海月、人魚姫
これは童話の人魚姫をモチーフにして書きました。
しかし内容はそれとは全く違うものとなってます。
楽しんでいただければ幸いです。
ふと、水面の上から顔を覗かせる月を見て私がまだ人間だった頃を思いだす。
狭い岩の隙間、それが人魚である今の私の家。四畳もないそこで人間だった頃の思い出に耽っているのだ。なんて言ったがいい思い出なんてものは無い。曖昧な記憶で覚えているのは沢山の人間に尖った言葉を並べられて、抵抗しようものなら暴力で押さえつけられ笑われている景情だけ。耐えられなくなった私はこの海に身を投げた。そして目が覚めたら今の様な人魚になっていた。もしかしたら海の神様が私を哀れに思ってのことかもしれない、けれど余計なお世話。だって今はその時死んでいれたらどれだけ良かったかと思う日々だから。
そう思っていると東から水を斬る音が聞こえてくる。ヒュウヒュウと軽い音だけれども、とてもよく耳に残る音。それを私は知っているし恐れてもいる。
なるべくバレないように小さく丸まり、水を揺らさないようにそれが過ぎるのを息を殺して待つ。私に止める息なんてないけど。
音はどんどん大きくなる、全身をこわばらせて目を瞑る。するとピタリと音が止んだ、聞こえるのは耳を撫でる水の音だけ。
ゆっくりと俯いたまま目を開ける。月明かりが照らす地面には黒いつぶつぶが映っていた。よく見るとそれが影だと分かる、その時。
「おい、半端者がやっと目を覚ましたぞ」
待っていたかのように聞こえた声に目を向けるとそこにはシロギスが十匹以上の群れをなして私を見下ろしていた。無論、私が恐れていたのは彼ら。
一匹のシロギスが喋りだしたのを皮切りに今度は目つきの鋭いシロギスが強い口調でこう言った。
「あんたまだここにいたんだ、この前来た時に目障りだからどこか遠くに行ってと言ったはずだけど?」
「ごめんなさい…でも私にはここがちょうど良くて」
今度は体に傷をつけたシロギスが。
「何言ってんだ、半端者のお前に居場所なんてあるわけないだろ。人間でもなくて魚でもない、そんなお前に海にも陸にも居場所なんてないんだよ」
「なら私はどこに行けば…」
「何回言えばわかる、お前に居場所なんてない。でもそうだな、海底谷のもっと深くに行けば誰も文句を言わなくなるかもな」
その一言を周りのシロギス達は大いに賛成して「それがいい、それがいい」と体を揺らして私を囃し立てる。
でも実の所、私は彼らに言われる前に海に空いた海底谷に降りていったことがある。ひれを大きくふって下に降りるたび、光が薄れて全身が闇に飲まれていく。私はその感覚が耐え難くて急いで上に帰った思い出がある。そんな私には海底谷のもっと奥なんて、住むどころか行くことすらままならない。
「無理ですよ。あそこは暗くて怖いし、下に降りるまでに疲れてヒレが動かなくなります」
「だからいいんじゃないか、暗ければお前の醜い姿なんて見えないし海底谷にいる奴なんておかしな魚ばかりだからな。もしかしたらお前を気にいる魚もいるかもしれないぞ」
シロギス達はその場でぐるぐる回りながら大笑いしている。私はそれがとても悔しいはずなのに言い返す言葉が何一つ見つからなくて、舌を噛んで下を向くしかなかった。
すると次は先頭に立つシロギスが冷淡に言った
「いいか、明日までにここを出ていけよ。もし次ここを通る時、醜い人魚の姿を見たら南にいるホオジロザメに言いつけるからな。丁度俺は人魚を食べたがっているサメを知ってるんだ」
「そんな突然…」
「黙れ半魚人、絶対だからな」
そう言い残すとまた笑いながら私の頭上を泳いで行った。私は呆然とその姿を見ていた。
どうしよう、明日までにここを去らなければサメに食べられてしまう。サメと私じゃ追いかけっこにすらなりはしない。
と言ってもさっきのシロギスが言った通り私に居場所なんてものは無い。ここだって何日も探してやっと誰も住んでいない岩場を見つけられた。それに他に住処があってもまたあのシロギスに見つかればいたちごっこ。もう私には本当に海底谷に沈んで闇に食われていくしかないのだろうか。
涙が目から出ては海水に滲む。人間だった私もこうして言い返せずに一人で泣いていたんだろうな。情けないのと今の私もそうであるのとでまた余計に涙があふれる。
そんな私にも平等に接してくれるのは淡い月明かりだけ、潤んだ目で水上を見上げる。
満月の明かりは海に入ると乱反射して私に届く。それを見たら私は久しぶりに外から月をみたくなり海面まで泳いで行って顔を出した。
丸く光る月は今の私にはとても眩しく感じた。海面は月明かりで青く揺れている。濡れた髪が風になびいた、風を感じるなんていつぶりだろう。
私は途端に人が恋しくなった。結局人も魚も私をいじめるのなら、まだ居場所の残る人間の方がいいからだ。
私には人間だった頃の僅かな記憶の中でいじめられている時の他に一人の人間の姿を覚えている。
誰も味方なんていなかったはずなのにあの人だけは私と一緒に笑いあってくれた。
あの温度を思い出したら私は途端に「人間に戻りたい」と強く思い始めた。
海面から人々が住む島の方を見た。松の木が揺れる先に薄らと赤、青、白の色がついたり動いたりしている。見れば見るほど、あの人のことを思えば思うほど、余計に人に戻りたくてたまらなくなってしまう。
でも一度人間を捨ててしまった私にはこうして人の営みを遠くで眺めているしかできない。だって仕方ないじゃないか、死ぬために海に飛び込んだのにその海の中でも馬鹿にされるなんて予想出来ない。
見てるだけで羨んでしまう光を見るのは早々に辞めてまた海に潜った。
行く所もないからまたあの岩の隙間で蹲る。月が沈み東から太陽が登れば、もう時間が無い。あのシロギス達がサメを連れて来てしまう。
別に私は死ぬのが怖いわけじゃない、寧ろ死にたいくらい。ただ噛み殺されるのがどうしても嫌だ。サメに散々咀嚼されたあと腹の中で溶かされるなんて想像しただけで体が震え上がってしまう。
私は苦しみたくない、なるべく安らかに死にたい。だから人魚になってから常にどうやって死のうか考えていたのだけど、海では首は吊れないしこの体では息はしなくて良いらしいし楽に死ねる薬もありはしない。しかも簡単な傷だとすぐに治ってしまう。
最初は私が人魚になったのは救いのためかと思ったが今はもしかしたら拷問じゃないかと思い始めている。いや、絶対そうだ。
私を哀れんで救ってくれるような神様がいたならばもっと早くに救ってくれてたはず。死んでから人魚にするなんてきっと私が苦しんでいる姿が見たいだけの趣味の悪い神様もどきなんだ。
思えば思うほど、周りには敵しかいなくて、更に私の人間に戻りたい欲求が高まってくる。あの人に会いたい、たったそれだけでいいのに…
また涙が目から出ていった。一度涙が出ると止められないものでグスグス言いながら夜の海の岩の隙間で私は泣いた。
すると突然「いつまで泣いてやがるんだ」と前方から声が聞こえた。
私は目を擦りながら恐る恐る岩から顔を出して声のした方を見てみるが…そこには誰も見当たらない。でもまた声がする。
「そうやって啜り泣かれちゃおちおち寝てられねぇ」
「あの、一体どこにいるんですか?私わからなくて…」
「下だよ下、あんたのな」
私は言うとうりに岩の下を覗いてみた、けれど誰もいないのには変わりない。
「あの…本当にどこにいるんですか…?」
「あーもうめんどくさいなぁ…ほらここだよここ、よく見ろって」
その声と同時に地面の一部の砂が舞った。私はそこを目を凝らしてみると、ある魚の輪郭が見えた。
「もしかして、ヒラメ…さんですか?」
「あぁそうだよ。ったく、下から姿がない声が聞こえたら俺だって何となく分かるだろうがよ」
そう言ったヒラメはやはり不機嫌そうだった。
「すいません、察しが悪くて…それにうるさくもしてしまって…」
「本当だ、シロギスにからかわれたくらいで延々と。どうせあいつらにサメなんか連れてこれるわけないんだから静かに寝ていやがれ」
「違うんです…今はそれが悲しくて泣いているわけじゃないんです」
