4.彼女とお隣さんの関係
試合終了のベルが鳴り響く中、誰もがこの結末に声さえ発することが出来ない。
無論、試合をすぐ横で見ていた俺達も例外ではない。
試合場の横にある電光掲示板には石上に三ポイント入っていた。
「いやいやいや。普通は位置をずらすなり距離をずらすのが王道なんだけど」
先生も驚いた様子で試合を振り返る。
そう、三戦目のあの一瞬の攻防で流れが変わった。
「返す返すも、縮地に合わせて前宙で躱して背後を切りつけるって斬新すぎない?」
「二戦目までは様子見だったってことですね。鵠沼、四戦目は正面から打ち合って手も足も出なかったんで、ちょっと予想外でした」
「クソ……今まで手を抜いてたってことかよ」
試合が終わっても場内は重苦しく沈黙している。
楽勝ムードは三戦目で微塵に砕かれ、四戦目は実力で圧倒され手も足も出ずに敗北。
連勝記録も鵠沼の努力も水泡に帰してしまった。
重たい沈黙の中、鵠沼は観客席の方へ歩いていく。
一体何をしようというのだろう。
「本日はご足労いただいた中、このような結果になってしまい申し訳ありません。連勝記録を塗り替えるのには私は力不足だったのでしょう。相手の方が実力が上だった、その一言に尽きます。ですがこの結果を踏まえて初心に立ち返り、引き続き研鑽していく所存です。これからも、私達女子真剣導部を応援していただけると幸いです。今日は応援に来てくださり、ありがとうございました」
鵠沼は観客席のある二階に向けて頭を下げる。
一番辛いだろうに泣き言一つ言わず結果を受け止めたその真摯な対応に、観客席から応援の声や拍手が投げかけられる。
温かい対応に鵠沼は再度一礼してからこちらに戻ってきた。
「先生、先輩も申し訳ありませんでした。せっかく時間を割いて頂いたのにこのような結果になってしまって」
「胸を張りな、よく頑張ったよあんたは。相手が強かった。ただそれに尽きる」
「残念だったけど気持ちを切り替えていこう。本番は夏の大会だ、全力でぶつかった先には成長がある。鵠沼ちゃんはまた強くなれるよ」
「ありがとうございます。連勝記録に目が眩んで本当に何もかも見失っていたんです。この敗北はその事に気づかせてくれました」
目尻に涙を浮かべて話す鵠沼は悔しさを滲ませていた。
「……本当に馬鹿でした、私」
観客の前では見せなかった表情にこちらの胸も締め付けられる。
「今日は本当にありがとうございました…… 勝手ですが、少し一人になりたいのでお先に失礼しますね」
ことの成り行きになんと声をかければ良いのか迷っていると、鵠沼は先輩達に頭を下げ荷物をまとめて校舎内に戻ってしまった。
どんなに気丈に振る舞っていても負けた事実は彼女の肩に重くのしかかっているのだ。
口には出さなくてもその表情が物語っている。
「あ……」
声をかけようと手を伸ばしたが、二の句が告げずそのまま走り去るのを見送るしか無かった。
試合にも縁のない俺が何かを言って一体何の慰めになるのだろうか。
「何ぼーっとしてんの!」
「追いかけないと駄目だよ、若人!」
「でも、一人になりたいって……」
「そうでしょうけど、心配だったら付き添ってあげなさい。そばにいるだけでも良いから、あんたが一人にさせたら駄目でしょ」
「一人で居たい時間が終わったら、誰かに会いたくなるもんよ。そういうとこきっちり抑えておかないと駄目だぞ男子」
「え…… いや、はい」
二人に追い立てられるように体育館から追い出された。
昇降口から姿はもう見えない、一体どこへ行ったのだろうか。
「どこにいるんだ、鵠沼」
休日の無人の校舎を当て所もなく彷徨っている。
試合は終わり観客もほとんどが帰ったとあって、校内はひどく静かだ。
普段はあれだけ騒がしい教室が静まり返っている様子は現実味がなく、同じ景色が続く迷路に迷い込んだ気分だ。
彼女のクラスを覗いてみたがここにも居ない。
体育館からここまで教室や通路を見回して来たが、途中で顔を合わすことは無かった。
真剣導部は部活棟に部室は無いからそちらに行くとは思えない。
スマホに送ったメッセージに返信は無かった。
教室を出て廊下を歩いていると幾人かの生徒が階段を降りていく姿を見かけた。
観戦していた生徒だろうか、忘れ物を取りに来たというには人数が多い気がする。
