井戸覗き
昭和六十年、晩秋。
山陰地方の限界集落に向かう山道を、篠崎直樹は重い足を引きずりながら登っていた。民俗学を専攻する大学院生である彼は、指導教授の机から偶然見つけた古い論文に導かれていた。戦前に書かれたその論文は、この地に伝わる「井戸覗き」という奇習について記してあったが、肝心な部分が水濡れで消えていた。教授は理由を語らず、その論文を封印していたという。
三時間の登山の末、ようやく集落が見えてきた。それはもはや廃村に近く、十数軒の藁葺き屋根のうち、人が住んでいる気配があるのは三、四軒だけだった。
集落の入り口にある雑貨店を訪ね、七十を超えた老人に尋ねた。
「井戸覗きについて、お聞きしたいのですが」
老人の顔が曇る。
「あんた……あの井戸のことを知りたいのか。やめときなせえ。戦後すぐに禁じられた。覗いた者は、必ず消える」
「なぜです」
「底なし井戸だ。石を落としても音が返ってこん。昔から封じておるが、蓋も縄も、夜になれば勝手に外れる。村のもんは近づかん」
老人は山の上の神社を指差した。
「あの裏手にある。だが、行くな」
直樹は礼を言い、警告を無視して神社へ向かった。
神社は朽ち果て、裏手には封印された古井戸があった。蓋には御札と注連縄が幾重にも巻かれ、まるで中から何かを封じ込めているようだ。
辺りを確認し、直樹はそっと縄を外し蓋をずらす。覗き込んだ井戸は底が見えず、冷気が骨の芯まで染み込んだ。小石を落としても、音は返らない。やがて底から青白い光が揺れながら上がってきた。
それは内側から光る水だった。水面が異様な速さで迫り、直樹の顔を映し出す――腐りかけた、自分の顔だ。
慌てて蓋を戻し、注連縄を締め直すと、心臓は早鐘のように打っていた。
日も暮れかけ、唯一の宿に駆け込む。出迎えた初老の女主人は、直樹を見るなり低く言った。
「あんた、覗いたね。……目が変わってるよ」
差し出された鏡には、瞳孔の開いた自分の目。白目には血管が網の目のように浮かんでいる。
「それは井戸覗きの印だ。見ちまったら……水に呼ばれる」
女主人は多くを語らなかった。ただ、夜は戸を開けるな、井戸には絶対近づくなと言い残した。
しかし、真夜中。
全身が水に浸かっているように冷え、異様な渇きに襲われる。台所で水を飲むが、腐臭を放つ濁った液体が喉を通らず吐き出される。家中の水が同じように濁り始めていた。皮膚には水泡が浮かび、毛穴から冷たい水が滲む。
『おいで……』
女の声が耳元で囁く。甘く、誘うように。
気がつけば神社の裏、封印が外れた井戸の前に立っていた。中から青白い光が溢れ出す。
水面に浮かんでいたのは、長い黒髪の若い女。半分は生きた顔、半分は腐敗した顔。
『三百年前、私は生贄にされた。雨を乞うために井戸に落とされた。水と一つになった私は、一人が寂しい……だから仲間を呼ぶの』
白く細い手が水面から伸びる。指の間には水かき、爪は鱗のようだ。
『来て……水の中は苦しくない。永遠に一緒にいられる』
直樹は吸い寄せられるように手を伸ばす――
「馬鹿者!」
背後から強く引かれ、振り返ると女主人が数珠と御札を手に立っていた。札を水面に投げると激しく沸き立ち、女の悲鳴のような音と共に水が引いていく。
宿に戻ると、女主人は厳しい顔で言った。
「あんた、もう半分水だ。……助かる道は一つだけ。身代わりを捧げること」
直樹は首を振る。誰かを犠牲にして生き延びる気はなかった。
その瞬間、全身から水が噴き出し、人の形を保てなくなっていく。
「せめて……楽に逝かせてやる」
女主人は直樹を抱え、井戸へ向かった。
蓋は開き、中で女が微笑む。
『もう苦しまなくていい』
だが、井戸の底には無数の顔――過去に沈んだ者たちが、永遠に溺れ続けていた。その中には、女主人の娘の顔もあった。唇は「逃げて」と動いている。
直樹は離れようとしたが、もう遅い。完全に水と化した体は重力に引かれ、井戸へと流れ込む。
沈む直前、理解した。
井戸覗きとは呪いではなく、水の循環の一部。人の七割は水、その水が故郷へ還るだけ。井戸はその入口なのだ。
抗えぬ約束――太古に生命が海から生まれた時に交わされた。
翌朝、井戸の前には人型の水溜まりが残っていた。やがて蒸発し、何も残らない。井戸からは冷気と微かな声。
『おいで……永遠に……』
数日後、東京の大学では篠崎直樹の失踪が騒がれていた。教授は彼の研究ノートを閉じ、雨空を見上げる。
降る雨は地に染み、川へ、海へ、そしてまた雲に。永遠の循環。
その中に、直樹も巡っているのかもしれない。
雨音が、無数の声のように研究室に響いていた。
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