5.彼女と転校生の関係
「…… もう、意気地のない人」
逃げ出した背中が遠ざかるのを見つめながら、思わずそんな言葉が溢れてしまった。
彼の本音を聞き出そうとして、距離を詰めすぎたかもしれない。
手を触れた後の明らかに動転した様子を思い出して反省する。
「それにしても幼馴染、ね」
彼がどういう意図を持って言い出したのかは分からない。
けれど、私も伊達に男子の思いの丈を受け続けていたわけではない。
目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、彼は告白してくる男子と同じ目を、見るものを焦がす熱を宿していた。
おそらく好きだということを誤魔化すために幼馴染という言葉を使ったのでしょう。
そういえば、私と右下君が出会ってから四年程度は経っている。
中学時代からの親交を世間一般では幼馴染と呼ぶのかしら。
私と彼が、幼馴染になる、ないし周囲からそう呼ばれる事を想像する。
「…… 冗談じゃない」
誰も居ない路地に向かって自分でも驚くくらい低い声が出る。
辛いときには慰めてくれて楽しいときは一緒に笑ってくれる。
苦しいときには手を差し伸べてくれて、春も夏も秋も冬も、いつもそばに居てくれた。
喧嘩だって珍しくないほどいつも隣に、それが私にとっての『幼馴染』。
家が隣なだけの人間が私の『幼馴染』を塗りつぶしていくのにひどい嫌悪感が湧く。
絶対ありえない。
「……はぁ」
自分の中に湧き上がる種々の感情を外へと吐き出す。
彼に幼馴染のことは話していないし入れ替わりに引っ越してきたのだから、おそらく知る由もない。
頭では悪気はないのだと理解はしている。
理解はしていても許容できないのは狭量としか言いようがない。
「……」
足音が聞こえなくなってから数分。
告白まがいの事をしておきながら、あの様子では暫くは戻ってこない気がする。
幼馴染などと学校で吹聴されては困るけれど、居ることを知られるのは吝かではない。
何処に行ったのかも分からないしそれとなく釘を差すのは今度にしましょう。
「……ふぅ」
モヤモヤとした気分をため息とともに吐き出し、青空へと手をかざす。
せっかく戻ってきた日常を憂鬱な気分で過ごすのは馬鹿げている。
そうだ、朝ごはんの用意をして待ってくれているのだから早く戻らないと。
穏やかな朝日に目を細めながら私は家へと急いだ。
玄関をくぐり洗面所で手を洗う。
今日は両親も給仕さんも居ないので、廊下は私の足音だけが響いている。
食堂に顔を出すと既に二人分の朝ごはんが用意されていた。
アジの干物を焼いたのにお新香、ほうれん草のおひたしと今日は和食みたい。
焼いた魚とお味噌汁の香りにつられてお腹の虫が騒ぎ出してしまう。
台所の方にいるもうひとりの家人に聞こえていないと良いのだけれど。
「おかえり。ゴミ出しありがとうね」
「ただいま。このくらい朝ごはん前ね」
「あはは、本当にね。チョット待っててご飯とお味噌汁持ってくるから」
私の分が揃い、二人で手を合わせていただきますと挨拶をする。
ニ週間ぶりに戻ってきた私の日常、何よりも大切な愛すべき日々。
この時間が戻ってきたことにご飯を食べているだけで頬が緩んでしまう。
「あれ、アジの干物そんなに好きだっけ?」
「え、好きは好きだけど……」
「いや、随分と嬉しそうに食べてるなと思って」
「だって、総司君のご飯食べるの二週間ぶりだもの。舌も鼓を打つし、頬は落ちてるかもしれない」
「大げさだなぁ。美味しそうに食べてくれるのは嬉しいけどね」
私の称賛を受け、そんな大したものじゃないよとはにかんでいる。
そんな姿を見ながら『幼馴染』が作ってくれたご飯に舌鼓を打つ。
「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
食器を片付けて一息つく。
最近は公式試合に向けて慌ただしい日々に追われ、総司君もホテル住まいになって離れを空けていたため、こうして二人でゆっくりする機会に恵まれなかった。
