時は戻らないから
―――クラウス視点―――
「……ノック……だよな?」
誰も訪れない筈の我が家で、今まで一度も無かった事態だ。
それ故に余りにも信じられない。
「……いや、もしかしたら風かもしれない」
扉を向いて、静かに待機だ。
すると、再び扉を叩く音がする。
恐る恐る扉を開けてみると、あいつが立っていた。
こいつはテイラーの家に向かった筈だ。
あれだけ冷たく追い出されたのに、帰ってくる理由がわからない。
「お前なんで帰ってきた?」
「…………はぁ……ぁゃば……はぁ……だぎぇ」
どれだけ急いで自転車を漕いでたのだろうか、息も絶え絶えだ。
何を言いたいのかさっぱりわからない。
「とりあけず、水でも飲んで落ち着け」
マジックバッグからポットの魔導具とコップを取り出して渡す。
注いでは飲み干し、注いでは飲み干しを繰り返している。
(……追い出す時に飲み物も渡しておくべきだったな)
そんな反省をしていると、七杯程飲んだところで漸く落ち着いた様だ。
だが口を開こうとするのを、俺が人差し指を立てて制する。
「汗も凄いから、先にシャワーを浴びろ」
通り雨にでも逢ったかの様に、全身びしょ濡れだ。
このままでは風邪を引く。
ゆっくり湯船にでも浸かれば良いものを、何かに追い立てられる様に、服を着たままシャワーを浴び、『ドライヤー』と『スチームアイロン』で乱暴に身形を調えている。
「それで、どうしたんだ?」
俺は真っ直ぐに目を見て尋ねる。
「酷いこと言ってごめんなさい!」
真摯に謝る姿は、初めて会った日と同じだ。
正直、最初の全く聞き取れない言葉の時点でわかっていた。
言葉になっていなくても、それくらいの事は伝わる程には短くとも濃い時間を共にしてきた。
だから、俺も伝えたかった事を正直に伝える。
「俺もすまなかった。
……ただ正直、まだ何が悪かったのかは理解していない」
俺の言葉に驚き目を見開く。
其れ程までに、こいつにとって当たり前の事だったのだろう。
「体重とか……人が気にしてる事を言うのは駄目だよ」
その台詞に、今度は俺が驚く。
「あれで気にしていたのか?
……あ!いや、すまん。煽ってる訳じゃないんだが……」
今日は珍しく俺ではなく、こいつが頭を抱えている。
「あんまり他人と関わらずに生きてきたんだもんね。
……取り敢えず、他人に身体的な話はしない方が良いよ」
「成る程、肝に命じておく」
自分では常識がある方だと思っていたが、まだまだの様だ。
「……って言うか、人が気にしてる事を言ったのは私もだよね。本当にごめんなさい。
……それに、あの言葉がそんな意味を持ってるなんて知らなくて……」
「もう気にするな。お互いに謝ったんだから、それで良いだろう」
あの言葉――蜥蜴の意味を知ったのだろう。
俺はこいつが知らない事なんてわかっていた筈なのに……あの時は冷静さを欠いていた。
「それはテイラーに聞いたのか?
それにしては戻るのが早い様に思うが……」
単なる雑談のつもりだったが、ここで俺には予想外の名前が飛び出す。
「行く途中で、クラウディアに会ったの」
よりにもよって一番聞きたくない名前だ。
周りの空気が途端に冷たくなった様に感じる。
「里に行かなきゃいけなくなっちやって、時間になったら会った場所にまた迎えに来るの」
それで急いでいたのか。それは……もうどうしようもないな。
寧ろ、よく一度帰ってこれたものだと感心する。
「わかった。そこまでは俺が『ゲート』で送っていこう」
俺も一応龍人だから、歓迎こそされないが里に入るのは自由だ。
でも里長と婚姻する事になるこいつと、いつまでも一緒に居る訳にはいかない。
別れる時が来たんだ。
(こんな事なら「出ていけ」なんて言うんじゃなかった……)
どんなに後悔しても、時は戻ってはくれない。
こいつが細かい経緯を説明しているが、ほとんど耳に入ってこない。
ただ「女神の神託で」と言う言葉だけははっきりと聞き取れた。
(また姉貴……また女神……)
自分が嫌な思いをする時には、いつもその名前が出てくる。
いや、姉貴はともかく、流石に女神が自分に害意を持っているとは思っていない。
でも五歳の時の神託がきっかけで虐められる様になり、結界のせいで出られず、今度は態々二千年ぶりの神託でこいつに姉貴を送りつけてきた。
害意の有無に関わらず、嫌いになるには充分だろう。
いや、今はこんな後ろ向きな考えをしている暇はないな。
こいつと過ごせる時間はもう僅かだ。
(短い時間で何か思い出に残る様な事を考えなきゃな)
これが、俺がこいつと過ごした最後の日
――になる筈だった。
「あ、私閃いちゃった!」
突然、いつも以上に元気な声が響いた。
後で里に行かなければならないと言うのに、今更何を閃くと言うのか。
「クラウスも一緒に行けば良いんだ!」
「……は?」
このたった一つの閃きが切欠で、多くの者の運命が大きく変わる事となる。