自覚 / 気取りも何も婚約者ですから。
* * * * *
「ちょっとお化粧直してくるね」
と、一頻り笑った後にサヤは席を立った。
部屋に来ていた侍女を連れて出て行く。
ヴェインを連れて行くよう声をかければ、サヤに「トイレの中まで入って来られたら困るかな」と苦笑を返された。代わりに騎士達を連れて行くようだ。
扉が閉められるとディザークは溜め息を零し、両膝に肘をついて、手で顔を覆った。
触れた顔が熱くなっている。
……からかわれているのだろうか?
だが、サヤはからかっていないと言う。
ディザークの人生はこれまで、国のため、皇帝陛下となった兄のために捧げてきた。
子供のうちは兄を支えるべく体を鍛えた。
正直、ディザークはあまり頭が良いほうではない。
だから体を鍛えて、軍に入った。
それからずっと仕事一筋だった。
女性との関わりなど、一度婚約者の話が出た時に少し、茶会を催して話したくらいである。
だから女性に抱き着かれるなどというのはディザークにとっては初めての経験であった。
小さく、細く、柔らかな感触は男とは違う。
これまで夜会ではダンスも断ってきたし、婚約者候補ですらエスコートすることはなかったため、サヤが来てからディザークにとっては初めてのことばかりだ。
……俺はどうなのだ。
サヤはディザークを好きだと言った。
だが、自分はどうなのだろう。
サヤのことは好意的に感じている。
正直者で、ディザークを怖がったりすることもなく、怠惰に過ごしたいと言いながらも真面目に毎日授業を受けていて、そういった部分は良いと思う。
小柄な姿を見ると守らなければと感じるし、腕に手が添えられると少し落ち着かない気持ちになるが、サヤが笑うとホッとする。
女性を楽しませることなど出来ないディザークと共にいても、サヤはつまらなそうな顔をしたことがない。
それに救われているところもある。
だが、恋愛というものがよく分からない。
サヤを好意的に思っているが、それが恋愛的な意味なのか、人としてのものなのか。
ディザークにはいまだ判断がつかなかった。
……そういえば、以前サヤが言っていたな……。
キスが出来る相手とは恋愛も出来る、と。
想像してみたが、思ったのは、嫌ではないということだった。
サヤからするとこの世界の者は皆、見目が良く見えるらしい。
だが、こちらから見てもサヤは可愛らしいと思う。
彫りの浅い顔は幼いが、黒髪に黒い瞳も、少し色味の違う肌も、神秘的な雰囲気があって人目を引く。
幼い顔立ちが笑ったり、不満そうな顔をしたり、呆れたり、くるくると表情が変わるとつい見ていたくなる。
貴族の令嬢は大体、淑女らしく微笑んでいるばかりなので、サヤのよく変わる表情は面白い。
今まで平和な場所で暮らしていたのだろう。
無防備なところもあり、そんなサヤを見て、守らなければと思うのはおかしなことではないはずだ。
だが、抱き着かれた時、一瞬でもサヤを抱き締め返したいと思い驚いた。
その幼い顔立ちもあって少々子供扱いしている部分があるのは確かだが、抱き着かれて、女性的な柔らかさを感じた瞬間の感情は上手く言葉では言い表せない。
大事にしたいが、それだけではない。
抱き締めたサヤの細さを感じると、鼓動が速くなり、腕の中の存在を強く強く抱き締めたいと思ってしまう。
そんな感情すら初めてでディザークには戸惑うことばかりであった。
しかしそれをどこかで心地良く感じる自分もいる。
サヤに振り回されて照れたり気恥ずかしかったりする一方、そのことを楽しいとも思う。
……そういった感情を恋愛だと言うのなら。
ディザークはサヤに恋愛感情を抱いているのかもしれない。
「これでは兄上の思い通りだな……」
全属性持ちの聖女で、聖竜の愛し子。
皇帝陛下である兄は言った。
「サヤ嬢は我が国の最重要人物と言っても良い。他国に逃すわけにはいかない。ディザーク、サヤ嬢を大事にするんだよ」
国のためにも、と兄は続けた。
サヤと婚約し、結婚し、いずれは子が出来るのかもしれない。
そうして、その子が黒を有していたならば、きっと、その子も聖竜の愛し子となるだろう。
兄はそれを望んでいるはずだ。
国の未来を考えるなら、それが最善なのだ。
はあ、とまた溜め息が漏れる。
……気が早い。
まだディザークとサヤは婚約したばかりである。
何より、全ての主導権を持つのはサヤだ。
ディザークはただ乞う立場でしかない。
そのようなことを考えていると、唐突に強い魔力反応を感じ、無意識に立ち上がっていた。
