漆:身体髪膚
皇太子・朱 央晧は絶賛、柳眉を顰めていた。
数日前、楊武に向かって「まずは名と姿をどうにかせねば」と言っていたが、未だ何も行動を起こせずにいた。
自身の師であった孫師父の弟子・楊武を謀略から救い出し、自宮の一角に匿うまではよかったが、如何せん楊武は師と共に死んだことになっている。目の前に居る男は亡霊に等しい。今後、新たな師父として宮城を出入りする際、彼の一族や知人と遭遇する可能性は十分にあり得る。央晧はその懸念を払拭したかった。
つまり、どうすれば楊武を楊武と認識されずに済むか。央晧は幼いながらも懸命に思案しているのだ。
「顔は……隈でも書けば見た目はそこまで気にならんか」
自分の股にすっぽりと収まったままの央晧に、楊武はされるがまま、目元を指の腹で擦られていた。
「少し前に武官で仮面をつけていた奴が居たが、仮面をつけるのは逆に目立つ」
その右目の泣きぼくろは逆に消した方がいい。お前を認識するための符号にも見えるからな。
そう言うと央晧は楊武の叫びを無視し、泣きぼくろを引っ掻いた。
生まれてこの方、皇族と顔も合わせたことがなかった楊武は、自身の常識からかけ離れた現状を受け止める許容は持ち合わせていなかった。身じろぎ一つで太子の機嫌を損ねてしまうかもしれない。そうすれば最悪、首が跳ぶやもしれない。いや、九族皆殺しかもしれない。考えれば考えるほど、身体を動かすことができなかった。
「太子」
「なんだ?」
見かねた央晧の側近・鄭 博文が、放心状態の楊武に助け船を出した。
「あまり気安く臣下へお触れにならないよう、お心掛けください」
いつの間にか楊武の頬をこねくり回して遊ぶ央晧に、博文が喚起する。
(そうだそうだ! やんごとなき人に触れられるこっちの身にもなってくれ!)
楊武は心の中で央晧へ悪態をついた。小さな両手で弄ばれた顔は瞼がめくれあがり、口はあらぬ方向を向いており、悪夢のような姿になっていたが、本人は知る由もない。
「ん? ああ、すまぬ」
頬から手を離さず、央晧は顔だけを博文へと向けた。小さくため息をついた博文が言葉を続ける。
「楊武殿は孫師父の弟子でありますが、太子とはまだ微々たる縁の間柄になります。あまり軽率に太子から触れられるのはいかがかと」
博文の言葉を理解した央晧は、楊武の膝元から退くと、ようやく寝台を降りた。
寝台の前に博文が一脚の椅子を置く。龍の透かし彫りが入った椅子は、幼年の央晧には少々大きかったが、腰をかけると様になっていた。
「……そうだな。お前たち姉弟以外とこんなに近くで話す機会もなかったので羽目を外した。すまない」
毎度のことではあるが、変声期を迎えていない幼子とは思えぬ央晧の立場を自覚している姿に、楊武は感服していた。それと同時に、友人や家族と呼べる親しい間柄を安易に作ることができない彼に少しだけ同情した。
憐憫……とは言わないが、見つめていたせいで反応するのがやや遅くなった。謝罪する央晧に対し、楊武は慌てて平伏した。
「面を上げよ。今更お前に皇族として扱われたいわけでない」
楊武が顔をあげると、いじらしい姿はそこになく、いたずらを思いついた子供のような表情をしていた。その表情には良い思い出は一つと無い。楊武の口元がひくついた。
「そういえばお前、余の兄弟子にあたるんだったな? なら[[rb:兄 > けい]]と呼ぼうか? 余に兄は居らぬので呼び慣れんがなぁ、それも良いかもしれんぞ?」
ひじ置きに右手をつくと、央晧は目を細める。楽しげな央晧とは反対に、楊武は肩を大きく震わせると数秒ほど動かなくなった。幼いとは言え、彼は皇太子。同じ師を仰いでいようが身分差は変わらない。どうやって拒絶すれば良いのか分からず、脳が処理出来ずにいた。
「い、い、い、いえ! 拙は新参者ゆえ、拙が東宮様を兄とお呼びするべきかと!」
楊武にとっては一刻以上も停止していた気分であったが、はっと我に返るなり口早に答えた。上げたはずの額をめり込むのではないかと思うほど、何度も寝台へ押し付けていた。
