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高1・6月 上旬・中旬

高1・6月(梅雨)

世界の輪郭が、滲んでいる。 六月特有の執拗な雨が、窓ガラスに絶え間なく打ち付けていた。教室の中は、湿った空気と教科書のインクの匂い、そして気怠い午後の気配で満たされている。チョークが黒板を擦る乾いた音だけが、この澱んだ空間における唯一の覚醒剤だった。

俺、落田心一おちだしんいちは、頬杖をつきながら、数学教師の単調な声が紡ぐ数式の羅列を右から左へと聞き流していた。微分積分。世界の真理を解き明かすための、美しく秩序立った言語。それは本来、俺が好むべき分野のはずだった。あらゆる事象は論理で説明でき、原因と結果の法則からは誰も逃れられない。その揺るぎない事実だけが、この不確かで曖昧な世界における、俺の唯一の羅針盤だった。

「――というわけで、このグラフの接線は……おい、落田。聞いているのか」

鋭い声に、思考の海から引き揚げられる。顔を上げると、神経質そうな数学教師がこちらを睨んでいた。クラスの視線が、まるでスポットライトのように俺一人に集中する。

「はい、聞いています」

「ほう。なら、この問題が解けるな。前に出てこい」

やれやれ、と心の中でため息をつく。俺は静かに席を立ち、教壇へと向かった。渡されたチョークは、湿気で少しだけ指に張り付く。黒板にびっしりと書かれた数式。その迷宮のような文字列の中から、解答へ至る最短経路を瞬時に探し出す。それは俺にとって、パズルを解くような、ただの思考遊戯に過ぎなかった。

数分後、俺が淀みなく解答を書き終えると、教師はつまらなそうに「よし、座れ」とだけ言った。クラスメイトたちから「すげえ」とか「またかよ」といった囁き声が聞こえるが、俺の心には何の感慨も湧いてこない。称賛も嫉妬も、俺にとっては窓の外を流れる雨粒と同じ、意味のない現象の一つでしかなかった。

席に戻ると、隣の席の女子が小さな声で「助かったぁ」と呟いた。見ると、ノートには珍妙なキャラクターの落書きが踊っている。俺が教師の注意を引きつけている間に、彼女は内職に勤しんでいたらしい。

自席の窓の外に目をやる。灰色の雲が空を覆い尽くし、世界のすべてから色彩を奪い去っていた。校庭の木々も、向かいの校舎も、すべてが濃淡の異なるグレーに塗りつぶされている。退屈で、予測可能で、だからこそ安心できる日常。俺はこの灰色の世界を、それなりに気に入っていた。余計なものが何も見えないからだ。

「心一、あんたまた先生に喧嘩売ってたでしょ」

放課後。傘を差して校門を出たところで、背後から凛とした声がかかった。振り返ると、風紀委員の腕章をつけた女子生徒――雨宮玲奈あまみやれなが、呆れたような顔で立っていた。長い黒髪を一つに束ね、その佇まいは彼女の真面目な性格を体現しているかのようだ。

「喧嘩なんて売ってない。質問に答えただけだ」

「その態度が、よ。もっとこう、愛想よくできないわけ?」

「必要性を感じない」

「はぁ……」

玲奈は深々とため息をついた。彼女は俺の数少ない友人の一人だ。別に社交性がないわけではない。必要とあらば誰とでも当たり障りなく会話はできる。だが、心のシャッターを開ける相手は、極端に少ない。玲奈はその数少ない例外だった。彼女の言動は常に論理的で、感情論に流されることが少ないから、話していて楽なのだ。

「それより、千明を見なかったか? あいつ、また委員会の仕事すっぽかして……」

玲奈が言う「千明」とは、見附千明みつけちあきのことだ。俺たちのクラスメイトで、玲奈の幼馴染。太陽、と形容するのが最も似合う女。いつも輪の中心で笑っていて、その快活さは、時に俺のような日陰の住人には眩しすぎる。

「さあな。見てない」

俺が素っ気なく答えると、玲奈は「あの子、最近ちょっとおかしいのよね」と、声を潜めた。

「おかしい?」

「なんていうか、急に立ち止まって地面をじーっと見つめたり、誰もいない方を向いて頷いたり。ちょっと心配で」

玲奈の言葉に、俺の眉が微かにひそまる。 ――地面を、見つめる?

