拾玖:安堵の中和殿にて
徳帝が解散の号令を出すと、一人、また一人と衛士や官人たちが中和殿から去る。
本来であれば、徳帝が下がるまで退出など許されないが、いつまでも宝座から立ち上がることのない徳帝を察し、みな拝礼をして持ち場に戻った。
気づけば中和殿には徳帝と央晧、楊武、そして博文と懿栄、徳帝の従者が数人残るばかりであった。
楊武には凛々しかった表情は既にない。眉尻が下がったいつもの楊武に、徳帝が声をかける。
「まるで臥薪嘗胆だな」
「……拙は、そんなに苦労した実感はありません」
臥薪嘗胆――復讐を誓った男が、薪の上で眠った逸話と、苦い肝を毎日嘗めた逸話が混ざって出来た故事である。一連の研究を共として王氏を追い詰めた楊武を、徳帝はそう例えた。
「復讐と名付けたばかりに大袈裟になりましたが、拙にとっては好きなことをして生きる二年間でしたよ」
「でも、辛かっただろう?」
「それは、みなさんそうでしょう」
もちろん、王氏も。おそらく王氏も苦悩の末、あのような結末を迎えたのだろう。自分とて、道を外していたら復讐の鬼となっていたかもしれない。楊武は決して他人事とは思えなかった。
「拙は生きています。師兄や太子によって生かされました。生かされた分、師父や師兄たちの遺志を継ぐのは当然です」
央晧と目が合い、楊武は微笑んだ。この光と出会わなければ自分も死んでいたのだ。
「半端で終わっていたかもしれない研究を終えることが出来たのも、今生きているからです」
孫師父や師兄たちと協力して作り上げるはずだった王墓の発掘から始まり、計三本の研究発表を二年と言う短期間に単独で仕上げた。
実際、彼が言うよりも苦労が絶えなかったのだろう。徳帝は目元にくっきりと浮かぶ隈と青白い顔、そして華奢な体つきをまじまじと見つめて推測した。
「最後の弟子と言うことは、国史編纂にも関わっていたのだろう?」
「はい。王墓の調査も関わっていました。なので遺志と言うのもおかしいかもしれません。さしずめ引継ぎですかね」
「引継ぎか、それも良いな」
はははと徳帝が大きな口を開けて笑うと、空気が和らぐ。
しかし、楊武は背筋を伸ばし、改めてかしこまった。
「陛下」
「なんだ?」
「改めて、身分を偽っていたことに関しましては処罰を受けます」
頭を下げると、楊武自身ずっと気にかかっていた処遇について述べた。
言わなければ誰も咎めないであろうに、敢えて自身から口に出す楊武に、真面目過ぎると徳帝は少し呆れた。唇を噛みしめて眉間に皺を寄せて目を瞑る楊武を見て、小さくため息をつくと、仕方なしに口を開いた。
「それは追って決めよう」
「ならば本宮も……!」
元を正せば自身が偽名と戸籍を与えて宮仕えをさせた。自分にはその責任があると、央晧が声を荒げる。
「え、いや、それは……」
「いいぞいいぞ! お前にも何か考えておこう!」
「え!? な、な!?」
元より罰する気など無いのだが、互いを庇いあう姿が面白くなってきた徳帝は軽口で二人をいなす。笑顔の真意がわからず、楊武は徳帝と央晧の顔を数回交互に見つめた。
「それにしても楊勝の四男か! お主の祖父や父からも聞いておったぞ。武器を持たず書物を持つとな」
「ひ、ひえ……」
孫師父からも同じことを聞かされたが、聞く度に書庫まで探しに来た祖父の落胆する顔が浮かぶ。楊武が頭を抱えて羞恥に耐えているのを、徳帝だけでなく央晧もにやにやと見つめていた。
「まあ、人望と運は持ち合わせているようだな。これで戦も強ければ父すら超えたかもしれんのう」
「流石にそこまでは……」
「ああ、確かに。その弱っちい性格はどうにかせんとな」
うんうんと一人頷いた徳帝は、整えられた髭に触れる。
「お主、見せるところは見せるのに普段のなよなよしさが玉に瑕だな」
「は、はあ……。もっと玉に瑕だらけだと思いますが……」
「ほう? 例えば?」
「お恥ずかしながら」
肩身を狭そうにもじもじとする楊武に、残った従者たちも首をかしげた。
「……腰が抜けて立てません」
その日一番の笑い声が、中和殿を包んだ。
中和殿が笑いに包まれていた一方、武英殿へと戻る途中の楊毅と董鶚は、ようやく解放されたと身体を伸ばしていた。
「なあ楊毅、お前、何処まで知ってたんだ?」
「あー……。全部」
何食わぬ顔で上の方に視線を外した楊毅に、董鶚は思わず足を止めて声を荒げた。
「は!? だってお前……」
楊毅は振り返ると、申し訳なさそうに首に手をあてた。
「武器庫で出会った日に弟だと知ってな。その後、殿下に呼ばれた時に話は全部聞いた」
「で、あの文書を見てしかめっ面してたわけか」
「……そんな顔してたか?」
「禁軍に持っていく時のお前、ひでえ顔してたぞ」
自覚なかったのか、董鶚は呆れた表情でため息をついた。楊毅の隣まで追いつくと、再び二人とも歩き始める。
「まあ、弟が狙われたって思ったら……。そうなるわな」
「董鶚。心配かけて悪い」
両手を頭の後ろで組んだ董鶚は、隣を歩く楊毅を横目で見つめた。
見れば見るほど叱られた子犬のごとく落ち込む大男に対し、強く出られない自分を心の中で罵倒する。今日もまた董鶚が折れる結果となった。
「そうだぞ! 慰めてやってた俺の優しさ返せ!」
「すまん、すまん」
へらりと楊毅が笑うと、「仕方ねえな」と董鶚が腕を組んで笑った。
「今度の休み、なんか奢れよ!」
「おう! 安いな、お前!」
「一言多いっつーの!」
自分より高い位置にある楊毅の頭を叩く。
肩を組んだり、首に腕を回したりと、久しぶりに大きな口を開けて笑いあう。
心のしこりが消えた二人は、清々しい気持ちで武英殿へと帰って行った。




