逃した魚の大きさを知るがいい。
「本当にすまなかった」
家庭教師の件の翌日、お城へ向かうと開口一番に皇帝陛下はそう言ってわたしに頭を下げた。
前回と同じく政務室だろう部屋だったので、非公式の謝罪だけれど、皇帝陛下ともあろう人がこんな風に誰かに謝るなんて普通はありえないはずだ。
「あ、頭を上げてください……!」
なんとかそう言えば、皇帝陛下は困ったような顔でそろりと顔を上げた。
「許してもらえるのだろうか?」
「……その、家庭教師がああいう人だと知っていてワザとわたしに当てがったわけではないことは分かっています。ディザークも謝ってくれて、わたしは、新しい家庭教師がああいう人でなければそれでいいです。傷はヴェイン様が治してくれましたし」
許す、とは簡単に口には出せなかった。
初めて人から鞭を打たれた驚きと、痛み、それらのショックは結構大きくて、傷が治ってもつい右腕をさすってしまう。
傷が消えてもなかったことにはならない。
……そういえばドゥニエ王国では騎士に突き飛ばされて、笑われたっけ。
あの時、手を差し伸べてくれたのはディザークだった。
わたしが鞭を打たれた右腕を見せた時も、ディザークは酷く驚いて、そうしてすぐに謝ってくれた。
家庭教師を外すと約束してくれて、午後にあったはずの授業もなくなって、とてもホッとしたのだ。
「モットル侯爵家は代々忠義に厚い者達ばかりであったが、まさか夫人が皇族の婚約者に暴力を振るうとは……。私の調査が甘かったのは事実だ」
皇帝陛下はやっぱり少しだけ眉を下げていた。
わたしもどうすればいいのか困ってしまい、皇帝陛下との間に微妙な沈黙が続く。
こほん、とディザークが小さく咳払いをする。
「あの家庭教師だが、どうやらサヤが俺の婚約者になったことが気に入らなかったようだ」
「どういうこと?」
「モットル侯爵家には令嬢がいるが、その令嬢は一時期、俺の婚約者候補になっていた。娘やそれ以上の爵位の者が婚約者になるならばともかく、明らかに貴族ではないサヤを見て、認められないと思ったようだ」
ディザークの説明に「うへぇ……」と声が漏れた。
「何それ、怖っ。別にわたしとディザークの婚約にあの人、関係ないじゃん。どういう思考してるの?」
「モットル侯爵夫人は淑女の鑑と言われる自分の娘こそ、皇弟の妻に相応しいと考えていたのだろう」
「あー……、いかにも『平民です』っていうわたしが気に入らなかったのかあ」
そういうこともあるのか、と思う。
皇帝陛下に認められているから大丈夫っていうのは慢心かもしれない。
……でもディザークの婚約者候補……。
「ディザークは婚約者候補の人達の中で良い人はいなかったの? 結婚したいなって思う人は?」
「いない。そもそも皇弟の妻の地位目的の者か、そうでなくとも怯えて目も合わせられない者もいたからな」
「あはは、ディザーク眉間のしわがすごいもんね」
真似して眉間にしわを寄せて見せれば、ディザークに「やめろ」と軽く頭を押し返された。
それに皇帝陛下がプッと小さく吹き出した。
「はは、よく似てる。確かにディザークは眉間のしわが問題だな。それのせいで怖く見える」
「そうですよね、顔自体は美形なのに勿体ない」
何故かディザークが驚いた顔をする。
「え、なんでそこで驚いた顔するの?」
「……顔の美醜の判断は出来ていたのか」
「出来てるよ。皇帝陛下もディザークも美形でしょ? まあ、わたしからしたらこの世界の人達って顔立ちがハッキリしててみんな美形に見えるけど、ディザークはその中でもかなりカッコイイ部類」
言いながらまじまじとディザークの顔を眺めていると、ディザークがフイと視線を逸らした。
……お、今のは照れかな?