当て所もなく彷徨うには校舎は広い、鵠沼が行きそうな場所は他にあるだろうか。
先程の生徒達が降りていた階段は屋上へと続いている。
「屋上か……」
休日に屋上が開放されているとは思えないが他に行くあてもない。
ただの推測でしか無い僅かな希望にかけてみよう。
そうして階段に向かう途中、丁度階段を降りてくる人影が見えた。
向こうもこちらに気づいたらしく下の階へと降りずにこちらに歩いてきた。
「石上……」
「やぁ、右下君。こんな所に一人で何の用? 肝試しにはまだ早いんじゃないかな」
先程の試合のことなど頭に無いような態度で話しかけられる。
試合が終わったのだからいがみ合うことも無いのだろうが、先程の鵠沼を思い出して苦い顔をしてしまう。
「別になんだって良いだろ…… 気分転換に歩いていただけだ」
「鵠沼さんなら、屋上には居ないよ。もう帰ってるんじゃないかな」
「…… っ!」
横を通り過ぎようとすると、欲しがっていた答えが転がり込んできた。
こちらの考えはお見通しだとでも言うのか、呑気な表情を浮かべる石上をついにらみつけてしまう。
「ん、当たったみたいだね。彼女の事随分気にかけてるんだね、やっぱりあの子のこと好きなの? 誰も居ないんだし、ここまで来たんだから教えて欲しいな」
何が面白いのか満面の笑みを浮かべてとんでもない事を言い出した。
先輩達には話してあるが、こいつに何の縁があってそこまで話さなければいけないのか。
「何だって良いだろ、お前には関係ない話だ」
「大ありなんだなこれが。ほら、いつか君が言ってたじゃないか、鵠沼さんは自分より強い相手と付き合いたいって。つまり、勝った僕って付き合えるんじゃない? ライバル登場だよ、やばくない?」
「寝言は寝て言え、お前にさんざん甚振られたのに好きになるわけ無いだろう。試合や今までのこと忘れたとは言わせねぇぞ」
「うーん、そこを突かれると困ったね。辛くなったら君がフォローはするだろうって、ちょっと厳しくし過ぎた気はしているんだ」
あはは、と軽い冗談のように笑っている姿に自分の中で何かが切れる音がした。
こっちが必死なっているのを嘲笑って見世物のように戦ったお前が、あの仕打ちを厳しくしたなどとほざいて済ますのか。
鵠沼が別れる間際に零した涙を知らないから、そう能天気に言えるんだ。
「まぁ、そんなことは置いておいて。お隣さんだからって油断せずちゃんと仲を進展させないと、誰かに取られちゃうかも」
「…… ざっけるなぁ!」
「ぅぐっ」
もう理性だとか体面だとか知ったこっちゃないと怒りに任せた拳は石上を派手にふっ飛ばした。
「何様のつもりだ、ふざけやがって! お前がっ、お前は、鵠沼がどれだけ記録更新に懸けていたか、知らないだろ! みんなの期待を、たくさんの声援を受けて頑張ってきたんだ! この二週間部活の練習が終わってもずっと練習を続けていた! なのにどうしてこんなヘラヘラしたやつが勝つんだ。冗談も大概にしろ、お前が全部台無しにしたんだ!」
腹に詰まってたもの全部、思いの丈にして叫んだ。
試合に際して何もしてやれなかった悔しさも、不甲斐なさも全部。
それでもこの二週間を思い出すと、やるせなさもこみ上げてくる。
また一からやり直しなのだ、公式戦五十連勝は簡単なことじゃない。
八つ当たり上等、こんな奴が勝っても誰も得をしない。
「痛た……」
殴られた頬に手を当てながら、石上は上体を起こす。
顔をしかめることはあれどもこちらを見てヘラヘラとして、殴られたことを批難する様子も怒っている様子もない。
本当に調子の狂うやつだ。
「俺は眼中に無いってのか、お前のそんな態度が許せねぇんだ。良いぜ殴り返してこいよ」
「うーん、楽しくないから遠慮したいなそういうの。それに、君なら一発くらいはしょうがないかなって」
「どういう意味だ」
「彼女を勝たす為に色々頑張ってたんだから、一発くらいはまぁしょうがないかなって。好きな子の為に努力するって良いよね」
「違うって言ってんだろ! 何でもかんでも彼氏彼女の話に持ってくな、噂好きの女子連中かよ」
「素直じゃない…… いや、それこそ余計なお世話か」
石上は立ち上がるとそのままこちらに歩いてくる。
