後編
ファラは家族というものを知らない。
正確に言うなら両親の顔は知ってはいるが、直接会ったことはない。今どんな生活をしているのかも知っているが、彼らはファラが知っていることは知らない。
なぜならファラが会うのは、いつも夢の中だから。
ファラたち巫女姫は夢で様々な事柄を――未来を視る。
まるでその場に居合わせているかのように視る。
巫女姫は夢占占者とされているが、その手法は特殊だ。
巫女姫たちにとって夢は単なる夢に非ず。
夢は虚実混交。本来、そこから夢を見ている者の願望を見出し、夢を見ている者が見落としていた事や物を探し当てる。読み解き、答えを見出す。だから当然、読み間違えることもあるはずで、読み間違えれば占は外れる。
占いなら外れることもある。普通の夢占の占者であれば当たり前のこと。
だが、ファラたち巫女姫の占いは外れない。
巫女姫の占いは、占いというより未来視。文字通り視るのだ。
(どうして誰もおかしいと言わないのかしらね)
夢の中で――熟練すれば眠らずとも意識を深く沈めることで辿り着けるようになっていく。
ファラ達はそれを夢渡りと呼んでいる。
ファラたちの先祖はリガの小さな片田舎――半農半漁で生計をたてていた村民だった。どこにでもあるような小さな村。どこにでもあるような村だったが、なぜだか村には勘の良い子がぽつぽつと産まれた。
雲の流れを良く読み、天気の崩れを言い当てる。漁を生業とする村では、非常に重宝された。最初はその程度。それがある時、様々なことを見てきたように語り、言い当てる娘が村に産まれ――異能を持つ娘が金になると踏んだ当時の村長たちが領主に売り込んだのが巫女姫の始まり。
そういった異能を持つ娘は途切れることなく生まれ、この館の表には素質を見出された娘たちが集められ研鑽を積んでいる。そんな表の占者の卵たちとは段違いの能力を持ち、唯一「巫女姫」を名乗るのがファラ。
リガの先見の巫女姫と呼ばれる占者はファラで十八人目。本当はもっといるはずだが、正譜に記されているのは十八人。すべてが女性だ。
ファラの力は歴代で最も強いと言われている。
ファラが視た未来は必ず現実のものとなる。
失せ物探しから人の生死まで――。
外れないどころか、未来を入れ替えることができるとすら言われている。
望む未来を引き寄せることができる――それが先見の巫女姫。
たいした領土も持たず、特筆するべき特産品もないリガが、近隣諸国に飲み込まれずに存在し続けられているのは、偏にこの力のお陰だった。異能を示した娘たちを囲い込み、完璧に徹底的に管理し、その力を売って、あらゆる場所へ手を伸ばしてきた。吹けば飛ぶような小国が到底、足元にも及ばないはずの列強諸国と肩を並べ、時に彼らよりも強い立場を誇示してみせることを知っている者は知っている。
警戒し一定の距離を置くか、うまく利用するか――どちらにせよ、リガには安易に手出しするべきではないと多くの者が見做している。
(先見の占者だなんて恥ずかしくてしょうがない)
ファラの偽らざる本音だった。
脇息に凭れながら、ファラは嘆息する。
歴代の村長たちは、巫女姫を――異能を持つ娘たちを統括する者として存在感を増し、権力者と婚姻を結ぶことで更に権威を強めていった。
しかし、同時に長たちは巫女姫の言葉を盲目的に信用することはなかった。彼らは外れることもあり得ると巫女姫の言葉の裏付けをとるための人員を編成した。巫女姫が視るものを視ることができない長たちにとって、どんなに精度が高いものでも夢占はあくまでも夢占に過ぎず、そんな認識の彼らにとっては然るべき手段としての支援だったのだろう。
最初のうちは、まっとうな関係だった。
だが、あるとき長らは思いつく。巫女姫の異能の精度は高い。彼女らの言葉は外れたことがない。これを以ってすれば、未来を思いのままに操れるのではないかと。なにせ結果と要因がわかっているのだ。だとすれば、未来を変えることはできる。
そうして世間一般には当たり障りない占を売り、巫女姫の異能を元手に長らは裏の顔を持つようになっていく。巫女姫の占いの裏付けという名のもとに編成された部隊が、暗殺すら辞さない集団へと変容していった。
行きついた先は、占いを元にした裏稼業。
視た情報を敵方に売る。あるいは、その情報をもとに更に探りを入れる――情報の端を得ることだけでも強味となり得た。ある意味、巫女姫は優秀な間者だった。けっして悟られず、見つからず、相手のことを知り得るのだから。