食堂の時計に目を向けると九時を少し過ぎた所、空は快晴で私達は暇を持て余している。
「アヤメ、最近練習ばっかりだったし息抜きに出かけない?」
「えぇ、ぜひ。ふふ…… 練習漬けになったのは誰のせいかしらね?」
「あはは…… 誰のせいだろうね?」
照れ隠しに少し意地悪な問いかけすると言葉を濁して苦笑された。
誘ってくれているので大事は無いと思うのだけれど、本人曰く転んだという頬には大きな絆創膏が貼られている。
「その頬の怪我は大丈夫? 痛むのならお医者様に見てもらったほうが」
「ダイジョーブだよ笑うと引きつるくらいだから。腫れも大分引いたし医者に行くほどじゃないさ」
「それならいいけど無理はしないでね」
「ありがと。さて女の子は色々とあるんじゃない準備? てことでお互い部屋に戻ろうじゃないか」
「わっ、ちょ、ちょっと……」
怪我に触れてほしくないとばかりに、椅子を引かれて食堂から追い出されてしまった。
「あまり華美なのは、引かれてしまうかしら」
自室に戻りお気に入りの服に袖を通す。
二人で遊ぶのは久しぶりなので普段より綺麗に見てもらいたい。
姿見で着こなしを確認しているとふと頬にあてていた手に視線が向く。
私が屋上で会った時に総司君は絆創膏はしていなかった。
「手を出したのは右下君……なのでしょうね」
今朝のやりとりでおおよその目星は付いたと言える。
右手を痛めていた彼、ただ拳を振り上げた理由を挙げるとすれば。
「私のために、か」
ため息分さえ気持ちは軽くならなかった。
本人は隠しているつもりなのでしょうけど傍から見れば一目瞭然。
総司君も気づいているのか自身を悪者にして発破をかけたり、仲を取り持とうとしたり、ただの『お隣さん』に余計な気を回している節がある。
「ほんと意地悪なんだから……」
離れてしまっていた分また一歩ずつ距離を近づけないと。
昔のように『幼馴染』さえそばに居てくれれば十分なのだから。
着替えを終えて私は部屋を後にした。
「…… 納得いかないわ。幼馴染があれだけ好意を示しているのに、全然気づかないなんて。あの主人公の目はビー玉で出来てるのかしらね。あげく一目惚れとか言って転校生にまとわりついてるし」
休日と梅雨の晴れの相乗効果でガラス越しに映る人の流れは忙しない。
その姿を横目にファストフード店の一角で私達は昼食を済ませた。
似たように足を運んだ人達が多いのか、広い店内の割に二人がけの席は埋まっていて、少し耳をすませば映画の感想が聞こえてくる。
「辛辣だねぇ…… でも、こういう話だと一目惚れって割と定番じゃない?幼馴染の好意に気づいてたら、そこで話終わっちゃうでしょ」
「転校生なんて当て馬で十分、幼馴染は重ねた年季と感情が違うもの。ひと月程度じゃ人間の内面なんて全くわからないのに、外見に惑わされているだけよあんなもの」
クラスメイトの評判に違わず映画の出来自体は満足のいくものだった。
けれども結末にはどうしても眉根を寄せてしまう、炭酸で喉を潤しても爽快感は得られなかった。
「そういえば、転校生と付き合いたい部員と勝負するところとかあったっけ。何だか見覚えがあるようなエピソードが結構あったね」
「えぇ、お陰様で他人事に思えなくて困ってしまうわ。たしかに、ストーリーラインは嫌いではないけれど」
主人公は小さな頃から真剣導を続けていたものの大会で結果は出せず高校になる頃には真剣導に対する熱意を失っていたというのも、春先までの状況の重なり具合に戸惑ってしまう。
そこまで考えてはたと気づく、私にとっては転校生も幼馴染も総司君になるわけで、映画の彼は転校生に惹かれていたけれど、私にとってはどちらも変わらないわけで。
「ふふ」
「…… 急にどしたの?」
「折り合いがついたの、映画は映画で私は私。あの結末に不貞腐れる事なんて何もなかったって」
「それはなにより。アヤメの中で納得できたのなら、それが一番だからね」
