貴族ってほんと、面倒だね。
* * * * *
昼食を終えて、また仕事へ戻る。
数週間ぶりの執務室は今まで通りで、けれども、ソファーにいるサヤの存在はこれまでとは違う。
サヤはディザークへ会いに来たが、仕事を邪魔する気はないようで、持参してきた本を取り出すと静かに読み始めた。
ディザークも机の上に積まれた書類に手を伸ばす。
本来ならば用のない者をいつまでも執務室に居座らせておくのは好まないのだけれど、何故だか、サヤがそこにいるのは全く嫌ではなかった。
むしろ視界に僅かに入っていることに安心感すら覚えた。
チラと見れば、サヤは真面目な顔で本に目を向けていて、沈黙が落ちても苦痛はない。
……いや、元からそんなことを感じたことはなかった。
サヤは姦しくお喋りをし続けたりはせず、しかし無口ではないので、ほどよく会話を交わすことが出来る。
自分で持って来ておいて内容が難しかったのか、サヤが少しばかり眉根を寄せている。
それに思わずふっと微かに笑みがこぼれる。
侍女は静かに壁際に控えており、ディザークとしてはあまり気にならない。
ディザークも仕事へ集中することにした。
今朝、宮を出てから感じていた落ち着かない気持ちはもうなくなっていた。
……そうか、俺はサヤのことが心配だったのか。
そう気付くと、それまでの違和感が消え去り、仕事に集中出来る。
書類に書かれた内容もしっかり頭の中へ入ってきて、午前中よりもずっと早く作業が進む。
………………。
……………………。
…………………………。
バサッと何かの落ちる音で我へ返る。
顔を上げれば、ソファーで本を読んでいたサヤが背もたれに寄りかかって寝こけていた。
今のはどうやら本を落とした音らしい。
侍女が静かに本を拾い、回収する。
ディザークはペンを置くと立ち上がった。
サヤはぐっすり眠っているようで近付いても全く起きる気配がなく、すぅすぅと小さな寝息を立てている。
そっと肩に触れてみたが、深く寝入っていた。
起こさないように慎重に背中と足の下に手を差し入れ、一度抱き、ソファーへゆっくりと寝かせる。
腕の中でサヤが微かに「……ん」と身動いだ。
悪事を働いているわけでもないのに体がギシッと硬直した。
ややあって安定した寝息が聞こえてきて、ホッとしつもサヤの体からそろりそろりと手を離した。
あまり寒くはないだろうが、一応、上着をかけてやる。
近くで見たサヤの目元には、やはり薄くクマが出来ていた。
見送りの際に「このあとちょっと昼寝でもするよ」と言っていたのに、昼食の頃にはここへ来たのだから、ほぼ寝ていないのだろう。
せっかく、少しずつ飢餓状態から脱してきているというのに、睡眠不足になれば体調を崩してしまう。
思わず触れた頬が予想外に柔らかくて、ディザークは驚いた。
つい、そのまま感触を確かめていると侍女が小さく咳払いをしたので、慌てて離し、立ち上がった。
静かに席に戻り、サヤが目覚めなかったことに内心で安堵の息を吐いた。
視線を感じて顔を動かせば、アルノーがニヤニヤと含みのある笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……なんだ」
「いいえ〜、婚約者と仲が良くて何よりだなあと思っていただけです」
いまだニヤニヤとしているアルノーに、何故だか羞恥心が湧き起こってくる。
無性にアルノーを殴りたい気分になったものの、ここで騒げばサヤが起きてしまうだろう。
グッと気持ちを抑えてペンを取る。
「仕事に集中しろ」
「は〜い」
……とにかく、今は仕事に集中するべきだ。
サヤの微かな寝息を聞きながら、ディザークは書類へ目を落としたのだった。
* * * * *
「──……ャ、サヤ、そろそろ起きろ」
低い声と共に肩を軽く叩かれる感覚に意識がふっと戻る。
ぼうっとしながら目を開ければ、わたしを覗き込むディザークがいた。思ったよりも距離が近い。
固まるわたしを他所に、ディザークはわたしの下に手を差し込むとわたしを軽く抱き上げた。
横になっていた体がソファーへ座らされる。
「よく眠っていたな」
ディザークの大きな手がわたしの髪をぎこちない手つきで整えた。
窓を見れば、外は夕焼けになっていた。