長らは暗殺を恐れる者にそっと囁く。
悪い未来を差し替えることができますよ、と。
力づくで運命を捻じ曲げて捻じ曲げて、そうしてリガは小国ながら諸国に恐れられる国になった。覇権争いになど興味はないという顔をして、戦などには関わり合いになるつもりはないと言う態度を示して、リガは争いの種子をばらまく。
ファラに客を選ぶ権限はなく、この部屋に招かれるのは長らに選ばれ者だけ。ここでは未来は金銭で贖えるのだ。
ファラたち巫女姫が視た未来は外れることはない。だが今、巫女姫が差し出す未来は、ファラが視たものとは限らない。それが、今のリガの先見の巫女姫の有様。すべてを言い当てるという先見の占者の実態だった。
誰が望む未来か。
この国は長らを中心に一部の人間によって牛耳られ、リガの王など長らの傀儡になり果てて久しい。巫女姫もまた同じ。この流れを変えたいとファラが願っても、現し世でのファラは無力で何も変えることが出来なかった。
セオがリガに攻め込んできた理由――実態を知らないルカリとルリスの姉妹がしきりに首を傾げていたが、それは明らか過ぎるほどに明らかだ。
セオの王は、リガの裏の顔を知って排除しにかかったのだ。
(リガが邪魔だから)
リガの顧客のなかにはセオと対立している国もある。
リガほど厄介で邪魔なものはないだろう。
そう思っている権力者は少なくないはずだが、それぞれに弱みを握られているが故に身動きが取れないらしい。本当に巫女姫の占を神託だと思っている権力者もいるようだが。
(その辺りは情報操作の賜物なのでしょうね)
けれど、やはりというべきか、そんなことには頓着しないのがセオの王。
リガを潰すために動く者がいたとしたら、それはセオの王だとファラはずっと思ってきた。
リガを滅ぼすのは、セオの王だ。
『ファラ、ファラ』
ファラの頭の中に直接響く声があった。
ファラは意識を深く沈める。端から見ればうたた寝しているようにも見える。
沈めた意識のなかで、ファラは一人の女性と対峙する。ファラと同じ年頃の娘。しかし見かけは十八になるファラと近くても、どこか老成した雰囲気が漂う。そばかすの散った顔を歪めて、泣きそうな顔をしているのは最初の巫女姫だ。
不思議なことに、歴代の巫女姫たちは死してなお意識体としての存在を残していた。
彼女たちを視て、言葉を交わすことができるのは巫女姫だけ。
先達たちに見込まれたせいなのか、もっと違う何かの働きかけなのか――判らないが、歴代の巫女姫たちを視ることができるようになると、左手の甲に印が浮かぶ。そうしてファラは先見の巫女姫となった。
『ファラ』
初代以外の巫女姫たちも現れる。
長たちは、この巫女姫たちの存在は知らない。けっして言ってはならないと、まず巫女姫たちに教わるからだ。表向きには恙なく従順なファラの背景にこんなことがあるなどと長たちが知ったなら、どうするだろうかと考えては同じ結論に達する。
(別に何も変わらないわね、きっと)
印持ちが他の異能持ちよりも優れていること――彼らにはそれで充分だから。
(そもそも信じやしないでしょうね)
巫女姫たちはファラに優しかった。厳しい師でもあった。四つの年を迎える前に印持ちになったファラに、いつもいつも寄り添い、様々なことを教えてくれた。ファラは彼女たちに育てられたと言っていい。巫女姫たちの存在を知ることができたが、それこそがファラを世間から隔絶させる根拠となるのだから皮肉なものだ。
『ファラ。城が落ちたわ』
『はい。視てました』
ファラのもう一つの異能。
それは未来だけではなく、今をも視る力。
現在――現し世もまた、巫女姫の庭。夢を媒介に、どこにだっていくことができる。あの部屋に居ながらにして色んな場所へ意識を飛ばし、現し世を覗き視る。意識体の時もファラはファラとしての姿形を保ち、自由に動くことができる。
この現し世に遊ぶ異能を「狭間に潜る」と名付けたのは初代。初代の他にはファラを含めて三人だけ。発現することが稀な個人差が大きい異能。ファラはこれを得意としていた。
『思っていたより時間が掛かりましたね』
そう答えたファラに、初代の巫女姫は顔をくしゃりと歪めた。
『……もうすぐセオが来るわ』
ファラは頷く。
『最期まで一緒にいるわ』
