聖女の加護は旦那様にしか使わせません
3/24 間違った意味の箇所を修正しました。それに合わせて若干の加筆をしています。ご報告ありがとうございます。
その変化は、ゆっくりだけど確かにあった。
例えば、壊れものを扱うように優しく触れてくれる手を、何も疑うことなく受け入れられるようになってから。
草木が水を吸うように心が温かい感情で埋め尽くされていくのを、理解できてから。
もしかして、という疑問と思いは、その表情一つで解決するのだと知った。
だから今、私の胸を満たすこの感情に名前を付けることを、もう怖がらなくていい。
「……愛しています、旦那様」
◇◆◇
「お前の婚姻が決まった」
年に一度、顔を合わせて叱責を受けるだけの存在を果たしてそう呼んでいいものかは分からない。けれど、この人を他にどう呼んでいいのかも分からない。
お父様から告げられた決定事項に、ぐにゃりと一瞬視界が歪んだ。
我が家は、聖女の血筋だ。それも直系。血を守るという言葉は絶対で、血筋にあって聖女の力を思うように発揮できなくなった私は、この家にとってお荷物。
「……謹んでお受けいたします」
これしか、返せる言葉はない。揺れる視界を誤魔化すように、お父様に向かって頭を下げる。途端に飛んできた甲高い笑い声には、いつものように嘲りが含まれている。
「やっとお義姉様にも価値が出ましたのね! それで、どちらに嫁ぐのですか?」
ケラケラ笑う義妹は、わざとらしく自分のおでこを撫でている。そこには、花のアザが──聖女の印がある。
食事を終わらせてナプキンで口元を拭っているようだけれど、それでもにやりと弧を描く唇を隠しきれていない義妹は、内心勝ち誇っているだろう。年々おでこのアザが薄れていく私を笑っていたのだから。
同調するように頷いている義母は勝ち誇ったように私を見下している。私がこの家からいなくなることで、お母様の影がなくなるからだろう。そんな顔をしなくても、お父様は聖女の印がぼんやりとしか出ていない私のことなど、家の存続のための駒としか思っていないから心配など不要なのに。
「隣国の騎士の一人だ。さあ、荷物をまとめなさい」
「お義父さまぁ~? それって今すぐってことですの?」
「ああ。そうだ。明日の朝に迎えが来る。鞄は一つだけ持ち出すことを許そう」
今は夕食。そして私が持っている鞄には、十分な荷物など入らない。それを、私以上に分かっているのは義母と義妹だ。私の部屋にあった衣装やアクセサリーなどを持ち出したのは、二人だから。
こうなることを見越して鞄一つだけを残していたのであれば、義母と義妹はとんだ策士だ。実際のところ、宝石の一つも飾られていない古ぼけた色の鞄は、二人のお気に入りではなかっただけ。
「それでは、私は準備をしますね。失礼いたします」
私の夕食が用意されていないとか、服が義妹よりも義母よりも、もしかしたらメイドよりも着古しているものだということも、もはやどうでもいい。
私の結婚が決まったことだって。顔も知らない相手との結婚よりも、ここから出れる。それがただ嬉しかった。
「カトレア様ですね。お迎えに上がりました」
「はい、よろしくお願いいたします」
あわよくば、とでも思っていたのだろう。いつもだったらベッドの中にいるはずの義妹と無駄に着飾った義母、そして外聞を気にしているお父様が揃っていた。
家族揃って出迎えたのに、結婚のために家を出る私には一言も声をかけようとしないことにお迎えに来た使者様はわずかばかり首を傾げていたけれど、そこを追及するのは彼の職務外の事だ。不興を買わないようにだんまりを貫くのが、この場では正解。義妹が何か言い出す前に出て行きたい私にとっても。
結局、最後の言葉を交わすこともないまま、私は生まれた家を出て知らない国の知らない人と結婚するための馬車に乗り込んだ。
◇◆◇
「カトレア・サンクーラ嬢ですね」
出迎えてくれたのは、壮年の男性。背筋をしゃんと伸ばした姿勢から年齢を感じることはないけれど、目じりと手に刻まれた皺が確かに生きた年月を物語っている。
「はい」
「お待ちしておりました。長旅、お疲れでございましょう。荷物はこちらでお預かりいたしますので、どうぞごゆるりとお休みくださいませ」
私を屋敷に案内している後ろで、ここまで一緒だった馬車の御者さんが、男性に耳打ちをしていた。三日ほど一緒だった間に気づいた、私という人物についての話でもしているのだろうか。
普通の貴族令嬢でも馬車一つ分くらいの荷物はあるだろうし、私は聖女の血筋。この後に荷物を積んだ馬車が続々到着するものだと思っていたのだろう。