「ごめん、わたし寝ちゃった……」
ディザークが首を振る。
「気にするな。好きなだけいて良いと言ったのは俺だ。サヤが睡眠不足なのも知っていたし、特に問題もなかったから構わん」
「そっか……。もう帰る?」
「その前に陛下の下へ寄っていく。昨夜の令嬢について調査が済んだらしい。話がしたいそうだ」
髪を整え終わったのかディザークの手が離れ、その手が差し出される。
その手に自分の手を重ねれば、軽く引っぱられて立ち上がった。
ノーラさんがサッとそばに来てドレスのしわを伸ばしてくれた。
……あ、ノーラさん、ずっといてくれたんだ。
「ノーラさん、ありがとう」
ノーラさんは小さく会釈をして下がった。
「皇帝陛下のところへ行くの?」
「ああ、サヤも昨夜のことについては知っておくべきだろう?」
「そうだね、なんであんなことしようとしたのか、なんとなく想像はつくけど理由はちゃんと聞いておきたいかも」
ディザークが頷き、エスコートしてもらいながら部屋を出る。
ちなみに部屋にはアルノーさんがいて、挨拶をするタイミングは逃してしまったけれど、振り向くと小さく手を振ってくれたのでわたしも振り返しておいた。
お城の中を歩き、皇帝陛下の下へ向かう。
昨日、わたしがディザークの婚約者として正式に発表されたからか、すれ違う人の視線は以前と少し違っていた。
前は「誰だ?」という疑問に見ていたが、今は「これが殿下の婚約者か」という品定めをするようなものを感じる。
でも、そんな視線は感じていません、という風に振る舞わなければならない。
……いい気分ではないけどね。
こちらが変に意識してもどうしようもないし、家庭教師の先生にも堂々としているようにと言われているので、背筋をピンと伸ばして前を見る。
相変わらずお城の中の道は複雑で、まだ覚えられないが、ディザークの案内で皇帝陛下の下に辿り着くことが出来た。
騎士達が守護する扉の前に立ったディザークが、その扉をノックする。
少しの間を置いて、中から扉が開かれた。
中から出てきたのはケヴィンさんだった。
「どうぞ、中へお入りください」
中へ通され、皇帝陛下がいる奥の部屋の扉が開かれたので、ディザークと共にそちらへ移動する。
室内にいた皇帝陛下が書類の積み上げられた机越しに顔を上げた。
「ちょっとそこに座って待っていてくれ」
礼を執った後、わたし達は揃ってソファーへ座る。
皇帝陛下は手元の書類を読み、サインらしきものをするとペンを置いて立ち上がった。
「待たせてすまない」
机を回り、わたし達の向かい側にあるソファーへ皇帝陛下が腰かけた。
「昨日の件だが、分かりやすく言えばペーテルゼン公爵令嬢の取り巻きの一人がサヤ嬢に恥をかかせようとして起こったことだった」
「ドレスにワインをかけられることが恥になるんですか?」
「衆人環視の中で酷い格好をするというのは、貴族にとっては恥ずかしいことなんだ。たとえ他人から飲み物をかけられてしまったとしてもね」
よく分からなくて首を傾げてしまう。
何もないところで盛大に転んだとかなら恥ずかしいけれど、他人に飲み物をかけられて汚れたとしても、それはかけた側の失敗なので別にわたしは恥ずかしくないのだが。
……まあ、イジメとしては分かりやすいものなんだろうなあ。
他人事みたいな感じがして「へぇ」とこぼしたわたしに皇帝陛下が苦笑する。
「サヤ嬢には理解出来ないか。それで、昨夜ワインをかけようとしたロミルダ・レーヴェニヒ伯爵令嬢が言うには『皇弟の妻として相応しくないから立場を分からせようと思った』らしい」
皇弟ならばそれなりに地位の高い者を娶るべきで、わたしみたいなポッと出のよく分からない人間よりも、帝国の公爵家出身で地位も見目も釣り合う人間こそがディザークの婚約者になるのが正しい。
その人間こそがペーテルゼン公爵令嬢なのだ。
婚約者の座を公爵令嬢に譲るべきだ。
「と、いうのが伯爵令嬢の言い分だった。……聖女であることも公表していれば良かったな」
はあ、と皇帝陛下が溜め息を吐いた。
「そういえば、どうしてわたしが聖女だと昨日は公表しなかったんですか?」
