これで終わりじゃない
俺は歩みを止め、その壁を見上げる。
その壁は、向こう側が透けて見えるくらいに薄い。
その壁は、ほんのりと、それでいて神々しく輝いている。
その壁は、小さい頃から俺を散々苦しめてきた。
その壁は、今も俺の前で変わらず輝いている。
その壁には、大きな役割がある。
その壁には、俺如きがどうなろうと関係ないのだ。
そう、例えば
――俺がそれを通り抜けたとしても。
「本当に通れちまったよ……」
「ね、大丈夫だったでしょ?」
いつもなら軽く腹が立つ程のドヤ顔だが、今だけは違って見える。
何て言うか、少しだけ……いや、今言うのはやめておこうか。
「……その顔は止めろ」
「なにさ、明ちゃんはどんな顔してても可愛いでしょ!」
結界の外と言う、あまりにも非日常な場所に居ると言うに、アカリは一切変わらない。
強いて言うなら、いつでも変わっている。
「ほら、さっさと行くぞ」
「むぅ……『義翼』『蜃気動』」
俺が龍に変わったのを見て、意図を察したアカリは、飛行と隠蔽の魔法をかける。
この後は何処か人間の国に行って、そこで暮らしていく予定だ。
木の葉を隠すには森の中と言う奴だな。
ここから俺にとっても未知の世界だ。
自分の事だけでも手一杯になりそうなものなのに、アカリは里の方向を不安げに見つめている。
「大丈夫かなぁ……」
それはあいつらの事を言っているのであろう。
「さあな。俺達に出来る事は終わった。
後はあいつ次第だ」
そう、こいつの閃きはこれで終わりじゃない。
―――タツヤ視点―――
先程、突然騎士団長が凄い剣幕で怒鳴りこんで来た。
話を少し聞いただけで、大凡の事は把握出来た。
(ああ、見つかってしまったんだ……)
それは、彼女達の日常が奪われると言うこと。
いつかは訪れるだろうと思っていたけど、随分と早い。
接したのは短い時間だったが、悪い人達じゃないのは直ぐにわかった。
……クラウスさんだけは態度に棘があったけど。
恐らく彼は、僕の事――と言うか里の住人が嫌いなのだろう。
詳しくは知らないが、飛べない研究者の話は里でも有名だ。あんな話が娯楽の様に語られる場所を彼が好く訳がない。
確かに相容れない部分はあるが、彼は十分に評価されるべき人物だ。
それは僕が研究者気質だから、そう思うのだろうか?
研究者は変わり者なんて言われているが、言い換えれば少数派と言うだけだ。
長寿と言う特性で補ってはいるが、龍人と言うのは基本的に気性が荒い種族だ。
その中で肉体よりも頭を動かすのが好きな人達。浮いてしまうのも当然か。
僕だってそっち側だ。
でも、竜人は研究者にはなれない。長寿ではない故に、鍛えて里の外に行く道しかない。
知識も伝手も人間の常識もない僕が生きるには過酷。服を作る仕事に就ける確率なんて、万に一つも無いだろう。
だからテイラーさんに弟子にすると言われた時は嬉しかった。
今までの人生の中で最高の日だったと言っても過言ではない。
(でも、儚い夢だったなぁ……)
「何を呆けているんだい?」
僕が一番聞きたかった声が聞こえる。
それは里では聞く筈のない声だ。
慌てて振り返ると、そこには師匠が立っていた。
(僕は夢でも見ているのだろうか?)
「ほら、タツヤ。旅の支度をしな。
僕の荷物はもう詰めてあるからさ」
戸惑う僕の反応なんて気にせずに、師匠は袋を投げてくる。
これは……確かマジックバッグと呼ばれる魔導具だ。
こんな貴重品をどうして……
(旅の支度って――まさか!?)
少し時間はかかったが、言葉の意味は理解出来てきた。
恐らくクラウスさん達の一件が関係しているのだろう。
詳しい事情まではわからないが、誰かが僕の夢の為に動いてくれたんだ。
僕に「師匠と逃げろ」と。
その気持ちは、とても嬉しい……だが――
「僕は掟は破りませんよ」
その厚意に、嬉しさに、甘えきってはいけない。
我が儘でルールを破った先にあるのは混沌だ。僕の為に他を犠牲にする気はない。
この里の、この領域の秩序の為には必要な我慢だ。
僕のそんな覚悟を見て、師匠は何故か安心させる様に微笑む。
「勿論掟は破らないから、心配は要らないさ。
……あ、マジックバッグに入れたものはメモしておきなよ」
それだけ告げると、師匠は立ち去る。
僕には訳がわからない。
「掟を破らずに師匠と旅?」
一体これから何が起ころうとしているんだ?
―――テイラー視点―――
突然クラウス達が来て「結界の外に出る」と言い出した時は何の冗談かと思った。
……まぁ、次の頼みは更に冗談の様だったが。
タツヤの夢を叶える為だと言われたら従うしかない。
(……昔の僕なら、こんな面倒な事には関わらなかったんだけどな)
僕の人生は安定した及第点だった。
大好きな服の研究をして、それを好んでくれる誰かと取引する。
時々は和食を食べられ、問題も降りかかってこない。
不満点が無い訳じゃないが、取り立てて騒ぐ程でもない。
こんな人生が年老いて死ぬまで続いていく。そんな風に思っていた。
だが、彼女が現れて全てが変わった。
新しい服、食べ物、娯楽。それだけならクラウスが稀に持ってきていたが、遊び相手、相談相手、終いには弟子まで。
僕の人生にある筈がなかった物ばかりだ。
モノクロだった景色に色が着いた様だ……と言うのは少し大袈裟過ぎるかもしれないが。
とにかく、有り体に言えば、彼女達と過ごす時間は楽しいんだ。
この時間を失いたくない。いや、もう既に失われた。
でも失われたのは全てじゃない。
だからこそ、僕は彼女の頼みを聞いた。
「僕に守れるものを守る」
僕は今日タツヤと里の外に出る。
彼女達の追っ手として。
さらっと新設定盛り込んでますが、またいつか触れたり触れなかったりするので忘れても大丈夫です。