「……気のせいじゃないのか」

「だといいんだけど。昔から突拍子もないところはあったけど、最近は特に……あ、いた!」

玲奈が指差す方へ視線を向ける。 通学路の脇、水たまりだらけの植え込みのそばで、見慣れた姿が佇んでいた。 見附千明だ。 彼女は傘も差さずに、降りしきる雨の中に一人で立っていた。制服のシャツは肌に張り付き、髪から滴る雫が顎を伝って落ちていく。だが、そんなことはまるで意に介していない様子で、彼女はある一点を、それこそ地面に穴が空くのではないかというほどの集中力で見つめていた。

「千明! 何やってんの、風邪ひくでしょ!」

玲奈が叫びながら駆け寄っていく。俺はその場から動けずにいた。 見附の行動は、玲奈の言う「おかしい」という言葉では生ぬるい。それは、常軌を逸していた。 彼女は、次の瞬間、まるで何かに導かれるように、ゆっくりとその場にひざまずいたのだ。 真新しいローファーが泥水に沈み、ブレザーの裾が汚れるのも構わずに。その姿は、まるで神聖な儀式に臨む巫女のようでもあり、あるいは何かに取り憑かれた人形のようでもあった。

「――変な奴だ」

思わず、独り言が口からこぼれた。 その光景は、俺の脳の奥底にしまい込んでいた、忌まわしい記憶の蓋をこじ開けた。

あれは、小学生の頃だった。 俺は、今とは全く違う少年だった。世界の不思議に夢中で、UFOやUMA、超能力といった、科学では説明できない「見えないもの」の存在を固く信じていた。図書館でオカルト系の本を読み漁り、夜空を見上げては未確認飛行物体を探し、友人たちに得意げにその知識を披露していた。

あの日も、そうだった。放課後の教室で、俺は数人のクラスメイトに囲まれ、熱弁を振るっていた。 「この写真の影は、絶対に宇宙人のものなんだ! 政府は真実を隠している!」 子供じみた、しかし当時の俺にとっては真剣そのものの主張だった。 だが、返ってきたのは、尊敬の眼差しではなかった。 「うわ、落田ってまだそんなこと信じてんの? ダッサ」 「オカルトとか、イタいだけじゃん」 嘲笑。侮蔑。それまで仲間だと思っていたはずの彼らの視線は、冷たい刃物のように俺の心を切り刻んだ。一番仲が良かったはずの友人でさえ、気まずそうに目を逸らした。 世界が、音を立てて崩れていく。 信じていたものが、足元から崩れ去っていく感覚。自分の「好き」を、アイデンティティを、根こそぎ否定された絶望。 その日から、俺は変わった。 見えないものを信じるのは、馬鹿がすることだ。非科学的で、非論理的で、何の生産性もない。世界は物理法則という名の、目に見えるルールだけで動いている。俺は硬い甲羅に閉じこもり、感情という不確かなものを捨て、論理と理性だけを信じるようになった。二度と、あの日のように誰かに笑われないために。

目の前の光景は、そのトラウマを鮮明に蘇らせる。 雨の中、泥まみれで地面にひざまずく見附千明。彼女の姿は、あの日の、嘲笑の的になった滑稽な自分自身と重なって見えた。 やめろ。そんなことをしても、誰も理解してくれない。馬鹿にされるだけだ。 心の中で、過去の自分に言い聞かせるように叫ぶ。 玲奈が何かを言いながら見附の腕を引いているが、見附はまるで聞こえていないかのように、地面を見つめ続けている。

俺は、その場から逃げるように踵を返した。 見たくなかった。理解不能なものも、そして、それに惹きつけられそうになる自分の心も。

それから数日間、俺は見附千明という存在を意識的に視野から外すように努めた。彼女がクラスの中心で笑っていても、廊下ですれ違っても、まるで背景の一部であるかのように、その存在を認識しないようにした。 平穏な日常を取り戻したかった。灰色の、秩序立った世界を。 だが、運命というのは、こちらの都合を無視して、最も見たくない光景を繰り返し突きつけてくるものらしい。

あの日から三日後の放課後。梅雨の中休みで、空には久しぶりに太陽が顔を出していた。じっとりとした湿気は残っているものの、雨がないだけで気分は随分と違う。俺はイヤホンで無機質なエレクトロニカを聴きながら、駅へと向かっていた。 商店街を抜ける、人通りの多い道。活気のある声や、店のスピーカーから流れるJ-POPが、イヤホンの壁を越えて微かに侵入してくる。

