捌:楊武と博麗
英慶宮は今日も賑やかな声が聞こえている。日中は沢山の従者が此処で職務を全うしているのだろう。しかし夕方になると途端に人の気配が無くなる。この部屋は奥まった場所にあるゆえ、特に外界から隔てられたような心地が強かった。
博麗が燭台に火を灯すのを横目に、楊武は大きくため息をついた。ため息と共に揺れた髪は、肩につくかつかないかの長さで整えられていた。
「楊武様」
ぼんやりと天井を見上げていると、博麗が夕餉を運んできた。博麗の俊敏な動きに、楊武はぎょっとした。
(さっきまで燭台の近くに居たはずなのに)
瞼を瞬いていると、博麗が気まずそうに口を開いた。
「やはり、気になりますか?」
無意識に触っていた髪を指摘され、視線を泳がせる。昼間の出来事を思い出すと、やはり気分は急降下していく。楊武は黙り込んだまま、毛先に絡めていた手を膝に置いた。
その姿を見て、博麗は伏し目がちに言う。
「太子は……その……幼い頃より、気兼ねなく話ができるご友人が居られませんでした。ですので、あのような言い方に……」
膳を持ったまま立ち尽くす博麗に、楊武は眉尻を下げて微笑んだ。博麗が悪いことをしたわけではないのに、此処まで謝罪されると申し訳なくなった。不安定な足取りで博麗に近づくと、膳を受け取った。
「いえ。太子のおっしゃる通りです。あの方はお若くても、とてもご聡明ですね。踏ん切りがつかなかったのは、拙の方です」
寝台へ腰かけると、匙で湯気の立つ粥を掬う。二、三度、息を吹きかけ、楊武は言葉を続けた。
「太子に助けられなければ死んでいた身で、たかが髪ぐらい、何を躊躇う必要があったのでしょうか」
自嘲した楊武は匙に口をつける。暖かい。毎日食べていたものでも、自身の心中が違うだけでこうも美味く感じるのか。粥を飲み込むと、伏せていた瞼を押し上げた。
「王氏の失脚云々に関してはなんとも言えませんが……。国史編纂は、できたらやりたいですね」
意思のこもった目が天を仰ぐ。迷いのない真っ直ぐなまなざしが、今はまだ見えない道を見据えていた。
(師父たちと積み上げた成果だけは、譲りたくない)
不孝への後ろめたさが消えたわけではないが、まずは生きていることを喜ぼう。父母への謝罪は今の自分がするべきことではない。もっと、しなければいけないことがあるはずだ。楊武は椀に視線を落とし、匙を動かした。
「今日もおいしいです」
粥を救い上げながら博麗を見やる。柔らかな笑みで謝礼を述べると、一口、また一口と匙を進める。はふはふと急いて食べる楊武が肩に落ちた髪を気にする素振りは無い。
楊武の食べている姿を横目に博麗は、今日一日を思い返していた。
慕っていた孫師父のたった一人の弟子とあってか、央晧は当初から随分と楊武に心を許しているように思える。反応がいちいち面白いのか、彼にとっては新鮮でつい揶揄いすぎるきらいはあるが。
幼いながら皇太子と言う立場上、央晧は生まれてからずっと策謀の渦中に居た。周りに配慮ができる賢明さを持ち合わせているゆえ、子供らしさに欠ける部分も多い。誰も央晧を子供扱いしない、だから彼も大人顔負けの皇太子を演じるのだ。そんな央晧が自分と弟以外の存在に、猫を被ることもなく「素の央晧」で話していたのは、少しばかり、いやかなり嬉しかった。
この数日、博麗自身も楊武と日中を共にしているが、孫師父の弟子とあって利口者で、現状をどこまで理解しているかわからないが、空気は読めると察した。胸中に思うことはあれど、自身の立場も理解している彼のことだ。央晧に不利益をもたらすことはないだろう。
(それに……)
先程の楊武の姿は、誰に命じられるわけでもなく、自身で道を選んだように見えた。
色々と――特に央晧の行動が――無茶苦茶ではあったが、あの二人のやり取りには肝が冷えるような駆け引きもなかった。ただただ、己の主張をぶつけあっていた。央晧と楊武の相性は決して悪いわけではないのだろう。央晧と楊武は手を取り合い、目的を果たすことが出来るはずだ。博麗はそう思った。
少しばかり肩の力を抜き、博麗は粥を貪る楊武を見つめていた。