全然ないですね。
聖女マルグリット様と初対面してから一週間。
その間に何度かあった皇帝陛下との話し合いの結果、わたしが帝国の聖女と公表するのは一ヶ月後となった。
ちなみに二週間後には、ディザークの婚約者として、皇室主催の舞踏会にてわたしはお披露目となるそうだ。
「本当はもう少しゆっくり進めたかったんだが」
と、皇帝陛下は苦笑していた。
本来ならば、わたしがもっと礼儀作法などを覚えてから行うつもりだったようだが、予定変更となったようだ。
「まさか聖竜様のお気に入りというだけではなく、聖女でもあっただなんて予想外だった。他の国に探られる前に、さっさと我が国の聖女と公表したほうが良い」
そういうことで、わたしが正式に聖女として人々の前に立つのは一ヶ月後に決まったのだ。
この一ヶ月というのはわたしの準備と、各国の要人が予定を調整するための準備、両方を加味してのことらしい。
二週間後の舞踏会はちょっと気が重いけれど、聖女として公表されるのは少しだけ安心した。
それが済めばわたしは正式に帝国の聖女になるため、もう二度と、ドゥニエ王国に舐められることはないだろうと皇帝陛下も言っていた。
もしもわたしについてドゥニエ王国が引き渡しを要求したとしても、ドゥニエ王国でのわたしの扱いと召喚で魔法士を貸したことを出すこと、そしてわたしが帝国に住むことを望んでいることを挙げて跳ね返すつもりだそうだ。
……まさか、さすがにそんなこと言い出さないと思いたい、けど……。
そんなことをもしドゥニエ王国が言い出したら、正気かどうか、言い出した者の頭を疑ってしまう。
召喚後にわたしを放置して「聖女様のオマケ」だの「役立たず」だの散々嘲笑っていたのだ。今更、謝罪されたとしてもわたしは受け入れる気はない。
皇帝陛下と話をした後、廊下へ出ると、エーベルスさんがいた。
「ディザーク様、急ぎの案件があるのですが……」
チラとエーベルスさんがくすんだ青い瞳をわたしへ向けたので、ディザークの腕から手を離す。
「ねえ、お城の庭を散歩してもいい? 綺麗だなあってずっと気になってたんだよね」
……あんまり人に聞かせたくない話なのかな。
わたしの言葉にディザークが頷いた。
「ああ、構わないがヴェインと侍女を忘れずに連れて行け。侍女に止められた場所には立ち入らないように」
「うん、分かった」
ヴェイン様と侍女は常にわたしのそばにいる。
誰かにいつも見られているのは少し落ち着かないが、マリーちゃんいわく「必要なことです!」とのことだった。
わたしが全属性持ちで聖女だろうとマリーちゃんに伝えたところ、彼女は文字通り、泣いて喜んでくれた。
ずっとドゥニエ王国で雑な扱いをされていたことで、マリーちゃんは心を痛めてくれていたようで、帝国で聖女として生きていくと言ったわたしに「良かった、本当に良かったです……!!」とボロボロ泣いたのだ。
そんなマリーちゃんだが、同じ侍女のリーゼさんとノーラさんにビシバシしごかれているそうで、日に日に気弱さが抜けていっている。
最近は吃ることもなくなり、俯くことも減って、自信がつき始めたみたいだ。
「今、眺めるなら西の庭園が見頃だ。仕事を終えたら迎えに行く。それまで西の庭園にいてくれ」
「了解、待ってるね」
ヴェイン様とリーゼさんを伴って、ディザークから離れる。
リーゼさんが西の庭園まで案内してくれるとのことで、それについて行く。
城内は人がいるため、時々、突き刺さるような視線を感じるが、気付かないふりをする。
……ドゥニエ王国に比べたらマシだなあ。
あそこでは指差されてヒソヒソ話をされたり、隠れて笑い話のタネにされたりしていたから、見られるくらいどうということはない。
お城の通路に出て、そこから庭園へ出る。
ディザークの言うように丁度見頃なのだろう。
綺麗に整えられた庭園には花が咲き乱れており、それを眺めると心が穏やかになる。
リーゼさんとヴェイン様を連れて花を眺める。
……ディザークって本当は忙しいんだろうなあ。
普段はお城のほうで仕事をしているらしいが、わたしが宮に慣れるまでは話しやすい相手がそばにいたほうが安心するだろうからと、わざわざ宮に仕事を持ち込んでくれている。
申し訳ないなあと思いつつも、その心遣いが嬉しくもある。
おかげであの家庭教師の時にもすぐにディザークに話をして、辞めさせることが出来た。
ディザークは何かと気にかけてくれて、それがどこかくすぐったく感じる。
しゃがみこんで足元の花を眺める。
濃い青色の花はディザークの髪を思い起こさせた。
……わたし、色々してもらってばっかりだ。
早くここでの生活に慣れて、聖女として活動して、帝国のためになることをしたほうがいいのだろう。
のんびりは過ごせないが、必要とされるというのはそんなに悪いことではないと思う。
辺りを見回し、ヴェイン様に手招きをする。
「あの、ヴェイン様」
「なんだ?」
ヴェイン様が近付いてきて、わたしの横に屈む。
背伸びをして内緒話をする。
「愛し子って基本的には何をすればいいんですか?」
愛し子がいれば、聖竜は帝国を守護してくれる。
そういう話ではあるけれど、その愛し子が具体的に何をするのかは誰も言わなかった。
ヴェイン様が首を傾げた。
「特にするべきことはないぞ?」
「え、ないんですか?」
「うむ、だが、そうだな。しいて言うならば、この帝国で愛し子が望むまま、幸せに過ごせば良い。我のお気に入りであるサヤが笑顔でいれば、それが我にとっては一番喜ばしいことなのだ」
