図書館の彼女は
高台にある駅からは、なだらかな下り坂が続いている。
その坂の途中に建つ図書館。
そこに、彼女はいる。
この駅から出ているスクールバスに乗って高校に通った。
駅前は数年前に再開発され、立派な複合商業施設に生まれ変わっていた。
今は当時の面影はまったくない。
小綺麗なタイルを張られて舗装された歩道。
立ち退いたのは昔からの古ぼけた店舗。
なにもかもが洒落た明るい佇まいに変わった。
どこか懐かしさを感じさせた、あの古びた建物が醸し出していた昏い雰囲気は残ってはいない。
再開発の折にも図書館は移転されることはなかった。
学校の図書室ではなく、自習室で受験のための勉強をした。
利用者はただひたすらに資料をめくり、ノートになにかを書き付け、真剣に自分の時間を使っている。
部屋に一人で机に向かうときに、動画サイトに投稿されている数時間勉強耐久というような映像を流すとやる気が出るように、そんな自習室で過ごす時間が刺激となっていた。そこは集中できる空間だった。
今でも大学からの帰りに、途中の高台の駅で降りる。
あの頃と目的は変わっている。
中学生、高校生を教える家庭教師のバイトは割がいい。
解りやすく教えるためには、授業の下準備が必要だった。
▲▽▲▽▲
自習室ではだいたい同じ席に座る。
慣れた席は落ち着く。
足繁く通っていると、自習室を使う馴染みというか、よく見る顔ぶれがいる。
彼らもだいたい同じ席を使っていて、それぞれが自分の指定席を持っているようだった。
時間を確認して席を立つ。
斜め後ろの席に座る制服の彼女は、平日の夕方に自習室にいた。
机の上に教科書やワークを広げている。
彼女は俺よりも後に来る。
何時頃までここにいるのだろう。
横を通るときに、時折ちらりと視線を向ける。
彼女の頬は室内の温度のためか、ほんのりと桃色に染まっている。
肩までの艶のある黒髪。それが、わずかに揺れる。
ふと、彼女と視線が合う。
黒目がちの大きな瞳が印象的だ。
すぐに、ふいと視線を逸らされる。
目が合ったときには、いつも。いつも。
一年ほど前から見かける高校生。
通っていた高校の後輩ではない。制服が違う。
俺が知らないだけで、もしかしたら、土曜日と日曜日にも彼女は自習室を利用しているのかもしれない。
彼女もあの頃の自分と同じような気持ちで、この自習室を使っているのだろう。
そう、勝手に想像していた。
▲▽▲▽▲
「せんせー、ここわかんない」
「……前回、暗記しといてって言ったでしょ?」
「そうだっけ?」
夏音は弛く巻いた髪の毛先を、指でくるくると弄りながら気のない返事を返してくる。
……はあ。
心の中でため息をついた。
「あのさあ。ちょっと俺のことなめ過ぎじゃないの?」
「そんなことないよ。おにーちゃん」
甘えるように唇を尖らせる。
それがなめてるっつーの。
「それに、なに、この匂い。臭いよ。俺が来る日はつけないで」
「えっー!? 流行りのコロンだよ。甘くていい匂いじゃん!」
「どう考えてもつけすぎ」
「……そうかな」
夏音はクンクンと自分の手首の匂いを嗅いだ。
「……それつけて学校行ってんの?」
「みんなそうだし」
教室にこんなのがいっぱいなのか。想像するだけで頭が重くなりそう。
夏音の通う高校は自由な校風で知られている。
制服もない。服装、頭髪の色も自由。
その代わりにというのもおかしいが、偏差値は高い。
ある程度の自治を認められているのは、生徒に主体性があるからだ。
「真面目にやってもらわないと、俺がおばさんに怒られる」
「はーい」
ふざけているようにも見えるが、素直に手を挙げてワークの問題を解き始める。
……やればできるんだよな。それまでに時間はかかるけど。
机の上に置いていたスマホが振動して、メッセージの着信を告げる。
画面をタップして開く。
「なんだって?」
夏音は横からにゅっと顔を近づけて、画面を覗き込んだ。
「勝手に人のスマホ見ちゃダメだろ」
「いいじゃん。彼女から?」
「ちがうし」
「なんだぁ。まだできないの?」
「……ほっとけ」
おにーちゃん、そーいうの苦手そう。などと勝手なことを言って笑っている。
「ほら、いいから。問題解いて」
「はーい」
文字を綴るカリカリという音を聞きながら返信する。
夏音は落ちてくる髪の毛を耳にかけた。その横顔が制服の彼女と重なった。
まだ自習室にいるのだろうか。
うつむくと落ちてくる黒い髪を耳にかけながら、ルーズリーフを開く姿を思い浮かべる。
……名前も歳も、どこの学校かさえも、なにも知らない。
知っているのは、平日の夕方に図書館の自習室を利用しているということだけ。
「……制服がブレザーの高校って、どこか知ってる?」
「えーっ? ブレザー? なんで?」
「いや……ちょっと」
「ブレザーの色は? タイ? リボン? ズボンとかスカートはどんなの?」
「ブレザーは……紺色?」
「それだけ? ほかに特徴は?」
訊かれても、はっきりとは答えられない。
見ていたはずなのに、記憶がぼやける。
彼女の横顔なら鮮明に思い出せるのに。
「……いや、やっぱりいい。なんでもない」
「なに? へんなの、あやしー」と、口の中でぶつぶつと言いながら、夏音は腑に落ちないような表情でワークに視線を戻した。
なんだか顔が熱い。のは。
たぶん、気のせいだ、と、思う。
▲▽▲▽▲