反応が面白いから遊んでいるのだろう。いつものように部屋の隅で控えていた博文と博麗はそう思っていたが、口を出すことは無かった。
「……お前、冗談が通じないな」
「へ?」
「あと東宮呼びもやめろ」
楊武の反応に飽きたのか、ほくそ笑んでいた口角が下げると、膝を組みなおした。
「先日から、ずっとお前の今後について考えていたのだが、まずはその焦げている毛先を切れ」
楊武が顔を上げると、結い上げられたにも拘らず、長さが足りない髪がはらりと楊武の頬を撫でた。
「そもそもお前は出仕しているわけでもないし、顔を知られているわけでもない。ならば髪が短ければ誰も楊武だとは気づか……」
「お、お待ちください! それは、つまり……髪を……切れと、言うことでしょうか?」
淡々と話し続ける央晧を、楊武は遮る。この際、不敬など気にするところではなかった。こめかみに汗を流しながら顔をひきつらせた楊武を央晧が見据える。「それを言わせるのか」と言う代わりに、冷ややかな視線を浴びせた。
先程までとは打って変わり、室内に緊張感が走る。控えていた博文と博麗も、視線を逸らすことしかできなかった。
――身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始まりなり。
これは嘉以前の王朝から引き継がれている「孝」と言う教えである。
嘉は目上の人や家族に対して礼節をもって接することを伝統的に重んじていた。この一文は自身の体に傷つけないようにすることは父母への孝行の第一歩である、と言う内容である。すなわち、自分の体に自ら傷つける行為は親不孝と考えられていた。
今、この場で楊武が央晧に求められていることもそれにあたる。嘉国の国民は男女関係なく、生まれてから髪を切ることはない。髪も父母から授かった恩恵なので、切ることは不孝にあたるのためだ。しかし央晧はあえてそれを楊武に求めている。
「お前、自分の髪をちゃんと鏡で見たのか?」
見たのならば、その鏡は曇ってる。池の水にでも顔を映せ。
寝台に佇む楊武を氷柱のように鋭利な視線が射抜く。酷い物言いであるが、決して楊武が憎いから言っているわけではない。
一見、整えているように見えているが、時間が立てば焼けて短くなった毛は落ちていく。後ろ盾もなんの功績も無い男の冠から毛先の縮れた不揃いな髪がはみ出ているなど、どのような印象をを持たれるか明白でろう。
楊武は肩にかかった髪を一瞥し、うつむいた。
「お前は太子太傅の座を得るのだぞ。たかが身なり、されぞ身なりだ。張りぼてであれ見てくれを良くすることに不利益があると思うか?」
それも死んだ孫師父の入れ替わりで選ばれた学士だ。如何に「一般的な文官」になりきれるかが、外見で最も優先すべき点だと央晧は考えていた。
眉間に皺を寄せ、楊武を見つめる視線が険しくなる。楊武も、自身が楊武であると悟られないための手段と頭では理解している。
「お前のちっぽけな不孝と、自らの命、どちらが大切か。わかっているだろう?」
しかし、既に自身は、事故とは言え父母から受けた身体に傷をつけてしまった。そのうえ、世間では親よりも先に死んだ不孝者である。生きているだけまだ救われる部分はあるが、教えを破ることにやはり抵抗があった。
小刻みに楊武の身体が震える。静かな室内に、ぎりと歯を食いしばる音がやけに大きく聞こえた。祈るように手を組んだ楊武を、その場に居た誰も咎めることは出来なかった。
「博麗、こいつが腹を決めてからでいい。短い髪にあわせて毛先を揃えてくれ」
しばらく静寂が続いたが、埒が明かないと央晧はため息をついて立ち上がった。「先ほどの髻も見事であった」と博麗に添え、振り返ることなく博文と共に回廊へと消えていった。
扉の閉じた音にあわせて、衣擦れの音を立てる。寝台の端で膝を立てて座りこんだ楊武は、いまだ葛藤に苦しんでいた。