「じゃあなんだ」
「人間に…戻りたいんです。昔、人間だった時に優しくしてくれた人に会いに行きたくて…」
ヒラメは私の目を見ながら最後まで静かに聞いて「それは可哀想にね」と寄り添うかのような言葉を吐いた。
人魚になってから誰かに罵声を飛ばされるのはあっても同情されるのは初めてだった私はこのヒラメが唯一の味方のように見えて藁にもすがる思いでヒラメに聞いてみることにした。
「すいません。ヒラメさんは人魚が人間に戻れる方法を知りませんか?どんな事だっていいんです」
ヒラメは私をじっと見つめて何か思いついたかのように「ある事にはあるな」と言ってから「俺は魚を人間にできる魔女の居場所を知っているんだった」ともったいぶって言う。私の胸は高鳴った。
「本当ですか!?その方はどこに…」
「教えてやってもいいがタダというわけにはいかない。人間の世界でもそれは同じだろう?」
そう言われて私は周りを見渡した。でも海藻や貝殻が乱雑に
落ちているだけ。
「そうしたいのですけれど、私には渡せるものなんて…」
「いいや、ある。お前の鱗をよこせ。沢山付いているだろ」
ヒラメが言ったそれは私の下半身を覆う鱗の事だろう。月光で虹色に光って我ながら美しいと思う。これでヒラメが満足してくれると言うのなら私はなんてラッキーなんだろう。
「分かりました」そう言ってから一つの鱗に手を掛けて思いっきり引っ張った。その時、酷い激痛が全身を駆け回った。まるで自分で足の骨を折ろうとしているかのようだった。それでも私はめいいっぱい引いて、ギチギチと言う音と目に涙を浮かべながらやっとのこと鱗を引き剥がした。鱗の下に残った水泡が細かく水中に散った。
片手で痛む肌を抑えながらヒラメのいるところに鱗を投げた。それは上手くヒラメの目の前に落ちた、しかしヒラメは私の鱗を見て何やら唸ったと思ったらこういうのだ。
「うむ、こうして近くで見ると存外大したものでは無いな、これならあと二つは貰わんと割に合わない。ほら、早くよこせ」
その時の私の心持ちと言ったら絶望の他ない。しかし私には拒否権なんてないも同然、後に引けないのだ。まだ痛む右の太もも辺りを避けて反対側の鱗を手に掴んだ。覚悟を決めるしかない。
歯を強く食いしばって、また情けないような悲鳴をあげて一枚…二枚…と。皮膚から溢れた真っ赤な血は私の周りを漂っている。
それでも何とか二枚剥がした私はそれをまたヒラメに渡す。するとヒラメは満足そうに。
「よし、じゃあ少し目を瞑っていろ。いいか、ちゃんと目を瞑るんだぞ」
私は言われた通り、目を瞑った。しかし十秒…一分経ってもヒラメは何ひとつも言わない。
「ヒラメさん?もう目を開けてもいいですか?」
その声は水に沈み、誰にも届いていないようだった。私は嫌な予感がして目を開け、さっきまでヒラメがいた所を見た。するとどうだろう、ヒラメの姿なんてどこにもなくて一面の砂が広がっているだけじゃないか。
私はその場に両手をついてため息をついた。私は騙されたのだ。
探しに行こうにも私の下半身はさっきので痛んで仕方ない、とても泳げるような状態じゃなかった。
泣きならが傷口を抑えてどのくらい経っただろう。私はいつの間にか眠ってしまっていたようだった。見上げれば、月とは比べ物にならない眩しい光の柱が海に刺していた。もう、朝らしい。
そろそろシロギスがやってくる頃だろうか。鱗を剥がした時の傷はもう治っていたがヒラメに騙され、一つの希望を失った私は逃げる気力さえなかった。
もう、サメに食われてしまおう。あの人に会えないのだけが心残りだけど、もうこうして色んなことに振り回されるのに疲れ果てた。
水上から篭った鳥の鳴き声がする。そうすればもうすぐだ。東から水を斬る音が聞こえてくる、数十匹が奏でる独特の音。それは私の前で動きを止めた。
「おい、こいつまだここにいやがるぞ」
「死ぬのが怖くないのか、この半魚人」
「やってやろう、殺してしまおう」
シロギス達がザワザワと騒ぎ出した時、先頭を泳ぐシロギスが一際大きな声で私に言った。
「おい、半端者!何故まだここにいる!まさかこの俺がサメを連れてこれないとでも思ってはいないだろうな?さぁ、答えてみろ!」
「それは誤解です、ついさっきヒラメに騙され足もこの有様です。だからもう諦めたんです」
「ふん、口ならいくらでも言える。私はそんなお前と違うんだ。いいか、サメを連れてきてやるから大人しく此処で待っていろよ」
そう言って群れを連れて南の海に消えていった。きっと今なら彼らの目を盗んでここから離れる最後のチャンスなんだろうけど、私はこの場から動くになんてなく目を瞑った。
日が登った今、岩場にいる私にはスポットライトのような光に照らされている。皮肉のつもりだろうか、ならそれはそれでいい。
死を待つ私には全ての事に感情を持つのが馬鹿らしく思えて仕方ない。いいんだ、死んだら全て忘れるのなら、あなたの顔も温度も忘れられるのなら。
一度死のうとしたくせに生に縋りついて、また人間に戻りたいだなんて傲慢にも程があると今なら思える。
いいんだ、今度こそやっと死ねるんだから…頭に朝靄がかかっているような感覚を抱いてサメを待った。
しばらくして辺りの水が揺れてくる。身体中がピリピリ痺れるような気配が南の海から感じる。その気配でここらの岩場の小魚たちは散り散りにさっていく。
私はずっと南の暗闇を見ていた。その中から凄い勢いで近づいてくるサメを見たからだ。
近づいてくるたびに鋭い目や大きな体が鮮明になる。水を斬る音もシロギスのものとはとても訳が違う、ギュンギュンと速さと強さを表したような音を響かせながら私の前に現れた。
尖った顔から閉じている口も全てが私を強ばらせた。サメは無言で私を見つめている。
しばらくしてシロギスが遅れてやってきた。そして先頭のシロギスがサメの顔色を伺う素振りを見せながら。
「どうです?ホオジロザメさんが食べたがっていらっしゃった人魚そのものですよ!まだ若いのでさぞ美味しいことでしょう。私らがホオジロザメさんの為に捕まえておいたのです。私らシロギス共がですよ、よく覚えておいてくださいね」
シロギスはあからさまに猫なで声でサメに媚びていた、露骨すぎてもはや可愛いまでもある。でもそのシロギスもサメを前にして少し怯えているようだった。
そんなシロギスの精一杯の言葉を聞いてもサメは私を見つめたまま一言を話さない。
「どうかなさいましたか?さぁ、ホオジロザメさんのご自慢のお口で頂いてください。生けて捕らえたので新鮮でございますよ。さぁ、遠慮なさらず!」
そんな言葉を聞いてやっとサメは口を開いた。
「そうだな、新鮮な内に頂くとしようか」
サメが開けた口は綺麗な赤色とそれに反して鋭く白い歯が並んでいる。でも一番はその口の大きさ、喉の奥は海底谷のように暗く、吸い込まれてしまいそうだった。
「ええ、どうぞどうぞ。一思いにいってしまって…」
先頭のシロギスがそれ以上言葉を話すことは無かった。それはサメが開いた口が私にでは無く、シロギスの群れを飲み込んだから。
飲み込まれず群れの端にいたシロギスも何が起こったのか分からず目を丸くしていた。無論私も。
口に入れたシロギスをしばらく咀嚼したあとサメが僅かに残ったシロギスを睨んでこう言った。
「おい、シロギス共。確かに俺は人魚を食べたいと言った。しかしお前らが差し出したのはどうだ、鱗の剥がれた死にかけの人魚じゃないか。この俺を侮辱しているとしか思えん。俺が人魚なら見境なく食らう低俗なサメに見えたって言うのか!このやろう、早く俺の前から消えないか。じゃないと食ってしまうぞ、雑魚共め!」
そう言い終わるとサメはまた大きく口を開いてシロギス達に見せると彼らは叫び声や奇声を上げながら我先にと東の海に帰っていった。
私とて何がなにやらわからず、その場にへたり込むことしか出来ないままでいた。でもよく今の状況を見た時にもしかしたらこのサメは私を助けてくれたのではないかと思い始めた。もしそうならお礼を言わないといけない。