そう言って初代の巫女姫は幼子にするように、ファラを抱きしめる。しばらく、されるがままになっていたファラは、そっとその手を外して意識を浮上させた。
瞼を押し上げ現し世に戻ったファラの耳は一つの音を捉えた。
◇
かつんかつんと音がする。
廊下を歩く音だ。
近づいてくる。
(来る)
ファラは扉を見つめる。
居室の扉が勢いよく開け放たれ、音が形を取る。
甲冑を外した簡易な戦装束の若い男が立っていた。
(あれが、セオの王)
ファラが男の姿を直接見るのは、これが初めてだった。
若き王は、ざっと室内を眺めると躊躇う様子もなく室内に足を踏み入れる。
男の後ろに続く、同じ年頃の男が慌てたように制するが、王は御簾の前へとやってくると、いきなり御簾を斬り払い、御簾の裂け目に手をかけて一気に引き下ろす。
御簾が取り払われ、座ったままファラは真正面から男の顔を見た。
ファラの死神は美しい男の姿をしていた。
「おまえがリガの占者だな」
ファラは小さく頷いた。
「先見の巫女姫かという問いであれば」
先見の占者と言わなかったのはわざとだろうか。なんとなく面白い気分になって、あえて「先見の」と言い直したファラを、セオの王――ニアルは鼻で笑った。それは、未来が視えるといいながら、今の状況に陥っているファラを揶揄したのかもしれない。
「なぜ、逃げなかった?」
質問の意味が解らず、ファラは首をわずかに傾げた。
ニアルの視線を辿り、隠し扉に気付かれていることを悟る。
両者の間の距離は伸ばした腕一本分。見ただけで見破ったニアルに呆気にとられたファラの前で、ニアルはそれを易々と踏み越た。
ニアルが壁のくぼみを蹴りつける。
「隠し扉!?」
ニアルにくっついてきた男――ニアルの右腕であるケルタが動いた壁に声を上げ、ファラに鋭い視線を投げる。すぐ逃げ道がありながら、この場にいるファラに警戒心を剥き出しにしてニアルとファラの間に立ったケルタに、ファラは曖昧に微笑んだ。
もともと、この隠し扉はファラのためのものではない。ファラの上――定期的に訪れる長たちが自分たちのために用意したものだ。
「無理なので」
「近づいては危険です!」
ファラに近づこうとする主を止めようとするケルタを手ぶりだけで制し、じっとニアルがファラを見下ろす。
「なぜ、無理なんだ?」
ファラは自身の服の裾を払った。
「な……!」
ケルタは呟くなり絶句し、ニアルは眉間に皺を寄せた。
「……古い傷だな」
ファラの右足には鎖が、左足の足首には引き攣れた傷跡が残っている。
幼い頃に逃亡させないために足の腱を切られた。それだけでは飽き足らず、片足を鎖で繋がれた。
怯えて泣いて逃げようとするファラを押さえつけていたのはタスマだった。タスマは「姫様のためです」と言っていた。
巫女姫が鎖で繋がれているなど、知るのはリガでもほんの一握り。
知るはずもないルカリとルリスを逃がす時は冷や冷やしたが、うまく裾で隠し通せた。高価な布地をたっぷりと使った衣装にはそんな役割もあるのだ。
けれど、それで鎖を視界から隠せても、ファラに安寧はない。この部屋に繋がれている事実はなくならない。
厚手の敷布を引き、ファラが直に座っているのは椅子に長時間座り続けることが身体的に辛いからだが、他方でファラが身動きしたときに鎖の音がしてしまうのを隠すため。
鎖が繋がる足環は溶接されていて切れ目も鍵もない。
鎖を切ることなどファラにはできやしない。
ファラにとって生身の現し世は、この部屋だけ。
目の前の二人には別に隠し通す必要もなかったが、こうも早く見せるのはいささか不本意だった。
ニアルが腰の剣を抜いた。
ファラはそれを静かに見つめていた。
なにひとつ詰問されないのは意外だったが、セオの王は元凶の大元に「巫女姫」がいると確信しているのだから、問いかけなど必要ないのだろうと思い直し、少しでも落としやすいようにと俯き、自身の首の後ろを晒す。
「え……?」
思ったところに衝撃は訪れず、ファラは茫然とする。
「なぜ?」
ファラの足を捕らえる鎖を斬ったニアルが面倒くさそうに、剣を鞘におさめた。
「最期だ。望みがあるか?」
ファラは思わぬ問いかけに眸を揺らす。一瞬、口を開きかけて、ゆっくりと首を振った。
「なにも」
そんなファラに、ニアルが大袈裟な溜息を吐いた。
じっと見つめられて、ファラの心がざわついた。
(最期なら良いかしら……?)