「聖女はどの国も喉から手が出るほど欲しい存在だ。まず皇弟の婚約者として認知させて確実に帝国に属した人間にしてからと思ったのだ。特にドゥニエ王国が反発するかもしれない。召喚した国に属するべきだと言い出す可能性が高く、そうならないためにも、先に婚約を認めさせてしまえば婚約者同士を引き離すわけにはいかなくなるだろう?」
「なるほど」
まずディザークとわたしの婚約をドゥニエ王国に認めさせる必要があったのか。
わたしが聖女だと知れば、ドゥニエ王国は「我が国が召喚した聖女だから王国に属するべきだ」と騒ぎかねない。多分、そう言うだろう。
ドゥニエ王国にはわたしが聖女であることは知らせない。
そのまま、ただの一般人だと思わせておきたいのだ。
そしてディザークとわたしの婚約を認めさせた上で、実はわたしは聖女でした、という公表を行う。
正式に婚約しているし、それをドゥニエ王国も認めてしまっているのでわたしを寄越せと言えなくなる。
「でも、その伯爵令嬢も無意味なことをしましたよね。もしワインをかけられたとしても、それくらいでわたしはディザークの婚約者をやめたりはしないんですけど」
「そこは感覚の違いだろう。普通の貴族の令嬢ならば、あのような夜会でワインまみれの姿を見られたら恥ずかしくてしばらく人前には出られない」
「そうなんですね」
だけど、ある意味ではヴェイン様に防いでもらって良かったのかもしれない。
明らかにワザとなのは分かっていたし、もしかけられていたら、わたしも何かしらやり返していた可能性もある。
さすがに女性同士の争いを人前で起こすのは問題だろう。
「レーヴェニヒ伯爵家は正式に謝罪をしたいと言ってきているが、どうする?」
皇帝陛下に問われて考える。
「別に伯爵家からの謝罪は要りません。本人がきちんと反省しての謝罪なら受け入れますけど、そうでないなら不要です。反省してない人の謝罪なんて、こっちが気分悪いですし」
「そうか、では伯爵家にはそう伝えておこう」
ははは、と皇帝陛下がおかしそうに笑う。
なんで笑われたのか首を傾げれば、ディザークがこっそり教えてくれた。
「謝罪をする機会を失えば、伯爵家は皇族の婚約者に無礼を働いた家として周囲から敬遠される。下手をすれば伯爵令嬢は嫁ぎ先がなくなるだろう。社交界で爪弾きになるのは貴族としては致命的だ」
「……貴族ってほんと、面倒だね」
……まあ、でも、前言撤回する気はない。
「しかし、レーヴェニヒ伯爵令嬢は『自分の意思でやった』と言いながらも、一方で『ペーテルゼン公爵令嬢のためだった』とも言っている。……恐らく、ペーテルゼン公爵令嬢がそれとなく伯爵令嬢に何らかの行動を取らせるよう誘導したのではと私は考えている」
皇帝陛下の言葉にディザークも頷いた。
「ええ、その可能性は高いでしょう。ペーテルゼン公爵令嬢は婚約者候補の中でも、以前いたモットル侯爵令嬢と最後まで張り合っていましたから。……俺はどちらも好きではありませんでしたが」
「それはそうだろうね。あの令嬢達はお前のことを、自分の価値を高める装飾品か何かのように思っている節がある」
はあ、と二人が同時に溜め息をこぼした。
「皇族も大変ですね」
そう言えば皇帝陛下が肩を竦めた。
「楽な立場ではないな。……話を戻すが、サヤ嬢にはペーテルゼン公爵令嬢に気を付けてほしい。公爵令嬢はディザークの婚約者候補だった時にも他の令嬢を候補から外させるために、色々とやっていたようだ。サヤ嬢のことも今後狙うだろう」
それには頷いておく。
「一応聞いておきたいんですが、いざという時に魔法を使用するかもしれません。お城の中でそれはさすがにまずいですか?」
「いや、身を守るためならば許可しよう」
「ありがとうございます」
これで何かあっても魔法を扱える。
ディザークに見下ろされた。
どこか心配そうな紅い瞳に笑い返す。
「大丈夫、わたし全属性持ちだよ? しかも無詠唱で魔法を使えるんだから、もしもの時は相手を吹っ飛ばすことも出来るんだから。まあ、まだあんまり加減は出来ないんだけど、怪我させちゃったとしても治癒魔法で治して証拠隠滅すればいいし」
明るい声でそう言えば、ディザークがふっと微笑した。
「危険だと思った時は容赦なく使え」
「うん、そうするよ」
わたしも痛い思いはしたくないからね。