そう言って笑顔を向ける総司君と何を憚ることなく映画の感想を語り合った。
綺麗な茜空にそのまま帰るのは味気ないと帰り道から逸れて砂浜に足を運んだ。
広がる空に雨の気配は未だなく、梅雨の晴れ間は今日一日大丈夫そう。
波打ち際近くで潮騒を聞きながら歩いていると、少し前を歩いていた総司君がこちらに振り返る。
「アヤメは熱意を取り戻すことは出来た?」
普段とは違う神妙な表情に冗談を言う素振りはなかった。
「真剣導?」
「うん」
夕暮れ時は感傷的になるのかしら、昨日まで私が背負っていた重りについて少しだけ思いを馳せる。
「…… 私ね、周囲の期待に応えるため、お母さんの記録を超えるため、そんな『飾り』のために剣を振りつづけて、真剣導を続けていた本当の理由も忘れてたの」
初めはただ試合に勝って嬉しかっただけだった。
自分が総司君達と過ごした時間を無駄しないため、そんな動機で続けていた真剣導でも努力した結果が報われるその瞬間に喜ばないはずがない。
女子が勝つのが珍しいのか、勝ち続けると一人また一人と私に重荷を背負わせてくる。
それは毎試合増えていくようになって段々と勝つことが重荷になっていく。
期待を裏切られた時、人はとても醜くなることを私は知っている。
百年の恋も冷めるとはよく言ったもので、ずっと好きだった人にさえ例外はなかった。
自分の中にあるこの醜いモノに向かい合うのが怖くて、期待を裏切らないよう必死に努力をした。
いつしか私に勝利の喜びはなく、期待に応えられた安堵だけが残るようになった。
勝ち星に比例するように多くかけられる応援が私に重くのしかかってくる。
誰が悪いわけでも悪気があったわけでもない、だから応援してくれる人達に弱音は吐けない。
私に出来ることは彼らの期待を裏切らないことだけ。
勝手な期待でさえ裏切ってしまったあとのことを考えるのが怖かった。
「そんな時ね、総司君が戻ってきてくれたのは。真剣導をまた教えて欲しいって言ったのは、本当は軽い冗談のつもりだったの。でも実際に教えてもらって昔に戻ったみたいで楽しかった」
子供の頃に遊んでいた内容そのままで、基礎技術の向上になるのは驚いたけれど。
「真剣導の話になると何だか疲れた顔をしてたしね。息抜きになれば良いかなと思って引き受けたんだ」
技術的にも精神的にも連勝記録があそこまで伸びたのは彼のおかげだと言って過言ではない。
それでも最後は勝つための立ち回りを追求し最善の道以外を選ぶリスクを取れなくなっていた。
そんな画一的な動きは大会では通用しないと、総司君は何度も忠告をしてくれたのに私は聞き入れることが出来なかった。
「後で聞いたのだけれど、お母さんも同じような状況だったって。母娘揃って同じ轍を踏むのはそういう運命なのかしらね」
総司君に負けたとき、悔しさも余計なお世話だという憤りも無かったといえば嘘になる。
今まで頑張ってきたことが泡沫に消えた、その喪失感は拭いきれない。
「努力したのに、先輩達に手伝ってもらったのに届かなくて。悔しくて悔しくて、涙が滲むくらい悲しかったのに」
静まり返った会場の中で結果を受け止めきれず俯く私に総司君はただ一言。
「次は気負わずに勝てるようになるって。今負かした相手に言うことじゃないわ、普通……」
涙が止まるくらいに無神経で、でも私が必ず成し遂げると信じているような声。放言といって差し支えないのにその一言に肩の荷が下りてしまったのは他でもない私だった。
声援も止んで静まり返った会場の中で、総司君だけは何も諦めず私を信じてくれた。
「まーなんというかね、いわゆる体験談ってやつだよ。冬には何であんなに悩んでいたんだろうって、笑い話になるさ」
「ふふ、そうね。勿論そうするために手伝ってくれるのでしょう?」
「もちろん、母さんの記録だって超えられるさ。それと昔約束したろ、君が困った時は必ず助けるって」
「えっ……」
それは幼い頃に交わした約束。
