……ほんとに、異世界なんだ……。
「随分と機嫌が良いな?」
目の前に座る皇弟殿下に問われる。
藍色の短髪に切れ長の紅い瞳をした、鋭い顔立ちの男性は座っていてもわたしよりずっと長身なのが分かる。
眉間にしわが寄っていて、一見すると不愉快そうな表情に感じられるが、その声は意外にも落ち着いていた。
「王太子の最後の顔が面白かったから」
膝の上に広げたハンカチからクッキーを取る。
真ん中にジャムが入った美味しそうなそれを、なんとはなしに眺め、思い出す。
満面の笑みを浮かべたわたしに、彼は小さく息を吐いた。
その様子を見ながらクッキーを食べる。
この世界に召喚されてからいろいろあったが、こうしてわたしが穏やかに過ごせるのは彼のおかげである。
「ディザーク」
名前を呼べば、彼がこちらを見る。
「なんだ」
「あの日、助けてくれてありがとね」
「……別に、俺は当然のことをしたまでだ」
彼の眉間にしわが寄る。
それが照れ隠しだと知っている。
彼の素っ気ない言葉にわたしは「そっか」と笑って頭上を見上げた。
柔らかく差し込む木漏れ日が心地良かった。
* * * * *
水曜日の放課後。
やっと週半ばだと、溜め息を呑み込みながら日誌を書く。
もう一人の日直は教室内の机の並びを丁寧に整えていて、わたしはそれをチラと横目に見た。
クラスメイトであり、前の席の女子だ。
どこか楽しそうなのは、多分、この後に部活があるからだろう。
柔らかなピンクブラウンに染められた髪は肩口でふんわりと切り揃えられており、カラーコンタクトだろう同色の瞳をしており、薄く化粧がしてある顔はとても可愛らしい。
勉強も運動も出来て、真面目で優しくて、見目が良い。クラスどころか学校全体で人気が高くて有名な子だ。
ふっと視線を手元に戻す。
日誌に黒髪が落ちて、それを肩に払う。
それに比べてわたしは染めてもいない真っ黒な長い髪に、面白みのない黒に近い瞳、外見も平凡と言ってもいい。
勉強、並み、運動、並み、外見、並み。
どこでもいる平凡な女子高生。
それがわたしだった。
それでもいいと思っていた。
……その瞬間までは。
適当に日誌を書いていると、足音が近付いてくる。
顔を上げればクラスメイト──……香月優菜さんが立っていて、小首を傾げて訊かれた。
「篠山さん、こっちは終わったけど、日誌は書き終わったかな?」
篠山沙耶。それがわたしの名前だ。
「うん、もうすぐ終わるから、香月さんは先に部活に行ってもいいよ」
「え、いやいや、それは悪いよ! 私も日直だし、書き終わったら一緒に職員室に出しに行こう?」
慌ててぱたぱたと手を振る香月さんは可愛い。
同性でもそう感じるのだから、異性だったら、もっと可愛く見えるのだろうなと思った。
「分かった、すぐに書く……?」
急に足元がパッと輝いた。
「え?」と呟いたのはわたしなのか、それとも香月さんなのかは分からなかった。
二人同時に足元を見た瞬間、一際強く、足元の光が輝いた。
「きゃあっ、何これ!?」
香月さんの悲鳴と共に光に包まれる。
エレベーターに乗った時のような、わずかな浮遊感に襲われ、ガクンと座っていた椅子が消えた。
そのせいでわたしは強かにお尻を打ちつけてしまう。
「痛っ」
……いったい何が起こったの?
その気持ちに答えるかのように、声がした。
「おお、聖女様だ!」
「聖女様がいらしてくださったぞ!!」
と、ざわめきが聞こえてくる。
顔を上げれば、わたしのすぐそばに香月さんが同じく、お尻をさすりながら辺りを見回している。
わたしも釣られて周りを見ると、見知らぬ人々に囲まれて、わたしと香月さんは不思議な図形の中心にいた。
人々がわっと近付いてきて、わたしは押し退けられた。
「え、ちょ、うわっ?」
その人々は香月さんを取り囲む。
全ては聞き取れないけれど、喋る内容に「聖女様」「召喚」「成功した」というのはなんとか理解出来た。
呆然としていると、金髪の若い男性がカツカツと踵を鳴らしながら近付いてくる。
やたら整った顔立ちのその男性が跪いた。
「聖女様、お名前をどうかお教えください」
問われた香月さんが「え?」と目を瞬かせた。
「あ、え、私ですか……?」
「はい、私はヴィクトール゠エリク・ドゥエスダンと申します。我がドゥニエ王国の王太子です、聖女様」
男性がそっと香月さんの手を取る。
香月さんは戸惑いながらも質問に答えた。
「えっと、私は香月優菜です。香月が家名? 姓? で、優菜が名前です……?」
「ユウナ様とおっしゃるのですね。この度は我らの召喚魔法に応じてくださり、ありがとうございます」
「しょうかん……?」
「はい、ここはユウナ様のおられた世界とは別の世界なのです。突然のことで驚かれたとは思いますが──……」
その光景を見ながら、わたしはポカンとする。
聖女、召喚魔法、別世界……?
