異世界最強の巫女〜不本意ながら彼女が最強となったわけ〜
『まもなく1番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ちください』
駅の案内放送に、携帯から目の前に意識を戻した。
昨夜遅くに送られてきていた、今日こなすべき業務の内容メールに目を通していたのだ。
本当は昨夜メールが届いた時に、着信音でそのメールに気づいていた。だけど表示された相手の名前を見て、その時は敢えてメールを開かなかったのだ。
『こんな深夜は仕事の時間ではないし、見たら絶対眠れなくなるヤツだ。そんな危険なものは、明日の朝電車の中で見ればいい』
そう思って先ほどまで放置していたものだった。
『とりあえず電車に乗ってから続きを読もう』
そう思いながら顔を上げた先に、1人の女の子が目に留まった。
「……」
何か様子がおかしい。
電車の到着を待つ行列と行列の間を、緩慢な動きで線路に向かって進んでいる。
そして、彼女が向かっているそこは、電車の扉が開く場所ではない。
その子の顔を見ると、顔色は青白く、目に力がない。
目の前が見えているのかも怪しい様子だ。
『あ、これやばいヤツだ』
瞬時に状況を悟る。
最近特に電車での人身事故が多いように思う。
仕事に向かう朝早い時と、仕事帰りの夜遅い時間。
1日にこの2回しか電車に乗っていないにも関わらず、事故の遭遇率は高い。
特に朝の通勤通学時間帯に当たる事が多く、『これから始まる一日を受け入れられない人が多いのだろう』と電車の遅延を告げる放送を聞くたびに、やるせない気分にさせられていた。
仕事で落ち込んでいる時などは、特に心に重く響く。
自分だって仕事に行きたくないと強く思う日もある。
知らない誰かであっても、絶望の縁にいる人がいる事実に息苦しくなってしまうのだ。
流石に目の前での事故を見たことはないが、きっと人生に絶望している人は、そんな目をしているはず。
『彼女を止めなくては』
そう思うが体が動かない。
『彼女を止めてあげて!』
そう叫びたいが、喉が貼りついたように声が出ない。
口からヒューヒューとおかしな息が漏れるだけだ。
電車がホームに入ってきた。
彼女の足は止まらない。
通勤ラッシュ時の今は、周りに多くの人がいるというのに、皆携帯しか見ていない。皆視線が下に向いている。
誰も彼女に気づいていないのだ。
彼女の足は止まらない。
彼女がホームから落ちてしまう。
電車が視界に入る。――もう間に合わないの?
お願いします!神様。
どうか彼女の足を止めてください。どうか彼女に誰かの手を伸ばしてください。
このままではあの子の人生が終わってしまいます。
それは学校の制服を着たあの子には早すぎます。
今耐えられない辛い事があっても、それはいつか過去になるもので、必ず今に終わりはあるし、解決方法もどこかにあるはずなんです。
ずっと続くものではないと、逃げることも出来ると、必ず希望が見える時が来ると教えてあげてください。
お願いします。
あの子を助けてあげてください。
――もし。もしここで助ける事が出来ないなら、あの子が幸せに過ごせる所へ今すぐ連れて行ってあげてください。
こんな事故は、どこかにある異世界へ繋がっていると聞いた事があります。
そんな世界があるなら、そこに彼女を連れて行ってください。ここが辛いなら、そこで幸せを見つけるチャンスを彼女に与えてください。
お願いします。神様!!