実際は、私が今この手で持っている鞄一つしかないのに。
「お気遣いいただきありがとうございます。ですが、私の荷物はこちらだけです。待機していただいた方々には申し訳ありません」
大きな屋敷に相応しい人数で出迎えてくれた上に、来るはずのない荷物を待たせるのは申し訳ない。使用人の方々には明らかにざわめきが広がったけれど、ずっと待たせてしまっては仕事にも差支えが出るだろう。視界いっぱいに広がる屋敷、その掃除の時間を考えただけでため息が出そうになる。
不審な顔を上手く隠した男性が、私のために用意してくれたという部屋に案内してくれた。
「主人は、皇帝陛下と謁見しておりますため、本日は屋敷を留守にしております。おそらく、帰りは明朝になるかと」
「分かりました。案内、ありがとうございます」
「ご希望の時間で夕食をご用意いたしますので、そちらのベルで外の者にお伝えください」
男性が出て行ったあと、ぐるりと部屋を見渡してみる。私の好みなど知らないはずなのに、こんな居心地の良い部屋を準備できるのだろうか。ふわふわのベッドにはほんのりと花の香りが漂っている。過不足ないようにと準備されただろう家具はどれも新しくて、触ることを躊躇してしまう。
それでも休息を求めている体は、ふらふらとベッドに吸い寄せられてしまう。真っ白なシーツを汚したくなくて、ベッドの縁に寄りかかって目を閉じた。
「おはようございます、お嬢様……」
「おはようございます」
「……何をなさっておいでか、お伺いしてもよろしいでしょうか」
コココン、と短く早いノックの後、私の返事があるかどうかのタイミングで開かれたドア。昨夜は結局、夕食のためのベルを鳴らすことなく寝てしまったので、心配をかけてしまったのだろう。
いつもなかったので、夕食の用意は不要ですと伝えないと。
「何って、部屋の掃除と荷物の整理ですけど……」
もちろん、準備されていた部屋に不備があったわけではない。ただいつもと同じ時間に目を覚ましたらやることがなかっただけだ。荷物の整理だって、昨日そのまま眠ってしまったから手つかずだったけれど、そう手間取ることなく終わってしまった。せめて私が使った箇所の汚れを残さないように、と掃除していたら昨日の男性がやって来たというわけだ。
「騒がしいな、ルーエン?」
「フェルミエ様! おかえりなさいませ」
「ああ。帰った。それで、何の騒ぎだ?」
さてどうしようか、という空気がお互いに流れているのは感じたけれど、それをどうにかする術は私にはない。あの人たちにするようにへらりと笑っておけば、この場は乗り切れるだろうか。
そう思っていたのに、部屋の目の前に立っている男の人はどうやらこの場を逃してくれそうになさそうだ。
褐色の肌に深みのある藍色の髪、私へ強い視線を向ける瞳は夕焼けのようなオレンジ色。鍛えていることが分かる体つきから見て、この男の人が私の“旦那様”になるのだろう。
整った顔立ちにしっかりとした体躯を持っている彼は、きっと義妹の好み。この場にいたらそっと体を密着させるくらいはやりそうだ。婚約者もなく、社交に出ることもなかった私にはそのやり方は出来そうにないけれど。
「あ、あの……昨日からこちらでお世話になっている」
「ミースガルド国の聖女か」
すっと見下ろすように動かされた瞳に映る私は、どう見えているのだろうか。生きる力に満ちているオレンジ色の宝石の前では、きっと私の蒼などその辺に転がっている小石のようにしか映らない。
「え、あ、はい。え、っと……」
「長旅の疲れも癒えぬところだとは思うが、これから皇帝と会ってもらいたい。ルーエン、メイドを何人か準備に回せ」
「かしこまりました」
私の返事を聞くことなく部屋を出て行った“旦那様”と入れ替わるように入ってきたメイドに、男性はあれこれと指示を出す。
その中には私の準備も含まれていたのだけれど、“旦那様”の名前はフェルミエ様というのだ、ということから、この屋敷の誰の名前もまだ知らないということに、ようやく思い至った。
◇◆◇
「お前が聖女か」
「……はい」
ランドセン帝国。近年、急激に勢力を伸ばしている国だという話から、皇帝陛下はどれほどのやり手なのかと思っていたのに、目の前に座っているのはおそらく、ミースガルドの王の半分ほどの年齢の青年。そう、まだ青年と呼んでも差し支えない見た目なのだ。
「そう固くなるな。なにも取って食おうなど思っていない。ただ、隣の国が盲信している聖女とは、どのような存在なのかが気になってな」
