大丈夫だよ。私が頑張って慣れるから!」

彼女は健気にそう言った。

だが俺は首を横に振った。

「駄目だ。お前一人に負担を押し付けるのは間違っている。これは二人の問題だ。だから二人で解決策を探すんだ」


俺たちはその日から新しい「実験」を始めた。

それは「心の光の調律チューニング」とでも呼ぶべき作業だった。

俺たちは放課後の誰もいない教室で、向かい合って座った。


「いいか、千明」

俺は観測ノートを片手に言った。

「まず意識を集中しろ。俺の胸の光だけを見るんだ。それはどんな光だ?」

「……うん。温かいオレンジ色。太陽みたいにキラキラしてる……」

彼女は少し恥ずかしそうに答える。


「分かった。じゃあ今から俺は数学の問題を解く。その時、光はどう変わる?」

俺はポケットから問題集を取り出し、難解な数式に意識を集中させた。

「あ……! オレンジ色の光の中心に、青くて鋭い光が生まれた……! キランってしてる!」

「なるほど。それが俺の知的好奇心の光か」


俺はさらに続けた。

「では今から、俺は昨日のテレビ番組のお笑い芸人のことを思い出す」

俺がくだらないギャグを頭の中で再生すると、千明はくすくすと笑い出した。

「あはは、光が黄色くなってぽわぽわしてる。面白い」

「……そうか。これが面白いと感じている時の光か」


俺たちは何時間もそんなことを繰り返した。

俺が様々な感情を意図的に作り出し、千明がその時の光の変化を詳細に言語化していく。

それは彼女の曖昧な感覚を、俺の論理で体系化していく共同作業だった。

彼女は次第に俺の様々な感情の光のパターンを学習していった。そして意識的に特定の光だけに焦点を合わせる訓練を積んでいった。

それはまるでたくさんの楽器が同時に鳴っているオーケストラの中から、特定の楽器の音だけを聞き分ける調律師のような作業だった。


「……どうだ。少しは慣れてきたか」

「うん、なんとなく……。心一くんの愛情の光を『背景』みたいに感じながら、他の細かい光を見分けるコツが分かってきたかも」


彼女の言葉に俺は安堵した。

そして俺たちはその新しいチューニング方法を実践で試してみることにした。

久しぶりの「落とし物探し」だ。


街に出るとすぐに千明のアンテナが反応した。

「……あそこ。カフェのテラス席のテーブルの下。小さな光が見える」

彼女の声には以前のような戸惑いはない。俺の胸の光を感じながらも、彼女は確かにその先の落とし物の光を捉えていた。


テーブルの下に落ちていたのは一本の万年筆だった。

「この光……。焦ってる赤い光と悲しい青い光が混じり合ってる。すごく複雑な光だね」

彼女は冷静に光を分析する。


俺はその万年筆を手に取った。少し高価そうなブランド物だ。

「……心当たりがある」

俺は言った。

「今日の昼休み、進路指導室で担任の田中先生が同じものを使っていた」


俺たちはすぐに学校へと引き返した。

職員室で田中先生に万年筆を見せると、彼は顔を真っ青にした。

「うわー! あったか! 君たちありがとう! これ、死んだ親父の形見なんだよ。しかも今日提出する推薦書の下書きを書いた大事な万年筆でな。失くしたことに気づいて血の気が引いてたんだよ!」


先生は何度も俺たちに頭を下げた。

その心からの感謝の言葉。

俺たちは顔を見合わせ微笑んだ。

俺たちのバディとしての連携が完全に復活した瞬間だった。いや、以前よりももっと強くしなやかな絆で結ばれた、新しい関係性の始まりだった。


その帰り道、玲奈に事の一部始終を報告すると、彼女は電話の向こうで心底呆れたように言った。

「……やっと普通になったわね、あんたたち。まあ、せいぜい仲良くやりなさいよ」

その声はどこまでも優しかった。


第3部:バレンタインの論理式


二月。

立春とは名ばかりの厳しい寒さが続く中、学校はどこかそわそわとした甘い空気に包まれ始めていた。

バレンタインデー。その年に一度の恋の祭典が間近に迫っていたからだ。

教室のあちこちで女子たちが「本命チョコどうする?」などとひそひそ囁き合っている。

その甘ったるい空気に、俺は少しだけ居心地の悪さを感じていた。


そしてその居心地の悪さの最大の原因は、言うまでもなく、俺の隣の席でもじもじと指を絡ませているこの恋人本人だった。

千明はここ数日、明らかに様子がおかしかった。時々何かを言いかけてはやめてみたり、かと思えば俺の好きな食べ物についてやたらと探りを入れてきたり。その分かりやすい行動の理由は火を見るよりも明らかだった。