その時だった。 視界の端で、またしても不自然に人の流れから外れる影があった。 嫌な予感が、背筋を走る。 ゆっくりと、そちらに顔を向ける。 ああ、やはり。 見附千明だった。 彼女は、今度は花屋の店先で、地面に置かれたプランターの陰を、真剣な顔で覗き込んでいた。周りの人々は怪訝な顔をしながらも、彼女の異様な気迫に押されてか、誰も声をかけずに通り過ぎていく。

まただ。 俺は足を止め、電柱の陰から、再び彼女の観察を始めた。自分でも、なぜこんなことをするのか分からない。関わるべきではない、変な奴。そう結論づけたはずなのに、目が離せないのだ。 それは、非合理的な行動の裏側にある法則性を見出したいという、科学者的な探究心だったのかもしれない。あるいは、ただの野次馬根性か。 見附はしばらくプランターの陰を覗き込んでいたが、やがて諦めたように首を振り、今度は自動販売機の裏へと回り込んだ。制服のスカートが汚れるのも気にせず、狭い隙間に体をねじ込んでいる。

何なんだ、一体。 宝探しでもしているのか? いや、違う。彼女の表情には、遊びの要素は微塵も感じられない。むしろ、何か切実なもの、使命感のようなものさえ漂っていた。

十分ほど経っただろうか。見附は自販機の裏から、ほこりまみれになって出てきた。その手には、何も持っていない。どうやら、今日の「探索」は空振りに終わったらしい。彼女は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐにいつもの太陽のような笑顔に戻ると、制服の汚れを手で払いながら、雑踏の中へと消えていった。

残された俺は、言いようのない感情に包まれていた。 苛立ち。困惑。そして、ほんのわずかな――好奇心。 彼女は何を探している? そして、なぜ、あんなにも真剣な顔をしている? その疑問は、鉛のように重く、俺の心に沈殿していった。

その翌日も、翌々日も、俺は見附の「奇行」を目撃することになった。 ある時は、公園のベンチの下を這うようにして覗き込み。 またある時は、駅のホームのゴミ箱の横で、何かを拾い上げてガッツポーズをしていた。 彼女の行動範囲は神出鬼没で、法則性を見出すのは困難だった。ただ一つ言えるのは、彼女が常に「何かを探している」ということ。そして、その対象は、地面に近い、低い場所にあることが多いということだ。

俺は、いつしか放課後に彼女の姿を探すのが、半ば日課のようになっていた。もちろん、直接声をかけるつもりなど毛頭ない。ただ、遠くから観察し、彼女の行動を分析するだけだ。まるで、未知の生物の生態を調査する研究者のように。

「最近、よく会うな」

金曜日の放課後。図書室で本を返却した帰り、廊下で雨宮玲奈に呼び止められた。

「そうか?」

「そうだよ。昨日も駅前で見かけたし。……もしかして、あんたも千明のこと、心配してるの?」

玲奈が、探るような目でこちらを見る。俺は、心臓が小さく跳ねるのを感じた。

「別に。あいつがどうなろうと、俺には関係ない」

「ふーん。まあ、心一はそういう奴か」

玲奈は納得したのかしていないのか、曖昧な返事をすると、窓の外に視線を移した。 「でも、本当に心配なのよ。あの子、昔からそう。何かに夢中になると、周りが見えなくなっちゃう。最近探してる『それ』が、あの子にとって良いものならいいんだけど……」

その言葉は、俺の胸に小さな棘のように引っかかった。 見附が探している「それ」は、一体何なのか。 玲奈は幼馴染として、何かを知っているのだろうか。

「何か、心当たりがあるのか」

俺が尋ねると、玲奈は少しだけ驚いたように目を見開き、それから悪戯っぽく笑った。 「おや、関係ないんじゃなかったの?」

「……ただの知的好奇心だ」

「はいはい。……心当たり、というか。あの子は昔から、『探し物』が異常に得意だったの。私が失くした大事なキーホルダーを、誰も知らないはずの場所から見つけてくれたこともあった」

「……偶然だろ」

「そう思うでしょ? でも、あの子の『見つけた!』って時の顔を見てると、ただの偶然じゃないって気がしてくるのよ。まるで、そこにそれがあるって、最初から分かってたみたいな……そんな顔」

玲奈の言葉は、まるでオカルト話のようだった。 あり得ない。透視能力か、ダウジングか。そんな非科学的なものが、存在するはずがない。 だが、脳裏には、雨の中でライターを拾い上げた時の、あの見附の嬉しそうな顔が蘇る。