ああもう電車が彼女に触れるところまで近づいている。
もう間に合わない。
立ち尽くすだけで私は何も出来なかった。
信仰心のない私の祈りは、誰にも届かなかったのだ。
ギュッと目を閉じる。
こんな酷い現実を見れる訳がない。
無力な私もどこかへ消えてしまいたい。このまま何も無かったように、これからを過ごせるはずがない。
身体が急激にキンと冷える。
目を固く瞑る自分に見えるのは闇だけだ。痛いくらいの静寂の中で、ハッハッと自分の浅い息だけが聞こえる。
随分時間がたったように感じた。
人は危険が迫った瞬間、まるで時間が止まったかのようにスローモーションで時が進むという。
私の今の状態もそうなのだろうか。
…身体はまだ固く強張っているが、少し動かせる気がする。
恐る恐る目を開けてみた。
「…………」
言葉が出ない。
目の前に広がるそこは、綺麗な花々が咲き乱れた平原だった。
「……え?」
私は確か家の最寄駅のホームに立っていた。
これから満員電車に乗って会社に向かうところだ。
今日はこなさなければいけない業務が山積みなのだ。昨日届いた業務指示メールも、まだ最後まで目を通せていない。
呆然と立ち尽くしていると、突然綺麗な声で話しかけられる。
「気がついた?おめでとう。あなたがこの世界の巫女に選ばれたのよ。これからはこの世界で、幸せに暮らしてね。」
「……え?」
言われている事がよく分からない。
「あの、どちら様でしょうか?」
「私はこの世界の女神よ。あなたの祈りの力に引かれて、あなたを見つける事が出来たのよ。とても強い祈りだったわ。……今まで辛い思いをして来たのね。もう大丈夫よ」
「………」
言葉を返すことも出来ないまま、女神を名乗る彼女を見つめる。
神々しい光を纏った、足首まで届く髪。顔立ちは美しく整い、まるで絵画に描かれる女神のようだ。――実際女神を名乗っているが。
表情は慈愛に満ちており、何もかもを包み込むような寛さを感じさせられる。
女神が言う。
「この世界であなたは祈りの巫女となるの。討伐に出た先で、その強い祈りで魔物を浄化するのよ。そして傷ついた人々を治癒して、この世界に平和をもたらしてあげてね。
そんなあなたを愛する人達をたくさん用意したわ。
王子と騎士、魔法師、それから宰相と隣国の王も付けておくわ。皆んな極上のイケメン揃いよ。ふふ、幸せにね」
「………」
――愛される人が多すぎる。
いやそれよりも。
「あの、女神様。人違いです。この世界を望んだのは私ではなくて、同じホームにいたあの女学生さんなんです。どうか彼女をすぐに助けてください。このままだと彼女の人生が終わってしまうのです」
必死に女神に状況を説明する。こんなノンビリしている時間はないのだ。
「女学生?……ああ!あのホームから落ちそうになった子?」
「そうです!今すぐに彼女を―」
「彼女生きてるわよ」
「…え?」
「ホームから落ちる寸前に、最前列に並んでいた男の子に腕を引かれて助かったわよ」
「助かったのですね…」
力が抜けて座り込む。
良かった。助かったのか。
『これからあの子の運命が良い方向に向かいますように』
そう強く祈る。
「……やっぱりあなた素質があるわね。今の祈りも良かったわ」
よく分からないが褒められたのでお礼を伝えておく。
「ありがとうございます…?」
安心してハァと息をついた時、ハッと気づく。
ヤバい、遅刻だ!
「女神様、そろそろ元の場所へ帰してください。私、今日は仕事が山積みなのです。もし出来るなら、さっきのウチの最寄り駅じゃなくて、上本町駅まで送ってくれると助かるのですが。出来れば地下鉄線じゃなくて、近鉄線の方で。会社がその近くなんです」
女神が少し冷めた目になった気がする。
やはり上本町駅までとなると図々しかったか。…しょうがない。遅刻を受け入れよう。
「あの、すみません。ちょっと図々しかったですよね。最寄りの駅で十分です。よろしくお願い致します」
「あなた何言ってるの?あなたはもうあの世界で仮死状態よ」
「ええ?!」
いやいやいや。それはない。学生さんほどではないが、私は十分若いし十分健康だ。
それは誤解だと口を開こうとした時に女神が話を続けた。
「あなた、あの女学生が電車に轢かれたと思って、心臓発作を起こして倒れたの。あまりの強いショックで、そのまま心臓が止まっちゃったのよ。気づかなかったの?」
「え…?私が…?」
どうやらあの時危険だったのは、彼女ではなく自分だったらしい。
「え、でも。仮死状態ってことは、まだギリギリ間に合いますよね?お願いします。何とかなりませんか?今日私が会社に行かないと、仕事が回らないのです」
女神がふうとため息をつく。
「『自分がいないと仕事が回らない』なんて、傲慢な考えよ。そりゃいた方が助かる人はいるけど、意外とどんな人でも、いなくなっても何とかなるものよ」
「………」
――正論で殴りかかってきた。