「……ねえ、玲奈……」

昼休み、彼女はついに堪えきれなくなったのか、救いを求めるように玲奈に泣きついた。

「バレンタイン、どうしよう……! 手作りとか重いかな……? でも買ったのだと気持ちが伝わらない気もするし……!」

「あんたねえ……」

玲奈はやれやれと首を振りながらも、真剣に相談に乗ってやっていた。

「心一みたいな朴念仁には、分かりやすいのが一番よ。あんたが一生懸命作ったってことが伝わればそれで十分。見た目なんて二の次、三の次」

「そ、そうかなあ……」


俺はそんな女子たちの密談を聞こえないふりをしてやり過ごしながら、俺自身の思考に耽っていた。

バレンタインデー。それは女性から男性へ想いを告げる日。そしてその一ヶ月後にはホワイトデーというアンサーデイが存在する。

文化人類学的に非常に興味深い、日本独自の求愛の儀式だ。

俺は冷静にその儀式の持つ意味と、そこで期待される役割について分析を始めていた。

玲奈の言う通り、俺は朴念仁なのかもしれない。だが、俺は俺なりのやり方で彼女のその健気な想いに応えなければならないと思っていた。


そして運命の二月十四日がやってきた。

その日、俺の下駄箱や机の中はいくつかの義理チョコで溢れていた。だが俺の意識はただ一点に集中していた。

千明は朝からずっとそわそわとして落ち着きがない。俺もまた平静を装いながら、心臓が妙にうるさいのを自覚していた。


放課後。

俺たちはどちらからともなく、あの屋上へと向かっていた。

冷たい二月の風が頬を撫でる。夕暮れの空は淡い紫色に染まっていた。


「……あの、さ」

千明が俯いたまま、小さな紙袋を俺の前に差し出した。その指先が小さく震えている。

「……これ、……もしよかったら……」


俺は黙ってその紙袋を受け取った。

中には可愛らしいラッピングが施された小さな箱が入っていた。開けてみると、そこには少しだけ形が不揃いな手作りのトリュフチョコレートが並んでいた。


「……ごめん、あんまり上手じゃなくて……」

千明が消え入りそうな声で言う。

俺はその不格好なチョコレートを一つ、つまみ上げた。そしてゆっくりと口に運んだ。


口の中に広がる濃厚なカカオの風味と、そして優しい甘さ。

決してパティシエが作ったような洗練された味ではない。だが、それは俺が今まで食べたどんな高級なチョコレートよりも美味しかった。


そして俺は、感じていた。

目の前で俺の反応を固唾を飲んで見守っている千明の、胸の光を。

それは期待と不安と、そしてありったけの愛情が混じり合った、最高に美しくそして眩しい光だった。

その光の輝きが、俺の心をどうしようもなく満たしていく。


俺はもう一度、彼女のその真剣な瞳を見つめ返した。

そして俺なりの最大限の愛情表現を、言葉にした。


「……千明」

俺が静かにその名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。

「ありがとう。……このチョコレートの形やラッピングから、君がこれを作るのに費したであろう時間と、その中に込められた感情の密度を、論理的に推察した」

「……え?」

「結論として、これは俺が今まで受け取ったどんな物よりも価値が高い。……すごく、嬉しい」


俺のその、どこまでも理屈っぽく不器用な感謝の言葉。

それを聞いた千明は最初、きょとんとした顔で目をぱちくりさせていたが、やがてその意味を理解したのか、ぷっと吹き出した。

そして次の瞬間。

「あはははは!」

彼女はお腹を抱えて笑い転げた。

その心の底から楽しそうな笑い声が、冬の屋上に響き渡る。


「……何それ……! 心一くん、最高……!」

彼女は涙を浮かべながら笑い続けている。

その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で灯っていた愛情の光が、今までで一番強くそして温かく輝いたのを、俺は確かに感じていた。


俺たちは笑い合った。

もうそこにはぎこちなさも戸惑いもなかった。

ただ互いを信じ、そして慈しむ、恋人たちの穏やかな時間が流れているだけだった。

俺たちはようやく見つけたのだ。俺たちだけの言葉を。俺たちだけの愛の形を。

論理と光が寄り添い、そして溶け合うその優しい世界で、俺たちの初めての冬は、まだ始まったばかりだった。

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