思いの外足取りはしっかりしていて、ふっ飛ばした様子よりもダメージが少ないように見える。
反撃されても文句は言えない立場だ緊張に体が強張る。
「じゃあね右下君。さっきも言ったけど鵠沼さんは居ないからね」
思わず身構えるこちらに苦笑しながら、石上はそのまま通り過ぎていった。
「くそっ、何なんだよアイツ……」
言いたいことも言ったというのに胸のむかつきが収まらない。
何もかも相手の掌の上で踊っている気分で、自分が惨めに思えてくる。
鵠沼は居ないと言っていたが、ここまで来てあいつの言いなりになるのも癪だ。
一縷の望みをかけて屋上への階段を上がっていく。
「居なかったな……」
ベンチに腰掛け曇天の空を見上げる。
期待していた屋上はもぬけの殻だった。
結局の所、石上が言ってたことが正しかったのだろう。
しかし、どうして。
「あいつは鵠沼が居ないと知っていたんだ……?」
萎んだ気力で立ち上がれずにいると、ズボンのポケットが振動した。
スマートフォンを取り出すと一件のメッセージが表示されている。
慌てて鵠沼の連絡先を表示すると、そこには捜す前に出したメッセージに返信があった。
「ごめんなさい、先に帰ってます、か」
返信が遅れた謝罪と一緒に添えられた一文。
冷静に考えれば一人になりたいからと言って校内に残るとは限らない。
試合が終わっているのだから、家に帰るのも当然の選択だろう。
「…… 馬鹿だな、俺」
流石に家に押しかけるのは友人であっても蛮勇が過ぎる。
そもそも、彼女の家にあがったことは引越しの挨拶の一度くらいしか無い。
先輩達はああ言っていたが、家にいるのであれば今日はそっとしておいたほうが良いだろう。
「気にするな、今日は大変だったからゆっくり休んでくれ、と」
差し障りのないメッセージを返信する。
今の俺に出来ることと言えば、鵠沼に気を使わせないことくらいだろう。
もうここに残る必要はない、気怠げに立ち上がった俺に一滴の雨粒が落ちてきた。
翌日は梅雨の晴れ間となり、見上げた先はどこまでも澄んだ青空が見える。
まだ朝も早いうちから路地を歩く俺の気分とは対称的だ。
母親から渡されたポリ袋二つをゴミ置き場に放り込む。
これで仕事は完了、あとは家に帰るだけだ。
最近は鵠沼の練習に付き合って、休日も練習することが多かった。
今日の予定は特に決めていないが、ゆっくり休んでもバチは当たらない。
昼過ぎくらいには連絡を入れるとして、それまでは二度寝を決め込むとしよう。
「あら、お早う右下君」
背後から聞き慣れた声がかかり、だらけようとしていた意識が一瞬で覚醒した。
振り返るとそこには俺と同じようにポリ袋を両手に持って、鵠沼が立っていた。
「おう、鵠沼もゴミ出しか」
「えぇ、朝ごはんの用意する間にって。寝起きには丁度よいだろって渡されたの」
「はは、お互い良いように使われてるな」
鵠沼がゴミ置き場にポリ袋を置くのを待って揃って路地を歩く。
お互い家から百メートルも離れていない距離だ、長く話せるわけでもない。
そう思っていると鵠沼が足を止めて俺を呼んだ。
「昨日はごめんなさい。先輩に聞いたのだけれど校内を捜してくれたみたいね。無駄足を踏ませてしまったわ」
「いや良いんだ。俺が勝手にやったことだから。それよりも、試合で手酷くやられただろう、辛いならいつでも力になれるぞ」
「ありがとう。でも心配しないで、心の詰まりはあの試合で全部吐き出してしまったから。今はこの空のように晴れやかなの」
快晴の朝に似合う穏やかな表情を浮かべる鵠沼は、強がるでもなく本心からそう言っているように見える。
あれだけの気迫で挑んだ試合に負けて大記録は水の泡となった。
納得など俺なら出来ず、しばらくふさぎ込んでしまうかもしれない。
たった一晩で折り合いをつける芯の強さに改めて驚いてしまう。
「あ、あと昨日のことなんだが、急に名前で読んだりして悪かった」
「…… 支障がないと判断されたとはいえ、あまり褒められる行為ではないわ」
「あぁ、反省してる。すまない」
「力になりたいと思ってくれたのは嬉しい。けれど、男の人に名前で呼ばれるの慣れてないから…… その、対応に困るの」
その一言に俯いてた顔をあげると、視線を逸した鵠沼の顔があった。
その可愛らしさにしばし見とれてしまう。