魔が差した――ファラの心に少しの欲が生まれた。
「外に出てみたい」
口にして、ファラは激しく後悔した。
ファラは鎖が許すだけの範囲で、誰もいない時だけ御簾から出ることはできた。タスマは健康のためと言って毎日一定時間動くことを強要したが、嫌で嫌でしかたなかった。片足は思うように動かず、窓にも扉にも指先は届かない。なによりタスマの前で自由に振る舞うことは苦しかった。タスマは長からの信の厚い、ファラの監視役だから。
「なんでもありません」
ファラは小さく呟き、視線をそらした。
「え!?」
突然の浮遊感に、ファラは悲鳴はなんとか飲み込んだ。
「ニアル様!」
いきなりファラを抱き上げ、部屋の外へと向かうニアルにケルタが飛び上がった。
「な、な……」
混乱するファラに、ニアルがにやりと笑った。
「最期の願いだ。それくらいなら叶えてやろう」
館の中は静かだった。
かつんかつんとニアルの足音だけが響く。
小柄で軽いとはいえ、ファラを片手で抱き上げたニアルは危なげなく歩いていく。目を白黒させていたファラは、ニアルの安定した足音に落ち着きを取り戻す。だが、改めて前を見れば、生身では見たこともない高い視界にくらくらする。恐る恐るニアルの肩に手を置いたが、ニアルはなにも言わなかった。
ニアルの足音を聞きながら、初めて、生身のままの自分で見る館の中。驚くほどに何の感慨もおきなかった。
誰かが倒れていることもなく、血痕も見当たらない。偶々、通ってきた場所がそうだっただけかもしれないが、ほとんどといって荒らされた様子がないことに、セオとの力の差を感じた。
(一瞬で制圧したのでしょうね)
蹂躙されたあとがないことに密かに安堵した自分に、ファラは苦笑した。
(偽善ね)
セオが攻めて来るだろうことを知っていて明かさなかった。告げたところで、長らが信じたかどうかは謎だが、それは別問題だろう。これは正しくファラが招き入れた未来だ。
ファラを抱き上げたまま館の外へと出たニアルは、請われるままファラを下ろした。
地面に横座りしたファラは、前身を倒して両手を地面につく。
「土って、本当に温かいのね」
どこかぼんやりと座りこんでいたファラがぽつりと呟くと、黙ってその様子を見下ろしていたニアルとケルタが同時に反応した。
「は?」
「何を」
「初めてなんです」
土に触れるのが初めてだと、どこか陶然とした口調で告げるファラに、二人が何とも言えない表情を見せたが、前を見つめたままのファラは気付かない。ファラは、いつになく気分が高揚していた。
頬を撫でる風も、触れたところからじんわりと感じる日光に温められた土の熱も。
ゆっくりとファラは身体を横に倒した。頬にじゃりじゃりとした土が触れる。
「おい」
いきなり倒れこんだファラに、ニアルの声音にわずかに怪訝そうな響きが混じるが、ファラは頓着しない。
ざらざらとした感触が頬を傷つけているかもしれないが、その痛みすらファラには愛しい。
「ふふふ」
思わず笑いが漏れた。
頬の感触を楽しむように双眸を細めたファラの視界に、ふわりと舞う裾が映った。
ファラが少し首を動かすと、二人の人物が見えた。
ファラにしか見えない、人。
初代の巫女姫と六代目の巫女姫。六代目が現れるのは珍しい。
「あらまあ」
知らず、ファラの唇から呟きが漏れ、ニアルとケルタが一層怪訝そうな顔をした。
夢ではなく狭間でもなく、現し世に姿を見せるのは珍しい。しかも昼の最中に、ファラ以外の人間がいる場に出て来ることは。
十七人の巫女姫がいるが、全員が顕現してくるわけではない。心を壊してしまった巫女姫たちは意識体を保つことが出来なかったりで、意識体として残っているのは半数だ。
彼女たちは全身全霊をもって、ファラを慈しんでくれた。大事なことは、すべて彼女たちに教わった。情緒面でも愛情の面でも。彼女たちの存在がなければ、ファラはとっくに壊れていただろう。