……待った、こんなの、まるで最近流行りの女性向けファンタジー小説じゃないか……!!
呆然と眺めていると、近くにいた、甲冑みたいなものを着た人間に腕を掴まれた。
「殿下、こちらの者はいかがいたしますか?」
それにこの国の王太子だという男性が振り向く。
わたしを見たその美しい緑色の瞳が冷たく細められる。
「何者だ?」
それに香月さんが慌てて声を上げた。
「あ、篠山さんはクラスメイトで……!」
「くらすめいと、とは何でしょうか?」
「えっと、同じ部屋で一緒に勉強を学んできた友達というか……」
その説明に男性が「ふむ」と考える仕草をした。
「その者は客間にでも連れて行け」
そう言った声は、香月さんに話しかけていた時とは打って変わって冷たいものだった。
わたしの腕を掴んでいた人が「はっ」と返事をし、わたしを引っ張って立たせると、有無を言わせずそのまま引きずるように連れて行かれる。
「ちょ、待って……っ」
必死に足を突っ張ってみても、容赦なくずるずると引きずられて、廊下らしきところへ出される。
振り返れば、閉まりかけた扉の向こうに香月さんと王太子とかいう男性、多くの人々がいた。
でも、誰もこちらを見てはいなかった。
「離してっ、ねえ、ちょっと!!」
声をかけても、まるで聞こえていないかのように腕を引っ張る力は緩まない。
それどころか強く腕を掴まれて痛いほどだった。
しかも前を進む人の足は速くて、なんとか追いつくだけで精一杯だ。
しばらく小走りで追いかけて、急に立ち止まるものだから、その人の背中にぶつかってしまう。
思い切りぶつかった鼻を押さえていると、横の扉を開けたその人に目で示された。
「ここでお過ごしください」
背中を押されて中へ入る。
背後でバタンと扉が閉められた。
部屋は広くて綺麗だけれど、それだけだ。
誰か説明してくれる人もいない。
窓に近付いて外を見れば、眼下には赤やオレンジ色の屋根が密集して、街を形作っている。
日本の町並みとは似ても似つかない。
一瞬、影が通りすぎた。
それを目で追えば、そこには小さなドラゴンのような生き物が飛んでおり、よくよく見ると背中に人を乗せているらしかった。
「……ほんとに、異世界なんだ……」
はは、と乾いた笑いが漏れる。
先ほどのことを思い出した。
あの人々の言葉を信じるなら、ここは異世界で、香月さんが聖女としてこの世界に魔法で召喚されたのだ。
誰もが香月さんを見て聖女だと言った。
……香月さんが聖女なら、そうではないわたしは?
物語なら、聖女様は異世界に召喚されて、みんなから愛されて、敬われて過ごすことが出来る。
でも聖女でない者はどうだろうか。
……ここから逃げるべき?
だけど逃げたとして、どこに行ける?
この世界のことを何も分からないのに。
壁に背中をつけて、ずるずるとその場に座り込む。
……どうしたらいいの……?
考えてみても解決策は思い浮かなばなかった。
そうして、ただ延々と時間だけが過ぎていく。
気付けば部屋は薄暗くなっていた。
トントントンと扉が叩かれる。
慌てて立ち上がると、扉が開いた。
そこには一人のメイド姿の女の子がいた。
「ほ、本日より、お世話をさせていただきます、マリー・ルアールと、も、申します……!」
どう見ても新人ですといった感じの子だった。
柔らかな茶髪を二つに分けて三つ編みにしており、丸眼鏡の奥には垂れ目がちなくすんだ金の瞳がある。見た目からしてわたしと同じか少し年上だろう。
落ち着かない様子のそのメイドさんはどう見ても気弱そうだった。
「わたしは篠山沙耶です。えっと、沙耶が名前だけど、歳も近そうだし、マリーって呼んでもいいですか?」
「は、はいっ、私のことはお好きにお呼びください! それから、使用人の私に丁寧な口調は、その、不要ですので……!」
なんとか言えた、という風なメイドさんに苦笑してしまう。
「うん、分かった。じゃあマリーちゃんって呼ばせてもらうね。マリーちゃんもわたしには気楽に話してくれる?」
「い、いえ、聖女様と同郷の方にそのようなことは出来ません……! 怒られてしまいます……!!」
「そっか……」
ぶんぶんと手と首を振る姿に、残念に思う。
だけど無理強いしても仕方がない。
「改めまして、ほ、本日より、よろしくお願いいたします……!」
マリーちゃんの言葉に頷き返す。
「うん、分からないことだらけで迷惑かけちゃうかもしれないけど、よろしくね」
「はい! あ、お、お疲れですよね? お食事にいたしますか? それとも湯浴みをされますかっ?」
言われて、うーん、と考える。
この状況のせいか食欲は湧かなかった。
……出来れば、わたしの状況を知りたいかな?