ワシワシとやや乱暴な手つきで頭を撫でられる。
紅い瞳が優しく細められた。
「……それってヴェイン様には何も利点がない気がしますけど」
わたしがそう言えば、ははは、とヴェイン様が笑う。
「我は利点などどうでも良い。ただ、同じ黒を持つ者が苦しみ、嘆く姿を見たくないだけだ。我は我が儘なのでな」
堂々と返されてわたしはぽかんとした。
そんなわたしの頭をもう一度撫でて、ヴェイン様がふっと立ち上がった。
ヴェイン様の視線を追って道の先を見れば、杖をついた男性がこちらへゆっくりと歩いてくるところが見えた。
リーゼさんが乱れたわたしの髪をサッと整えてくれる。
男性は結構な歳なのか、少し腰が曲がっていて、白髪まじりの銀っぽい髪が太陽の光に当たってキラキラと輝いていた。
なんとなく見ていると不意に男性の杖の先が滑り、男性が転んでしまう。
慌てて立ち上がり、男性に駆け寄った。
「大丈夫ですかっ?」
声をかければ男性が顔を上げる。
遠目で見たよりも若く見えた。
恐らく五十代から六十代くらいだろう。
「ああ、大丈夫だ」
落ち着いた低く柔らかな声で返される。
立ち上がろうとする男性に手を貸し、足元に転がった杖を拾って、その手に渡す。
しわが多く、皮膚の厚い手だった。
「すまないね。膝が悪くて。何、少し休めば問題ない」
「じゃあ、あそこまでご一緒します」
右手で杖をついているので、左腕を支えれば、男性が一瞬驚いた様子でこちらを見た。
最初はこげ茶色かと思った瞳は間近で見ると、光が差し込んで、暗い紅色になる。
一瞬引っかかりを覚えたものの、とりあえず、男性を支えて、庭園の中にある小さな休憩所みたいなところまで歩調を合わせて歩いて行く。
ヴェイン様もリーゼさんも何も言わないなら、悪い人ではないだろう。
休憩所にはベンチがあり、男性をそこへ座らせる。
男性がふう、と小さく息を吐いた。
「ありがとう」
「どういたしまして。誰か人を呼びましょうか?」
「いやいや、後で迎えが来るからその必要はない」
そのまま場を離れることも考えたが、足の悪い男性を一人で残すことも気になったし、ディザークが迎えに来てくれるまではわたしもこの庭園からは離れられない。
「わたしも迎えが来るまで、ここで休んでもいいですか?」
「もちろん。良ければこの老いぼれの話し相手になってくれるかい?」
「まだまだお若く見えますよ」
頷きつつ、男性が手で示した向かい側のベンチへ腰掛ける。
小さい建物で、壁はなく、そのおかげか心地良い風がほんのり吹き抜けて過ごしやすい。
男性が穏やかに笑った。
「若い女性にそう言ってもらえると嬉しいものだ。私はバルトルドという。お嬢さんの名前を聞いてもいいかね?」
「わたしは沙耶といいます」
「ああ、皇弟殿下の婚約者が決まったという話を耳にしたが、君だったのか」
その言葉に驚いた。
「……なんでそれを知っているんですか?」
まだ公表されていないことなのに。
「こう見えて私はこの国でもかなり地位が高くてね、君が皇弟殿下の婚約者になったことも、聖女であることも、ドゥニエ王国の召喚魔法に巻き込まれてこの世界に来てしまったことも知っていた。実を言えば、君に会ってみたかったんだ」
「転んだのもワザとですか……」
「いいや、恥ずかしながらあれは本当に転んでしまったんだ。若い頃に体を酷使しすぎたんだろう。よく、膝が痛む」
言葉通り今も痛むのか、バルトルド様──地位が高いというなら様付けのほうがいいだろう──は膝をさすっている。
微笑んでいるけれど労わるような手つきは、元の世界に残してきた祖母と似たものだった。
……おばあちゃんもよく膝をさすってた。
いつもじんわり痛むのよ、と困ったような顔をしていた祖母の姿が重なる。
「治癒魔法で治せませんか?」
「魔法は万能ではない。治癒魔法をかければ一時的には良くなるが、しばらく経てば、また痛む」
「そうなんですね……」
少し考える。
「あの、治癒魔法をかけてみてもいいですか?」
「それは構わないが……」
ディザークに魔法の使用は禁止されているけれど、実はこっそり夜にまだ練習してたりする。
……ちょっとだけどね。
あんまり使うとバレそうだから。
もしかしたら、もうバレてるかもしれないが。
わたしの属性で一番属性が強いのは聖属性だから、治癒魔法も得意である。
あと、マリーちゃんがわりとおっちょこちょいで小さな怪我をすることが多くて、魔法が使えることを伝えてからは傷を治してあげている。
男性のそばに屈んで、そっと膝に手を翳す。
……バルトルド様の膝が良くなりますように。
体の中心から感じる聖属性の魔力を手の平に集め、魔法を発動させる。
思ったよりも魔力が多く消費されるのを感じた。
マリーちゃんの怪我を治してるうちに気付いたのだが、治癒魔法は怪我の状態によって消費する魔力が違う。
つまりバルトルド様の膝はかなり悪いということだ。
魔力の消費が止まるまで治癒魔法をかけ、翳していた手を下ろす。
「痛みはなくなりましたか?」
「ああ、なくなった。ありがとう。こんなに膝が軽いのは久しぶりだ。これなら歩いて帰れるかもしれない」
「無理するとまた痛くなってしまいますよ」
ベンチへ座り直す。
バルトルド様がしげしげとわたしを見る。
「……惜しいな」
呟きに首を傾げれば、バルトルドさんが口を開く。
「サヤ嬢は皇弟殿下に不満はないのかね?」
唐突な質問に更に首を傾げてしまう。
……ディザークに不満?