「あの、ホオジロザメさん、ありがとございます。私をいじめるシロギスを追いやってくれて。どうお礼をしたらいいか…」
「おい、気持ちの悪い勘違いをするな。それよりもお前の鱗が所々剥がれているのはなんだ、何かに襲われでもしたか」
「いえ、これは騙されたのです。先程ヒラメが来まして、私の鱗を渡せば魔女の居場所を教えてくれると言ったので渡したのですが、少し目を離している内にいなくなってしまって」
私の話を聞いたサメは「ふむ」と何やら納得したように頷いてから「少し下を見ていろ」と私にいったのでその通りに下を見た。変わらない砂の地面が広がっているだけだった。その時、大きな声でサメが言った。
「ヒラメよ、俺が来たのを残念に思うんだな。この人魚は騙せてもこの俺を騙せると思うなよ。俺の海でくだらない事をしてるんじゃない、さもないとおまえもさっきのシロギスのように食ってやるぞ。なんなら今すぐハッタリではないと証明してやろうか!」
またサメは地面の一部に大きな口を開けた。すると突然その地面が浮き上がったのだ、それは紛れもなくさっきのヒラメだった。
その様子と言ったら、なんとも驚いたようで口をパクパクさせて喋ったと思ったらとても早口に、こんなことを言い出した。
「とんでもないです、ホオジロザメさん。いえね、少し疲れてしまってね、少し眠っていただけなんですよ。もちろん魔女がいる場所は教えますとも、あれは嘘なんかじゃありません、私は善のヒラメですから」
「本当ですか!ヒラメさん」
私はつい身を乗り出して聞いてしまう。だってそれは私にとって消えたはずのロウソクにまた火が灯ったかのような僥倖に思えたのです。
「ええ、本当ですとも。いいですか、今から言いますからよく聞いてくださいよ」
私は深く、そして早く頷いた。
「ここから南東にしばらく行った所に二つの大きな岩が見えるはずです。そこに着いたらその二つの岩の隙間に入っていくんです。そしたら洞穴が見えるはずですのでそこに入ればすぐです。はい、私が知っているのはこれで全てです。本当ですよ?では、お先に失礼しますね」
ヒラメは必要なことを言い終えた途端、そそくさとこの場を去っていった。私はその姿にお礼を言いながら手を振ると同時にもうお礼を言わなければいけない魚がいることを思い出し顔を向けるが、もうあのサメはいなかった。
私は南の海を見つめた。まだ微かに水を揺らす音が聞こえてくる気がした。あのサメはなんて優しいんだろう。ほかの魚たちはサメを恐れていたようだけど私にとっては唯一の味方のように見えて、それが可笑しいと思いつつも心の底では自明のような気さえした。
もしかしたらあのサメは私を嫌われ者の同族だと思って助けてくれたのかもしれない。…なんて机上の空論は辞めておこう。まず私はやらなければならないことがある。
ヒラメが言った南東の海を見つめてから狭い岩の隙間から勢いよく泳ぎ抜けた。
一時は死を覚悟していたがそれも乗り越え、ついに人間になれるかもしれない手がかりを掴めたのだ。もう体も心も有頂天になって一心不乱に水をかき分けた。
その最中、ふと見なれた海中の風景に改めて目を向けみた。もう日は暮れかけて、オレンジ色の光さす海の中は海藻が揺れていたり、水石が光っていたり、綺麗にならんで泳ぐ小魚がいたり、案外水中も悪いものでもないと思えた。そう、私は単純なのだ。一ついいことがあれば、その前にあった辛いことなどがどうでも良くなって頭から消えてしまう。泳いでいる最中に聞こえてくる嘲笑も陰口も他人事だと割り切れるほどに。そんな性格だから失敗から何も学ばなくて繰り返す。なんて自己卑下が脳裏を掠めても私は気にもとめない。それは、もう名前も性格も正確に思い出せない彼に会えると思えば今までの事なんてどうでもよく感じるから。
彼の事を何ひとつも思い出せないのも関係ない、私がこんなに好意を寄せているのだからいい人に違いない。数ヶ月ぶりに帰った私を彼はきっと笑顔で迎えてくれる、そして私も笑顔でただいまと言うんだ。これ以上素敵な未来なんてない。
余計に私は口角が緩んで、鼻歌なんかも歌っちゃって。そんな妄想に浸りながらも私はしっかりと尾びれを動かして目的地に急いでいる。
次第に目線の先、海水に邪魔されながらも黒い二つのコブみたいな岩が見え始めた。ヒラメが言っていたことは嘘ではなかった!少し心に残っていた不安も消え去り水を蹴るスピードも自然と早くなる。それに伴って先のふたつの岩もどんどんと近づいてくる。気のせいか周りの水が冷たく感じ始めた。私はそのまま岩の前まで泳いでいった。凸凹の激しい二つの岩は堂々とならんで座っていて、その周りには道中みかけた魚たちの影はいつの間にか無くなっていた、ここから私の心はまた不安に包まれていく。二つの岩の間にはヒラメの言った通り縦に長い穴が空いていて、そこからはまた更に冷たい水が溢れていた。その穴のそこを私は恐る恐る覗いて見たがまるで底なんて見えるわけもなく、そもそも底があるのかも疑ってしまう程の闇。少しでも手を入れたら戻ってこれないんじゃないか、ヒラメがまた私を騙しているなんてことは無いか、心を覆う不安は私を躊躇させるばかりで一向に前に進めない。
それでも私は闇を身を投げた、たとえ目の前にどんな闇があってもそれを覆うほどの光が私の胸の中にあるからだ。
あの人に会えなければ生きている意味が無いと思えるほどの光、私はそれに押されて闇を縫って泳ぐ。さっきまで僅かに差していた入口の光も遠くなり、私はさらに濃くなる闇を進んだ。もう水の音以外何も聞こえなくなって、更には私は今落ちているのか、上がっているのかのかすらも分からなくなって、目を開いているのか閉じているのかも曖昧で、ついに私は尾ひれを止めた。
心臓が私の動揺を表して強く脈打った、私はもう今にも叫び出してしまいそうなほど恐ろしい気分だった。反射で顔を手で抑える、しかし瞼の裏にも闇が住んでいて私はもう逃げられないんだと悟った。今更戻ろうとも入口の光はどこにも見えない、私はいつの間にか闇の牢に閉じ込められたのだ。
何か掴みたくて手を振り回す、そこには闇がある。
何か見たくて目を開ける、そこには闇がある。
何か言いたくて口を開ける、そこから闇が入ってくる。
とても怖くて涙を零す、それは闇に溶けていく。
もう…私は狂いそうだった。いや、もう既にまともな思考を保ってはいられていなかった。それを自覚した私は大声を上げて右を左も上かも下かも分からない闇の中、闇から逃げようと泳いだ。叫びながら泳いだ。もうどれくらい泳いだかもわからなくなってきた頃、私の体は硬い壁にぶつかって動きをとめた。その壁を手で探ってみると細かい砂が敷かれている、どうやら私は穴のそこまで来たらしい。とりあえず地面を見ることが出来て一安心して、周りを見渡してみた。相変わらず周りは黒だけどあるひとつの方向から青白い光が闇を照らしているのが見えた、その光はまるで風に揺れるろうそくの火のように不安定なまま遠くで揺らいでいる。目を見開いた私はついにやったんだと思った、そしてその光に吸い寄せられるように泳いでいく。途中洞窟に入り、道はさらに狭くなっていく。しかし光は確かに強くなっている。
また私の胸は高鳴っていった、しかし今度は慎重に進んでいる、私が成長している証拠。しばらく進むとひとつの部屋らしき扉の前に着いた。光はその隙間から零れているよう。
私は声もノックもせず扉をひっそり開けて中を覗いてみることにした。ドアの隙間から顔を覗かせてみる、無数のロウソクが照らす中、そこには青白く光るクラゲがいた。そのクラゲは大きな寸胴鍋に無数のヒトデを投げ入れ、木の棒でゆっくりかき混ぜていた。…私はそっと扉を閉めた。明らかに危なげな雰囲気があるけど怯むわけにはいかない、深く深呼吸してから扉を二回ノックして「こんにちは!ここに人魚を人間に戻せる方がいらっしゃると聞きましてお伺いさせて頂きました」
私の声が消えてから「入んな」と掠れた声が聞こえたので改めて扉を開けて中に入った。部屋の中はいろんなものが散乱していた、フラスコやら魚の骨やらヒトデの死骸やら…私は目線をそらす。
