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九州大学文藝部・2021年度・学祭号

雪の眼

作者: 奴

 室の電灯をまったく消した、完全な夜のなかで、私は自分の肉体はすこしも見えず、さりとて布団と寝巻の衣ずれや顔に落ちかかる毛髪や夜のしんとした空気はしかと感じるので、よもや知覚しないうちに魂だけになってしまったのだろうかと、まどろみの甘い鈍覚のうちに夢想する。


あるときにその場の思いつきで、横に妻が寝てあるのを知りながら、彼女の寝息のうえに立って、電灯のひもを引っぱって夜の底に押しこめられたような室に明かりを灯したのが失敗で、いったいなぜ電気をつけるんですと即座に妻から抗議された。彼女の眠たい声がかえって私にいらだちのふうを聞かせた。私でも、なぜ何の遠慮もなしに、深夜、妻の顔へ不如意の煌々を浴びせたかは、まるきりわからない。自分が死んであるのか存命か、素朴に知りたくなったとしか説明できない。


私の疑問は、幼いときに親を困らせる詩的で奇妙な疑いとすこしも変わりない。あまりすなおに世界を見るから、たいへんな骨折りなどと聞いて真に骨折したものと慌てるような認識的不案内に近い。妻とはもう錫婚を迎える年の人間が、このような、脈絡を欠いた、あるいは卦体な観念に操られているようであっては、いささか気がふれたと思いなされても言い訳がつかないかもしれない。


私はそのとき妻に「ごめん」と返答した。


しかし、寝息まで立てておいて、ぱっと明かりがついたとたんにまぶしさを感じるのだろうか。電気の回路と妻の脳の回路とがひとつづきになってあるかのような反応ぶりであった。そのときはそれで寝直したが、私は自分の肉体がいちおう生きてあると了解して、安堵とは色合いの異なる治まりのよさを思った。妻への負い目が何となし舌のうえに残っていた。


それからである。暗い室で目を閉じると、光の降ってくる幻が、毎夜、絶えなかった。目の奥へ突き刺さるような恐怖をもたらす光である。私は眼球が焼けただれてしまうような気がして、まぶたの裏のはるかな闇から、極小の彗星が燃えながら落ちてくるたびに、うち驚いて目を開き、いちいち右か左か、寝返りを打った。早鐘のような拍動を抑えるために、うなったり深呼吸したりした。当然、意識の途絶えようというときに肩を揺すられ冷や水をかけられるような責め苦であるから、肉体はいくらか休まったとしても、脳は始終覚醒したきり落ち着かなかった。私はだんだん睡眠障害の気味になっていた。


睡眠が不履行になると、脳は簡単に弱まる。思考を止めて全身が回復する時間が失われるので、頭から除かれるべき滓がこびりついたというようすで、複雑な思惟ができなくなる。それで済むならまだいい。私は日常使われる脳の部分まで侵されてしまったと見えて、昼間の業務に手がつかなくなった。同僚からされた相談は何か、今職場にかかってきた電話の番号は何か、妻の作った食事は何か、それすらもぼんやりしてわからないのである。むろん声は届くし数字は目に入るし飯のにおいは嗅がれる。その先の感覚、すなわち今まさに感覚した対象が何で、それに自分がどう反応すればよいかが、不案内になっているのである。私は医者にかかり一週間の休暇を職場からもらった。あまり私のようすがおかしかったのだろう、課長に言添えて(これも休暇をもらうとたしかに言えたかは思い出せない)、荷物をまとめてそこをあとにするとき、職場の何人からも声をかけられたらしかった。今振り返れば、水中で音を聞くような人の声の記憶が、当時のめまいの感覚にともなって浮かぶ。


休暇のあいだは、何も実際的なことは覚えていない。妻の言うには、私は布団のなかでうわごとを言い言いして、数時間ごと便所へ連れていかれ、飯はまったく口にせず、夜は妻の手を借りて、コップの水を畳へこぼしながら睡眠薬を服用した。すると夜九時に床について日が高くなるまで布団のなかで動かず、彼女が心配で見にいくとトイレトイレと世迷言を言っているらしい。便所にやればとぼけた顔で勢いよく尿を出す。性器を恥ずかしがる余地もない白痴ようであった。自分でものを押さえられないので、妻がわざと手を添えて尿の出てゆく角度をつけてやらなければならなかった。