何とも言えない沈黙の中、何を思ったのか鵠沼は俺の手を包み込むように取った。
「右下君は…… 右下君はどうしてここまでしてくれたの? 今回のこと、貴方に無関係な事だったでしょうに」
「痛ッ……」
殴った際に痛めた手の甲に振れられて思わず声が漏れる。
鵠沼は不思議そうに俺の顔を見た後、そのまま俺の右手を自分の左頬に当てた。
「な、何を…… え!?」
「教えて…… 私のことが、好きだから?」
上目遣いにこちらを見つめる瞳はぞっとするほど澄んでいた。
その瞳に吸い込まれて思考回路は完全に停止し心拍数だけが一気に上昇する。
これは一体何だ、俺は何を見せられている。
なんと答えれば正解だ、素直に好きと伝えれば良いのか。
四年間の想いを、彼女に促されるままで打ち明けて良いのか。
彼女の問いに答えない限りずっとこのままなのか、それはそれで良いんじゃないか。
頭の中は好き勝手に感情が浮かんでは消えていく。
心臓の音が聞こえるような緊張感の中、今が正念場だと自分の勘が告げている。
急展開に思考は追いついていかず、答えを言うべき口からは空気だけが漏れている。
(ちゃんと仲を進展させないと、誰かに取られちゃうかも)
その時脳裏に浮かんだのは昨日の言葉。
熱にうなされから回る頭に冷水を浴びせられた気分だ。
ライバルなんて勝手に名乗っているようなのに負けてたまるか。
漢の見せ所だ右下洋二。
「お、俺はっ……!」
どうにか絞り出した声は完全に上擦っている。
心臓は痛いほどに鼓動を繰り返して、口から飛び出るんじゃないかと思うほどだ。
それでも勇気を振り絞れ、絞りきって一滴も漏れないほどに。
「ちゅ、中学から、四年も一緒にいるんだから言ってみれば幼馴染だ! 幼馴染だったら、こ、困ってることがあったら、いつだって力になる、だろ!」
「そ、それって…… ひゃっ!?」
目を白黒させている鵠沼が手を抑えている力を緩めたので少々強引に引き抜いた。
柔らかい頬の感触を意識すると冷えた頭が直ぐに沸騰してしまう。
熱暴走した脳では唸り声をあげるだけポンコツにしかならない。
そうなれば満足に会話できる自信は無く、ここに来てそんなかっこ悪い姿は晒せない。
俺にだって好きな子に見せたい見栄やプライドはある。
「だから、ずっと一緒だっただろ、嫌いなわけあるか! …… その、俺はむしろ、す」
「す…… ?」
「すごいと思ってる、お前のこと! 昨日の試合もそうだけど、大舞台でも冷静で周囲に流されない所、俺は、す、好きだな! 試合へのストイックさとかも好きだ。あ、いや、俺は試合出れないんだけどな! いや、普段の凛とした姿も良いと思うぞ、幼馴染として鼻が高い!」
突然言葉の雨を浴びせられ呆気にとられていた表情が、いつもの澄まし顔に戻っていく。
何と返事が返ってくるのだろう、そう考えると居ても立っても居られなくなってしまう。
「あ、いや、とにかく鵠沼はすごいんだ! それで、あ、あーっと、そうだ。このあと、よ、用事があっったんだ、わりぃっ!」
「あっ、ちょっと待って…… !」
これ以上は耐えられなかった。
胸の中には伝えた想いで一杯になり、気の利いたことも言えずに走り出していた。
脳の許容量はとっくに超えていて、思考はろくに働いていないと自覚している。
「…… 言っちまった!」
思わず口走ってしまった恥ずかしさと、ようやく伝えられた開放感に挟まれて体がじっとしていらない。
体の内から溢れてくる熱を原動力に当て所もなく住宅街を走っている。
急な運動に体が悲鳴をあげているが、余計なことを考えずに済むのが今はありがたかった。
あたりを見渡せば通学路沿いを走っている事に気づいた。
緩やかな坂道を登れば学校につく。
そのまま通り過ぎて海に行くのも良い、頭も体も少し冷やさないとどうにかなってしまいそうだ。
「ああぁぁぁぁ!」
内側の熱を逃がすように声を上げ走るペースを上げる。
彼女との関係は変わってしまうのか、変わらないのか、それが良いか悪いかは今は分からない。
それでも一歩前進したのだ、何も出来ずにいた昔の自分とはお別れだ。
前に進んだ分、心の奥に確かな自信が生まれている。
「ああぁぁぁぁ!」
この胸の裡の熱に促され、海を目指して走り続けた。
読んでいただきありがとうございます。