「マリーちゃん、良かったら一緒にお喋りしない? わたしも、ここに来てすぐにこの部屋に入れられたから、何が起こったのかよく分からないの」
マリーちゃんがハッとした顔をする。
「そ、そうなのですね……。では、僭越ながら私がご説明させていただいても、その、よろしいでしょうか?」
「うん、そうしてもらえると凄く助かる」
マリーちゃんにソファーを勧められてそこに座る。
でもマリーちゃんは立ったままだった。
使用人が一緒の席に着くなんて、と勧めても絶対に座らなかったのだ。
それはともかく、わたしはマリーちゃんからこの状況について聞くことが出来た。
この世界には、まず、魔物というものが存在する。
簡単に言うと魔法が使える獣や人型の異形の者達なのだとか。
凶暴で、人間を襲い、そして魔物は総じて人間よりも強い。
そんな魔物は世界中のどこにでもいて、普通に過ごしていては人間が襲われてしまう。
そのため、村や街などに魔物が入れないように、特別な魔道具で障壁を張る。
しかし障壁は聖属性の魔力でなければならない。
だが聖属性の魔力持ちは少なく、魔道具に魔力を注げるほどの者はもっと希少らしい。
各国には聖人、または聖女と呼ばれる聖属性の魔力保持者が存在していて、自国の民のために、魔道具に魔力を注いでいる。
「ですが、このドゥニエ王国の聖女様は数ヶ月前にお亡くなりになられてしまいました。そ、その後、国中を探し回ったのですが、魔道具に魔力を注ぎ込めるほどの聖属性魔力の保持者は見つかりませんでした……」
このままでは魔道具が機能しなくなり、村や街が魔物に襲われてしまう。
それを防ぐために、ドゥニエ王国は周辺国にも使者を遣わせたものの、どの国からも良い返事はなかった。
どこの国でも聖人、聖女は国を、民を守るために必要な特別な存在だ。
手放すことなどありえなかった。
「そ、そのため、我が国は最後の手段として、召喚魔法を行うことになったのです。ドゥニエ王国の歴史には時折、召喚魔法によって現れた聖人様や聖女様がおられました。こ、今回も、そのお慈悲に縋ろうとしたのです」
「なるほど」
つまり、香月さんは聖属性の魔力を持った聖女様で、召喚魔法によって喚び出されたのはやっぱり彼女で、わたしはそれに巻き込まれたということか。
「じゃあ、本当にわたしは巻き込まれただけなんだね」
マリーちゃんがびくりと小さく肩を震わせた。
「も、申し訳ございませんっ」
「なんでマリーちゃんが謝るの?」
「だって、その、サヤ様は関係がなかったのに、こちらの世界に引き込んでしまって……」
まるで悪いことをして叱られた子供みたいにマリーちゃんが震える声で言うものだから、わたしは思わず、立ち上がって彼女の手を握った。
「確かに巻き込まれたけど、マリーちゃんのせいじゃないでしょ? ……たまたま、運が悪かったんだよ」
顔を上げたマリーちゃんの目が潤んでいる。
「今まで召喚された聖人様や聖女様が、元の世界に戻ったって話はない?」
「あ、ありません……」
泣きそうなマリーちゃんに苦笑が漏れた。
……やっぱりそっか。
喚び出すのは簡単でも、元の場所に戻すのは難しいというのは、こういう物語ではありがちではないだろうか。
帰れないということは、家族にも、友達にも、もう誰にも会うことが出来ないのだ。
頭で理解していても、心が追いつかない。
実感がなくて、現実味もなかった。
ただ漠然とした不安だけは感じられた。
「わたしは何をしたらいいんだろうね」
聖女でもないオマケのわたし。
この国に必要とされていないだろう。
「サヤ様はゆっくりお過ごしください! その、す、好きなこととか、見つかったら、それをすればいいと思います……!」
マリーちゃんの言葉に「そうだね」と頷く。
だけど、数時間前に見た王太子だという男性の冷たい眼差しを思い出す。
……あんまり楽観視はしていられないかもなあ。
あの冷たい眼差しは明らかに「お前は不要だ」と語っていた。