あのクラゲは変わらずヒトデが入った鍋を掻き回している。私は声を掛けるタイミングを見計らっていたが毎回、口を開けて声が喉にまで昇ってきた所でまた飲み込んでしまう。だって話しかけようともあのクラゲは何やら真剣そうに作業しているから邪魔してしまいそうで、もしそれでクラゲの機嫌を損ねてしまえばここまで来た苦労が水泡になる。ここは慎重にならなければならない、クラゲの作業が一段落付いた所を狙おう。
そう決めてクラゲの背中を見ながら待ってみる。しかし、クラゲは私の存在を忘れているのかと思うほど真剣に鍋を回していて一向に終わる気配がない。青い炎にかけられた鍋も一向に様子が変わる気配がなく、どうしたものかと思っていると鍋が突然ゴツゴツと音を出し始めた。それと同時に無数の泡ぶくを上げている。何事かと見ている私にクラゲが「そこに落ちている海星の死体をこっちに寄越しな」と言った。わたしは正直見るのも嫌だったが背に腹はかえられない、急いで地面を置いてあるヒトデを親指と人差し指で掴んでクラゲがに差し出した。クラゲは沢山ある足のひとつで受け取り、そのまま鍋に放り込んだ。すると鍋から出ていた音も泡も止まって大人しくなった、クラゲはその鍋に蓋をしたあと私の方に振り返る。
「はぁ…やっぱり人魚か。やだね、全く。醜くて仕方ない」
私は散々言われてきた醜いと言う言葉に今更ながら違和感を覚えた。
「すいません。でもなんで皆さん口を揃えて人間に戻りたいが醜いと言うんです?人間の間では寧ろ美しいと思われてたんですけど」
クラゲは深いため息をした後に答えてくれた。
「はぁ…人間の思考と同じにされちゃたまったものじゃないね。考えてみな、あんたら人間の足に魚の顔が付いている姿を。どうだい?美しいかい?」
私は頭に思い浮かべたイメージを見て、首を横に振った。
「そうだろう、魚たちもそうなんだよ。海の中に人魚の居場所はない、だからあんたみたいな人に戻りたいって人魚が尽きないんだ」
「私以外にもいるんですか?」
「当たり前だ、自分だけが悲劇のヒロインだと勘違いしてるんじゃないよ。一度人間を辞めたくせにまた戻りないなんて奴が年にいっぺん来るんだ。そんなのをいちいち相手なんてしてられない、帰んな」
クラゲは足三本を私の前で払う仕草をして帰れと示した。そう言われるのは何となく察していた私は動じない。人魚のままでいても死んだように生きるだけ、なら私は何を対価にしてもいいから人に戻りたかった。
「そこをどうにかお願いします。もちろんタダなんて厚かましいことは言いません、私が出せるものなら鱗でも…なんなら声でも渡します」
私は昔読んだ童話を思い出しながら言った。しかしクラゲはまた大きなため息をつく、そのため息は私の心を毎回驚かせる。
「何を言い出すかと思えばなんだそれは、等価交換にすらなってない。人魚の鱗はあんたより前に来たやつから押し付けられて有り余ってる。声なんて尚更だ、ここに来た人魚は揃って声を取引に出してくる。なんだ?人間の間では声が通貨になっているのか?勘弁してくれ、誰が好んで人魚の声なんて欲しがるものか。さぁ帰った帰った」
…現実は童話のように上手くはいかないらしい。しかし私は落ち込まず、頼み続けた。
「ならクラゲさんが言う物なんだって持ってきます。私は人間にならなければ生きていたって仕方ないんです、お願いします」
クラゲは私の言葉の後、少し沈黙を置いてこう言った。
「そんなに言うなら頼もうじゃないか。今から月の石を持ってきな、そしたらあんたを人間に戻してやる。あんまり待たせるとあんたとの約束なんて忘れてしまうから気をつけな」
そう言ってクラゲはまた鍋の蓋を開けてその中身を混ぜ始めた。私はその背中に「分かりました!」と大きな返事をして部屋を出た。
実際のところ、何も分かってない。でもそれは決して楽観主義から出た言葉ではなく、あの場ではこう言うしか無かったのだ。
私は勢いに任せて洞窟を出てまたあの暗闇を昇っていく最中、どうやって月の石を手に入れるかを考えた。人間にすら容易に手に届かないものを私がどうすればいいのか。月には手が届かない、ロケットもない、ならば博物館にでも行って盗んでこようか、それも二足歩行を失った私では出来そうにない。
結局何も思いつかないまま暗闇を抜け、海面に顔を出して月を見上げた。一天雲ひとつなく、そこには天照る星星たちの中、一際輝く満月がいた。薄黄色く光ってほかの星と比べればとても大きく見える、それはまるで今にも手に届きそうで私は手のひらを月と重ねてみる。その手は夜風に悲しく吹かれて終わった。当たり前、私もそこまで馬鹿じゃない。
手を水中に引っ込めて、どしようもない問題をどうにかしようと月を見ながら考えた。いっそあの月に隕石が落ちてしまって、その欠片がこっちまで飛んできたりしたら楽なのに…なんて未だ不変の月を見てため息をこぼした。
そんな私に突然、水中から声がした。
「こんばんは、どうしたんです?月を見てため息なんて」
しばらく聞いてこなかった柔らかい言葉が聞こえたのでびっくりして声の方を見てみるとそこには小さな白いクラゲがいた。
少しびっくりしたが挨拶されたからには返さなければ失礼というもの。
「こんばんは、クラゲさん。実は私…笑わないでくださいね…?月の石が欲しいんです」
「ほう、それはまたどうして?」
「海の底に住んでる青いクラゲと約束したんです、月の石を取ってくれば私を人間に戻してくれるって」
「ああ、あの青いクラゲですか。あいつはクラゲの中でも特殊ですからね、そんなことも言うでしょう」
「あの…クラゲさん。私はどうしたらいいんでしょうか…?」
私はついこの丁寧なクラゲに今の状況、さらにどうにか出来ないかと無茶な質問をしだした。
ヒラメの時痛い目を受けているのにも関わらずまだ誰かに助けを求めようとしてしまう。そもそも月の石が欲しいなんて願い、このクラゲにどうかできる問題では無いことくらいわかっているはずなのに…
私の突飛な質問に小さいクラゲは体を傾げて「何をですか?」と返してきた。
「月の石ですよ、どうしたら月の石を手に入れられるのかなって…」
私がそう言うと小さいクラゲはまた体を傾げてこう言った。
「そんなの簡単じゃないですか、今私たちは月にいるんですから」
私はこの白いクラゲが言った意味がわからずキョトンとしているとそれを見てクラゲが説明してくれた。
「あなた、月ってのは一つだけじゃないんですよ。その青いクラゲは空に浮かぶ月の石を取って来いって言ったのですか?」
「それは…言っていないですけど…」
「だったら二つ目の月の石を取って来いって意味ですよ。ほら、水面を見てご覧なさい」
私は訳が分からないまま水面をみた。凪いだ海、辺りは月に照らされて光り輝いている。
「一体、二つ目の月って…」
「簡単な話です。月が照らすこの海が二つ目の月なんですよ。私たちクラゲはそれを海月と呼んでます」
そう言われて私は当たりを見渡した。月から届く光で乱反射した水面は確かに綺麗に輝いていて、それはまるで月の表面のような…そう思い始めるとクラゲの言った通り、今私はひょっとして月の上にいるのでは無いかと錯覚してしまう。私はそこ思いをそのまま言葉に出した。
「まるで…月の上にいるみたいですね」
でも小さなクラゲは私の発言を馬鹿にすることはなく。
「ええそうですとも。間違いなく私たちは今、月の上にいるんです。その証拠に手で水を掬ってみてください」
私は言われた通りに目の前の水面から両手で水を掬った。その水は月の光を含んだまま私の手に乗った、次第に水は私の手の隙間から下に逃げていく、でも月の光は残っている。どんどんと水が抜けていき、ついにそこには小さな光の粒の月の光だけが私の手に残った。
「もしかして…これが月の石ですか?」
「そうです、それを持っていけば青いクラゲも納得するでしょう。あいつは無愛想ですが約束を破るほど腐ったクラゲではありませんからね」
「…!ありがとうございます!……でも」