そんな巫女姫たちのなかでも異質なのが六代目。巫女姫たちのなかで一番に自己肯定が低い。そんな彼女の力の源は恨みだ――そうファラは思っている。
もっとも巫女姫はみんな、恨みつらみを拗らせてはいるが。
六代目は、ファラ達巫女姫が足の腱を斬られる要因となった人物。彼女が脱走を繰り返し図ったことによって、長らは力づくで脱走を図れない処置を施すようになった。
だから、自分の以後の巫女姫たちに申し訳ないと泣いて泣いて詫びるのだ。ファラがタスマに抑え込まれているとき、六代目は泣き叫んでいた。長やタスマに呪詛を吐きながら。そんな六代目だから、彼女が姿を現わすのは本当に稀だった。
今もまた、ぼろぼろと泣く六代目にファラは苦笑する。
あまりに泣く六代目に、その目が溶けてしまうんじゃないかと本気で心配になる。
(そんなに泣くことはないのに)
少なくともファラは、今の状況を恐れてはいない。
「……なぜ、笑っている」
ニアルの問いかけに、ふっとファラと巫女姫たちを繋ぐ意識の糸が切れた。ファラの視界から巫女姫たちが姿を消す。
「笑って、ましたか?」
「ああ」
(待ち望んだ未来だからと言ったら、どんな反応をするかしら?)
ふとファラはそんなことを思う。
(怒る? 呆れる?)
ファラの待ち望んだ未来を連れてきた男を見上げる。
いつもいつも夢を介して視てきた男は眉間に皺を寄せ、不可解なものを見るような顔だ。夢でしか視たことのない男を、今現実に見ていることが不思議で、まるで今の方が夢のような気がしてきてファラは笑いがこみあげてくる。
「ふふふ」
ファラはこの男の存在を知ってから、ずっと視てきた。
この男の評判を耳にし、好奇心で視にいったのが始まり。異質――これまで見てきた人々とは明らかに違っていた。
ニアルは、ファラの気配に気付いた。もちろんファラの姿を認めたわけではない。とにかく気配に敏感な質なのだろう。姿が視えずとも、何かを感じ取って警戒する素振りを見せた。声をかけてみたら、不愉快そうに眉間に皺を寄せた男に、思わずファラは笑い出してしまったほどだった。
何か視線を感じるとか、気配を感じるとか―狭間に潜って覗き視ているファラに対して反応を示す人間は時折いる。だが、家探しまでさせたのはニアルだけだった。何かが見つかるはずもなかったが、それがセオを狙うリガの間者に対して牽制に働いたのは思わぬ副産物だった。
大規模な家探しには驚いたが、ファラを襲ったのは喜びだった。
狭間に潜った先で視る、目の前で笑い合う親子。走り回る子供たち。仲睦まじい恋人たち。全部全部、ファラには縁のないもの。誰も彼もファラを認識しないとわかっていても眩しくて、ファラは狭間に潜り続けてしまう。視ているだけで楽しいのだけれど、それはファラを更に酷く孤独にさせた。知らなければ、こんな思いを抱くことはなかったのだろうか――。
ファラからの接触は不可能で、本当にただ一方的に視るだけ。どんなに語りかけようと触れようとも誰にも気づかれることはなかった。だから、ファラは狂喜した。例え、示されたのが不快感だったとしても。例え、認知されたとは言えないものだったとしても。
狭間に潜るファラに、初代たち歴代の巫女姫は良い顔をしなかった。止めなさいと言われ続けていた。
『却って辛くなるばかりよ』
『おやめなさい』
『気持ちは解かるけれど……』
狭間に潜ることで視た事柄にファラが傷つくことを歴代の巫女姫たちは恐れていた。縁が結ばれてしまえば――例え一方的な覗き視でも――ファラが相手の未来を視てしまう可能性が格段に増す。そして、それは誰かが傷つく光景にぶつかってしまう可能性を孕む。