確かにそうだ。一会社員の自分がいなくなって傾くような会社ではない。そんな会社であれば未来がないだろう。
「一人暮らしなんです。今日食べないと冷蔵庫のもやしが傷んでしまいます」
「もやしは諦めなさい」
――確かにそうだ。もやしが何だというのだ。
『何しょうがない事言ってるのかしら』そんな呆れた目で女神が私を見てくる。
はあとついた女神のため息に、ビクリと肩が跳ねる。
呆れを含んだその目に、私は焦り出す。
こんな所で見捨てられる訳にはいかない。
ここに置いていかれたら、それこそどうしようもなくなる。
「あの、違うのです。私は本当に何も出来なくて。
ホラーが苦手だから、魔物なんて見た瞬間に気を失ってしまうかもしれません。きっと討伐の邪魔にしかならないです。私はチキンハートなんです」
私の言葉を聞いて、女神は少し考える様子を見せた。
「まあ、確かにそうよね。いきなり魔物に対峙しろと言われても怖いわよね」
――女神の言葉に希望が見える。
「しょうがないわね、魔物は貴女が詠唱を唱えるだけで消滅できるように、あなたの言葉に聖力を込めてあげるわ。文献の中に書かれている文字を読むだけいいのよ。遠く離れた所からでも効くから、もう怖くないでしょう?」
――駄目だった。まだ巫女設定を抜けられない。
「あの、私、お恥ずかしながら外国語が全然駄目なのです。周りはこんなに外国人観光客に溢れているというのに、私は英語だって碌に話せないのです。話すどころか、読むことも怪しいくらいで。とてもじゃないけど、この世界の文献なんて読めません」
――もう自分の駄目な部分を曝け出して、女神に必死に訴える。恥をかくことが何だというのか。
女神ははあと軽くため息をつく。
「しょうがないわね。文献は手を触れただけで詠唱を吸収出来るようにしておくわ。事前に触れておけば、一生効果が続くというサービス付きよ。これで苦労知らずで文献に取り組めるわね」
――まだだ。まだ巫女設定は続くのだ。
巫女の能力推しでは駄目だ。何か他の理由で攻めなくては。
「あ、あの。私はこんな容姿ですし。そんな素敵な方々の隣に立つことなんてできません。そんなイケメン達とは、話す事も目を合わすことも不可能です。そんな身の程知らずにはなれないのです。私には、そんな方々との打ち合わせや討伐の旅なんて無理です。自分の容姿に自信がないのです」
――これでどうだ。
自分の言葉に傷つくが、そんな事を考えている場合ではない。とりあえず女神を思い留まらせなくては。
女神が私の顔を見て、なるほどと納得する。
納得された!!
――落ち込むしかない。
女神に慰めるような声で、優しく声をかけられる。
――その優しさが、傷口を深くえぐってくる。
「しょうがないわね。あなたを綺麗にしてあげるわ。
ええと、顔の大きさを0.8倍にして、骨格は…こんな感じかしら。瞳には2.5倍の目力と、肌には5倍の透明感を与えましょう。髪にも艶を足したほうが良さそうね。ついでにスタイルも直しておくわね。
……ほら、あなたはこの世界一の美女よ」
――全部治された。
以前の私は全否定らしい。
「あの……」
何を伝えたらいいのだ。
女神が呆れの中に、感心を乗せ出した。
「まだあるの?あなた交渉のプロね。流石選ばれし巫女だわ」
「………」
もう何も言えなかった。そして私は悟った。
きっと私には行く以外の選択肢はないのだろう。
――与えられた様々な能力を持ちながら。
「皆んなを待たせすぎよ。そろそろ行きなさい。その扉の向こうには、王子も騎士も魔法師も宰相も隣国の王子もあなたを待ってるわ。さあ」
――多い。多すぎるのだ…
女神は「さあ」と言いながら、少し離れた空間にある扉を指さす。
『もう行く以外の選択肢はない』
私はそう覚悟を決めて、扉に手を伸ばした。
だが開ける事が出来ない。
扉に手を伸ばしたまま動く事が出来なかったのだ。
この扉を開けた途端に自分の世界が変わってしまうのだ。流されるように開けていい扉ではない。
『やはりもう少し時間をもらおう』
そう思って扉に伸ばした手を下ろし、女神の方に向き直る。
「あの―」
言いかけた言葉が止まる。
――女神が怒っている。
にこやかに慈愛の微笑みを浮かべながら、額に青筋が立っている。美人の怒りは迫力があり過ぎる。
どうやらゴネすぎたようだ。
そろそろ行かねばならない。
「あ、では行ってきますね。色々ありがとうございました」
深々と礼をして、『私が立ち止まったのはお礼をするためだ』と印象付けておく。
そしていそいそと扉を開けてその中に足を踏み出した。
こうして私は異世界最強の巫女となった。
詠唱を遠くから唱えるだけで、魔物は瞬時に姿を消す。多くの文献に記録されているその詠唱は、巫女が手をかざすだけで吸収されるものだ。
素晴らしい能力だけではなく、世界一美しい容姿を持った巫女。
そんな巫女はこの世界の有力者達から望まれている。
――それが私である。