到底無理だと思っていた月の石を手に乗せたまま、私は口ごもった。とても嬉しいのはそうだし、この小さなクラゲに感謝しているのも本当だけど…
「私は何を渡せばいいでしょうか…?私が渡せるのなんてこの声か鱗くらいです。もしそれが駄目なら…」
「何を言ってるんですか、私はあなたからなにか取ろうなんて思っちゃいませんよ。私はただ自分の使命を全うしただけですから」
その言葉はしばらく私の頭で反芻した。そして知らずに涙が頬を伝った。私は無償の助けを噛み締めながら何度も何度も「ありがとうございます」と言い続けた。それにクラゲは「当たり前です」と優しく返してくれる。なんて優しいクラゲなんだろうか、それに対してとても嬉しくて泣いているのもあるし、その優しさに対して私が何も返せないことにやるせなさも涙にこもっていた。
そんな情けない私に小さいクラゲは鼓舞するように。
「ほら、こんなことで泣いている暇はないですよ。夜が明けてしまったらその石は消えてしまうのですから。早く届けないと」
私はっと手のひらの石を見た。まだ淡く光っているが朝になれば消えてしまうとなれば急がなければならない。
「本当にありがとうございます。その恩はいつか必ず返しますので」
何遍もお辞儀をして私は海の底に沈んでいく、そしてまたあの二つの岩の中に入って進む。しかし前と違うのは手からこぼれる月の石の光が周りを照らしていてくれる事。そのおかげで気持ちを落ち着けながらなんとかあの扉の前まで来ることが出来た。
二回ノックして「入りな」と掠れた声が聞こえてから扉を開けて中に入る。青いクラゲは相も変わらず寸胴鍋をかき混ぜているとも思ったがそうではなく、椅子を模した石の上に座っていた。それはまるで私を待っていたような。
「あんた月の石は持ってきたんだろうね?」
そう言われて私は早速、月の石をクラゲにみせた。まださっきの光を保ったまま、私の手の上で光っている。クラゲはその様子をまじまじと見つめていた。その後、ため息はせず。こほんと咳をしてから私に話しかけてきた。
「ふん、あんたよく持ってこれたね。月の石の在処なんて私らクラゲでも一部のクラゲしか知らないのに」
「いえ、実は私が一人で見つけたわけじゃないんです。近くにいた小さなクラゲに教えて貰ったんです」
「ふん、どっちだっていい。結局あんたが持ってきたんだったらね。いいよ、あんたを人間に戻してやろうじゃないか」
「本当ですか!」
この時の声は私でもとてもうるさかったと思う。正直、ヒラメの時と同様、ここから二転三転するのかと薄々思っていたから。
「五月蝿いねぇあんたは。でもいいかい、人間に戻れるのは二つの条件があるんだよ」
クラゲは二つの足を私の前に突きつけた。
「まず一番重要な一つ目『人間なれるのは満月の夜だけ』だ。二つ目『この薬は三日間しか持たない』一瞬でも人間に戻れるんだ、このくらいの条件は仕方ないだろう?」
クラゲが言った条件は確かに私が望んでいたものと違った。望むことなら一生人間になりたい。しかも三日間で満月の夜なんて一日もあるか分からない。でも今の私はそれでもいいと思えた。
これ以上は望まない。ただ、私が愛したあの人に会いたい。あの人との記憶は未だに思い出せないのにそんな気持ちだけがずっと肥大化し続けている。
「はい、もちろんです!どうかお願いします」
青いクラゲはそれを聞いて頷き、部屋の隅の棚からフラスコを出してきて、それにずっとかき回していた寸胴鍋の中の赤い水を流し入れた。
「ほら、これが薬の元だ。この中にお前の持ってるそれを入れれば完成する」
クラゲが私の持つ月の石を指して言った。でも私はそれが少しおかしく思えた。
「…え、いいんですか?だってこれは薬と交換条件のはずじゃ…」
「いいから黙っていれるんだよ。早くしなくちゃ月の石が消えるじゃないか」
その勢いに押されて私は小さな光の粒をフラスコの中に落とす。すると赤かった水がだんだんと色を変えていき、最終的に綺麗なラムネ色に変わった。
「うん、なかなかいい出来じゃないか。あんたにやるのが勿体ないほどだよ」
青いクラゲは満足そうに言った。私とて嬉しいのには無論違いないのだけど、さっき現れた胸の蟠りの方が気になって仕方ない。
「あの…月の石を薬に使ってしまったら私はクラゲさんに何を対価にすればいいでしょうか」
するとクラゲは大きなため息をする。
「野暮なことは聞くんじゃないよ。あんたが海月の石を持ってきたんならあたしもクラゲの端くれさ、無償で助けてやるのが道理ってもんだ。それがわかったならさっさと行きな、これ以上面倒を見てやる道理はないからね」
私はこの青いクラゲの優しさで胸がいっぱいになった。私が来る前からあの鍋を回していた所とか、トゲのある言葉の節々に優しさが溢れているのだ。このクラゲには。
でもきっとそれを言ったらクラゲは怒るだろうから余計な事を言うことはやめにした。
「ありがとうございます…私の願いが叶ったらきっとまたここに来て恩返し致しますので」
クラゲは私の声なんてまるで聞こえてないかのようにそっぽを向いてしまった。私はその姿も愛おしくてたまらなかった。
その後ろ姿に一度礼をしたあと、私はその洞窟をあとにした。感謝の念なんて伝えていたら私の一生をかけても足りないし、それはきっとクラゲの思いを無駄にしてしまうことに繋がってしまう。
あの青いクラゲが薬の元を完成させて私を待っていた事、私に月の石を取りに行かせるのを急かした事。…今日が満月だという事。
きっとあのクラゲは知っていたんだ。
自然と泳ぐ足が、フラスコを握る手が強くなる。暗闇だって関係ない、今までどんな辛いことがあったって関係ない。今は時間がおしくて仕方ない。
魚たちが寝静まっている中、私だけが忙しく夜の海を駆ける。海月の海を走る。
前に見た時は遠く見えた人里の灯りも今はとても近くに見える、私はそれに心を踊らせながら浜辺まて泳いで行った。
浜辺まで来ると私は近くの小さな石まで這っていき、そこに腰かけた。全身を撫でる風とか、私を引っ張る重力とか、私から伸びる月影とか、懐かしい感覚が沢山あったけど私はそれらに目もくれず、フラスコに口を付けた。ラムネ色が私の喉を通っていく。全て飲み干す頃には全身が熱いのを感じた、でもそれは決して辛い意味じゃなく例えるなら野原で浴びる陽の光のような熱だった。
次第に私の唯一の自慢の鱗が剥がれて、足が二つに分かれて、指が生えて、最終的には私が自殺する直前と同じ姿に戻っていた。服もスカートも靴も、全て私が身につけていたものだ。その時、私は人間に戻れたんだと実感した。
全身で風を感じることができる、潮の香りを嗅ぐことが出来る、潮風を飲み込むように息が出来る、君に会いに行く足がある。
なんて…なんて人間は素敵なんだろう。
私は逸る思いを抑えようともせず、早速走り出そうとした。ただそれは一歩踏み出した途端、不自然な感覚と共に崩れ落ちた。
地面に前のめりに倒れた私は何が起きたかわからなかったが改めてもう一度歩こうとした時、その理由が分かった。なんと私は二足歩行を忘れかけていた。
童話の人魚姫のように足に痛みがあるわけじゃない、ただ私はずっと尾びれを上下に動かして進むのに慣れていたため、二本の足を交互に出すという頭では分かっているはずの理屈がとても難しい物のように思えて上手く足が出なくなってしまったのだ。
まず二本足で立つまではできる、でもそこから片足を上げてしまうともうダメ。私は上げた足の方に倒れていく。
それから数分、テトラに手を付きながらゆっくり歩く練習をしてやっと杖があれば何とか歩けるほどにはなった。その最中、何度も転けたせいで肘や太ももは擦り傷だらけ。そのせいで慣れるのにも時間がかかった。
こんなことで時間を潰している暇はないのに…唇を噛みながら思うがこれも人間に戻る弊害だとすれば私は飲むしかない。
流木を杖代わりにし、拙い足取りで砂浜を後にして町に向かった。私が住んでいた町はまさに田舎そのもので山と山の間の平地に家が数十件ある程度。私はここで生まれ、ここで生きて、死んだ。