思わずニヤニヤしているとジロリと睨まれたが、照れ隠しと分かっているので怖くない。
「やだ、照れてる? 可愛い〜」
「……男に可愛いはないだろう」
「そう? でも女子の『可愛い〜!』は結構上位の褒め言葉だと思うよ。少なくともわたしの中ではカッコイイより上かな」
「そうか……」
ディザークが微妙な顔でわたしを見下ろす。
なんだろう、と見つめ返せば溜め息まじりに顔を背けられた。
皇帝陛下はいつの間にかニコニコ顔である。
その表情は、面白いものを見つけた、みたいな感じがした。
「ディザークとサヤ嬢は随分と仲が良いな」
その言葉にわたしは首を傾げた。
「うーん、まあ、そうかもしれないです? どういう理由であれ、ドゥニエ王国から連れ出してくれたのはディザークなので、わたしにとっては恩人ですね」
「なるほど、じゃあディザークのことは好意的に思ってくれているんだね」
「そうですね、ディザークのことは好きですよ」
横でブフッとディザークのむせる音がした。
見れば、ティーカップ片手にディザークが苦しげに咳き込んでいて、あまりに苦しそうだったのでその背中をさすった。
「大丈夫?」と問えば、咳の合間に「……ああ」と返事があったが、気管に入って苦しいのかディザークの顔が少し赤くなっている。
……うんうん、変なところに入ると苦しいよね。
特に効果がないのは分かっているけれど、なんとなくディザークの背中をさすっていれば「もう、大丈夫だ……」と手で止められた。
声は掠れていたものの、咳は治まったらしい。
手を引っ込めて皇帝陛下へ顔を戻せば、目の前に、やたらいい笑顔があった。
首を傾げてディザークを見上げると、ディザークは不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。
まあ、ディザークはいつもこんな感じだ。
「あの、それで、今日呼ばれた理由はなんでしょうか? 謝罪のためですか?」
訊けば、皇帝陛下が首を振った。
「ああ、いや、それもあったが、もう一つ理由がある。……聖女をここへ」
皇帝陛下が使用人に声をかけると、使用人が下がっていった。
「聖女様?」
「そうだ、サヤ嬢がきちんと聖女として活動出来るかどうか確かめるのが今日の目的だ」
そんな話をしているとすぐに使用人が戻ってくる。
その後ろには女性がいた。
年の頃は七十前後くらいだろうか、年齢のわりにピンと伸びた背筋もあって、凛として見える。
元の世界で言うところのシスターみたいな服を着ているけれど、色は黒ではなく、白で、袖や裾、縁などが金で、ほぼほぼ全身白に近い。
目が合うとにっこり微笑みかけられた。
……聖女様って言われるのも納得……。
まるで聖母のような優しい微笑みだった。
ぼうっと見惚れているうちに、女性は歩いてくると、わたし達の斜め前のソファーを勧められて腰かけた。
「こちらは我が国の当代聖女マルグリット・ドレーゼ伯爵夫人、そしてこちらが私の弟の婚約者であり、次代の聖女候補にと考えているサヤ・シノヤマ嬢だ」
女性が両手を胸元で交差させ、浅く会釈をする。
「初めまして、シノヤマ様。マルグリット・ドレーゼと申します。どうぞマルグリットとお呼びください」
声も穏やかで優しそうだ。
わたしも浅く会釈を返す。
「初めまして……サヤ・シノヤマと申します。わたしのこともサヤとお呼びください、マルグリット様」
「はい、分かりました、サヤ様」
ニコリと微笑まれて、自然にわたしも笑みが浮かぶ。
その場の空気が和やかになるのを感じた。
「ケヴィン、魔道具を」
……あ、使用人の人、ケヴィンっていうんだ?
