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タンポポを見ない日常

作者: 川野狼
掲載日:2023/05/01

 風が強い。昨日から続いているが、その影響で今日は全国にお隣の大陸から黄砂とかいうお邪魔な黄色い砂埃が海を渡って訪問してくるそうだ。午前九時過ぎのニュース番組では、縦横の長さが気象予報士一人分程度の画面に大きな日本地図が写し出されていた。それを、黄色からとても濃い橙色まで十段階もの色の混ざった怪しげなもやが覆う。数値の意味がわからなくても、色が濃くなればよくない空気になっていくということは明らかだった。

 毎週火曜日の午前中は、木陰になっているベンチに座ってギターの練習をすることにしていた。ただ今日はそれが出来そうにない。ハウスダストや砂埃に身体が弱いからだ。黄砂を真っ正面から鼻一杯に吸い込んだことがあるわけじゃないから、「自分ダメなんですよね(笑)」と言える確証があるというわけではないけれど、「PM2.5」とかいう微小粒子状物質の有害性をニュースで聞くと、「ははは」とかいう微笑流史上最低な愉快性を持つひきつり笑いをせざるを得ない。

 とにかく今日の午前中は、家でダラダラとありもしないはずの暇的な何かをもて余しておくことにした。やることがない時、時計の針はこれでもかというほど進みが遅くなる。目に見えない小さな妖精達が針にしがみついて、盤の裏に隠れた正確無比で頑固な歯車の仕事を邪魔しているようにさえ思える。勿論、実際は正確無比な頑固者の仕事を受け入れられないのは、とるに足らないほどちっぽけな存在である自分だ。


 スマートフォンから流れる失恋ソングを聞きながら、頭に残らない分析哲学の教科書を眺める。文字面は追っても追っても、ただの羅列にしか見えない。なぜか「やるべきはこれじゃない感」がした。音楽を止めて再度読み直す。でも、ただの羅列が右上から左下へ流れて消えていくばかり。黄ばんだ古本の教科書に黒いインクが列をなして満遍なく敷き詰められている様は、段々と黒胡椒を掛けすぎてしまった黄色いグラタンのように見えてくる。料理名をつけるなら、『(かお)る黄身掛かった日本語グラタン ~たまに英語を添えて~』だろうか。無機質で変哲の欠片もない卓上照明の淡白な光が、この想像の「まずさ」をさらに引き立ててくれた。

 教科書を丁寧に閉じた。グラタンがひっくり返る所を想像したくなかったから、教科書の前に先に目を閉じていた。だからグラタンが閉じたことは音と手触りだけで感じた。ああ、馬鹿みたいな想像が脳を侵食している。目を開けると黄ばんだ教科書が机の上にあるだけだった。ため息を一つ。勿論これは安堵のため息ではない。別にグラタンに脳味噌を支配されていたわけじゃない。今問題なのは、集中できないということだ。私には集中力がない。変哲な想像も、きっとこれが原因だ。


 スマートフォンを開く。先程まで使っていたメディアプレイヤーを閉じて、YouTubeのアプリに触れる。画面一杯にYouTubeの情報が満たされて、アプリに入ったと同時に自分の脳味噌は考えることを止める。身体は、ただショート動画をめくるかフル動画の広告を飛ばすだけの、腐った脳味噌の操り人形になる。一つで一分、二つで二分。髪の毛をプチプチと抜いていくような脳死の作業。ダメなこととか、無駄なこととか、そんな言葉で抑えられる類いじゃない善悪の概念の外側にある機械的安心感が自分を満たしていく。

 動画が面白い?作業が面白い?どうだろう。本当はどっちもどうでもいい。ただ無料(ただ)で多々のぬるい安心感を与えてくれる方法を、感嘆するほど簡単に肝胆に蓋をする方法を、自分は無意識の内に求めているんだ。それで終わった後に怠惰で理想の高い私はこう呟く。

「ああ、また○○○○○○○。私、なんで○○○○○○○○○?」


 パソコンを開く。眠ったスマートフォンからはYouTubeの動画の声もメディアプレイヤーの曲の音も聞こえてこない。時間割りをぼーっと眺めて、「あっ」という、お気に入りのアニメで解釈一致の声優が秀逸な技術を基に織り成す発声を、無意識に偶然に自然に自分の無味乾燥なはずの喉が再現する。今日の授業は午後、三時間目から。「倫理学演習a」という名前が私の目に留まる。ピリッと目の奥から脳全体に電撃が走るようにして先週の授業の映像と音声がフラッシュバックされる。

