陸:師父と王氏
どすどすと音が聞こえそうな大股で、央晧は寝台に一直線で向かう。博麗はこうべを垂れて拱手していたが、寝台に腰を下ろしていた楊武は、茫然と座ったままであった。
「お前を助けたのはお前のためではない。師父のためだ」
楊武は目の前へ迫る央晧に反応が出来ず石像のように動かない。そんな姿を気に留めることもなく央晧は楊武の顔を覗き込んだ。焦点がぼんやりとしている楊武を見て、目を丸くした。
「驚いた。お前、ちゃんとすればそれなりの人間に見えるではないか」
寝台に乗り上げると、博麗が結い上げた髪に触れて感嘆する。
「腐っても名家の子か。……いや、すまぬ。話がずれた」
楊武の隣に座った央晧は、先ほどまでの憤慨もなく冷静に話を続けた。
「師父は余にとっても勉学の師でな。あの日も屋敷が燃えていると聞いて真っ先に宮城を抜け出したのだが……間に合わなかった」
頭一つほど背の低い少年の、遠くを見つめる横顔が次第に俯く。自分のことばかりで気に掛けることが出来なかったが、孫師父を慕う人は弟子だけではない。目の前の彼のように、手も足も出なかったことを悔いることもあるだろう。後悔がにじみ出る儚い姿に、楊武は言葉を発せなかった。
「師父の顔は、親よりも見ていた」
「……」
寝台の傍で控えていた博文と博麗の視線も下がる。
楊武も瞬きの向こうに、師父と兄弟子たちと過ごした三年という月日が映った。
「東宮様」
「なんだ?」
聞くなら今しかないと、意を決した楊武が尋ねる。少年とは思えない憂いの含まれた流し目が楊武を射抜く。
「東宮様は先日、師父の屋敷を襲った犯人に心当たりがあると申されました」
「……ああ」
「偶然ですが、拙にも心当たりのある人物が一人居ります」
「それは奇遇だな」
改めて姿勢を正し、央晧を真摯に見る楊武に対して、目を細めて央晧は鼻で笑う。胡坐をかいた足に肘をつく姿はあざ笑っているようであったが、楊武ではなくその奥に見える犯人を見据えていた。
「お前の想像通り、十中八九、王氏の仕業であろうな」
水を打ったように、人払いのされた宮城の一角が静まり返る。央晧の言葉に楊武の眉も険しくなった。
王氏。祭祀や教育を司る礼部の長で、官職名である王尚書や、王長官、王氏と呼ばれていることが多い。代々礼部の重役に着任している一族の嫡子だが、本人の能力も相まって王一族で初めて長官に就任した実力者である。
また、王氏は皇太子府において、第二席となる太子少傅と呼ばれる地位も兼任している。孫師父は実務を兼ねていたが、皇太子府の上席は名誉職にあたるため本来出勤の必要も無ければ、決まった職務も無い。とはいえ、組織上は孫師父亡き今、皇太子府の責任者と言える。
楊武の脳裏に、一度だけ見かけた姿がよぎる。
冠に収められた白髪に、整えられた顎髭。まさに貫禄という言葉がふさわしい。王氏を先頭に、数百人の部下が颯爽と歩く姿は礼部の名物となっていた。彼はまごうことなく、この嘉国を動かす官人の一人である。
央晧の様子に、楊武は確信を得て返答した。
「王長官が師父にあたりが強くなったのは、国史編纂を任じられてからと聞いています」
嘉国で王氏に意見の言える人物はそう多くない。それこそ皇帝や皇族、他の長官ぐらいだろう。その王氏が孫師父に対抗心を抱き始めたのが、国史編纂の勅命であった。
祭祀や歴代皇帝の陵墓の管理を中心に、教育にも範囲の及ぶ礼部の長官にとって、孫師父という後ろ盾も実歴もほぼ無い、名ばかりの地位で成り上がった男が、皇帝の権威を後世に残す偉業を命じられたのが気に食わなかったと思われる。
「師父は遊説で諸国を巡り、嘉に食客として引き入れられた言わばよそ者です」
楊武が続けて口を開くと、央晧の唇がわずかに尖った。客観的な意見だったが、央晧は悪意と捉えたのだろうか。
「しかし師父はそれだけでなく、科挙試験のための学び舎も作り、功績を得ています」
師父は信条として政治には関与しなかった。徳帝に「欲しい冠位があれば授ける」と言われていたがこれを断り、代わりに科挙試験へ受験する下流貴族たちの学び舎を新しく設けた。
「……それが、国史編纂を受け賜わるきっかけでした」
楊武は言葉を紡ぎながらも、歯を食いしばった。自分たちが考えている通りであれば、王氏は己の確固たる権威のために孫師父や兄弟子たちを亡き者にしたことになる。
(たかが、国史編纂のためだけに……師父や、兄弟子たちは……!)