いつも皇帝陛下のそばに控えているけれど、名前を聞いたのは初めてである。
ケヴィンさんは頷くと箱を二つ持って来た。
黒く塗られた木製の箱で、それがテーブルの上へ置かれ、丁寧に蓋が開けられる。
中には月球儀みたいなものが入っていた。
ケヴィンさんがそれを取り出すと、一つはマルグリット様の前に、一つはわたしの前に置く。
「陛下、私からサヤ様にご説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む」
マルグリット様が皇帝陛下に訊き、それからわたしのほうを見た。
「サヤ様が異世界よりお越しくださったことは聞き及んでおりますので、疑問などがございましたら遠慮せずにおっしゃってくださいませ」
「はい、分かりました」
ニコ、とマルグリット様が微笑んだ。
それから目の前の月球儀みたいなものを手に取り、少しだけ持ち上げて見せた。
「こちらは聖属性魔法の障壁を張るための魔道具でございます。この白い球体は魔鉱石で、これに聖属性の魔力を注ぐことで魔鉱石が魔力を貯めてくれるのです」
マルグリット様の手がほのかに白く輝き、球体部分が段々と色づき、濃い青色になった。
わたしが魔鉱石に魔力を注いだ時に黒くなったので、恐らく、マルグリット様が今、目の前で魔鉱石に聖属性の魔力を注いだのだろう。
「そうして魔力の貯まったこの魔道具を置き、下の調節ネジで障壁の範囲を決めると障壁が張られます」
コトリとテーブルへ置いた魔道具の根元、台座の部分にあるツマミをマルグリット様が回すと、球体が浮かんで外側にあったカーブを描いた枠がゆっくりと回り出して、魔道具を中心に半透明の膜が現れた。
まるでシャボン玉みたいに表面が薄ら虹色に輝いている。
「これが障壁です。この障壁魔法は魔物が入れないように設定されており、どの国の街や村でも魔物が人々の居住地に入ることが出来ないように、こちらの魔道具が使用されています」
シャボン玉みたいなそれは綺麗だった。
「触ってみてもいいですか?」
「ええ、どうぞ。人に害はございません」
試しに指で触れてみると、なんの感覚もなく指が膜を通り抜けた。
視覚的には膜があるのに感覚では感じ取れない。
それが不思議で、ちょっとだけ面白い。
「この魔道具は国中から集められます。そうして、聖属性の魔力を注ぎ入れることが、聖女の一番の仕事なのです」
「国中から……。すごく大変そうですね」
「数が多いので魔力量も多くなければつらい仕事ではありますが、私だけが聖属性の魔力持ちではございませんから、全てを聖女が担うというわけではないのです。小さな村などは神殿が聖属性持ちの神官を派遣しているので、こうして集められるのは大きな街や神官のいない村、あとは古くて交換が必要なものが帝都へ来ます」
それにふと疑問が湧く。
「大きな街や村にも神官がいるのでは?」
「はい、もちろんおります。しかし魔力の充填が出来るほどの神官が大勢いるわけではありません。治癒魔法は扱えても魔力譲渡が出来ない者、魔力譲渡が出来ても魔力量が少ない者と、残念ながら誰もが適しているわけではないのです」
聖女は聖属性の豊富な魔力があって、なおかつ、魔力の扱いに長けて魔力譲渡が行える者でなければならない。
そして、そういった神官達は神殿を通じて必要な村へ派遣される。
だが神官達もそう魔力が多いわけではない。
日々、魔道具に魔力を注ぎ、村の人々の傷を癒すだけで精一杯で、大きな街や村で使う魔道具を魔力で満たせる者は限られてくる。
「場所によっては数名の神官で魔力を補充している街もございますが、聖属性持ちがあまり多くはないため、聖女の魔力が求められます」
なるほど、と頷く。
……香月さんも同じ役割なんだよね?