「来週までにテキストの第一章を読んできてください」

 ただ、それだけのシーン。それがやまびこのように二、三度思い出される。頭の先からうなじ、背骨の脇を這うようにして抜けていった寒気が尾てい骨まで到達する。焦りが冷や汗として固まった額に滲み、段々と形をはっきりとさせていく。「うわぁ……」というため息混じりの、力ない声が喉を低く重く揺らす。何度も揺らす。その度に間に合わないという絶望が凍りついた背筋を溶かしていく。向かい合っているパソコンを閉じて、椅子から立ち上がるも、ため息とともに床に倒れた。大きな水溜まりのようにだらしなく広げた身体は骨も筋肉も脂肪さえも厚みをなくしたように薄く平べったく伸びている感覚だった。しばらくそのままでいた。虚空を見つめたかったが、天井の照明が眩しくて結局火災報知器から垂れる紐の先のプラスチックばかりを見つめていた。視界の左側に濃くはっきりと照明の残像が刻まれたタイミングで大きく息を吸って身体を起こす。チカチカとする視界が起き上がったことでぐわんと眩む。息を吐くと全身の空気がつるつると引き抜かれていくようだった。上がっていた肩が下がり、膨らんでいた胸が萎んでいく。さっきまでの凍りつくような焦りも、今吐き出した息と共に水蒸気のようになって心の中から出ていった。

「もういいや、間に合わないし」

 悟りの境地に入った。床に座り込みながら、人間って案外簡単に悟りを開けるもんだな天才だねとか、感情図鑑を作るなら「焦り」は氷属性で融解と蒸発を通して人の体を抜けていくって書こうとか、自分でもよくわからないようなことを考えた。

 スマートフォンを手に取る。友達にメッセージを送る。

「やばい、宿題やり忘れた……。結構ムズい?」

 自分のメッセージを見ていると虚しさと情けなさに襲われかけたのですぐにスマートフォンを眠らせる。


 また大きなため息が肺と外とを行き来する。籠った空気が肺胞をぬるく濡らす感覚に吐き気がして、窓を開けるために立ち上がる。カーテンを退けて窓に左手をつき、鍵に右手を掛ける。埃のざらついた模様が、窓ガラスの滑らかな感触の外側を彩っていた。特に気にも留めずに窓を開けた。

 勿論窓ガラスの模様と感触のギャップは警告であった。見える住宅街の遠くの方は黄色く濁っていた。顔をしかめつつ、仕方なく深呼吸をする。今は部屋の空気に息が詰まりそうだった。しかし、後悔することはもはや自明であった。部屋の陰湿な空気は流れたが、代わりに喉にシワついた嫌な乾きがこびりついた。

 スマートフォンが鳴った。少しだけ乱暴に窓を閉めて鍵を掛け、床のカーペットにほったらかしのそれを手に取り、電源ボタンを一押しした。ぽっと点いた画面は、開いたカーテンから流れ込む黄色の混じった輝きに負けてか、なんだか仄暗かった。何も考えずに無機質な明るさをぐいっと右に引き上げると、緑と白の無垢な通知がはっきりと見えた。

「ヤッバw結構ムズいぞ」

 たったこれだけ。これでどうなるわけでもない。これはただの返信。それに訊かなくても今回の宿題が難しいことくらい知っているし、メッセージの送り主も私がそれを知っていることを知っている。だから、これはただのなんでもない会話。でも、改めて言われると、それもまだ家にいるこの状況で言われると、なんだか心を砕かれるような、身体に何かが重くのしかかるような、胸からため息が溢れ出るような気持ちになる。


「何やってんだろ、私」

 ため息をして、腕を伸ばし、肩を回す。

 窓の外、道路の脇にはタンポポが咲いていた。いつもの私なら、綺麗だと感じて、外に出て写真を撮って、きっと穏やかな気持ちになっただろう。ただ、今日の私は、健やかに生きるタンポポを太陽が温かく撫でている所に、何処からともなく見知らぬ黄砂がやってきて空気をざらつかせているような、そんな気持ちにしかならなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

今回は言葉遊びを多めに取り入れた作品になっており少し読みづらい箇所があったかもしれませんが、楽しんでいただけたら嬉しいです。

いずれこれに対応するお話を書く予定です。ぜひ、そちらも楽しみにしていてください。

次回作もぜひ読んでください!

私の作品があなたの気晴らしになれば幸いです。

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