「む、これはサヤの魔力ぞ」
それまで控えていたヴェインが言う。
「っ、サヤに何かあったのかっ?」
「分からぬ。とりあえず行ってみよう」
ヴェインがディザークの肩に触れた瞬間、目の前の景色がふっと移り変わる。
そこは城内の客室の一つであり、障壁魔法を張ったサヤと、ベッドの上で折り重なっている二つの影があった。
「……これはどういう状況だ?」
ベッドの上にいたのはドゥニエ王国の王太子と、ディザークの元婚約者候補の一人であるペーテルゼン公爵令嬢だった。
* * * * *
お化粧を直すと言って席を立った。
自分で言っておきながら、好きだとディザークに伝えた後、ちょっと恥ずかしかったのだ。
部屋で控えてくれていたノーラさんと部屋の外で待機してくれていた騎士二人について来てもらい、廊下にいたメイドさんに声をかけて、化粧室へ案内してもらう。
……ディザーク、ビックリしてたなあ。
まるで壊れたオモチャみたいに固まっていたディザークがおかしくて、つい、思い出し笑いをしてしまう。
ディザークはわたしよりも大柄だし、男性だし、歳上だけれど、可愛い人だ。
恋愛どころか女性にすら慣れていないらしい。
わたしも誰かと付き合った経験はないけれど、ディザークを見ていると、なんとなくグイグイ行きたくなる。
からかっているわけではない。
でもディザークの動揺する姿が可愛くて、わたしも気恥ずかしい時はあるけれど、それ以上にそんな姿を見たくていつもより積極的になってしまう。
……好きになった人が婚約者で良かった、のかな?
先ほど抱き締められてすごくドキドキした。
そしてそれ以上にとても安心した。
わたしがこの世界で一番信頼しているのは他でもないディザークで、好きなのもディザークで、婚約者でもある。
好きになる努力なんてする必要はない。
ディザークは真面目で、ちょっと堅物で、威圧的に見えるけど本当は優しくて、でも不器用で。
知れば知るほど好感を持てる人だった。
多分、最初から好きになっていた。
「大丈夫か」と声をかけられたあの時、差し伸べられた手の温もりを感じた時、手を引かれて歩いた時、わたしはディザークのことを好きになったのだ。
……我ながら単純だなあ。
そっと後ろからノーラさんにドレスの袖を引かれる。
「ん?」
歩きながら首だけで振り向けば、ノーラさんが近付いてきて、耳打ちされた。
「変です、サヤ様」
「変って何が?」
「舞踏の間から少々離れております。普通、これほど離れて化粧室を設置することはありません」
いつもは口数の少ないノーラさんがよく喋る。
……確かにトイレがこんなに遠いのはおかしい。
騎士達も訝しげな顔をしており、メイドさんに声をかけようとしたが、目の前を行くメイドさんが立ち止まった。
「こちらが化粧室です」
扉が開けられ、腕を引っ張られると後ろからドンと突き飛ばされた。
よろけて床に座り込むのと、背後でバタンと扉が閉まる音がしたのは同時だった。
「みんなっ!?」
扉の向こうで何やら物音がするものの、ノーラさん達が扉を開けてくることはなかった。
慌てて立ち上がったところで、ふと、室内に先客がいることに気が付いた。
顔を上げれば、そこには見覚えのある令嬢が立っている。
……えっと、誰だっけ、ほら、あの。
「あ、ペーテルゼン公爵令嬢……?」
少々自信はなかったが、正解だったようで、ペーテルゼン公爵令嬢は顔の前で扇子を広げてツンと澄ました顔でわたしを見た。
「あら、覚えていてくださったのですね」
どこか馬鹿にするような響きに呆れた。
まだわたしはディザークと結婚していないので、立場で言えば公爵令嬢のほうが上だろう。
「てっきりわたくしのことなど忘れていらっしゃるかと思っておりましたわ」
「まあ、少し思い出すのに時間はかかりましたね」
ギリ、と扇子を握る手に力がこもるのが見えた。
嫌味を言い返されるのが嫌なら言わなければいいのに。
室内にはペーテルゼン公爵令嬢しかいない。
「メイドを使ってわたしをここへ連れて来させたのはあなたですか?」
そうでなければ、先にいるはずがない。
「ええ、その通りですわ。あなたに用がありますの」
「そういうことはディザークを通してもらえたら助かります」
「もう婚約者気取りですのね」
「気取りも何も婚約者ですから」
正式に婚約届も受理されたし、婚約発表もした。
だからわたしはディザークの婚約者だ。
「殿下の婚約者にあなたは相応しくないわ」