値踏みするわけでも蔑むわけでもない、ただ私という存在を見ようとまっすぐにこちらを見る視線は、今までミースガルドでは感じたことのなかったもの。
そういえば、私もランドセン帝国の事は隣国、としか知らなかった。知らない土地、知らない人から向けられる視線に出来損ないの聖女という感情は含まれていないことが、少しだけ緊張をほぐしてくれる。
「我が国には、聖女と呼ばれる存在の記録がない。ゆえに貴国での待遇には及ばないところも多々あるだろう。こちらとして出来うることをさせていただいたつもりなのだが……」
申し訳なさそうに目を伏せている皇帝陛下と、同じような表情をしているフェルミエ様。ああ、そうか。このお二人だけでなくこの国の誰もが、聖女というのだからおそらく大切に扱われていたのだと考えてくれているのだろう。
聖女の印もわずかにしか残っていない力の弱い私だから、こうして物のようにこの国に送られているのだとは知らないままに。
「いえ、あの……発言を、お許しいただけますでしょうか」
「ああ。どんなものでも受け止めよう」
あ、やっぱり勘違いをされていらっしゃる。
もしかして私がベッドを使わずにいたことも報告されているのかもしれない。あのベッドは私を休ませるに充分ではないと思わせてしまったのなら、それは大きな間違いだ。
その間違いを正す機会は、これがきっと最初で最後。
「私は、その……この国の騎士様に嫁ぎに来たのですが」
お父様から言われた言葉に、義母も義妹も、何の疑問も持っていなかった。むしろそれが当然のような態度だったのから、ミースガルドにとってはそれが正しい認識だった、はずだ。
ランドセン帝国のお二人は、ピシッと音を立てるように固まってしまったけれど。
学の浅い私には、どちらが正しいのかを判断できない。そのまましばらく待っていたら、頭の上からそれはもう深い、深いため息が降ってきた。
「おいリオン、お前そんなこと要求したのか」
「してないしてない! だいたい、俺もう奥さんいるから! 騎士って言ってるんだし、お前だろうフェル!?」
ぐいぐいと皇帝陛下の頭を下げさせようとするフェルミエ様と、その手を押しのけながら否定の言葉を口にする皇帝陛下。
その姿が嘘だとは思えない。と、なるとミースガルドの王が伝えた言葉がお父様に正しく伝わらなかったのか、それとも王自身が違う意味で取ったのか。
どちらにしてもこうして、馬車で三日はかかる場所に来てしまった私には確認できるはずもないし、手紙を送ろうにも一国の王に個人的な伝手などない。
それを考えるよりも先に、目の前のお二人が繰り広げている攻防を止めなければ。
「あの……」
私の声は届くのだろうかと恐る恐るだったけれど、一言呟いただけでお二人はピタッと動きを止めた。
「すまない、サンクーラ嬢。貴女を置いて話を進めてしまった。攻撃を仕掛けてきた貴国、ミースガルドには一刻も早く侵攻の手を引き、被害を受けた民の治療のために聖女の派遣をと望んだのだが」
「そう、だったのですか」
隣国に攻撃を仕掛けていたことも、それによって被害を受けた方々がいることも衝撃だったがそれ以上に、ミースガルドの王が事実を曲げていたことがショックだった。そう思える程度にはあったはずの国への愛着は、この瞬間に砂のように崩れていってしまった。
「だが、今の話と貴女の状況を見る限り、情報にすれ違いがありそうだ。お互いの知っていることをすり合わせたいのだが、構わないだろうか?」
「もちろんでございます、皇帝陛下。私の知っていることなど僅かかもしれませんが」
「それを決めるのは皇帝だ。サンクーラ嬢は、話を聞かせてくれたらいい」
「カトレア、で構いません。その、サンクーラは聖女の血筋を表す家名ですので、たくさんいて……」
フェルミエ様がすっと膝を折り、私と目線を合わせてくれる。それに続くように皇帝陛下が玉座から降りてくださった。
慌ててそれを制止しようとしたけれど、私の左手はフェルミエ様がしっかりと握っているので簡単には動かせない。結局、私の右手は何の意味もない動きをしただけで、皇帝陛下の行動を止めるまでには至らなかった。
「分かった。カトレア嬢。今後のための話をしようか」
流れるようにお二人に手を取られてエスコートされた先には、きらきらと輝くようにセッティングされていたテーブルに、あふれんばかり用意されていた軽食。
そのなかのひとつを無造作に取り口に含みながら笑ったリオン様の表情は、まさしく皇帝陛下にふさわしいものだった。
◇◆◇
「カトレア」
「フェルミエ様」