人の死や傷つく様はふいに訪れる。意図せずに視える未来は良くないものであることが多く、けれど、そういった重いものを視ることは軽々としてあるわけでもない。だから生き死にに関わることは少なかったけれど、良くない未来を視てしまった時、未来をなんとか変えようとした。けれど、生身の身体は館の奥深くに縛りつけられ、監視がつけられたファラには何もできない。必死に狭間から語りかけたところで、何一つ変えることはできなかった。自身の能力を誇るよりも、虚無感の方が強かった。
それでもファラは幸せな光景を視るために狭間に潜ることをやめることができなかった。
『どうして!? 私はそんなこと言っていない!』
そう泣き叫んだのは、いつだったろうか。
ファラが視た人が、ファラの占術の結果として死んだ――殺された。確かに、その人は先見の巫女姫を訪ねてきた。請われるまま視たけれど、死ぬ未来はなかった。当然、そのまま長らに告げた。だが、その人に訪れたのは、ファラが視たのとは違う未来。
憤りのまま、歴代の巫女姫たちが止めるのを振り切って、その人の元へと跳んだ。狭間に潜ってファラが視たのは、泣き崩れるその人の家族や友人たちだった。ファラは逃げ帰った。
そんなことが幾度も繰り返された。
ファラでは変えることが出来なかった未来。虚しくて悔しい思いを何度もした――だというのにそれが、あっさりと翻った。死ぬはずだった人が生き延び、死ぬはずのなかった人が、リガの長らの介入で死ぬ。
あまりに安易に、長らの介入で未来が、人の生死が入れ替わる。覆る。
戦乱の世だからなどというのは詭弁だと叫んだ。
長たちの本当の顔を知ったファラの糾弾を、長らはまったく受け付けなかった。
ファラも未来を変えようと努力することを否定してはいない。より良い未来を望むのは誰だって持つ願望だろう。変わるかもしれないし変わらないかもしれない。ファラは変えられなかったけれど―-そんな思いを長らに見抜かれ、足元を掬われた。
ファラが誰かの不幸を取り除きたいと望んだのと、長たちが介入して死すらすり替えることの何が違うのか。問われれば、ファラに返す言葉はない。
『変わったのなら、それが運命だったのだ』
『お前の視た未来が違ったのだろう』と長らは言った。
『違う』
そう叫ぶことは簡単でも意味はない。
ファラの中にふつふつと長らへの嫌悪感が募っていく。ファラの抱く反発心に、また長たちも気付いていた。一度、酷く暴れて以降、従順になったファラを信用することはなく、その根拠は有能な監視役のタスマにあった。
だから長らはファラの首の挿げ替えを予定していた。
巫女姫がファラで在る必要はない。
事実、そうやって長たちは巫女姫を入れ替えてきたのだから。
(もうたくさん)
ファラに残された時間は少なかった。
ファラたちの未来視は覆され、歪んでいく。あまりに大きな横やりは歪みを生むばかり。
歪み続ければ、いつか破綻する。
まるで世界を己が創っているかのような長らの振る舞い。
いつからこんな形になったのか。
恐れぬと嘯いたところで誰もかれも積極的にリガをどうこうしようとはしない。恐れているからか、使い勝手がいいからか。
『未来など視えないほうが良い。人の生死は重すぎる』
そう言った歴代の巫女姫の言葉をファラが本当に理解したとき、ファラの中にあったのは諦観だけ。
連綿と途絶えることなくファラへと受け継がれてきた異能。
こんな異能は残してはならない――未来視を否定する歴代の巫女姫たちの想いにファラは深く頷くようになっていた。
長らの思惑を知ったとき、ファラは自身の未来を視た。
視た未来に呵々大笑した。
ファラに訪れるだろう未来。
そう遠くないうちに死ぬだろう未来を視た。それがファラの天寿。ただ、ファラは死ぬ前に変えたかった。
ファラ一人がただ死んだとて、表には見習いの子供たちが幾人もいる。このままでは、その子達の誰かが十九代目となる。
だから、滅ぼそうと思った。
今はまだ誰にも「巫女姫」になる兆しが現れていない。今しかない。