何だかとても不思議な気持ちになる。今私はこうして人の姿に戻ってこの町にいるのに、まるで幽霊にでもなったような気分。実際そうなのかもしれないけど。
そうして私はやっと砂浜を抜け町に入った。ここまで来ればあとは彼の家に行くだけ、もうすぐそこだ。そう思いながら私は街灯の少ない道を数歩歩いて重要なことを思い出した。
私は彼の家の場所を知らない。名前も声も、もっと言えば顔も覚えてないし、街の全貌も知らない。きっとこれも人間を辞めた弊害。
仕方ないから恐らくこっちだろうと憶測を立てて歩き出す。寝静まった町は全く人の匂いがしない、闇に染まる家々があるだけ。私はそれを横目で見ながら歩いている。ああ、ここの家はたしか老夫婦が住んでいたはず。この商店は九十歳のおばあさんが一人で切り盛りしていたなぁ、まだ生きているだろうか。この家は…私をいじめていた集団の一人が住んでいる家だ。ここの庭に咲くサルスベリは綺麗だったなぁ。
私は歩く度に流れるように昔の記憶を思い出していた。それはまるでアルバムを読み返しているかのように思えた。ただ私にはそんな記憶になんの価値もない、彼の事に関しての記憶さえあればいいのにそのことに関しては全くの空白のまま。
次第に交互に足を出すことに慣れてきて、お世話になった杖はそこらの茂みに放り投げた。
そうしてまた歩き出す、周りのくだらない記憶ばかり空っぽの頭に堪りながら、歩いて、歩いて。
ついに何も無いまま、私は住居の密集地を抜け、田んぼが道の両端に広がる砂利道まで来てしまった。
奥には山が見えるだけ。この先に行っても何もなさそうだから引き返そうと思った時、道の少し先に小川が流れているのに気づいた。私はそれを見て思いつく、魚たちなら彼の事を知っているかもしれないと。
小川の近くまで歩いていくと案外大きい川だったことに気づく。私は川の上の橋から下を覗いて見た。炭のように黒くなった川を月明かりが照らしている、そのおかげで川に数匹の鯉が泳いでいるのが見えた。私はその鯉たちに声を掛ける。
「こんばんは、鯉さん方。夜分遅くすいません、少しお伺いしたいことがあるのですが」
鯉達は私の声なんて知らん顔で流れに向かってゆっくり泳いでいる。ひょっとしたら聞こえなかったのかもしれない、私は土手から川の砂利まで降りて今度はさらに大きな声で聞いてみる。
「すいません!お伺いしたいことが…!」
私がここまで言ったところで声に驚いたのか泳いでいた鯉達は散り散りに逃げていってしまった。
しばらく私は何故なのか分からなかったがよくよく考えてみれば自分がどれだけ奇行をしているかが実感として浮かび上がってきた。
魚が喋るわけが無い。
人間だった頃の当たり前が私はすっかり抜けていたのだ。それだって仕方ない、人魚になってからは魚は自分と同じ言語を使って話していたのだから。今の私が魚と言葉を交わせないのはきっと自分の中にあった魚の部分が消えてしまっているからなんだろう。その時、今日初めて人間の不自由さを感じた。でもそれだけで人魚の方がいいとは到底思わないけど。
仕方ないのでまた町の方に歩きだそうとした時、また私の足は動きを止めた。その瞬間、直ぐに私は後ろを向く。
その先にはこの町を見下ろすような山たちが見える。でもそれじゃない、私の足を止めたのは…山よりさらに手前、田んぼに囲まれた一軒家。
その家から聞こえてきたピアノの音が私の足を地面から引っ付けて離さない。
音楽に疎い私はその曲の名前も分からない。なのに聞いた途端、私は頭上の月を思い出した。
それと同時に私の心は抉るような動機とともに、深い哀の感情に支配されていく。
聞いてるだけで泣いてしまうような、それも笑って泣いてしまうような感情。
いつの間にか自然と私はその音の方に歩いていた。その最中、ふとそのピアノの音を不思議に思った。そのピアノの音には左手のベースが無かったから。このピアノを弾いている人はまだ両手でピアノを弾けないんだろうか、でもそう思うには無理があるほど、美しい曲調だった。
奏者に思いを馳せて、月光を頼りに道を進む。それにつれて優しいピアノの音も近くなる。
そしてついに私は家の前まで来た。ピアノは止むことなく、家の中から聞こえてくる。
少しの躊躇もなく、私は庭に入った。家の窓からどんな人が演奏しているのか見るためだ。
大凡の音の方角を決めて、家の壁に沿って向かうとその音が開け放した縁側の奥から聞こえてきているのが分かった。
私はそっと頭を覗かせて部屋の中を見てみる。ざっと十畳ほどありそうな部屋の中、和室に似合わない黒いグランドピアノがあった。
私はさらに顔を出して誰が引いているのか見てみた。それは私よりも少し年下の少年だった。
彼は目を瞑りながら右手でピアノを弾いている。左手は下に垂れ下がったまま。よく見るとその長袖の先には手首がなかった。
その様子から見るに彼は両手で弾けないのではなく、左手が無いから片手で引くしかないようだった。
私はしばらく彼の弾くピアノの音に浸っていたがふと、室内を見渡してみた。
おそらく彼のものであろう敷布団、その横には水が入ったガラスコップ、僅かしか手をつけていないであろうお粥。そんな風に色んなものに目を向けていると私は部屋の隅に置かれた仏壇で目が止まった。その時、心臓も止まっていたかもしれない。
仏壇の前に飾られていた写真、それは正しく私のものだったからだ。その事に困惑している中、突然ピアノが止んで大きな音がする。私ははっとしてピアノの方を見るとさっきまで椅子に座りピアノを弾いていた少年が畳の上に倒れ込んでいた。
その瞬間、私は考える間もなく縁側から部屋に飛び込むように入って少年の前まで近ずいた。
少年の顔は突然倒れた人とは思えないほど苦しそうでもなく、寝ているかのような顔で倒れている。まさか彼は死んでしまったのだろうか、そんな突然!?目を閉じたままの彼の前であたふたしていると「お姉ちゃん…?」そう私の耳に入った。
私は驚いて彼の顔を見る、彼は私の顔を見ていた。私も彼の顔を見ている。その時、彼の顔と何かが重なった。
それは言うまでもなく、ずっと私が探していた、会いたがっていた人の陰。そうか、私が会いたかったのはこの少年だったんだ。
意図せず私の顔から笑みと一緒に涙が零れた。
「なんで…どうしてお姉ちゃんが…」
私はそう言われて少し困る。全部説明してたら一夜じゃ足りない。それにもう彼…弟には会えないんだろうから今は分かりやすい例えでいい。
「久しぶり。実はね、私幽霊なんだよ。君がピアノを弾いてくれてたからここに戻ってこれたの」
正直ある意味間違いじゃない、きっともう会えないんだからこれでいい。
少年はそれを聞きき微小を浮かべ「おかえり。良かった…僕ずっと思ってたんだ、お姉ちゃんが好きだったこの曲を満月の夜に弾けばまた会えるんじゃないかって…」
「私も同じだよ。空に浮かぶ月をみては君のことを思い出してた…でもごめんね。私はもう君の名前も思い出も無くしちゃったんだ」
「いいんだ、お姉ちゃんが帰ってきてくれただけで僕は…僕は…」
そう言いかけて少年は私の前で泣き始めてしまった。既に涙をうかべていた私は彼に続いて泣き崩れた。
月明かりがこの部屋まで入ってくる、夜風が私達を包む。これ以上月が沈んで欲しくない、夜が開けて欲しくない、私はそんなことを切に思った。
二人とも泣き疲れて、私は彼を抱き抱えて布団まで連れていった。枕元の水と薬で彼が病弱なのは覗いている時から薄々分かっていた。
でも少年は私にそんなことを思わせないような笑顔で私に話しかけてくる。
「お姉ちゃんはね、僕の自慢だったんだよ。町一番の美人だとか誰もかなわない秀才なんて安いものじゃなくてお姉ちゃんは僕にとってヒーローだったんだ」
「それは…どんな?」
私が聞き返すと少年は右手で左肩を掴む。
「僕小さな時から右手が無くて、それで周りの奴から虐められていたのをお姉ちゃんだけが守ってくれたんだよ。ピアノをやりたいって僕の意見を大人たちは反対してもお姉ちゃんだけは僕に賛成してくれてた…僕が生きてこれたのはお姉ちゃんのおかげなんだよ…」