総司君が引っ越したあの日に、二度と叶わなくなったのだと心の奥底にしまっていた思い出。
本人にとっては昔の約束で、ただの幼馴染として手を貸しているのでしょう。
本当に困った人、蜘蛛の糸でさえ地獄に垂れれば慈悲になることを理解していない。
金の瞳は水平線の向こうを見つめていて、その心の裡は読み取れない。
「まぁ僕に出来る範囲で、だけどね」
「…… うん、覚えていてくれてありがとう」
こちらを向いたその瞳には私を案じてくれる穏やかな熱がある。
もう少しだけ彼に甘えても良いのだろうかと、寄せては返す波のように不安と期待が押し寄せる。
「それなら、私達が幼馴染だってクラスのみんなに伝えたら駄目? 総司君は悪くないって皆なら分かってくれると思う」
「みんなは大丈夫だろうけど今は時期が悪いかな。相手が身内だったなんて、どうしても茶番に聞こえてしまうから」
人の口に戸は立てられない。良くも悪くも連勝記録の話題が強い今、色眼鏡で見られることは避けられない。
私の為に奔走してくれた人達の努力も、私自身が悩んだことも嘘じゃないと総司君は続けた。
怪我で転校してきたこともあり、初日から目立ちたくないと学校では私達が幼馴染であることは秘密にしていた。
クラスに慣れた頃に話すと聞いていたけれど今回の件でまだ暫くは伏せる事になる。
現在、私達の関係を知っているのは仲の良い共通の友人くらい。
「でも、このままだと悪者扱いされるのは火を見るより明らかでしょう? 私から釈明も出来ないなんて歯がゆいわ」
事情を知らないから仕方ないとはいえ、私が観客に謝罪したときも総司君を批判する声は聞こえてきた。
「そこは織り込み済みだよ。今は記録更新に関心があっても一過性のものさ。夏も過ぎたら他に目が移ってる」
「…… そうだと良いのだけれど」
私の事は目聡いのに自分のことに無頓着なのは昔と変わらず。
幼馴染としては心配になるのでもう少し自身を気遣ってほしい。
「けど、少し安心したんだ」
「安心?」
「あぁ、今の君には困った時に手を貸してくれる人がいるってことに」
「そうね、私も良い縁に恵まれたと思う」
先生や部長、友人にクラスメイトと今回の件に関わった人達は多い。
「でも、最初に私の手を取ってくれるのは総司君だから。絶対に、絶対にこれは変わらないから」
感情のすれ違いをからかうように風が私達の間を通り抜ける。
初夏を過ぎたとはいえ夕暮れ時の海風はやや肌寒かった。
「ちょっと冷えてきたかな。風も出てきたしそろそろ帰ろうか」
「えぇ、夕焼けも堪能できたし、そうしま―― ッ!?」
一際強く吹いた風に煽られて姿勢を崩して倒れ込みそうになる。
咄嗟に砂まみれになるのだけは回避しようとしたけれど、それは杞憂に終わった。
「っと、大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
抱きとめられる格好で総司君の腕の中に私は収まっていた。
耳元に近い言葉も気遣わしい目も、全部私の感情を振り回してしまう。
「ありがとう、砂まみれにならずに済みました」
結果出てきたのは驚くほど他人行儀な感謝の言葉。
我ながらもう少し可愛らしい返事が出来なかったものかと反省する。
「どういたしまして。足取られたら危ないし、砂浜出るまで手を繋いでいこうか」
「えぇ、一蓮托生ね。私が倒れたら総司君も道連れだから」
「その時は手を離すので安心して倒れていいよ。砂なら払ってあげるから」
「えぇ、ひどくない?」
そんな軽口も風に飛ばされないよう、手をつないで歩いて行く。
離れていた四年間で嫌というほど分かったことが、いえ、分かりきっていたことがある。
貴方が思っているよりずっと、私は貴方のことを好きだったのだと。
言葉通り砂浜を出れば離れてしまう距離感、今はそれで十分。
けれどいつか、また昔のように手を繋いだまま帰れることを夢見て。
私は噛みしめるように砂浜を歩いた。
読んでいただきありがとうございます。