「聖女の仕事はそれだけですか?」
「主な仕事はこれですが、時間や魔力に余裕があるようでしたら、神殿にて治癒魔法で怪我や病で苦しむ人々を救うために奉仕活動を行うこともございます。サヤ様は奉仕活動はお嫌いでしょうか?」
「今までしたことがないので、実際にやってみないと分からないです。それに治癒魔法も使ったことがないから、まずはその練習が必要だと思います」
「ふふ、正直な方ですね」
……ここで奉仕活動が好きですって言えたら、聖女らしいんだろうけどね。
元の世界では学校の活動でゴミ拾いとか清掃とかのボランティアくらいはしたことがあるけれど、マルグリット様の言う奉仕活動はそういうのとは違うはずだ。
「サヤの魔法については、これからきちんとした教師をつけて学ばせる予定だ。治癒魔法もその中で覚えてもらうつもりではある」
ディザークの言葉にマルグリット様が頷いた。
「奉仕活動のお話はまだ早かったようですね。では、まずは聖女としての第一歩として、こちらの魔道具に聖属性の魔力を注いでみましょう」
どうぞ、と目の前の魔道具を手で示される。
とりあえず両手で持ち上げてみると、ずっしりと重く、元の世界の軽い月球儀とは全く違っていた。
ほとんど魔鉱石の重さのような気がする。
「手に聖属性の魔力を集めてください」
「聖属性の魔力だけを別に分けられるんですか?」
「はい、出来ますよ。目を閉じて、自分の中の魔力を見てみてください。色々な色があるのが分かりましたら、その中から白い魔力だけを手に移動させる、と言えば良いでしょうか」
魔道具を膝の上へ置いたまま目を閉じる。
自分の体の中心に意識を向けると瞼の裏にキラキラと色が輝くのが見えてくる。
適性を調べた時に見たような、赤、緑、茶色、青、黒、白の六色がそれぞれ点滅している。
その中でも白の割合が多い。
白色に更に意識を集中させて、それがゆっくり腕を通って手に移動するイメージを持つ。
体の中心から腕、両手へと温かな感覚が動いていく。
「魔力が手に移動出来ましたら、その魔力を魔道具にゆっくりと注ぎ入れてください。いっぱいまで溜まったら、そこで入らなくなるのでやめてくださいね」
目を開けて、頷き、魔道具へ意識を向ける。
手の平からじわじわと魔力を移す。
感覚的に魔道具の魔力が空だというのが分かった。
魔力が満たされていくのに合わせて、白かった魔鉱石の球体が少しずつ黒く染まっていく。
いっぱいだと感じて魔力を注ぐのを止める。
魔鉱石の球体は真っ黒に染まっていた。
テーブルに魔道具を置くと、マルグリット様がその魔道具に触れた。
「素晴らしいです。聖属性の魔力がきちんといっぱいまで入っておりますね。魔力の質もとても良さそうで、これならば強くしっかりとした障壁が張れるでしょう」
マルグリット様が嬉しそうに微笑んだ。
それに皇帝陛下も同じような顔をする。
「聖女としての素質は問題ないか?」
「はい、陛下、聖属性の魔力は質も良く、魔力量も色を見る限り私よりも多いでしょう。魔力譲渡もとても滑らかに行われており、サヤ様は聖女としての素質がとても高いと思われます」
皇帝陛下が頷き、わたしを見る。
「サヤ嬢には我が帝国の聖女となってもらいたい」
断定した言葉に苦笑してしまう。
……ゆっくり過ごしたかったなあ……。
でも、そう思う反面、嬉しいとも思った。
聖女様のオマケと言われたわたしだったが、そうではなく、きちんとわたしにも出来ることがある。
わたしはオマケでも巻き込まれたわけでもなく、わたし自身も聖女だった。
……香月さんに教えてあげたい。
自分の召喚にわたしを巻き込んだと思っているようだったから、これを知れば、少しは香月さんの心も軽くなるだろう。
「必要としてくれるなら、帝国の聖女になります」
皇帝陛下がそれに笑った。
「必要だ。聖女は国の護りの要。サヤ嬢が聖女になってくれれば、我が国としても心強い」
「サヤが聖女になるならば新たな聖女について、公表しないといけませんね」
「ああ、新たな聖女の公表は祝いごとなので大々的に行う予定だ。各国の要人を招いて、ね。全属性持ちの聖女となれば国民も大いに喜ぶだろう」
ニヤリと皇帝陛下が悪そうに笑う。
……ドゥニエ王国は悔しがるだろうけどね!
自分達が無能と捨てたわたしが、実は無能ではなかったと知ったら……。
あの王太子はどんな顔をするだろうか。
思わずニヤリと笑ってしまったわたしは悪くないだろう。
……逃した魚の大きさを知るがいい!!