誰よりも巫女姫の言葉を信用していないくせに、時に神託などと嘯き、言葉を偽装し、自分たちの良いように操ってきた一族など要らない。
歴代の巫女姫たちも消えることを覚悟してくれた。はっきりとした因果関係が判らないのが心許ないが、歴代の巫女姫たちを視ることが『巫女姫』の条件の一つだというのなら、それを消してしまうことが必要だろう、と。
でも、自分たちにはできない。
リガの王など論外。他国の王も。
例外がいるとするならば、それはきっと――セオの王だろう。
リガの暗躍に気が付き、排除することを躊躇わないとしたなら、それは間違いなくセオだ。
伝わらないと解かっていて、ファラは語りかけ続けた。ニアルにリガの非道を。
そして一方で、長らにセオを警戒すべしと告げた。
ファラの言葉を一通りは検証する彼らを焚き付けたのが功を奏したのか、長らは早々に要注意人物、要警戒国として位置づけた。
リガが動けば、必ずセオに伝わる。
そして、セオは相手が動くのを待つほどお人好しではない。
あの王は、抜かりのない男だ。将来的に邪魔となるなら、必ず排除に動く。
そうして、彼らは今ここにいる。
「ここはどうなりますか?」
「代官を置く」
ファラは小さく頷いた。
要するにニアルの臣下に、この地を統治させるということ。はっきり言って旨味はないだろうから、代官に任命された人間は貧乏くじを引いたと思うかもしれない。
どちらにせよ、今より普通の国になるに違いない。
「王はどうなったのかと聞かないんだな」
ニアルの言葉に、ファラは地面に横たわったまま視線を向ける。頬の下でじゃりと音がする。
「おまえの主だろう?」
いいえと応えるのを迷った。面倒な説明を求められても困るので、ファラはとりあえず聞いてみた。
「……どうなりました?」
「討った。あのサブルという男も」
示された名に、ファラはわずかに首を傾げ、「ああ」と思い当たる。
長の名前が確かサブルだった。久しく呼ぶこともなかったので、すっかり忘れていた。ファラにとっては、名前などどうでもいい。
自分たちを搾取するだけの存在が居なくなれば――否、彼らの破滅こそがファラの、ファラ達巫女姫の望みだったから。
(やっぱり知っていたのねぇ)
敢えてサブルの名を出したのは、ニアルが知っていることの証に他ならない。とするならば、やはりニアルの最終的な目的は巫女姫たるファラだ。
(ああ。もう思い残すことはなにもないわ)
ゆっくりとファラは身体を起こし、ニアルに向き合った。
リガを滅ぼしたかった。
望みは叶った。
はっきり言って、この国がどうなろうと知ったことではない。
ルカリやルリス――彼女たちのような何もしらない国民を巻き添えにすることに良心が痛まないわけではないけれど、何も知らずにいる彼女たちのような人間に何も思わないわけではないのも本音だ。身勝手な思いだけれど。
一応、彼女たちの命乞いだけはしておこうとファラは思い、ニアルに願っておく。
あとは、己の始末をするだけ。
それをニアルに――他者に委ねるのは少しだけ申し訳ない気がしたが、仕方がない。
頬を涼やかな風が撫でていく。
ファラは不思議と幸せだった。
リガの民に対する寛容な処置を願った巫女姫を不愉快そう見つめていたニアルから纏っていた警戒が、なぜか薄れた。
「なにを!?」
なぜか助命を請えと手を差し出した主に、ケルタが血相を変えた。
差し出された手を、ファラは見つめる。
ファラの予見した未来は変わらない。
もう力づくで未来を変えていた長はいない。
誰も何も介入しない今、変わることはない。
ファラには取るべき責任がある。
ゆっくりとファラは首を振った。
差し出された手を取っても未来は変わらない。
ファラは、目の前の男に殺される。
今でないのなら、ほんの少し遠い未来で。
変わることはない。手を取る意味も必要もない。
ファラは己を殺す男を見上げ、笑った。
ファラの死神は、美しい青年の姿をしている――。