「それを決めるのはディザークで、少なくともあなたじゃないと思いますよ。それとも自分は相応しいって言いたいんですか? この間、婚約者の件は否定していましたよね?」
「あの時はああ言うしかなかったのよ。でも、あなたみたいな大して美しくもなければ家柄が良いわけでも、血筋が貴くもない娘が皇弟殿下の婚約者なんて間違っているわ。わたくしのように全てに優れた者がなるべきなのよ」
それに小首を傾げてしまった。
「だけど皇帝陛下は婚約を許してくれましたよ。それはつまり、わたしがディザークの婚約者として問題ないと判断されたってことですけど」
「聖女の立場を利用しただけでしょう?」
「なるほど、そういう風に解釈したんですね」
わたしが国に必要な聖女という立場を使って、無理やりディザークの婚約者に収まったと言いたいのだろう。
……まあ、最初は王国から逃げるための契約みたいな感じだったから、利用してはいたけどね。
だけど聖女だって知ったのはディザークの婚約者として帝国に来た後の話である。
むしろ、婚約はディザークのほうから提案されたのだ。
……でもそれを言ったら逆ギレされそう。
わたしが黙っているとペーテルゼン公爵令嬢が、はっ、と小さく鼻で笑った。
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。あなたはこれからドゥニエ王国に戻ることになるのですもの」
チラと令嬢が視線を動かす。
それを目で追うとカーテンの陰から人影が現れた。
誰かと思えば、ドゥニエ王国の王太子だった。
「わたしは王国には戻りませんよ」
「いいえ、戻ることになるのよ。だって、あなたはディザーク殿下の婚約者として相応しくない体になってしまうから」
無表情の王太子が近付いて来る。
とっさに手を翳せば、わたしを中心に球体状に障壁魔法が展開した。
それに気付いた王太子が詠唱を行い、わたしの展開した障壁に触れる。
王太子を中心に障壁が生まれ、二つの障壁がぶつかり合う。
互いの障壁にピキパキとヒビが入った。
そしてバキンと音を立てて障壁が壊れてしまう。
「へぇ、そういう使い方もあるんですね」
王太子がゆっくりと歩いて来る。
「ここにあなたがいることを、香月さんは知っているんですか?」
「……お前には関係ないことだ」
一瞬、王太子の眉が動いた。
「他国のパーティーに初めて参加する香月さんを放ったままこんなところにいるなんて、エスコートする側として最低ですね。きっと香月さんは不安がっていると思いますよ」
王太子の歩みは止まらない。
「一応訊きますけど、これからわたしに何をするつもりですか?」
「お前のせいでユウナを側妃に出来なくなった。だが王国には今すぐにでも使える聖女が必要だ」
「……まさかわたしを側妃にするつもり?」
王太子が顔を蹙めた。
「お前など興味はない。が、国のためだ」
腕を掴まれ、その意図に気付く。
ディザークの婚約者に相応しくない体にする。
この世界では貴族の令嬢は婚姻まで純潔を求められ、令嬢達はそれを守らねばならない。
純潔でない者は結婚相手として見られない。
ペーテルゼン令嬢が嗤う。
「あなたみたいなのでも王国の王太子殿下の側妃になれるなんて、羨ましいわ。安心なさい。あなたがいなくなった後はわたくしが殿下をお慰めいたしますから」
それにわたしも笑う。
「ふざけんな」
瞬間、全力で魔力を解放した。
同時に王太子が吹き飛ばされ、ペーテルゼン公爵令嬢が尻餅をつくのが見える。
わたしは確かにちょっと流されやすいところはあるが、王太子の側妃になるくらいなら平民になって一生一人で暮らすほうがマシだ。
そもそも、王太子に触られたこと自体も不快である。
「羨ましいなら熨斗つけてくれてやる!」
闇属性魔法で蔦を作り、転がっている王太子と座り込んでいるペーテルゼン公爵令嬢を蔦で一纏めに縛り上げる。
「きゃあっ!?」「うわっ!!」と悲鳴がしたが、そんなことお構いなしだ。
向かい合わせにくっつけた二人を闇属性の蔦でベッドへ放り込む。
「良かったね公爵令嬢! 王太子殿下と同衾だよ!!」
ヤケクソ気味に叫ぶと室内に風が生まれた。
慌ててそちらを見れば、風の渦が出来て、すぐにそこからディザークとヴェイン様が姿を現した。
ディザークはわたしにホッとした表情を見せ、それから、ベッドに転がってじたばたしている公爵令嬢と王太子殿下に訝しげな顔をした。
「……これはどういう状況だ?」
わたしはディザークへ駆け寄り、抱き着いた。