俺は、何かを言い返そうとして、しかし言葉を見つけられずに黙り込んだ。 俺の築き上げてきた、論理と理性で固められた灰色の世界。その壁に、見附千明という存在が、小さな、しかし無視できないヒビを入れ始めているのを感じていた。

そして、その亀裂が決定的なものになる出来事が、すぐそこに迫っていた。

その日の帰り道。俺はいつもより少しだけ遅い電車に乗るために、急ぎ足で駅へと向かっていた。空は相変わらず分厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだ。 駅前のロータリー。バスを待つ人の列、迎えの車、客待ちのタクシー。雑多な人々が行き交う中、俺の目は、自動的にある一点を探していた。 そして、すぐに見つけてしまう。 ロータリーの中央に設置された、大きな時計塔。その下の植え込みで、見附千明が、またしても何かを探していた。 もはや、驚きはない。それは日常の風景の一部として、俺の中にインプットされつつあった。 やれやれ、と俺は彼女を視界から外し、自分の目的地である駅の改札へと向かおうとした。

その時だった。

「――あっ!」

背後で、切羽詰まったような少女の声がした。 振り返ると、俺の数歩後ろを歩いていた女子高生が、自分のカバンの中を探りながら、慌てた様子で立ち止まっている。

「どうしよう、ない……!」

半泣きになっている彼女の視線の先、その足元には、一つのキーホルダーが転がっていた。人気キャラクターのマスコットがついた、ありふれたものだ。おそらく、カバンから落ちたのだろう。 俺は、教えるべきか、無視するべきか、一瞬だけ迷った。だが、俺が行動を起こすよりも早く、風のような速さで駆け寄ってくる影があった。

見附千明だ。

彼女は、まるで最初からそこに獲物がいると知っていた狩人のように、一直線に女子高生の元へとやってきた。その瞳は、獲物――キーホルダー――にまっすぐに注がれている。

「あの、これ……」

俺が声をかけるよりも先に、見附が女子高生の足元にしゃがみ込んだ。その動きには、一切の無駄がない。

「あった!」

泥だらけになるのも厭わずに伸ばされた白い指が、アスファルトの上のキーホルダーを、まるで宝物でも拾い上げるかのように、そっとつまみ上げた。 そして、顔を上げた見附は、落とし主である女子高生に向かって、太陽みたいに笑った。

「これ、落としましたよね?」

「あ……はい! すみません、ありがとうございます!」

女子高生は、何度も頭を下げながらキーホルダーを受け取る。見附は「どういたしまして!」と快活に言うと、満足そうに頷いた。 その一連の流れを、俺は呆然と見ていた。 まるで、手品を見ているかのようだった。 いや、違う。彼女の目には、俺たちには見えない「何か」が見えているのではないか? 玲奈の言葉が、脳内で反響する。 ――まるで、そこにそれがあるって、最初から分かってたみたいな。

女子高生が去った後、見附は立ち上がり、制服についた汚れをパンパンと払った。 そして、その視線が、不意にこちらを向いた。 目が、合った。

数メートル先の距離。彼女の大きな瞳が、真正面から俺を捉える。 驚いたような、少しだけ気まずそうな、複雑な色がその瞳に浮かんでいる。おそらく、俺がずっと彼女の行動を見ていたことに、今、気づいたのだろう。 心臓が、ドクンと大きく鳴った。 まずい。 まるでストーカーだと思われたかもしれない。 何か言わなければ。弁解を。いや、そもそも、なぜ俺はここに突っ立っているんだ?

思考が、ショートする。 俺が何か言葉を発する前に、見附はふわりと、困ったように笑った。 そして、小さく会釈すると、くるりと背を向け、雑踏の中へと駆け出していった。 まるで、何もかもを見透かしたような、そんな笑みだった。

一人、その場に取り残される。 周囲の喧騒が、急に遠い世界の音のように聞こえた。 胸の中に、嵐のような感情が渦巻いていた。 困惑。不信。恐怖。そして、それらすべてを凌駕するほどの、強烈な――好奇心。

見附千明。 あいつは、一体何者なんだ?

降り始めた雨が、俺の火照った顔を冷やしていく。 俺の退屈で、秩序立った、灰色の日常。その世界に、決定的な亀裂が入った瞬間だった。 これから始まる、理解不能な物語の、長い長い序章。 その幕開けを告げる雨は、まだしばらく、降り続きそうだった。

 

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