少年の言葉で私の記憶がだんだんと明確になっていった。断片的に少年がピアノを弾いてる横で喋る私、泣いてる少年を慰めながら帰る道、二人で泣いている夜、そんな記憶たちが私の脳に溜まっていく。
少年が言っているのは確かに私たち姉弟の思い出。しかし私は少年が言うほどいい姉だったのかという自信がなかった。
私が少し自信なさげな顔をしているとそれを何かと勘違いしたのかこんなことを少年が言い出した。
「お姉ちゃんは僕を恨んでる?」
私はそこの言葉にだけは濁りなく答えられる自信があった。
「そんなことは絶対にないよ。どうしてそんなことを言うの?」
「お姉ちゃんが自殺したのは僕のことを庇ったからなんでしょ?僕をいじめていた奴らが今度はお姉ちゃんがをいじめだした。お姉ちゃんはそれが耐えられなくて自殺したんでしょ?」
「あのね、それは違うんだよ。私は記憶が無くて当時どんな事を思っていたかは知らないけど君の事を思う気持ちは偽りじゃない。私がこうして人の姿になったのも君に会いたいから頑張ったからなんだから」
「そっか…」
少年は安心したように笑った。私の気持ちが伝わってくれたみたいで嬉しかったけど次の少年の言葉でまた悲しくなる。
「良かった、なら直ぐにお姉ちゃんの所に行ってもだいじょうぶだね」
私はその意味を何となく理解した。
じゃあ私がかける言葉はなんだろう。
そんなことを言っちゃダメ、もう少し頑張って、頑張って生きて。生きて幸せを見つけて。
全部違う、彼はもう既に頑張ってる。頑張って生きて、幸せを見つけようとしている。それを私がわざわざ口出すことをするのはおかしいことだ。
…なんて表ではそう思いながらも少年には生きていて欲しくて。しかしそれを言った所で少年にも私にもどうにも出来なくて…
私は俯きながらまた泣きそうになっていた時、自分の膝をみてあることに気づく。それは砂浜で歩く練習をしている時に出来た傷が綺麗に治っていること。
『どうにか出来るかもしれない』
この時、私は彼のためと思いつつもきっと私欲で動いていたと薄々気づき始めていた。
嘘でもいい、その場しのぎでもいい、彼のためになるのなら…
「ねぇお姉ちゃん、天国ってどんなところ?」
私は口ごもる、少年にはああいったけど私は天国にも地獄にも行かず人魚になっているのだから。
しばらく黙っていると少年が。
「言えないならいいんだ。でもひとつ妄想を言うならね、も
し天国があの月のような場所だったらどれだけいいかって思うんだ。それで僕がピアノで月の光を弾くんだ、どう?」
私は魔が差した。この気持ちを表すならこの言葉しかないんだろう。
死んで早く私の元に行きたいという彼を、私のように後悔して死んで欲しくないという私欲で塗り潰そうとしているのだ。
「あのね、天国にはピアノはないんだよ。それに月みたいに綺麗な場所じゃない、ただ真っ白な空間が広がってるだけ。それに君が死んでも私の所に来れる訳じゃないの」
少年は少し驚いているようだった。そしてその後悲しそうな顔をする。
「じゃあ…じゃあ僕はどうしたら…」
私はそこに付け入った。まるで毒蛇にでもなったようだった。
「私ね、君のピアノがとても大好きだよ。生きている時も死んでからもずっと天国で聞いてたんだ。そうするとね、まるで隣に君がいるみたいに思えて、あるはずのない月が見えるんだよ。それが私にとって唯一の楽しみだったの…」
彼は無言で私の話を聞いている。
「だからね、一つお願いしてもいい?」
彼は私の言葉にゆっくり頷いた。
「これから君が病気に打ち勝って元気になったら満月の日にピアノ弾いてくれないかな?きっと簡単じゃないだろうけど、もし君がいいなら。私達が会えるのは君が弾く音の中だけだと思うから」
偽りはない、確かに天国がどうとかは嘘だ。しかし彼の音色が好きなのは本当だし、彼が病気に打ち勝って、さらに私を思ってピアノを弾いてくれるなら私にとってこれ以上の幸せはない。
ただそれが全て私の利己的感情のものでなければ美しいものなんだろうけど。
彼はしばらく悩んでいるのか月を無言で眺めている。でもなにか決意したのか「確かにそうだね」と今度は私の方を向いて言った。
「死んでもお姉ちゃんのところに行けないんだったら死ぬ意味もない。分かったよ、僕はこれから頑張って生きてお姉ちゃんだけの為にピアノを弾く。そうしたら僕もお姉ちゃんもお互い忘れることもないよね」
「うん、ごめん、ごめんね。ありがとう。」
彼の素直さに私の心を蝕む毒蛇は悲鳴を上げる。今頬を伝う涙も彼の優しさに感動してでは無く、その優しさを利用した私が醜くて仕方ないから泣いている。
彼のため、彼のため、私は彼に生きて欲しい。表向きでは弟思いの姉のように見えるだろうか。
でも私は決めつけてしまっている。『彼はきっと死ぬよりも生きている方が幸せだ』と。
私が辛くて逃げた人生という迷路を彼に強要している、その方がきっと彼のためになると。生を諦めた私が、天国なんて知らない私が、根拠もなく言っている。
すると突然、涙伝う頬に優しい温もりを感じた。それは彼の手だった。
「もう泣かないで、きっと僕ら会えるよ。満月の夜ならいつでも。僕が月を見てピアノを弾く、そしてお姉ちゃんがそれを聞いて夜空の月を思い出すんだ。きっとそれは一緒に月を見ているのと同じだよ、いつでも一緒だから」
そう言い終えると彼はろうそくの火が消えるように眠ってしまった。彼の言葉に答えられなかったけど私もそうだと思っている。
でも彼にピアノを弾かせてあげるためには今、やらなければならないことがある。
私は左手の薬指を八重歯で噛んだ。それはもう思いっきり、ちぎれてしまうほど強く。
すると次第に口中に鉄の味が広がる、私は薬指から絶え間なく溢れる真っ赤な血を彼の枕元に置かれたコップの水に入れる。透き通った水は次第に私の血で染まって赤ではなく黒になる。
私はそれを寝ている彼の口の中に流し込んだ。この状況はなんだろう、表すとしたら童話の人魚姫が王子に短剣を刺そうとするところか。
王子の返り血を浴びれば泡にならず人魚に戻れるのに、あの人魚姫は結局王子を刺すことはせず泡になった。しかし私はこうして王子の血ではなく自分の血を彼に飲み込ませている。
所詮、現実は童話のように綺麗事だけで書いてなんていけない。これが私たちの幸せの掴み方なら仕方ないじゃないか。
これできっと彼が幸せになると信じるしか出来ないんだから仕方ないじゃないか。
泣きながら彼に私の血を嚥下させているカオスな状況に吐いてしまいそうな感情が渦を巻く。
コップ半分まで飲ませたところで彼の体に変化が起こる。光りだしたのだ、まさしくそれは月の光のように淡く光っている。縁側からは沈みかけた満月が私たちを照らしている、共鳴でもしているようだった。
私は昔聞いたことがあった。人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼の話を。それは多分私の体でも同じだと思う、今まで傷が治るのが早かったのもきっとそうだ。
しかも人間に戻っている今でもその効果が残っていることをさっき気づいた、そして思ってしまったんだ。
人魚の肉で不老不死になるなら私の肉ではなく血を飲ませれば病気や腕も治るのではないかと。
そんな希望を託して飲ませた私の血はどうやらその通りだったらしい。私の目を見張る速さで彼の顔色が良くなっていき、無いはずの左腕はもうすっかり他の人と変わらないほどに戻っていた。
これで彼は両手でピアノを弾ける、これで彼は私がいなくても他人にいじめられることも無い。
人並みに幸せを求められるんだ。うん、そうだ、なんだかんだ言ってもこれが彼のためだ。
私は彼の体が治るのを見届けてから直ぐに縁側から庭に出て家を去った。あの満月が落ちてしまったら私は人魚に戻ってしまう、もしここで戻ったら大変だ。
急いで…と言っても早歩きほどで私は浜まで戻り、月が沈むのを待った。魔女が言ったことは間違いなく、月が沈むと同時に私の足は一つになって、鱗が足を覆ってみるみる人魚に戻っていった。