私は妻の献身を今でもありがたく思う。


それで回復したのは休暇からもうしばらく過ぎたころで、私にはその一か月弱の記憶が断絶されている。風呂に入れぬからと濡れ手拭いで全身を拭き、大便のあと尻を拭い、床ずれせぬよう日に何度も体を動かして、衰えすぎないために足や腕の筋肉を刺激してくれたこの最愛者の苦労を、発端の私が何も覚えていないから、私は落とした覚えのない財布を拾ってもらってしかしいつ落としたのかも推理できないようなかみ合わせの悪い感謝の念を抱いた。


それからはこのたいへんな功労者への恩返しに奔走したのだが、しきりに欲しがっていたものを取りよせ、廊下を拭き、長火鉢の灰をかき出し、しかしそれでもほんの数分の返礼だとすっかり健康に返った体を動かすと、妻は金を稼いでくるならもうよいとしきりに言う。私はまだ済まない気がした。そのことばを使わせてしまうのが何か男の沽券にかかわる気がした。子供もない女中もない、近隣のつきあいが回覧板を渡しあうほどにならある妻の周囲には、私のほかにはだれもなかった。彼女の父母はもう亡くなっている。私は妻の心のもっとも安寧する方策を考えたが、それには夫として、妻のことを、というよりは彼女という人間一個のことを、まるで理解していなかった。


そのことを、寝しなに枕へ頭をうずめて考えることがある。妻の献身はあれほど篤く、徳義のかぎりを尽くしていた。ひるがえって、私には何ができるだろう。今度私の顔に降りかかるのは、もう例の小彗星群ではなくて、雪の舞うような光の揺らぎへやわらいでいた。医者が検分するに、脳がみずから、より害のない幻覚へとすり替えたそうで、実のところそれからは、いくら光がちらついてもじきに眠ったし、寝覚めも悪くなかった。


職場への復帰が許されて、もとのようにはたらきだしてからも、その雪みたいな光の粒はまどろみの暗黒のなかに踊った。その飛蚊症とはまた違う不思議と苦にならない幻視を眺めながら意識の混濁へ溶けるうち、私は夢のなかに同じ光の片々を見た。眠りが深くなって点々と消えていく光の粒が、ふとすると風にたゆたうようにしてちらほら降ってくる。おやと眺めていると、粉雪のような透けた金色の雪たちが、私の顔に音もなく落ちる。風があるのか、光は漂流して、私の視界からはずれていくものもある。すると、一粒ずつが玉雪となって、風に吹かれることなく無心に顔に降るが、やや経って粒どうしが集合すると、大きなぼた雪が無遠慮に積もりはじめる。体に冷たさもまぶしさもないのは言うまでもないが、夢中に私は起き上がって、ふと見渡せばぐるりは寒冷地の真白な雪原。地面は尻のしたに遠く、草も香らない。小さな電球みたいであった雪は、ほんものさながら、斜めに私の頬を殴り、見えるところはいずこも降る雪の白い幕に閉ざされて何も見えない。樺林があるのか、家屋があるのか、山岳が連なっているのか、いっさい判然としなかった。


私は夢ながら途方に暮れていたが、とうとう、そこは以前に私を苦しめた矮小な彗星たちの墓場なのだと解釈すれば、柔らかい雪原であったはずの一帯は、ただちに角ばった乳白色の宝石になった。彗星と見ていたものはみな鋭利な角を持った宝石だった。


夢はそこで唐突に消え去った。




脳裡にその白く淀んだ輝きを折り畳んだまま、目ばかり開いた。夢はもう半分もはっきりしなかった。


布団からやおら身を乗り出して縁のほうの障子を開けると、濡れ縁を覆うように巡らした窓のむこうは真白であった。夢はまだ続いているのか正夢かと見ていると、もとの濡れ縁を伝ってきた妻が、「もう昼ですよ」

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