それが重大な職務だとは理解している。しかし、命と比べればたかがとしか言いようが無かった。
科挙試験は官人として出世街道を歩む第一歩として大変重要な試験である。下級貴族や平民も受験が出来るため、門戸はとても広い。しかし、宮中の書庫にあるすべての書物が暗記できなければ受からないとさえ言われている超難関試験でもあった。勉学に励める環境のある家柄でなければ合格は難しいと言われ、その難しさから試験中に発狂して自害する受験者もいる。
「あの時、彼ら上流貴族は『勝手にしろ』と言っていたそうです」
「私もそのような噂を聞いたことがあります」
央晧の側近である鄭 博文も楊武に同意する。
博文は皇太子府における事実上の采配者であり、次期皇帝の側近として宮中の些細な動きにも敏感であった。宮城で働く文官や武官、宮女や宦官にいたるまで協力者を用いて情報を収集している。特に文官同士や武官同士のいざこざはよく耳にしていた。
上流貴族は家柄や世襲で出仕が可能のため、受験の必要がない。故に彼らは孫師父の提案に否定も肯定もしなかったのだ。
この歴史ある難問試験を、ぽっと出の食客が新設した学び舎風情で合格できるわけもない。受験者も、貴族達も、孫師父の学舎に露ほどの期待もしていなかった。
しかし、結果として孫師父の学舎は、生徒の大半が合格した。合格者はみな、基礎的な教養も持たない下級貴族の次男や三男坊であった。
その功績は、師父最大の嘉国への貢献といっても過言ではない。合格発表と共に、学び舎は志願者が増え、瞬く間に孫師父は話題の人となった。
「師父にとっても、兄弟子たちにとっても。ようやく実を結んだ結果が、国史編纂だったんです」
拳を握り、顔を逸らす。怒りのせいか、目頭が熱くなった。
得意げな顔で兄弟子たちが孫師父が凄い人であるかを語ってくれたのが、ついこの間のことにように思い出せる。
「皇太子府の長官にも選ばれず、歴史の編纂も勉学や国の司祭に関わる礼部には全く声がかからず……。不満がたまっていたのだろうな」
「すでに国史編纂の後継は王氏が有力と言われております」
「……奴の狙い通りと言うわけか」
央晧は博文からの情報を聞き、眉間に皺を寄せる。
師父が兄弟子たちと共に、一から調査を行い、少しずつ形になってきた成果を他人――しかも仇敵に横取りされるかもしれない事実に楊武は愕然とした。燃え上がった敵意は冷や水を浴びたように冷え切っていた。
「そんな形のないものの為に、優れた人材を根絶やしにするなど、国の不益極まりないがな」
央晧の言葉に、楊武の思考は浮上した。
(この人は、権力よりも命に重きをおけるのか)
いくら師父を師事していたと言えど、央晧は兄たちから聞いていた泥沼の権力争いの渦中に居る。
出会って数日。話す限りは悪人で無いと思いつつ、清濁を測りかねていたが、彼は孫師父の教えをちゃんと理解していると分かった。
彼と出会った時に感じた一縷の光は、本物だったのだと楊武は確信した。
わずかに思考が前を向いた楊武をよそに、目の前の央晧が言い放つ。
「そこでだ。お前、王氏を失脚させろ」
すぐ隣に座る央晧が勢いよく人差し指を向けると、楊武もその分だけ体をのけ反らせた。
「え……!?」
「師父と兄弟子たちの仇、取りたくないかと言っただろう?」
こくこくと何度も頷くと、人相の悪い笑みを浮かべて央晧は詰め寄った。
「で、お前が国史編纂の後釜に入れ」
「い、いや、さすがに無名の拙では、礼部の長官を失脚させるなど現実的に不可能では!?」
寝台の上で後ずさりながら、楊武は言う。央晧は獲物を追い詰めるように楊武を寝台の奥へと追いやった。楊武は両手で顔を覆い、わずかでも皇太子である央晧から距離を取ろうと慌てふためく。
「だから、まずお前は功績をあげろ」
「こ、こうせき、ですか?」
「そうだな……まずは名と姿をどうにかせねば」
「な、なまえ?」
器用に片方の口角だけ上げ、央晧は笑う。冷や汗が背中を伝う楊武を一瞥し、軽い足取りで寝台から飛び降りた。央晧は寝台に向かって振り返り、口を開いた。
「前に言っただろう、余の師父になれと」
「あ、あ、あ、ああれ、本気だったんですか!?」
いつぞやの言葉を、楊武は当たり前のごとく冗談と受け取っていた。どこの馬の骨とも分からない人物を、皇太子の教育係に抜擢するなど、前代未聞である。
唖然とした楊武をよそに、「博文、『説文解字』の準備を頼む」と言いながら、上機嫌で央晧は部屋を去った。部屋を出る後ろ姿はとても楽しげで、楊武には彼の起伏の激しさが理解出来なかった。
(やっぱり、直感は正しく無かったかもしれない……)
言い表せないもやもやを発散すべく、寝台で大の字に寝転ぶ。あまりに無謀な目論見に、楊武は心の中で絶叫した。
離れたところで控えた博麗は、央晧の玩具となりつつある楊武に同情の目を向けていた。