まるで夢のような時間はあっという間に過ぎて私はまた居場所のない海に体を落としていく。でも私はもう悲しさを感じない。彼が私を思ってどこかで生きていてくれると思うだけで、このくだらない人生でも生きる意味が見えるんだ。
その後の三日間、曇天の夜は空に満月を映すことはなかった。それはもう仕方ないので次に青いクラゲの元に向かった。決してもう一回薬を作ってくれなんて厚かましいことを言いに行くわけじゃなく、貰った恩を返すためにクラゲの元で働かせてもらおうと思ったのだ。
クラゲの元につき、会いたがっていた人に会えたことを伝えるとクラゲは無愛想に祝福してくれた。それから手伝いをさせて欲しいと言うと邪魔だとか足でまどいなんて言いながらも私に仕事をくれて、それを毎日こなしながら過ごした。
たまに満月の夜は海面まで泳いで、陸を眺めていると風に運ばれて彼のピアノの音が聞こえてくるような気がした。
それから時間が経って、川から降りてきたサケからある話を聞いた。それは満月の夜になると綺麗な音がある家から聞こえてくるというものだった。
「いやぁ、あれは素晴らしかった!あの音はまさに月の音だね、あの日だけは僕もとてもよく眠れたよ」
その話を聞いた時、彼の事だと気づいた。そうとしか考えられない。私は少し鼻を高くして。
「実はね、サケさん。その音は私の弟がピアノを弾いて出しているんですよ」
「おいおい、嘘をいっしちゃいけない。あんたと血の繋がった人間があんな音を出せるわけないぜ」
「信じられないでしょう?でも本当なんですよ、私の誇りなんです」
それから彼の噂は時たま耳にするようになった。その度、まだ私を覚えていてくれているんだ、彼は元気に生きているんだ、そんなことを思って嬉しくなるのだった。
そんな私の人生はそれから特に波風立たず、時たま投げられる罵詈雑言も彼の事を思えば気にならず、クラゲの手伝いをしながら長い人生を潰していった。
海にいると時間感覚が測れず、どのくらい時がたったから知らないけど恐らく四~五年程だった頃だろうか。
ここ最近、満月の夜が続いていたのにも関わらず川から降りてくる魚達に聞いてもそんな音は聞こえなかったと口を揃えて言い出すので私は何か怖くなって陸の近くまで言ってみることにした。
それは偶然にも満月の夜だった。浜までいけばピアノの音が聞こえるかもしれないと泳いでいると視界の端で無数の小さな光が揺らいでいるのが見えた。
それは見覚えのある場所…よく見れば私が身を投げた海辺の崖の上だった。
突然、胸騒ぎがして仕方ない、何か嫌な予感がしてたまらない。気づけば私はその崖に向かっていた。近ずけばその光の正体が人が持つ松明だとわかる、更に近ずけば体を縄で縛られた人が崖際に立っていた。遠くてもわかる、私がどれだけ彼を見てきたか、それはまさしく…
「この化け物め!!!」
海面まで振動するような怒鳴り声が響いた。今の私は海の中からその会話を聞いていることしか出来ない。
「お前が何をしていたか隠していたってわかるんだぞ!」
「…何を言ってるんですか」
「お前その腕はなんだ、生まれた時からお前は左腕が無いはずだ。それにお前は七年前までは全身に癌が転移して死ぬ寸前だっただろ、なのにどうしてだ!!無いはずの腕が生えて、癌が治ってるんだ」
「……分からないです、けどきっとおね…姉が僕になにかしてくれたんです」
「お前の幻覚の話はもういい!!お前の腕が治ってから七年経っているのにお前は一向に老けているように見えない。それはあれだろう!お前が夜な夜な弾いてるあの不気味なピアノのせいなんだろ!?」
「違います、あれは…」
「いいや、そうだ!!あのピアノを弾いてるお前は町中の人から生気を奪っていたんだろ。俺の息子が病気で死んだのもお前のせいだ」
「そうよ!私の娘が熊に襲われたのだって!!」
「俺の爺ちゃんだって…」
聞くに耐えない責任転換が私の上で行われていた。でもそのおかげで今の状況が読めてくる。
…私のせいだ。
「違うんですよ、あれは姉のために弾いていただけで…」
「黙れ!全部辻褄があってるんだ!お前がピアノを弾いて町中から生気を吸って命を保ってるんだろ。この化け物め!!」
化け物。それは私を指している言葉にも思えた、しかし今は彼に対して使われている。なんてことだろう、私は馬鹿だった、彼は生きていた方が幸せだろうという勝手な決めつけが今彼を苦しめているのだから。
「…もう話はいい。お前が犯した罪を死んで詫びてくれ」
上から足音が聞こえる。崖際から何かと揉めているような。
「待ってください!僕はまだピアノを弾かないと…!」
彼の言葉は誰にも届いていないようだった。それが分かった時、彼は崖の下に落ちていくところだった。
はっとして彼の元に泳いだ。彼は大きな音を立てて沈んでいた、細かな気泡を纏って沈んでいる、私はその体を抱いた。
もう既に意識はなく、彼の口からあぶくが逃げていくのを私は見ていることしか出来ない。
悲しかった、悔しかった、でも涙を流してはいない。それはきっと絶望に近い感情のせいだ。
後悔、私が彼に与えた欺瞞、全て丸く収まると思っていた楽観主義。全てのせいで私は涙を流す感情を通り過ぎて、虚無に等しい闇に落ちていくようだった。
私は彼を抱きながら月明かりの海で無数にある自分の罪を数えていった。私の感情とは相反して海は静かに揺らめいて、空の月を写した海月は私達を包んでいる。
あの小さなクラゲが言ったことを思い出した。海月とは二つ目の月だと、今私たちは月の上にいるんだと。
そしたら彼の言ったことを思い出した。月で月の光を弾いて、それを私が隣で聞く。
私は空を見上げた。月は変わらず私達を照らした。
私は思い出した。あの月にも海があることを。
私は思った。私達が報われるならそれしかないと。
私は罪悪感と言う言葉で済ましていいかわからないほどの重い感情を抱いて、彼を腕に抱いて、月にこんなことを言った。
「ああ、月さん。私を笑ってください。私は馬鹿な姉です、自分のものさしでしか他人の幸せを測れないんです。だからこんな事を招いたんです。ああ、月よ。もし私たちを哀れんでくれるのならあなたの海に連れていってください。水なんて無くてもいいんです、そこに一つのピアノさえあれば…私たちは…」
私はそこまで言って口を塞いだ。
結局、私は駄目だ。こんな時でさえ私は彼の幸せではなく、二人の幸せを望んでいるのだから。
彼は私にピアノを聞かせる時間が楽しいと言っていた、私が彼にとってのヒーローだと言っていた。もしそうだったとしても人魚の私は違う。
きっと君の姉は素晴らしい人だったんだろう。人魚になった姉とは違う、君の事を第一に考えてあげられるような、人魚姫のような優しい人だったんだろう。
でもごめんね、人魚になった私はどうやら違うらしい。君と私、同時に幸せになろうなんて考えているんだよ。
そしてあの夜、君を騙して私の血を飲ませ、挙句君は海に落とされてしまった。
私は人魚姫のような君の姉じゃない、ましてや人魚なんかじゃない、セイレーンだ。
歌声で船を惑わせ、船員を食い散らかして生きながらえるような醜い生き物になってしまったんだ。
私がセイレーンになった時点で君の人生はきっともうこうなる運命をたどっていなのかもしれない。
私は抱いていた少年を岩場に寝かせて、その場から逃げるように去った。
じゃあセイレーンの私は、利己主義の私はどこに行く?決まってる、海底谷に沈むんだ。
もう二度と君を思い出さないように、月明かりも刺さないような暗い暗い闇に飲まれてしまおう。
死ねない私は闇に同化して死んだように生きよう。
今の私を差別なく月は照らしている。もう目が眩むほど眩しく思える月明かりは罪深い私を照らすスポットライトのように思えた。
怪物セイレーンはその時、顔に笑みが浮かんだのを覚えている。
作中、主人公の弟が引いていた曲はクロード・ドビュッシー作曲、ベルガマスク組曲、第三曲「月の光」
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