声に硬さと温度をつけるのならば、やわらかく、そしてとてもあたたかい。向けられることに戸惑っていたその声に、怯えなくていいと教えてくれたのはフェルミエ様と、この国だ。
「我が国の“聖女様”へ、贈り物だ」
フェルミエ様の腕からこぼれそうなくらいの花束は、私の髪色に合わせたように淡いピンクの花でまとめられている。渡された時に届いたふわりと甘い香りに、この花束を作ってくれた人の気持ちごと受け取れた気がして、嬉しくなってしまう。
花束を潰さないように、なんて言いながらフェルミエ様は私の背中から抱きしめてくれる。私がぬいぐるみになったような気持ちになるのは、頭一つ分違う身長差のせいだろう。
「あの時の皆様からですね。もう一年近く前なのに、毎月いただいてしまって申し訳ないわ」
「それだけ君に感謝しているのだろう。あれだけの民と兵士たちを休むことなく癒してくれた聖女に」
ミースガルドから受けた被害は、リオン陛下が簡単に口にしていたよりも悪かった。聖女の派遣を求めていたということを深く考えれば分かったけれど、そうさせなかったのは私に責任を負わせたくないという心遣いだったのだと。
私の力が役に立つのだったらいくらでも、と無我夢中だったからあの時の事を実はよく覚えていない。
ただ、時が経ってもこうして贈り物を頂くくらいには役に立てたのだとは思っている。
「フェル様」
「ふふ。分かっている。これはルーエンに預けておくよ」
分かっているといいながら、私の首筋に降ってくる柔らかい感触は止まらない。くすぐったくてすぐに笑ってしまうから、外では止めて欲しいとずっと言っているのに。これに関しては私の言い分を聞いてくれそうにない。
「先日、ミースガルドより使者が来たぞ。どうやら、国の運営が芳しくないようだ。君という聖女を差し出したのだから、援助する義務があると声高に主張していたようだが」
首筋へのキスが止んだと思ったら、髪を指に絡ませて遊び始めたフェルミエ様。ちらりと上を見れば、疲れたように眉間にしわが寄っていた。そうさせているのは、間違いなくミースガルド国への対応。
私が生まれ育った国が迷惑をかけているのは、本当に申し訳ない。お腹に回されていたフェルミエ様の手に重ねた私の手に、そっと意識を集中する。
「もちろん、リオンが断っていた。彼らには恥と学習能力というものがないらしい」
「そのようですね。私が一番力のない、名前だけの聖女だと言っていたのは、あの国だというのに」
力が届いたようだ。フェルミエ様の眉間から皺が消えて、オレンジ色の瞳が優しく細められる。
血筋だけで聖女としての力がない出来損ない。そう蔑まれていた私に力があると知ったのは、ランドセン帝国に来てからだ。
ただの擦り傷しか治せなかった私が、日を追うごとに癒しの力が強くなったことに最初に疑問を持ったのは、フェルミエ様だった。それからリオン陛下と一緒に過去の記録を探し出し始めて知ったのは、聖女の血筋の私には、あえて伝えられていなかったこと。
力の強さを知っていた始まりの聖女様には、その力を悪用されないようにわざと国の王に伝えていなかったことがあったのだ。
それは、聖女を大切に育み愛さなければ、力はやがて消えてしまうということ。ミースガルド国にいた時の私に、満足な力がなかったのはこれじゃないかとフェルミエ様とリオン陛下が教えてくださった。
自分の国が怪しくなったらまず逃げ込むのは近隣の国だろう、と目星をつけて遺されていた聖女の日記は、役に立っていないことを願うと終わりに書き記されていた。
かつてこの地にあった国の王が代々受け継いでいたその日記は、巡り巡ってランドセン帝国で保管されていて、残念なことに役に立つ機会が来てしまった。
「……未練は、ないのか」
「今の私に後悔することがあるのならば、それはあなたの手を取れないことです。フェルミエ様」
握り返してくれる手にとんとん、と軽く合図を出して上を向く。唇が触れてしまいそうな距離にあるフェルミエ様の夕焼け色の瞳には、笑顔の私がよく映っている。
するりとフェルミエ様が撫でる私の首筋には、大輪の花が咲いている。私は道具を使わなければ見られないけれど、誰に聞いても褒められる美しい花が。
「ああ。俺もだ。カトレア、この国に来てくれてありがとう。これからも、共に」
「私も同じ気持ちです。……愛しています、旦那様」
だから、これから私の聖女としての加護は全て、この国と旦那様のために。
たくさんの評価をありがとうございます!
短編のなかではありますが、日間に自分の名前があることが嬉しすぎてスクショしました。
全ては読んでくださった皆様のおかげです!