これまでのことを思い出して、つい笑ってしまう。
「全然ないですね」
「本当に? 顔や雰囲気が恐ろしいだとか、態度が冷たいだとか、社交界ではそう囁かれているようだが」
「ディザーク……殿下は不器用な方ですから。いつも眉間にしわが寄っていますし、話し方もちょっと威圧的ですし、そういうところが冷たく見えてしまうのだと思います」
だけど本当のディザークは冷たい人ではない。
言ったように、眉間のしわや口調のせいで勘違いされてしまうかもしれないが、本当に冷たい人なら、わたしに直に手を差し伸べてはくれなかっただろう。
たとえ聖竜のお気に入りになりえる人間だったとしても、わざわざわたしに話をせずに、ドゥニエ王国と交渉して連れ帰ることも出来たはずだし、わたしの条件なんて無視したって問題なかったはずなのだ。
でもディザークはそうしなかった。
騎士に突き飛ばされて笑われた時だって、家庭教師に鞭で打たれた傷を見た時だって、多分、ドゥニエ王国での扱いを見た時も、ディザークは怒ってくれていた。
家庭教師の時はすぐに謝ってくれた。
「ディザーク殿下は優しいです。それが少し分かり難いだけで、わたしは不満に感じたことはありません。……まあ、一つだけ文句を言わせてもらえるなら、わたしのことを『貴様』と呼ぶのはやめてほしいということくらいです」
……あの呼び方、あんまり好きじゃないんだよね。
そんなことを思っていると、庭園の向こうに見慣れた姿を見つけて、思わず手を振った。
向こうもわたしに気付いたようで、こちらへ向かって歩いてくる。
背が高いからか、あっという間に近付くディザークに自然と笑みが浮かぶ。
普段はわたしに合わせて歩いてくれているのだろう。
「待たせた」
端的な言葉に頷く。
「大丈夫、バルトルド様が話し相手になってくれたから、そんなに待ってないよ」
ディザークの視線がバルトルド様に向き、それから、眉間のしわが少し深くなった。
「父上、このようなところで従者の一人もつけずに何をなさっておられるのですか」
「息子の婚約者と話してみたくてな」
「それはサヤが生活に慣れてからと申し上げたはずです。何より、父上はいつも離宮にこもって絵ばかり描いて『今は忙しい』と我々を追い払っていたではありませんか」
「それはお前達が私に仕事をさせようとするからだ。もう帝位から退いた老いぼれにまだ鞭打つ気か?」
「老騎士のふりをして若手騎士を叩きのめしに行くような者はまだ老いぼれではないでしょう」
ぽんぽんと交わされる会話に絶句した。
……え、待って、父上って……?
ディザークは皇弟だ。皇帝陛下の弟。
そうしてそのディザークが父と呼ぶ人。
それはつまり、現皇帝陛下の父親でもあり、帝位から退いたと言うのなら、元は皇帝の地位にいたということで……。
「サヤ、すまない、驚いただろう?」
ディザークの言葉に何度も頷いてしまう。
「驚かせて悪かった。前皇帝であり、エーレンフリートとディザークの父であるバルトルド=ヒルデブラント・ワイエルシュトラスだ」
はっはっは、と笑うバルトルド様は全く悪びれがなくて、そして同時に心の隅でずっと引っかかっていたことが何なのか分かった。
……言われてみれば皇帝陛下に似てる!
白髪まじりではあるが綺麗な銀髪で、年老いたものの、整った顔立ちは若い頃はさぞかし美男だっただろうと思わせる。
日陰で見るとこげ茶色っぽく見える瞳も、光が入ると濃い紅色だ。
「……帝国の皇族は紅い瞳が多いんですね」
なんとか出てきた言葉はそれだった。