お天気キャスターのお姉さんがニコニコしながら解説していた天気予報通りに、昼過ぎから雨が降りだした。
高台の駅で夏音と出くわしたのは、そんな日だった。
「学校さぼったの?」
「ちがうし。今、二者面談期間だから短縮授業なんだよね」
「ふうん。で、なんでここにいるの?」
「鈴と会うから。駅で待ち合わせ」
そういえば。朝、鈴がそんなことを母さんに話していたような気がする。
「おにーちゃんはなんで?」
「バイトまで図書館」
「えっー、夏音も行く。待ち合わせよりだいぶ早く着いちゃったんだよね。鈴、まだ学校だし」
「……いいけど。うるさくしないでよ」
「だいじょーぶ」
制服の彼女の姿は、やっぱりまだ自習室にはなかった。
自習室は服に沁みた雨の匂いがした。
それは夏音が付けているコロンと混ざり合う。
「……臭い」
「ひどーい。なんでそんなこと言うの? いつもより少な目なのに。……今日は夏音のカテキョの日じゃないから、べつにいいじゃん」
「あっちの席にいけば?」
「ヤダ……絶対、ここにいる」
夏音は隣の席でおとなしく文庫本を読んでいるかと思えば、スマホを取り出して、ふざけて邪魔をしてくる。「臭い」と言ったのを根に持っているようだ。
制服の彼女は、いつの間にか斜め後ろの席に座っていた。机の上にワークを広げている。
「鈴、もう学校出たって」
夏音がスマホのメッセージを見せてきた。
時計の時間を確認する。
「……じゃあ行こうか」
机の横を通るときに、視線を向ける。
肩までの黒い髪が横顔を隠していた。
彼女は、今日はこちらを見なかった。
傘をさして車道を通る車が跳ね上げる水しぶきを除けながら、駅までの坂道を歩く。
「あのブレザーはね……」
ニヤニヤと笑う夏音は、市内にある高校の名前を教えてくれた。
「おにーちゃん、フッフッフッ」
「……鈴に余計なことは言わないように」
悪戯に笑う夏音に釘を刺す。
「えっー? 鈴だってお兄ちゃんの好きな人は知りたいんじゃない?」
「そういうんじゃないし。兄妹のそんなのはべつに知りたくもないから。絶対に言うなよ」
「……はーい」
夏音はしぶしぶと返事をする。
しかし……おとなしく黙っているとは考えられない。
鈴と額を寄せ合って、ひそひそと笑い合っている姿が簡単に想像できてしまう。
夏音にブレザーの話をしたのは失敗だったかもしれない。そのおかげで、高校名を知ることはできたけど。
……はあ。
心の中でため息をついた。
彼女は、俺を見なかった。
雨の坂道をのぼる足取りは、なんだかいつもよりも重く感じられた。
▲▽▲▽▲
雨の日以降、彼女は自習室に現れなかった。
最初の数日間は風邪でもひいたのかと思い心配していたのだが……。
もしかすると、利用する時間や曜日を変えたのだろうか。
名前も知らない。
今までは自習室で彼女と逢うことができた。
斜め後ろの席には彼女が座っていた。まるで、一週間は七日間だと、きちんと決められたことのように。
それがこんなにもあっさりと、繋がらなくなる。
もしかしたら……もう二度と逢うことはないのかもしれない。
そんなことを考えると、思いのほか、胸の奥がざわめいた。
▲▽▲▽▲
土曜日にも、日曜日にも図書館に行った。
一週目にも、二週目にも彼女は来なかった。
三週目の土曜日の午後。
席を変えた。自習室の扉の横に座る。
ここなら誰が入ってきてもすぐにわかるし、気分を変えてみたかった。
机の上に中学生用の教科指導書を広げたが、集中はできない。
自習室の扉が開くと顔を向ける。
そのたびに、視線を戻した。
また、扉が開く。顔を向ける。
その視線の先には……彼女がいた。
一瞬、大きく目を瞪ったようにも思えたが、すぐに視線を逸らされた。彼女はいつもの席へと足早に向かう。
……ああ、そうだった。
彼女はすぐに視線を逸らす。
いつも。いつも。今日も。
一時間ほどしてから自習室を出た。
結局、自分がどうしたいのか解らなくなった。
彼女はただ、利用日と時間を変えた。それだけのことだったのだ。
図書館の出入り口の自動扉が開く。
まだ明るい午後の陽射しが目に眩しい。
スロープ横にある数段しかない階段を降りると、駅に続く坂道に繋がる。
このまま、坂をのぼれば。
もう平日の午後に、ここで彼女に逢うことはないような気がする。
階段途中で、足が止まる。
土日にも図書館に来ることをやめてしまったら。
どうしたって、もう、逢うことはできない。
……。
手の中のスマホが震えた。
メッセージの着信を告げる。
階段の手摺に寄りかかった。
画面を開くと母親からだった。
『帰りに牛乳を買ってきて』
またか……。
了解と送る。
目の前を図書館から出てきた人が通っていった。
足を少し避けて顔を上げる。
ふと、自動扉の方を見た。
――彼女が、いた。
目が合う。
頭の中が一瞬で真っ白になる。
彼女は視線を逸らさなかった。
ゆっくりと、一歩。彼女が距離を縮める。
手摺から背中を離す。
また、一歩。
陽光は黒髪に、天使の輪をつくる。
考えるより先に、身体が彼女に向く。
考えるより先に、口が動く。
「あの」
「あの」
俺と制服の彼女の声が重なった。
読んでいただいて、ありがとうございます。
この物語は『図書館の猫は』の猫目線の物語です。
この物語だけでもお読みいただけます。
よろしければ感想などをいただけると嬉しいです。
誤字報告ありがとうございます!